小さな決断
なんとも言えない空気が流れた。
維心という神が、神世でどれ程に大切なのかは本人のみならず、誰もが知っている。
そもそも、もし維心が気を失っている間に、ここで大きな亀裂などが出現したら、誰も塞ぐ事は出来ず、吸い込まれるままになってしまうだろう。
それはここ数時間で、誰もが認識した事実だった。
維心は、重い口を開いた。
「…主らの心地は分かるつもりよ。だがしかし、我には神世の数万の命を守る義務がある。ここで皇女一人のために気を失っておる間に、他で我しか対応出来ぬ事態が起こったらなんとする。どこの宮でも、親族の命は大切なもの。それを助けてくれと言われて、全てを聞いておったら守れるものも守れぬようになる。ゆえに我は、命は自然に任せておるのだ。我の力は個を守るためではなく多数を守るためにある。主らも知ったであろう。我しか出来ぬ事があるのだ。力を失うわけにはいかぬ。」
高晶は、それでも維心の膝にすがって言った。
「重々分かっており申す!ですが助かるのなら、助けてやりたいと思うのでありまする!」
維心は、険しい顔のまま、首を振った。
「ここで急に大きな亀裂が開いたら、主にどうにか出来るのか。主や妃どころか、臣下民達も巻き込まれて、復活したばかりの皇女すらまた、命を失おう。そんなリスクを負っても良いと申すのか。」
高晶は、ぐっと黙ったが、しかしまた口を開いた。
「ですがそんなことがすぐには起こらぬと思いまする!」
しかし、そこで小さな声が割り込んだ。
《龍王様。我は、黄泉へ参ります。》
維心は、そちらを向いた。その声が聞こえたのは維心と碧黎だけだったが、二人が同時に急にそちらを向いたので、高晶は黙った。
維心は小さな、自分を精一杯見上げる皇女を見た。千夜は続けた。
《龍王様は皆の幸せをお守りくださるかたなのですね。我は何も知らなくて…我は、皇女なので、皆を守らねばなりませぬ。我のために危険な目には合わせたくありませぬ。だから、曾祖父様がいらっしゃる所へ参ります。》
維心は、高晶が気立ての良い皇女だと可愛がった訳が分かった。こんなに幼いのに、もう王族としての務めを知っている。
「…主はよう分かっておるの。主の両親と祖父の方が聞き分けがないことを申しておるのに。黄泉へ参るのは怖くはないのか。」
千夜は、まだ緊張気味に小刻みに震えていたが、それでも首を振った。
《いいえ。ずっとひとりぼっちで父にも母にも気付いてもらえず、どうしたらいいのかとずっと怖かったのですけれど、黄泉には曾祖父様もいらっしゃいますから。龍王様に気付いて頂けて、我は救われた心地でした。ですから、大丈夫です。》
維心は、弓維のことが頭に浮かび、弓維にこんなことが言えるだろうかと心が痛んだ。それでも、自分が神世全ての面倒を見ているのは事実。自分の体は、自分だけのものではないのだ。だからこそ、このまま黄泉へと送るのが、一番良いのは分かっていたのだが、自分の感情が躊躇わせていた。
何も聞こえない高晶が、おずおずと訊ねた。
「維心殿、千夜は何を申しておるのですか。」
維心は、高晶を見た。
「千夜は、己を黄泉へ送れと申しておる。高杉が居るからと。王族であるから、臣下を守らねばならぬのだとの。」
それを聞いた高晶はショックを受けた顔をして、絶句した。高司が、脇でハラハラと涙を流す。それが、王族の覚悟なのだと、教えたのは自分達だ。
分かっているが、どうあってもこんなことで失いたくないという気持ちで、維心に無理を通そうとした自分達を見て、千夜はどう思ったのだろう。
高司と高晶が、がっくりと肩を落として項垂れたのを見て、黙っていた碧黎が、息をついて、割り込んだ。
「…誠に、ままならぬの。維心が言うは間違っておらぬし、だからこそ我は、維心を地上の王と据えておる。この力を持つのも、これが王の中の王として、君臨するに相応しい神であるからぞ。維心個人としては、千夜を助けたいと思うておるのだ。それは、我とて分かる。だが、千夜を助けることで己が力を失えば、僅かな時間でも神世を守れなくなる。そうなった時、誰が責任を持つのかと考えるのだ。もはや誰も維心の責任など問えぬほど、皆が死滅して神世が消えるかもしれぬのに、維心はそんな無責任なことは出来ぬのだ。だが…」と、黙って佇んでいる、小さな千夜を見下ろした。「巻き込まれただけで、まだ生きておれたものを。父王が亀裂を気取れてさえ居たら、このようなことにはならなんだのは分かっておるが、あいにく高晶にはそこまでの能力はない。我が与えておらぬからぞ。ちなみに高司より高晶の方が力が上なのは、己で次元の影響を僅かでも遮る力を生み出したから。志心との結界境がおかしくなったのも、高晶のその生み出した能力が志心の気と相性が悪かったからぞ。この辺りの次元がおかしくなっておるのもその弊害よ。つまりそもそもは高司、主と高杉が変な意地で亀裂を隠したりしたからなのだ。それは重々肝に銘じておくが良い。」
