故郷へ
「…母上が申される通り、龍王とは凄まじい気を持っておられるようですな。まさに一瞬であり申した。」
グレーがかった黒髪の、整った顔立ちの男が、暗く、辺りを木々に囲まれた土地の上で、遠く気を探り、母を気遣いながら言った。相手は答えた。
「あの方は他ならぬこの地自身に王と認めれた神。当然のことよ、ミハイル。」と、立ち上がった。「ならば急ぎましょう。こちらから半島を抜けたら、すぐに鷹の領地があるはず。そこで今の王であられる箔炎様に事の次第をお話せねば。龍の宮には、今はお戻りになったかつての我の祖母に当たられる維月様がいらっしゃる。我は追放になった身ではあるけれど、必ずお話を聞いてくださるわ。」
ミハイルと呼ばれた男は、頷いた。
「はい、母上。」
そう言ったミハイルの瞳は、母によく似た深い青い色だった。
「…お父様…我が戻ったなら、どれ程に疎ましく思われることか。案じられるわ。」
ミハイルは、微笑んで首を振った。
「母上は改心なされて大変に軍に貢献なさっておられた。お祖父様も時に祝いなどを遣わされておりました。ご案じなさる事はございませぬよ。」
とはいえ、自分はあれほどに愚かだった。父はそれで皆に頭を下げねばならなかった。龍の皇子であった父の明維は、確かに子が生まれた時などに祝いをくれたりしたが、決して顔を見に来る事などなかったのだ。
ミハイルは、確かに軍の誰よりも強く、王として次に君臨するにふさわしい神だと思っていた。それが、急に始まったヴァシリーの老いでのクーデターで、回りから王に相応しくないと言われて殺されかけたのは、一重に自分が罪人上がりの母であったからではなかったか。
美加は、高い木々に見え隠れする、月を見上げた。
月にはいつも癒された。見知らぬ土地で、ヴァシリーと共に戦い、領地を守り、ミハイルを育て、ヴァルラムを見送って、そうしてヴァシリーが王座に就いた後も、自分は王妃として一生懸命民のために仕えたつもりだった。
だが、王座争いの只中に放り込まれた時、息子のミハイルを立ててくれる、臣下は少なかった。いくらミハイルでも、大多数の軍神に認められなければ、とても王座に就くことは出来なかった。ミハイルは非の打ち所のない神だったし、誰よりも大きな気を持っていたのだが、ただ一つ、母が罪人上がりで東から来た神だというだけで、いきなりに多数の軍神に囲まれ、母である美加と二人でお互いを背に戦って囲みを破り、南の大陸へと下って逃げて来たのだ。
美加は、少し老いた姿で、ミハイルに促されて重い腰を上げて、共に辺りを警戒しながらもかつての故郷の島へと急いだ。
維月は、維心が苦もなく敵の軍を蹴散らすのを見て、ホッと胸を撫で下ろした。またおかしな術を使う輩が交じって居たらと案じていたのだ。
十六夜が、同じようにホッとした気を発しながら言った。
《あーびっくりした。いったい、どういうこった。ここのところ次元のことばっか気にしてたから、あっちのことまで見てなかったんだよな。でも、維心はあっちから帰れねぇんじゃねぇか?あいつが居なきゃボロボロだぞ。親父の姿は見えねぇが、戦いの間維心に直接気を送ってあいつの気が尽きないようにしてたのは分かってる。親父もまずいって思ってるってことだよな。》
維月は、え、と十六夜を見上げた。
「え、お父様が?必死に見ててそこは気付かなかったわ。」
十六夜は、答えた。
《親父の純粋な気が維心に向かって伸びてたから、すぐに分かったさ。もし維心が皆殺しにしようとしたら、辺り一帯に大きく気を放つからめっちゃ気を使うだろ?だから心配したんだと思うけど、維心は戦い方を忘れてなかった。自分の気の調節は完璧だったよ。》と、そこで一度黙って、続けた。《…それにしても、確かに先頭で引っ張ってたのはドラゴンだったのに。あいつらだって本性に戻ったら、他の奴らほど打つ手がないほどじゃなくて、いくらか逃がせたはずなんだ。それを、維心が来たと見るや否や、サッと退いてった。残された奴らは、みんな本性なんかない元々人型の奴らだから、気だってそうでもないし、こっちの神達の本気の姿になんか、勝てるわきゃねぇ。あれじゃ何しに来たのか分からねぇ。》
