迷い
緑翠は、また寝室の窓から庭へと出ていた。
どうしても、きちんと白蘭と話しておかねばと思ったからだ。
このまま帰ったら、白蘭は自分の話など何も聞かないまま、積へと嫁いでもう、二度と会うことは無いだろう。そうなったら、これまで世話をして来た白蘭に対して、あまりにも薄情な気がしたのだ。
さっき去ったばかりの白蘭が居る窓辺に立つと、白蘭はまだ、椅子に座ってもう、涙を流すことも無く、ぼーっと月を見上げていた。
先ほどからいくらか乱れた気が月から流れて来るのを感じるが、それは恐らく月の維月の出産のせいだろうと思われた。
その不安定な月の気の下、落ち着かない気持ちになりながらも、緑翠は、化粧っ気もなく寝る支度を整えてただ、じっと座っている白蘭の前へと進み出た。
「白蘭。」
白蘭は、驚いた顔をした。もう、二度と見ることは無いと思っていたのに。
「緑翠様っ?」白蘭は、慌てて窓を開いた。「どうなさったのですか。」
もはや、白蘭は緑翠に何か期待している感じではなかった。ただ、本当に何をしに来たのかと純粋に驚いているようだった。
「その…積殿の所へと父王が考えていると、我も父から今、聞いたのだ。」緑翠は、言った。「積殿は真面目な性質であって、恐らく主は大切にされよう。父王が潤沢な支援をしようし、主が不自由することも無い。我は…良い縁だと思う。」
白蘭は、それを聞いて悲し気に微笑した。そうか、父がそんな話をしていたのだ。
「はい。あの…己を隠さずでおれそうですし、我も案じておりませぬ。良いかたであるなら、これよりのことはございませぬわ。」
緑翠は、慎重に頷いた。
「主の心持は分かった。だが、先ほどはどう言えば良いのか分からなかったのだ。我は、主に対して気を遣うようなことは全く無かったし、厳しいことも何度も言うた。なので、そんな風に思われるなど、夢にも思わなんだのよ。黙っておってすまなんだの。」
白蘭は、それでわざわざ来てくれたのか、と思った。緑翠は律儀な性格だ。それは、ここまで長い間自分にいろいろと教えてくれていた事でも分かる。一度約したことは、最後まで守るのだ。
「よろしいのですわ。我だって、あの時まで気付きもせなんだのですから。でも、もう良いのです。誰かを本当に慕わしく思うことが出来たことが、何よりだと思うておりまする。そんなことすら知らず、決められた場所へと嫁ぐことが多い皇女の中で、そんな経験が出来たのは、とても幸運だと思うておりまする。これからもそれをよすがに生きて参りますので。」
緑翠は、あれほど必死に幸福を追い求めていた白蘭が、すっかり諦め切った様子なのに、眉を寄せた。白蘭はそんな性質では無かったはず。
「…何を諦めておるのよ。」緑翠が、きつい口調で言ったので、白蘭は驚いて緑翠を見た。緑翠は続けた。「この150年、何のために頑張って参ったのだ。本当に幸福になりたいからと、己を殺してでも想う相手に嫁ぐのだと一生懸命だったのではないのか。だからこそ、我にあれほど厳しく言われても、諦めずに励んだのではないのか。それなのに、その己の努力が水の泡となっても良いと申すのか。想う相手と思うようにならぬ事など、しょっちゅう起こることぞ。それなのに、たった一度無理だと思うただけで、主はこれから先の生をさっさと諦めるのか。義心が死んだ時でも前向きに頑張ったではないか。此度と何が違うのよ。」
白蘭は、戸惑いながらも答えた。
「義心様には、憧れのようなものだったとのちに思いましてございます。此度は…我は、これ以上の想いなど、これから先持つことなど出来ぬだろうと思いましてございます。長く共に参った何某が、我の中には強く残っておって…宮で書を書いたり、誰かに頭を下げる時すら、緑翠様の言う通りにと、御指南頂いた結果でございまするし。忘れることなど出来ませぬわ。ですから、これを最後にと。父が積様とおっしゃるのなら、そのように。それより他に、我にはどうしようもないのです。ですから、緑翠様には、もう我の事などお気になさることも無く、平穏にお暮らし戴きたいものと…。」
緑翠は、首を振った。諦めると。この150年の努力を、そんなことで諦めてしまうというか。
「主は己の幸福に対して貪欲であった。生まれは主のせいではないではないか。そこからああして必死に努めたのだから、心から幸福だと思う権利はあるはずぞ。それなのに、一度躓いただけで、それを諦めるなど…まだ、主には幸福になる権利があろうが。」
白蘭は、寂し気に微笑んだ。
