第2話 二人三脚
朝7時頃、学校が開放されると俺はすぐに地学講義室に向かう。家にいる時間はなるべく減らしたいので、1年前からこうしている。
校内にほとんど生徒はいない。この時間にいるのは運動部の朝練の連中くらいだ。
——HRまで地学講義室で時間を潰す。御船は来ないようだ。普通の時間に登校しているのだろう。
昨日は全部サボったし、今日は流石に授業に出ておくか……。
——やっと昼休みだ。教室の居心地はとにかく最悪だった。昨日少し騒ぎを起こしたから、いつもより陰口が多かった。
午後はサボるか。うん、そうしよう。
旧校舎の4階。人気の無い廊下に着くと、地学講義室の前に少女が立っていた。
御船だ。鍵を持っていないから中に入れないんだろう。こちらに気付くと挨拶してくる。
「黒崎さん、こんにちは」
昨日と同じ、安心したような微笑み。俺は無視して合鍵で鍵を開ける。
「おじゃまします」
いつもと同じ席に着く。別にこだわりがある訳じゃないが、習慣として染み付いている。御船がその隣の席に座る。
「黒崎さんは何と言ってここの教室の鍵を借りているんですか?」
御船からして見れば当然の疑問だ。俺はこの教室をただのサボり場としてしか使っていないのだから。
「1年の時、職員室からここの鍵をパクって合鍵を作ったんだよ」
合鍵を御船に見せてポケットにしまう。
「お前も昨日ここでくつろいだんだから、共犯者だからな。誰にも言うなよ」
横暴な理論だったが、何でもいいから釘を刺して置きたかった。
「2人だけの秘密ってやつですね!」
御船はワクワクしていた。やっぱりこの子はちょっと変だ。そして、昨日のようにお菓子とお茶を机の上に並べる。
「お菓子、いりますか?」
「いらん。お茶もいらん。話は勝手にしろ」
「はい」
弁当を食いながら適当に聞き流すことにした。
今回の舞台は氷山。登場人物はカラスとイルカ。どういう組み合わせだよ……。
奇抜な組み合わせにも関わらず、昨日と同じで抑揚の無い平坦でつまらない話だった。
「——おしまい」
最後にカラスとイルカは結婚した。鳥類と哺乳類のカップルとか異色過ぎるなんてツッコミは野暮だろう。
「どうでしたか?」
「クソつまらねえ話だったな」
「そうですか……」
そして、苦笑い。
御船も弁当を机の上に出す。風呂敷の中はピンク色の弁当箱。箸のケースは透明で『努力』と筆文字で書かれていた。
「黒崎さんも手作り弁当なんですね」
既に食い終わった俺の弁当箱を見て言った。母親がいなくなってから自分で家事をするようになった。朝起きて自分と親父の弁当を作るのは日課になっている。
「お母さんの手作りですか?」
母親はいなくなった。理由は母親の不倫だ。俺のことは親父が育てることになった。母親がいなくなるのは寂しかったけど、あの頃はまだ幸せだった。
母親がいない分、親父は俺に愛を注いでくれた。助け合って生きていたんだ。2人で。
——あの日までは。
親父の心の傷は深かった。だんだんと酒に溺れるようになって、たばこの本数も増えていった。
あの日、親父は女を連れて来た。明らかに親父とは歳の差がある女。多分、キャバ嬢か何かだった。
俺は女を追い出した。
親父と喧嘩になった。
殴り合いの喧嘩。
止める人は誰もいない。
俺は頭から血を流した。
正気に戻った親父は、すぐに救急車を呼んだ。
大した怪我にはなっていなかった。病院に一晩泊まってから家に戻った。
それから、親父はろくに口を聞いてくれなくなった。
「黒崎さん?」
「母親はいない。俺が作った弁当だ」
「……ごめんなさい」
謝るなよ。御船は何も悪くない。
ただ、理不尽なだけだ。
俺の身の回りの何もかもが。何一つ思い通りにいかない。
御船はその後、黙ったままだった。
——御船が来るようになってから、もう3週間くらいか。昼休みと放課後、一緒にいるのはもう当たり前になっていた。
