月の夜
その日の月は、十六夜だ。
しかし十六夜は月には居なかった。維心が傍に居ないので、気になって十六夜が降りて来て、代わりに龍の宮の居間で維月と共に居たからだ。
維月は、どこまでも心配性な夫たちに、苦笑して言った。
「だから、私は大丈夫よ。もうこれで何回目の出産だと思う?前世を入れたら凄い数だと思うわ。だから大丈夫よ。心配しないで。」
十六夜は、頷きながらも心配そうだった。
「分かってるんだけどよ、やっぱり心配じゃねぇか。あいつも心配するくせに作るんだから困ったもんだ。今回も生まれたら可愛いんだろうなあ。女だろ?」
維月は、頷いた。
「弓維と名付けるとおっしゃって。私も早く顔が見たいと思っているわ。」
十六夜は、維月の肩を抱いて、頷いた。
「またオレも面倒見るよ。瑠維も落ち着いてるし…孫ほどの歳だなマジで。お前ら頑張るなあ。ま、新しい命は嬉しいけどよ。」
維月は、十六夜に笑った。
「私達には歳なんか関係ないじゃないの。ここのところ…たくさん、お別れがあったでしょ?だから、明るい子供の声がこの宮にあっても良いと思うのよ。弓維はね、出来たら義心に降嫁させられたらなって維心様と話してる。きっと、あの義心だって黄泉で喜んでくれるだろうって。」
十六夜は、いたわるように穏やかに微笑むと、頷いた。
「きっとそうさ。お前たちの気持ちは伝わってるよ。」
維月は頷いて、月を見上げた。
その日の龍の宮の庭では、いろいろな神が思い思いに散策しているのが見えた。
緑翠は、宴の席を抜け出して、庭へと出ていた。
白蘭が、落ち込んでいると聞いて、気にしていたのだが、今日は来ているはずだった。
話しを聞いてやろうと思ったのだが、白蘭の姿を探すのは至難の業だった。なので、宴の席ではと思ったが、出て来たのは志心と志夕だけで、白蘭は居なかった。
いつもなら、何としても自分と話そうとあちらから接触して来るのだが、今日は何やらあちらが避けているようにも思えた。
なので、志心と志夕が宴の席に居る今、庭から控えの間へと回り込んで、そちらから様子を窺おうと思ったのだ。
緑翠が庭からそちらへと歩いて行って、窓から中を覗き込むと、思った通り白蘭が、窓辺でハラハラと涙を流しながら、座っていた。
…やはり嫁ぎ先のことで悩んでおるのか。
緑翠は、そんな白蘭に居ても立っても居られず、侍女に気取られないように、窓をコンコンと叩いた。
すると、白蘭はこちらへと視線を上げて、ハッとした顔をすると、ガクガクと震え出した。
「待て、話を聞いてやろうと思うて来たのだ。我ぞ、緑翠だ。」
白蘭は、しばらく震えていたが、何かを決意したような顔をすると、その窓の留め金を外して、開いた。そして、言った。
「…緑翠様。我は、お話したいことがございますの。」
緑翠は、何度も頷いた。
「さもあろうな。そう思うて昼から探しておったのだ。さ、参れ。ここでは侍女が気取って参る。」
白蘭は、差し出された緑翠の手を取って、そうして窓から抜け出して、夜の庭へと出た。
歩いて行くと、いくらか神が出て歩いているのが遠く目についた。緑翠はなるべく誰の目にも付かぬように考えて、白蘭を連れて奥へ奥へと歩いていたら、ついに池にたどり着いた。
そこは、さすがに誰も居ない。ここまで歩くのは結構疲れるので、女神を連れては遠慮するからだろうと思われた。
緑翠は、そこでやっと足を止めて、白蘭を振り返った。
「疲れてしまったか?すまぬな、誰かの目についてはならぬと思うて。」
白蘭は、それを聞いてまた、涙を流した。緑翠は、やはり疲れたかと慌てて言った。
「分かった分かった、帰りは運んでやるゆえ。機嫌を直さぬか。」
白蘭は、しばらくそのまま黙って泣いていたが、不意に思いきったような顔をすると、涙も拭かずに顔を上げた。
「…申し上げねばなりませぬの。緑翠様…想う相手の事でありまする。」
緑翠は、見付かったのかと身を乗り出した。
「誰か見付かったか。確かに神世のほとんどの神が来るものな。ならばなぜに沈んでおったのだ。何か障害でも?」
白蘭は、頷いた。
「お相手が、我の事などそのような対象には見ておらぬからでございます。」
緑翠は、顔をしかめた。この白蘭を想わぬとすると、結構な地位があるのか。
「…主を想わぬ?…まさか、龍王とか言うのであるまいの。いくらなんでもあれは無理ぞ。地位と申すより王妃以外は虫けら以下の扱いであるからぞ。なぜにもっと敷居の低いところを想わぬのだ。」
白蘭は、ブンブンと首を振った。
「違うのです。我は…その方のお側に居るのが一番に幸福であると気付いてしまい申した。他の誰も、嫁ぎたいとは思いませぬ。なのでもう…どこへも嫁がぬで良いかと…。」
緑翠は、眉を寄せた。側に居る…?軍神か?
