海軍の遺伝子
第二次世界大戦末期になってようやく作り出した、シコルスキーやグラマンF6F、P-51ムスタング等の零戦から大きく性能差のある、機体を作り出し制空権をアメリカは日本陸海軍から奪った。それによりアメリカは日本に勝利したと言っても過言ではない。
原爆投下はダメ押しと言っても良い。既に勝敗は決していたのだから。民間人に大量の死者を出す事が分かっていながら、原爆を投下した事は立派な戦時国際法違反の所業にあたるだろう。
敗戦後は生き長らえた旧軍人には冷水がかけられた。小野井の祖父もそうだった。例外無く旧軍人は肩身の狭い思いをした。戦時中はあれだけヨイショしておきながら、民衆は掌を返した。それで人間不信になった旧軍人の何と多い事か。
小野井の祖父は、復員後は家族に戦争中の話をする事は一切無かった。仕事が無くて困っていたが、海上自衛隊の前身組織である警備隊が出来るという事で、帝国海軍出身の下士官が早急にかき集められた。祖父も最初は戸惑ったが、帝国海軍出身の先輩にスカウトされ、後ろ髪を引かれる思いで、警備隊に入隊した。
階級は帝国海軍時代のものを引き継ぎ1等海曹からのリスタートとなった。後に警備隊は1954年の防衛庁(後の防衛省)設置に伴い、海上自衛隊になった。祖父は2等海佐(中佐クラス)になるまで、見事に務め上げた。
自衛隊は、旧軍人が受け入れてもらえる数少ない受け皿であった。その為、戦後設立された航空自衛隊や、黎明期の陸上自衛隊や海上自衛隊には、帝国陸海軍出身の士官や下士官が多かった。その為、未だに自衛隊に対する偏見があると言われているが、災害時に体を張る自衛官の努力もあって、今は、相当にイメージは良くなっている。
小野井の祖父は、導入されたばかりのP-3Cに乗るなど、与えられたミッションを忠実にこなしたという。ちなみに防大を出ても2等海佐止まりの士官はダメな奴だという。部下からも評判が悪い。それは防大卒業者が、3尉スタートで自動的にある程度の地位までは行くからである。
祖父は、帝国海軍出身という事もあったが、予科練(予科練習生)出身の一兵卒であるから、通常の日本海軍ならば、有り得ない出世をした訳である。
小野井の父も、防大を出て陸将補まで上がり今は現役を退いている。小野井家は、軍事エリートだったとも言える。
ともかく、小野井は時間を掛けてでもやり遂げたい。そう上官の日浦3佐に報告した。日浦3佐は、珍しいものを見ているかのような目で小野井をを見つめていた。
「そうだ、小野井3尉。お前に会って欲しい人がいる。」
すると、日浦3佐は懐から地図を出し、小野井に渡した。小野井は戦争体験者の貴重な生の声を得るため、地元民では有名な"生きる伝説"と呼ばれる男性の元へ向かう事になった。そこに待っていたのは驚き以外には何もないものであった。