「黒崎さんは、どの種目に出るんですか?」
春の体育祭の話だ。種目決めの日、当然俺はサボったので種目なんぞ決まってはいない。
「体育祭は出ねえよ」
「それは、残念です」
俺も御船もお互いの事情を知らない。何故こんな人気の無い所に入り浸っているのか。
でも、俺がこいつを『はみ出し者』だと認識しているように、こいつも俺に同じことを思っているのだろう。
だから、鬱陶しい先生や教室の奴らと違って俺の選択を非難することは無かった。
「ここから、グラウンド見えますよね」
「そうだな」
「応援、してくれますか?」
御船はいつもと違う微笑みを浮かべていた。初めて会った時と同じ、捨てられた子犬のような、助けを求めるような微笑み。
「どうせ暇だし。見ながら心の中で応援する」
「ありがとうございます!」
安心したような、いつもの微笑み。
俺も少し安心した。
——体育祭当日。暑い晴れの中、俺は地学講義室にいた。エアコンは学校がどこかでまとめて管理しているらしいので、うちわで暑さをしのぐ。
グラウンドに集まる全校生徒。御船を探してみるが、ここからじゃ誰が誰だか判別がつかない。
御船が出る種目は聞いてある。その時になったら見ればいいか。
——昼休みになった。とりあえず応援はしたが、俺が応援したのは御船で合っていたのだろうか……。
不意に教室のドアが開く。
「こんにちは、黒崎さん!」
御船が来た。額に汗を浮かべていて、いつもよりややテンションが高かった。
「黒崎さんの応援、届いてました!」
マジか。俺はテレパシーを会得してしまったかもしれない。試してみよう。
俺は御船に念じる。
『——唐揚げ』
「……? 凧揚げ?」
惜しい!
て、馬鹿か俺は!どうも最近、御船に毒されてしまっているらしい。
「黒崎さん、お弁当食べましょう」
御船は机を端に寄せ始める。とりあえず、黙ってそれを手伝う。
そうして空いたスペースにレジャーシートを広げた。
「雰囲気です」
微笑んだ。
御船の弁当はかなり大きかった。御船がいつも食べているサイズの倍はあった。
「お母さんが作り過ぎてしまいました。黒崎さんも食べてください」
娘の体育祭にはりきって弁当を作る母親。御船の家庭環境は円満なようだった。
とすると、こいつが抱えている事情は、やっぱり友達がいないってことなのだろうか。
何はともあれ、経済面を考慮して俺の食事は普段から抑えめだ。タダ飯にありつけるのは、ありがたい。
「おいしいですか?」
「ああ」
俺は唐揚げを口にしていた。ちょっと味が濃いが、中がジューシーで美味かった。
「あの……よろしければ、なんですけど。黒崎のお弁当を少しいただいてもいいですか?」
「勝手にしろ」
御船は俺の黒い弁当箱を覗き込む。少し迷った後、だし巻き卵を1つ取って口に運んだ。
「黒崎さんの手作り、おいしいです」
そう褒められると、素直に嬉しい。親父も昔はいつも感想を言ってくれていた。料理を始めたての頃は『塩気が足りない』だの『脂っこい』だの文句を付けてきたものだ。
御船が俺の弁当箱の中を凝視していた。目線の先は、だし巻き卵。
黙って弁当箱を御船の前に差し出す。
「いいんですか?」
「俺も分けてもらってるんだから、勝手に取っていけ」
「はい!」
御船はまた、だし巻き卵を1つ口に運んだ。
——午後の部が始まって、御船はグラウンドに戻っていった。
それから何種目か終わった後のことだった。グラウンドから旧校舎に駆けていく人影が見えた。
体育祭中に旧校舎に用がある奴なんて早々いない。生徒の山から1人飛び出たそいつが、誰なのかはすぐに分かった。
御船だ。
——階段を下っていると、途中で御船に遭遇した。忘れ物でもしたのだろうか。
「黒崎さん、お願いあります!!」