「…誰ぞ?軍神か?ならば父王に言えばいくらでも命じてくださろうぞ。」
白蘭は、また首を振った。
「いいえ。軍神などとこの150年近寄った事もありませぬ。」
緑翠は、一向に要領を得ないのにイライラした。いったい誰を想うておると申す。
「いったい誰なのだ。まずはそこを知らねば我とてどうしようもないではないか。主は誠に何とかする気持ちであるのか。」
白蘭は、また涙を流して緑翠を見上げた。そして、キッと口元を引き結ぶと、思いきったように、言った。
「…緑翠様でありまする。」
緑翠は、固まった。一瞬、理解が出来なかったのだ。我…?我がどうした?側にいる…?確かに我は、側に居たが…。
「…え、我?!」緑翠は、やっと理解が追い付いて来て、思わず声を上げた。「我を?!」
白蘭は、がっくりと項垂れて、頷いた。
「はい…。我を全てご存知であるのだから、望まれないのは分かっておりまする。我だって、あの茶会の時まで己の気持ちに気付かなかったのです。でも…緑翠様にお会い出来ぬようになると思うたら、苦しくて…やっと、我はあなた様の近くに居たいのだと悟りましてございます。」
緑翠は、あまりの事に言葉に詰まった。まさか、そんなことなどあるはずがないと思っていたのだ。そもそも誰より厳しい言葉で叱責し、ここまで指導して来たのではなかったか。色良い言葉もなく、ただ兄のように叱り、鼓舞し、ここまでやって来た。
それが、今になって白蘭が自分を想うようになるなど、考えたこともなかった。
白蘭は、項垂れたまま、黙り込む緑翠に言葉を続けた。
「我を望んでおられぬのは分かっておりまする。ですから、無理は申しませぬ。我は、あなた様を想うてどちらかの宮で過ごす覚悟が出来ておりまする。どちらの皇女も、思うようには嫁げぬもの。我とて同じでありますわ。父がどうしてもどちらかへとお考えであるなら、その下知のままに嫁いで行きまする。緑翠様には、ご面倒をお掛けしませぬから。どうか…想うだけ、お許し頂きたいものと…。」
白蘭は、ただ涙を流している。
緑翠は、突然の事にどう返していいのかも分からず、黙って白蘭に手を差し出した。そして、また来た道を、お互いに黙り込んだまま宮へと歩いた。
控えの間の前まで来たら、まだ窓は開いたままだった。白蘭をそこへ帰すと、緑翠はなんと言っていいのか迷った。白蘭は、歩いて帰って来る道すがら、気持ちの整理がついたのか、吹っ切れたような顔で、涙を拭って、無理に微笑んだ。
「あの、申し訳ありませぬわ。」白蘭は、緑翠に笑顔で言った。「でも、言ってしもうてスッキリしました。これで覚悟もできましたわ。父はいっそのこと積様にと思うておるようですが、あちらでは大切にしてくださるとか。我はそちらで気楽に過ごさせて頂きますのも良いかと思いまする。」
それでも、その目からはまた涙が流れている。
緑翠は、何と答えたらいいのか分からず、そのまま、黙って頷くと、その場を後にした。
白蘭は、去って行く緑翠の後ろ姿を、これを最後と目に焼き付けながら、見えなくなるまで見送ったのだった。




