面影
維月が宮の回廊を、侍女達にかしずかれながらゆっくり歩いていると、軍神達が慌ただしく、向こうの回廊を飛び回るのが見えた。恐らくは、いきなり王達が、自由時間の訓練場を使うと言い出したので、今現在使っている軍神達に退出を促し、地ならしをし、やることが一気に増えたのだろう。
その只中で、一人落ち着いた若い軍神の姿があった。まだ成人したばかりのような若々しい姿で、それなのに皆に次々に指示を出し、軍神達はそれに従って綺麗に動いて流れて行くのが見える。
帝羽の姿は見えないが、維心が非番を言い渡したのを居間から聞こえて来る会話で聞いたので、今居るのは恐らく、次席の軍神…。
維月は、ハッとした。
だとしたら、あれはきっと義心の孫の、義心。あの、義心そっくりな後ろ姿は、そうでなくても、義将か、どちらかのはず。
維月は、足を止めた。あの時は、遠い上にベールを被っていたのでハッキリ顔を見ていないのだ。影から、そっと見るだけならば。
維月は、侍女達に言った。
「私、自分で帰るわ。やはり、維心様が立ち合う姿を見てみたいと思うの。でも大勢で居たらバレてしまうから、あなた達は先に戻っておってくれる?」
維月が言うと、侍女達は苦笑した。今はすっかり奥に引きこもっていたが、前までの維月なら、いつも勝手に一人であちこち歩き回っていたからだ。
「はい。ですけれど、王に叱られてしまいまするから、お早めにお戻りくださいませね。」
維月は、頷いた。
「ええ。こうして気を遮断するベールを着ておるし、大丈夫。」
侍女達は、維月に頭を下げると、奥へと戻って行った。
維月は、そっと柱の陰に潜みながら、その義心そっくりの後ろ姿の正面顔を、何とかして見たいとじっとそこに立っていた。
義心は、新月に言った。
「もしかしたら酒が入っておるし気を放たれるやもしれぬ。観覧席に気を吸収する幕を。地上のならしは終わったか。大広間や庭に居る他の王が気付かぬように音を遮断する結界を張れ。見物に来られてはこの辺りが大変な事になる。」
新月は頷いて、自分の部下達に手分けさせて次々と対応に走らせた。明蓮があちらから飛んで来た。
「義心、観覧席の幕は終わった。地上のならしは今、慎司の部隊が急いでやっておるしもう終わる。」
義心は頷いた。
「自分は大広間からこちらへ向けての音を遮断しておるが、念のため新月に庭の方からこちらへ向けての音を遮断する結界を張ってくれるように申した。これで気取られることはなかろう。審判の問題は?」
それには、明輪が飛んで来て報告した。
「王が審判は翠明様がおやりになるから良いとおっしゃっておる。」
義心は、頷いた。
「ならば明輪殿の部隊は訓練場回りの警備を頼む。宮の抜けた部分は慎也殿の部隊に行ってもらえるよう指示してもらえぬか。」
明輪は、浮いたままそれを聞いていたが、頷いて踵を返した。
「ならばそのように。」
義心は、ホッとした。とにかくはこれで、一応の問題は処理したはずだ。
それぞれの部隊を背負う将たちが、急いで去って行く背を見て、ホッと息をついた瞬間、ふわっと何かの気が、香ったような気がした。懐かしい…魂の奥から、慕わしい気。
義心は、振り返った。
そこには、着物の裾が見えたまま、柱の陰にサッと隠れる誰かが垣間見えた。
維月は、その様に驚いていた。
誰よりも若い義心が、他の軍神の将に指示を出して的確に動かしている。
王達は何気なく遊びに行ったのだろうが、軍神達はそれによって宮が大騒ぎにならないように、いろいろな事態を想定してそれを防ぐために対処しなければならない。
この場合、日々退屈している神世の王達が、上位の王達が立ち合うと気付いて、見たいと押し掛けないはずはないのだ。
なので、それを防ぐため、義心はあちこちに指示を出し、音を消したり対処していた。そして、維心たちが酔っぱらって何をするか分からないので、気を放っても訓練場を壊してしまったりしないように、幕を張ったりときちんと先を読んで動いているのだ。
…本当に。維心様が言うように、この子はとても優秀なのだわ。
とはいえ、すっかり大人の姿であるのに、維月はそんなことを思いながら見ていた。そして、その横顔を見た時、ハッとした。その顔は、かなり若い顔立ちではあったが、義心にそっくりだったのだ。
「まあ、義心…。」
