心
緑翠は、眠れないまま月を見上げていた。
父と兄は、まだ帰って来ない。だが、宮が急に騒がしくなって、何やら龍王妃が産気づいたとか侍女が知らせて来たので、恐らくはもう、帰って来るだろう。
月は気配もないまま地上を明るく照らしていた。緑翠は、白蘭とのことをじっと考えていた。白蘭に想いを告白された時は、頭の中が真っ白になって、何を言われているのか全く理解できなかった。どうしてそんなことになるのか、思っても居なかったので、どう反応したらいいのかも、本当に全く真っ白だったのだ。
白蘭が我を。
緑翠は、戸惑っていた。長く、世話をして来た。しかしそれは、娶りたいとかでそうしていたのではなく、ただ純粋に、悩んでいる女神を放って置けなかったからだ。
白蘭は、本当に何一つ知らなくて、最初は心構えから教えねばならなかった。男女関係にも緩かったので、そんなことまで教えねばならなかった。困ったことを引き受けてしまったと思った事もあったが、本人は至極真面目で、一生懸命緑翠の言う通り、どんなに厳しく叱責されてもめげずに努めていた。
そうして、実に150年もの間、白蘭は緑翠の言う通りに過ごして、ああして神世でも見事な女神と言われるまでになったのだ。
今でも手厳しい言葉を遠慮なく放つことがある。それなのに、いったいどこに慕わしいと思うような要素があったのだろう。
緑翠には、そこが理解できなかった。自分だって他の女神相手なら、気を遣って本音も言わずに居ることがある。しかし、白蘭には遠慮がないので、思ったままをガンガンと口に出して言っていた。だからこそ、楽だったし白蘭からしたら酷い男であっただろうと思われた。
しかし、白蘭からも自分と居るのが一番安心できるのだという。確かに裏も表も知っているので、気を遣うことは無いだろうが、それでもあれほど歯にきぬ着せぬ様子で言われているのに、慕わしいなど…。
緑翠は、考えた。そういえば、自分は白蘭をどう思っていたのだろう。妹のようなという事だろうか。しかし妹というには違うような、しかし娶る相手と言われたら、それはもっと違うような気がする…。
緑翠は、ため息をついた。
白蘭は、積という王に嫁ぐのだろうか。相手は支援を必要としている王なのだという。恐らくは、父王が白蘭のために何不自由ないよう支援するので、白蘭も生活に困る事など無いだろう。積も、宮の存続が掛かっているので、白蘭をそれは大切に扱うはずだ。そうなったら、白蘭も己の素を出す事も出来るだろうし、楽に生きて行けるはず。本人が言う通り、その方が良い縁で、楽しく暮らして行けるものだと…。
緑翠は、そう思って自分を納得させようとするのだが、あれだけ想う相手に嫁ぎたいと一生懸命努めていた白蘭を、見てしまっていた。幸福になりたいと、夢を持って長い間、緑翠が言う通りに真面目にコツコツと…。
緑翠は、あのすがるような目が忘れられなかった。己の幸福のために、どうしたらいいかと、いつも真摯に聞いては、緑翠が言う通りに信じて努力していた。それを、簡単に楽な方へと、想いもせぬ方向へと、行かせてしまって良いのだろうか。
緑翠は、ただただ悩む事しか出来なかった。
自分の気持ちも、もう何も分からなかった。
すると、父と兄が戻ってきた気配がした。
緑翠は、もう寝る支度を整えて寝室へ入っていたが、居間へと出て行って二人を迎えた。
「父上、兄上。お戻りですか。」
翠明が、本当に疲れたという顔をして、さっさと着物を脱いだ。
「もう、誠に気を遣うわ。いろいろとの…やはり、主には話しておいた方が良いものか。」
緑翠は、何の事かと眉を上げた。
「何の事でございましょう。」
紫翠が、脇から顔をしかめて答えた。
「主は知らぬからの。だが、我も知っておいた方が良いと思う。」と、翠明を見た。「父上、我から申しますか。」
翠明は、さっさと着替えの着物を着ながら頷いた。
「ああ、頼む。」
そうして、どっかりと正面の椅子へと座る。紫翠も、同じように翠明の前の椅子に座ると、緑翠を促した。
「主も。ここへ座らぬか。」
言われて、緑翠は戸惑いながらも紫翠の横へと腰掛けた。紫翠は、息をついてから、言った。
「つい、この前の茶会の時ぞ。我は後から母上に聞いたが、主は長い間白蘭殿を指南しておったのだの。」
緑翠は、白蘭と聞いて体をびくりと動かした。
「…はい。困っておったようで、姉上はご存知でありましたが。」
紫翠は、頷いた。
「知っておる。それで…椿があの後、白蘭本人に話を聞いておったろう。その内容は、主は知らぬな?」
緑翠は、ドキドキしてくる胸を抑えながら、頷く。
「存じませぬ。何やら女同士の話だとか申すので場を外しました。」
それにも、紫翠は辛抱強く頷いた。
「そう。その時に分かったのだが…白蘭殿は、主を想うておるようよ。」