「もう、良いのですわ。緑翠様、我は父の言う通りに生きて参りますから。その方が、緑翠様だって重荷を下ろせるのですから、良いと思うのです。ですからもう、我のことは御心おきなく。もう、これで良いのだと思えたのでございます。これまで十分に椿様にも緑翠様にもご迷惑をお掛けして参りましたわ。申し分ない皇女と言われるようになったのも、ひとえにお二人のお蔭でありました。ですから、どうかこのまま。緑翠様が、お気になさることはないのですわ。」
緑翠は、すっかり吹っ切れて諦めてしまっている、白蘭に苛立った。いったい、自分は何のためにこれほど長い間白蘭に教えて来たのだ。義心が死んだ時も、慰めて何とかやる気を出させようとした。くじけそうになっている時は、己の過去まで話してやる気を出させようと努めた。それなのに、白蘭はさっさとそれを捨てようというのか。これから、他に誰かを想ってまた、幸福になるのだと、なぜに言えぬのだ。
「…我の努力は、何であったのだ。」緑翠は、絞り出すように言った。「主を必ず幸福に、最後まで面倒を見ると申した。だからこそ、長く主を叱咤激励してここまで指南して参った。なのに、たった一つ躓いただけで、主はそれをあっさり捨てて諦めようと言うか。なぜに誰かをまた想うて、幸福になるのだといつもの主のように奮起せぬのだ。」
白蘭は、それを聞いて目から、一筋の涙を流した。そして、言った。
「他の誰かなど…先ほど申したように、もう、無理だと思うたのです。緑翠様、これが本当の想いと申すものでありまする。我は、あなた様の幸福を願っております。これからは何に煩わされる事無く、お暮らしくださいませ。本当に、もう良いのですわ。もう、終わったのです。」と、ハッと部屋の中の戸の方を見た。「…兄と父が戻って参ったようですわ。緑翠様、もうよろしいのです。さあ、お戻りくださいませ。我は我のことに責任を持って生きて参りますから。最後にお話しできて、とても嬉しかったですわ。」
緑翠は、どう言ったらいいのか分からない、胸のもやもやと戦っていた。白蘭とは、確かにこれで最後になるだろう。白蘭がこうして己の運命を、受け入れようとしているのだ。だから、自分が何某か言う必要などない…。
目の前で、部屋の中から寂し気に微笑む白蘭の目には、全く偽りの色など無かった。これまで共に来て、白蘭が誤魔化そうとする時の、気の動きから目の動きまで緑翠には分かる。
白蘭は、本当にこれで最後で、そうしてもう、自分の幸福を諦めようとしているのだ。
志心と志夕の気が感じられ、緑翠は自ずと足を後ろへと踏み出した。白蘭は、それを見送って窓辺でたたずんでいる。
そんな白蘭に背を向けた緑翠だったが、浮き上がってそこを去ろうとしたその時に、こちらを見上げている白蘭と目が合い、十六夜の月を背に、思わず、言った。
「…我は、主を最後まで面倒見ると約した。」白蘭が、え、という顔をした。緑翠は続けた。「こんな、月が見守るあの庭で。我は、約したことは、違えぬ。」
白蘭は、戸惑うような顔をした。
「ですけれど…あの、我はもう…」
緑翠は、また、白蘭の前に降り立った。そして、言った。
「我が、我が…、主を、娶る。」
白蘭は、息を飲んだ。そして、慌てて首を振った。
「そのような!我は、そんなことは望んでおらぬのです。無理に娶られても、我は大変に心苦しいですわ。あの、お気になさらないで。我が己で区切りをつけようと、あのような事を申したから。」
緑翠は、首を振った。
「我が娶る。」緑翠は、もう一度言った。今度は、先ほどよりもっとしっかりした口調だった。そして、窓越しに白蘭の手を握り締めた。「そう決めた。我が幸福に出来るのなら、主を幸福にしようぞ。もとより主を幸福にすると、約したことであったのだ。これからも、手厳しい事を申すやもしれぬ。だが、主の努力を、我は無駄にはせぬつもりぞ。」
白蘭は、緑翠を見つめながら、またハラハラと涙を流した。本当に…本当に、緑翠様が我を娶ってくださるのだ。
「…はい。」白蘭は、笑いながらも涙を流し続けて、何度も頷いた。「はい、緑翠様。我は、あなた様について、あなた様にお仕えして、生きて参れる幸福を、肝に銘じて参ります。決して、失望させてしまわぬように、更に精進して参りまする。」
緑翠は、ホッと肩の力を抜いた。そう、最初から、こうすれば良かったのだ。こうして、白蘭をここまで世話して案じていたのなら、他の男ではなく、己で幸福にすれば良いだけのことなのだ。
「ならば明日、志心殿にご挨拶を。」緑翠は、言った。「また、明日の朝訪ねて参る。待っておれ。」
緑翠は、白蘭が頷くのを見てから、そこを飛び立って行った。
それを見送る白蘭の背中を、しかし志心も志夕も、そっと隣りの居間から見ていたのだった。




