見失う
緑翠は仕方なく、150年前から見ているその庭へと足を踏み入れた。
駿が代替わりした直後は、粗削りで整ったイメージの無かったその庭も、今では小道も整備され、花々も咲き乱れて美しく変貌している。
世話する庭師も腕を上げているようで、段々に良くなって今に至っているのだ。
その庭を、美しい白蘭の手を取って歩いているので、他の者達からは好機の視線を送られたが、緑翠はそんなつもりは無かった。
それなりの歳になって、昔は男にしか興味がないと思っていた自分も、今では女性にも興味はあった。
定佳が、あの歳まで独り身であったのに、いきなりに婚姻してそれは仲睦まじくしていると聞いて、心とは誠に分からない、と緑翠は思っていた。
それよりも、今は沈んでいる白蘭だ。
もしかして、目指すものが無くなって急に脱力してしまったのか。
何しろ、これまでの150年、ずっと必死に緑翠の言う通りに努めて来たのだ。
途中で想っていた義心が亡くなった時も、しばらくは落ち込んだようだったが、すぐに浮上して来て前向きに頑張っていた。
それが無くなると思うと、これから何をよすがに生きればいいのかと、思うこともあるかもしれない。
緑翠は、そう思って黙って下を向いている、白蘭に言った。
「…主。そのように沈んでおってはならぬではないか。目標はこれであったろう?あの折、我に申したではないか。今では、主がまだ幼い頃から男を通わせて生活しておったなど、誰も思わぬわ。仮に知ったとしても、誰も信じぬし気にはせぬ。それほどに、主は完璧に上位の宮の皇女になったと思うぞ。」
白蘭は、それを聞いてじっと黙っていたが、急に顔を上げると、恨めし気に緑翠を見た。緑翠は、びっくりした…白蘭が、あの頃の白蘭に見えたのだ。
「我だって、こうなることを目指して頑張っておりましたわ。実際、こうしておったら皆が皆ようしてくれるし、お父様だってそれは我を気遣ってくださいまする。だから楽であるし、我はこうしておるのです。でも、本当の我は違うのです!とても面倒だと思う時もありますもの。奥宮でさえ、こうしておらねばならぬなど…これからのことを考えると、我はつらくなりましてございます。本当の我を知らぬまま、娶られてそれを隠して終生共に居らねばならぬなど…。」
緑翠は、それを聞いて茫然とした。言われてみれば、そうなのだ。そう簡単に性質まで変えられないだろう。男好きと言われた様はもう無いようだったが、その他の気ままに生きていたところは、確かに窮屈だと感じてもおかしくはないのだ。
緑翠は、白蘭の幸福のためには、白蘭が言うように、本質を知っている誰かに娶られた方が、良いのだと悟った。
だが、ではどうしたら良いのだろう。
「…しかし…では、どうするのだ。主は想う相手に嫁ぎたいのか、気ままに生きたいのかどちらなのだ。まあ、あの折は義心であったから必死に努めたが、主がそれほど高い地位の男に懸想せねば少しぐらい気ままであっても許容されるのでは?」
白蘭は、しょんぼりと下を向いた。
「誠にそうでしょうか…?でも、あちらだって我の外面ばかりを見て決めるのでしょう。そのような縁、誠に我は幸福になれるのでしょうか?」
緑翠は、困った。そう言われても、どうしようもないからだ。
「だがのう…そうなると主を知っておってこうなって、そしてそれでも娶るという男でなければならぬし、だとしたら主の兄の友の箔炎殿か、炎月殿とか、その辺りに打診するしかないのでは?というて…難しいやもしれぬ。あれらも最上位の宮の王族であるし、いくらでも選べる立場であるから。わざわざ面倒だと思うて選ばぬ可能性もあるしなあ…。」
白蘭は、どすんと落ち込んだ顔をした。こんな顔は、最初に夜、あの庭で出会って以来だった。
緑翠は、言った。
「…そら、そんな顔をするでないわ。とにかく、主は選ばねばならぬのよ。想う男に自分を演じ続けて嫁ぐのか、己の気を楽にするために過去を許してくれる男を選ぶのか。どちらもとなると、難しいやもしれぬ。」