緑翠は、驚いて絶句した。あの時、姉上に話していたのか。ということは、知らぬのは我だけだったと…。
紫翠は、じっと緑翠の言葉を待っている。
緑翠は、息を整えてから、落ち着いて答えた。
「…存じませんでした。まさか、そのような事になるなど思ってもおらなんだので。」
翠明が、前で頷いて言った。
「別にだからと言って主に娶れと言うのではないのだ。志心殿とて無理強いはしたくないと言うておるしの。我らも主に無理には言わぬ。志心殿も、こうなったら積殿の宮へと申しておるし、大切にされよう。不幸にはならぬと思う。だからそういう事なのだと主には申しておくべきだと思うてな。ただ、白蘭殿のことを思うと不憫な事になってしもうたなと。知っておって知らぬふりであるからな。」
緑翠は、視線を落とした。そうなのだ…自分は白蘭の気持ちを誰よりも側で見てきて知っているのに、それを見て見ぬふりをしようとしているのだ。あの、誰よりも己の幸福を願い、一生懸命努めていた白蘭を知っているのに。
白蘭が、最初何も知らなかったのは、白蘭のせいではない。父王が勝手にふらりと遊びに出て、戯れに相手にした女との間に生まれ、そこで育ったせいでああだったのだ。それを恨みもせずに、ただこれからの己の幸福のためにあれほどに貪欲に頑張った白蘭を、自分は見捨てようとしているのだ。
緑翠は、立ち上がった。
「では…お話はこれまで。」緑翠は、寝室へと足を向けた。「事情は分かり申した。我もあれのことは、最後まで面倒は見ると申した手前、気にしておったので。積殿ならば、確かに大切に扱いましょうほどに。」
翠明と紫翠は、顔を見合わせたが、頷いた。回りが何を言っても、こんなことは、本人次第なのだ。
一方、宮の治癒の対の奥に設えられた産所では、維心がいつものごとくしっかりと維月の手を握り締め、悲壮な顔をして付き添っていた。
「維月、痛むか?痛みを和らげる気を送っておるが、どの程度利くものか…。」
維月は、いつもの事だが維心を安心させようと言った。
「まだそこまで痛みは来ぬのですわ。まだまだ生まれることはありませぬので。そのように早くから気を遣っておられたら、最後にはお疲れになってしまいまするから、どうかご安心なさってくださいませ。」
とはいえ、何を言っても維心は最後まで側を離れないので、無駄なのは分かってはいた。
十六夜が、言った。
「駄目だって維月、こいつは何を言っても側から離れないっての。まだ10分間隔だろ?生まれるまで何時間もあるのにさあ。」
そう言う十六夜も、反対側の隣りに居る。維心は、そんな十六夜を睨んだ。
「うるさい。幾人産んだって心配なのは心配ぞ。出産が始まったらいつ何時どうなるか分からぬではないか。我は何を言われても側を離れぬからの!」
治癒の対の者達は、じっと黙って維月の様子をモニターしている。もう毎回これなので、彼女たちも慣れている。
もう、何を言っても維心がここを出て行く事など無いのは分かっているのだ。
「でもお前は極端すぎるから、維月が疲れるんだっての!それに…、」
すると、その場にパッと碧黎が現れた。それはいくら何でも治癒の者達もびっくりして固まったが、碧黎はお構いなく、維月の上に浮いたまま言った。
「こら!産んでおるのは維月ぞ。主らが回りでうるそう言うたら気が散るではないか!黙っておられぬのなら、出て参れ!我が見ておるわ。」
二人は、ぐっと黙った。すると、その時維月が、ぐっと顔をしかめた。
「…痛みが来た!」
治癒の者達は、ハッと我に返って維月に言った。
「はい、維月様!いきみを逃してくださいませ!息を吐いてー!」
維月は、ふーッと長く息を吐いた。いろいろあるが、これが自分に一番合ったいきみの逃し方だった。
「フーーー、フーーー、」
維月が必死に息を吐く。それを見ている両脇の十六夜と維心も、正面に浮く碧黎も、それに合わせて一斉に息を吐く仕草をした。
「維月、息を吸うのも忘れるでないぞ!」
維心が言う。維月は、うんうんと首だけ振って必死に息を吐いた。そうして一分ほど、維月はハアと力を抜いた。
「…痛みが去りましてございます。」
十六夜も維心も、碧黎もホッと力を抜いた。維月は、そんな三人に言った。
「あの、私は誠に大丈夫ですから。呼吸を真似ておったらおつらくなられますわ。これから何時間もですのよ。男の方には酷ではないかと。」
それで毎回維心は疲れ切って維月よりもフラフラになるのだ。
だから言ったのだが、維心は何度も首を振った。
「だから我のことは気遣わずで良い。案じるでないぞ。」
治癒の者達も、もう諦めて産所に男が三人という異常事態にも何も言わない。
維月は、本当に早く産まなければ気になって仕方がない、と、今回の出産も急がねばならない事を、覚悟したのだった。