高司は、深く項垂れたまま、碧黎に言った。
「恥ずかしさのあまり顔も上げられぬ思いぞ。申し訳ない、碧黎殿。」
碧黎は、首を振った。
「我は別に良い。謝らねばならぬのは、維心と高晶、そして千夜ぞ。維心はこんなところまでせずとも良い仕事をしに参り、高晶は己のあずかり知らぬところで面倒を押し付けられた上皇女を失い、千夜は命を落とした上せずで良かった怖い思いをしたのだ。主はそれを忘れるでないぞ。」
碧黎に咎めるような厳しい口調で言われ、高司は何も返せなかった。高杉は死んでいるので責められることはないが、その時の王であったのは高杉だ。それでも、高司もそれを隠し続けた責があった。
「…誠に…皆には、謝っても謝り切れぬことになってしもうた。我が王座に座った時に、維心殿に相談すれば良かったのだ。我の責ぞ。皆、すまぬ。」
「父上…。」
高晶は、高司と高杉の気持ちが分かると思ってしまったこともあり、心の底から父を責める気にもなれなかった。
それでも、大事な皇女を亡くした事実は変わらないのだ。
暗い雰囲気の中、詩織は泣いていたが、千夜はもう、震えてはいなかった。凛として顔を上げ、じっと碧黎と維心を見上げていた。
碧黎は、その千夜に微笑みかけた。
「主は、良い子よな。」
千夜は、驚いた顔をした。
《あなた様も我が見え申しますか。》
碧黎は、頷いた。
「我は地の陽。本来はこのようなことには手を貸さぬ。我の任は主らを育んで心安く生かすことぞ。だがしかし、これはあまりに不憫。維心一人に蘇生させることは先ほど申した通り、絶対に出来ぬ。これはそんなに軽い存在ではない。個を守るために我が大量の気を割いて生かしておるのではない。それを維心は己でも知っておる。だから受けることが出来ぬのだ。だから、此度は我が力を貸そうぞ。」
え、と千夜はその大きな目を丸くした。手を貸すとおっしゃった…?
茫然としている高司、高晶、詩織を余所に、維心が言った。
「どういうことぞ?主がやるのか。」
碧黎は、維心を軽く睨むように見た。
「全てではないぞ。魂魄を戻すのは主が。気を与えるのは我がやろう。元々我は生き物に気を与えるのが責務。主は命を司る存在。ならば己の力の範疇であるし、良いであろう。」
高晶が、涙を流したままぱあっと笑顔になると、飛び上がるように立ち上がった。
「千夜を戻してくださるか!誠に?!」
碧黎は、睨むように高晶を見た。
「此度だけぞ。千夜があまりに健気な命であるからぞ。しかし、主ら決してこれを神世に申すでないぞ。漏らしたら、高晶、主の寿命を切る。千夜の代わりに黄泉へ参るが良い。」
寿命を切ると聞いて、高晶は身を震わせた。そうだった…碧黎は、命を生かすことも出来るが、消すことも出来るのだ。
「分かり申した。決して、漏らすことは致しませぬ。臣下にも、重々言い渡し、ご迷惑をお掛けするようなことは無いとお約束いたします。」
維心は、案じているように碧黎を見た。
「良いのか?また面倒な事になるのではないのか。我は良いが…しかし、確かに高晶が漏らさぬと確約があるのなら、我とてこやつは死なせるのは惜しい命だと思うておったゆえ、構わぬが…。」
闇を復活させるという野心を持って碧黎の目を盗んで他人の命を奪っていた神を、その存在から消してしまったことは、皆の記憶からやっと遠ざかりつつあるところだったのだ。維心を懸念を気取った碧黎は、苦笑した。
「分かっておるわ。だがの、維月と命を繋いでおるゆえ、あれに引きずられてとても幼い皇女を見捨てることなど出来ぬのだ。とはいえ、我はいつでも見ておるゆえ、漏らしたその時点で高晶を黄泉へ放り込んでやるわ。」
やっと後を譲った高晶のことなので、高司は慌てて割り込んだ。
「絶対に!漏らす者が居ったなら、我が斬り捨ててでも漏らしはしませぬゆえ!」
碧黎は、頷いた。
「信じようぞ。ま、我の上で生きておるのに、隠せるものでもないしな。それが真実か、見ておったら分かる。」
詩織も、気を失いそうな顔をしていたが、それでも踏ん張って歯を食いしばっている。
碧黎と維心は、それを後目に苦笑しながら、二人で千夜に向き合った。