維月は、確かにそうだと思った。
ドラゴンの気は、維月も知っている。だが、先頭に居た千人ほどのドラゴンは、維心が来たのを見るや否やサッサと撤退して行った。
それなのに、その他の軍神達が、どうしたわけか、維心から逃げ惑いながらも、何とかしてこちらの本州へと渡ろうと、一人一人が必死にこちらへ向かっていた。
実際は、維心が一番前でほとんどを消し、それを龍の軍神達が補佐して回りで消し、それをも抜けて来た者達は、鳥と鷹が消して行き、上から見ていても、取りこぼしは全く無かった。
なので、今回はとりあえず、誰一人として本州へは上陸出来てはいなかった。
「…あれだけ維心様に攻撃されたら、対策もない者達なら絶対逃げ帰るはずだし、維心様もそれを考えてあれほど勢い良く一気に襲ったのだと思うの…現に、炎嘉様は維心が追い払う、と焔様に言っておられたわ。今回は殲滅するというよりも、とにかく帰らせるのが目的だったということよね。だって、こちらもしっかり調べて布陣を考えないといけないし。」
十六夜は、頷いたようだった。
《そうだよな。オレも、本格的な戦ってのを知らねぇから…前世だって、上から見てただけだしよ。それもこっちの島の中でやってたやつだし、大陸とこの島を守って戦うなんて見たことねぇ。》
維月は、維心達の動きを見た。追い払った後に、捕虜として生け捕った神達を、北の神である旭の宮へと運び込ませている。そして、炎嘉と一緒に旭の宮に残り、箔炎は志心に状況を説明するために戻って行っていた。
焔は、自分の宮へと戻っていたのだが、箔炎から落ち着いたという知らせを受けて、宮から犠牲になった鷲の軍神達の回収を命じてまた、軍神を北海道へと送っていた。
龍軍の軍神達は、義心を中心にまだ戦場となった場所に留まり、討ちそこなった軍神は居ないか、また攻めて来る様子は無いのかを調べていた。
「…維心様に、お任せするしかないわ。多分、捕虜を連れ帰ったのは話を聞くためでしょう。炎嘉様は記憶を取るとおっしゃっておられたし…どちらにしろ、きっとどういうことなのか分かるはずよ。」
十六夜は、ハアとこれ見よがしに大きなため息をついた。
《こんなに簡単に、平和ってのは壊れちまうのか。ここ千年ちょっとは戦もなく穏やかだったのによ。王が変わったら、世の中ってのはあっさり翻っちまうってことなのか。》
維月は、同感だったが、こればかりはどうしようもない。
それよりも、神世が争うと人世も争うし、まして維心が大きく気を吐いてそれに抗う神達の気が入り乱れ、地上は激しく震えて地震が起きていた。
きっと人も、急な事に困っているはずだった。
「戦は早く終わらせなければ…人には避ける手立てがないのだもの。でも、北から侵攻を受けるなんて、誰も思っていなかったでしょう。この先、どうなってしまうのかしら…。維心様は、またみんな殺してしまわなければならないのかしら。そんなこと、あのかたは望んでいらっしゃらないのに。どうしてあちらの神達は、こちらへ侵攻して来たりするのか本当に分からないわ…。」
いきなりに始まった戦に、最上位の神達は眠る様子もなくそれぞれのやるべきことを考えて動いている。
維月は、まさか今度は、北との間の戦で、昔の戦国時代へと戻ってしまうのではないのか、と、心から案じていた。
平和で太平であった事など、一瞬で崩れてしまうものなのだと、世の儚さに心は潰れそうだった。




