聖戦完遂の気風
という誤った感覚や価値判断があったのかもしれない。飛行機ごと敵艦にぶつかって行く戦法、通称「神風特別攻撃隊(特攻隊)」が編成されたのは、レイテ沖海戦の頃だった。
特攻産みの親とされるのは、諸説あるが今でも有力な説は、特攻作戦決行前にルソン島第一航空艦隊に司令長官として赴任して来た大西瀧治朗中将である。
神風特別攻撃隊の公式な戦果は、関行男大尉以下の敷島隊5機が最初である。昭和19年(1944年)10月25日、零戦に魚雷を積んだ作戦機がアメリカ海軍空母3隻に体当たり(特攻)を決行して、「セント・ロー」号を沈没させた。
この後特攻隊は、昭和20年(1945年)1月に航空部隊がフィリピンを離れるまでに、約800機が神風特別攻撃隊として、出撃していった。
舞台がいよいよ終盤を迎え、硫黄島が墜ち、沖縄本島も陥落すると、特攻形式も特攻をやる人間も変わって行った。学徒出陣で来た学生少尉所謂予備士官が部隊の最前線に来るようになった。残念な事に彼らは体当たりに必要最低限度の操縦技術しか持ち合わせていない。
それでも有無を言わさず敵艦隊に突っ込ませた。そして、様々な事が計画されていた。最早ここまで来れば何でもありだ。
日本海軍は、人間搭載型魚雷"回天"を開発したり、"桜花"なる兵器も開発した。回天は一人乗りの魚雷を操縦して敵艦に突っ込むというものであったが、成功例はほとんど報告されていない。桜花は、一人で爆薬を詰めたロケット推進機に乗り、飛行機の胴体に着けて輸送され、途中下車という形で、敵艦隊に爆薬を炸裂させる。のが、目的だったが桜花自体にエンジンはなく、墜ちていく推進力だけで目標に到達せねばならない為、予備士官の技量では敵艦隊に突っ込むのは無理があった。
また、連合艦隊としても残された軍艦を総動員して、「特攻作戦」を敢行する事にした。戦艦大和を中心に護衛駆逐艦9隻の艦隊が、片道燃料でアメリカ軍の沖縄本島への上陸作戦を阻止すべく、沖縄へ向かったのが、昭和20年(1945年)4月の事だ。
しかし、その艦隊は駆逐艦"雪風"以外大和も含め全滅。坊の岬沖で大和は沈んだ。そこにはアメリカ海軍空母がいて、空母から発艦した340機の攻撃隊に爆撃された。日本海軍の軍人約3700人以上が海の藻屑となった。
これは戦う以前の問題だった。日本軍は自暴自棄になり特攻兵器ばかり作っては失敗してきた。それがあれば勝ち抜ける。あるいは神風が吹くとか、まるで根拠のない空論のみが、国民に聖戦完遂の気風を煽り立てていた。