汗だくで、息を切らしながら大声を張り上げた。余程の大事らしい。
「何だよ」
「この後二人三脚に出るんですけど、一緒に出る人が体調を崩してしまって……」
嫌な予感しかしない。
「黒崎さんに一緒に出てもらいたいです!」
やっぱり。
体育祭はクラスに分かれて点数を競い合っているが、二人三脚は点数の関係無い種目だ。別学年が参加しても、そこまでお咎めは無いだろう。
しかし、俺は体操服を持って来ていない。
制服姿のまま後輩の女子と二人三脚……。
公開処刑だ。
「体操服、どっかで借りられないか?」
「えっと……ごめんなさい。思い当たらないです」
さて、どうするか。
わざわざ旧校舎まで俺を呼びに来たってことは、他に当てがないのだろう。
助けてやりたい。
俺と御船は決して深い関係では無い。『はみ出し者』同士、身を寄せ合っているだけ。それは結局、孤独な人間が2人いるだけのこと。
でも、仲間意識みたいなものは感じていた。支え合ったり、励まし合ったりはしないが、ちょっと手を貸すくらいの義理はあると思う。
「……分かった。さっさと終わらせるぞ」
「本当ですか!? すぐに行きましょう!」
御船を俺を腕を掴んで引っ張って行く。意外と足早いのな。
——二人三脚は既に始まっていた。4列に分かれてペアが並んでいる。列の中に1つだけ不自然に空いている空間があった。御船が立つべき場所だろう。もうすぐ順番が回って来てしまう。
何とか、滑り込みセーフ。
「この人と走ります!!」
体育祭実行委員に御船は言った。委員の人は俺の制服姿を見て困惑していたが、後が控えていたので、さっさと出場を許可した。
俺の右足と御船の左足が結ばれる。
それにしても、二人三脚なんていつぶりか。上手くやれるだろうか……。
開始の合図が鳴った。
特に打ち合わせはしていなかったが、一応息は合っていた。スタートは問題無し。
「ゆっくりでいいからな。俺がお前に合わせる」
「はい!」
何気に、俺から御船に話しかけたのは初めてかもしれない。
途中危ない所もあった。スピードを早めたり、遅めたり、少しフラフラしながらも、ちゃんとゴールにたどり着けた。
早いわけではなかったが、他の走者は途中で何度か転んでいたので1位になってしまった。
やばい。超目立つ。
「黒崎さん!! やりましたね!!」
「そうだな、じゃあ俺は全力で帰る!!」
「あっ、黒崎さん!?」
超恥ずかしい!早く地学講義室にもどろう!
分かってはいたが、かなり目立ってしまった。明日、教室の奴らにどんな目で見られるだろうか……。
——空が夕焼けに染まる。体育祭が終わって、グラウンドの人間が蟻のようにワラワラと校舎に入って行く。
しばらくして、教室のドアが開いた。
「今日はお疲れ様です。黒崎さん」
「全くだ」
体育祭が終わって疲れを実感し始めたのか、御船のテンションは落ち着いていた。
「今日は本当に楽しかったです」
御船は微笑む。
赤っ恥をかいたが、俺が二人三脚に出ていなかったら、きっとこいつは暗い微笑みを見せていただろう。
まあ、出て良かったと思う。
「あっ、黒崎さんが笑ってます!」
「え?」
俺が、笑っている?
自分じゃ正直分からない。
「初めて見ました。凄くレアです」
確かに、笑ったのなんていつぶりだろう。ひょっとしたら、親父と喧嘩したあの日からずっと笑っていなかったのかもしれない。
何というか、凄く、
気分が良かった。
——御船といつも通り校門で別れる。
今日、俺は笑った。
楽しかった。
嬉しかった。
それらは間違いなく、御船がもたらしたものだ。
俺達は互いの事情を知らない。
俺達は互いに違いすぎる。
だから、理解し合えるはずがないと思っていた。でも、こうやって手を取り合って楽しいことを見つけることくらいは出来る。
もしかして、俺の日常は……
……変わってくれるのか?