維月は、癒される心地だった。義心が生きて、そこに居る。それは、孫の義心でしかないのだが、それでもその義心が生きてそこに居ることで、その幸福を願うことが出来ると、自分が許されるような気持になったのだ。
義心の孫。義心自身ではないけれど、あなたが幸福になるように、努力したら黄泉の義心は喜んでくれるかしら…。
維月は、そう思って涙ぐんで見ていた。
すると、ひとあたり指示が終わったのか、一人になった義心が、ふと、こちらを向いた。
維月は驚いて、急いで柱の陰に隠れた。しかし、着物が重くていつものように動けなかった。それに、着物が嵩張っているので裾が見えている気がする。気付かれたかも…でも、きっと義心なら、柱の影から垣間見ている女など気にしないはずよね。
そう自分に良いように解釈して、そこに背を向けた状態でじっと立っていると、思いに反して、目の前にスッと義心が飛んで来て、維月を覗き込んだ。
「…維月様か?」
維月は、困った。確かに私は維月だけど、あなたと真正面から会うわけには行かないの。というか、声まで義心にそっくりだわ。
維月は柱の方を向いたまま、頷いた。
「あの、着物が重くてここで休んでおるので。気にしないでくださいませ。」
義心は、怪訝な顔をしているだろう。だが、背後なので分からなかった。
「…侍女をお呼びしましょうか。」
維月は、首を振った。
「良いから。あなたはあなたの責務をこなしてくださいませ。」
しばらく義心は黙ったが、床へと降り立ったのが音で分かった。そして、言った。
「維月様。こちらで、皆を見ておられたか。」
維月は、騙したって義心を騙せるはずはないし、この孫が義心並みに鋭いのを知っていたので、仕方なくまだ背中を向けて、頷いた。
「ええ。あの、あなたを見ていたの。あなたのお祖父様の義心を、とてもよく知っていたから。顔を見たいと思って…とても、生き写しで。なんだか嬉しく思いましたわ。あなたには幸福になって欲しいと思うておりました。ごめんなさい、私はただ、義心が懐かしくて見ておっただけだから。任務に戻って。」
義心は相変わらず背の方に居るので、維月には義心の表情は見えなかったが、義心から微笑むような空気が流れて来た。そして、言った。
「それは失礼を。では、我はこれで。直に宴の席の王達が出て参りましょうし、お早く奥へお戻りくださいませ。」
そうして、背後の気配は去った。
維月は、気配が無くなってからそちらを振り返ったが、そこにはもう、義心は居なかった。
ホッとして、とにかくこんな着物で無茶はやめようと肩を落としながら、回廊を奥へと歩き出して、ふと、気が付いた。
…維月様か?
義心は、そう言った。王の妃だと気付いているということだ。
軍神は、王の妃には基本、話しかけない。絶対と言っていいほど、話しかけたりはしない。そこに王が居なくても、王に対して失礼だという考えからだ。
しかし、義心は続けて言った。
…維月様。こちらで、皆を見ておられたか。
普通、王妃が何をしていても関係ないのだ。文句を言う権利も無いし、だから維月も、本当ならここで軍神に遭遇していても、こちらから話しかけない限り向こうから話しかけて来ることは絶対に無いし、見つかっても王妃だと知ったら近寄らないで去るのが軍神で、まして何をしていたと咎められる事もない。だが、義心は寄って来た。そして問うた。だから維月は、薄情しなければならなかったのだ。
だが、たった一人だけ、維月に話しかけて来る軍神が居た。王の維心が居なければ、二人はよく言葉を交わした。
そう、在りし日の義心だった。
だが、この義心は特に何も言わない上、祖父の義心そっくりだが僅かに違う所もあり、判断や、立ち合いの筋も全く同じというわけでは無かった。
何より、あの孫の義心がまだ腹に居る時に、義心は亡くなった。義心が亡くなってから腹に入ったわけではない。だから、生まれ変わりということは、絶対にないはずなのだが…。
維月は、それに気付いて、回廊を振り返った。そんなはずはない。死んだ直後に黄泉から転生するなど考えられないのだ。
「義心…?違うわよね…。」
維月は、未練たらしい女になった気分だった。自分の望みを良いように解釈して。いつまでも、義心にもう一度会いたいと思うなんて、自分が我がままなのだ。維心が傍に居るにも関わらず…。
維月は、そう思いながらとぼとぼと奥へと帰って行った。