白蘭は、下を向いたままだった。
「…我は、想う相手に嫁ぎとうございます。」
緑翠は、息をついた。
「ならば、完璧な皇女を演じるのだ。そうしたら、あちらは主にいちころよ。案じるな。男は忙しいしあっちこっち出ておるし、その時に羽を伸ばせば良いのよ。」
白蘭は、泣きそうな目で緑翠を見上げた。
「誠に?我は…自信がございませぬの…。」
緑翠はため息をついた。
「とにかく、主は今想う相手も居らぬのだろう?ならばまず、それを探してはどうか。そこからではないか。義心の時は己を抑えて何とか嫁ぐつもりだったのだろう。ならば誰かを想うようになれば、きっとそのように思わぬようになる。まずは、想う相手ぞ。これからは頑張って茶会などに顔を出し、目ぼしい男を探すのだ。」
白蘭は、心もとない顔をした。
「ですが…変なかたに引っ掛かってしもうたら?」
緑翠は、またため息をついた。
「わかったわかった、ならば我に、良さげな男が居たら問い合わせを。皇子同士の繋がりで、どんな奴なのか調べてやるゆえ。なので主、すぐに色好い返事などしてはならぬぞ。その場はお茶を濁しておいて、我に聞いてから進めるのだ。わかったの。」
白蘭は、見る見る明るい顔になった。
「緑翠様が調べてくだされば安心ですわ!ありがとうございまする。」
緑翠は、もう諦めた様子で軽く手を振った。
「良い良い、我は主を何としても皇女らしゅうして、嫁がせるとあの折り約したしの。最後まで面倒を見るわ。」
それを聞いた白蘭は、来た時とは打ってかわって明るい様になり、帰りの道はあちこちの花を見る余裕も出て、元気に茶会の席に向かったのだった。
椿は、緑翠と白蘭が機嫌よく戻って来て、三人での茶会の席に和やかに座っているのを見て、ため息をついた。
この二人は、実に150年も前からお互いに忌憚なく話をして、まるで兄弟姉妹のように何でも知っている仲のようだった。
椿も、まだ父の翠明の宮に居た時に白蘭から指南の話を受けた折から、二人から事情は聴いている。
なので、どうして緑翠が白蘭の世話を焼くのかも椿は知っていた。そして、そんな二人の間には、師弟関係のようなものがあるのだろうと、ずっと見守っていた。
白蘭は、めげる事なく緑翠からどんな手厳しいことを言われても、頑張って努めていた。椿は、そんな白蘭がけなげに思えていたのだが、緑翠はあれではまだ最上位の宮の皇女として嫁ぐことなど出来ない、嫁いだとしても大切にはされない、と、完璧を目指して指導していた。
実に150年もかかってしまったが、それでも白蘭は、表向き申し分ない皇女になった。
だが、椿は知っていた。自分もそうであるように、白蘭は気が抜ける場所では、以前のままの白蘭で、公の場に出る時だけ皇女として完璧に振る舞っているに過ぎないのだ。
その状態で気に入られて嫁いだとしても、恐らくはそこでつらい思いをするだろう。自分は、駿が全てを知っていて自分を娶ってくれたので、特に不自由はしていないが、白蘭の表向きだけを知って望んだ王では、恐らく白蘭は窮屈な想いをするだろうと思われた。
白蘭だって、それに気付いたのだと思う。だからこそ、あんなに暗い顔をしたのだろうと思えたのだ。
緑翠なら、と椿は思っていた。緑翠が白蘭を娶ろうとしたのなら、白蘭も楽だろうし、緑翠自身も落ち着くし良いのではないか、と椿は思っていた。
だが、当の二人はそんな様子は欠片も無くて、あくまでも穏やかな様子で茶を飲んでいる。
いったい何を話して来たのか知らないが、緑翠は白蘭を落ち着かせる事が得意なようだ。それも前からずっと、この150年見て来た様子だった。困ると白蘭は緑翠に頼り、緑翠が適切に何やら話して白蘭は落ち着いて先へと進める。そんな感じなのだ。
いったい、この二人はどういうつもりで居るのかと、椿も気になって顔を曇らせていた。
すると、緑翠がそれに気付いてこちらを向いた。
「…姉上?どうされましたか。お顔の色が優れぬようですが。」
椿は、相変わらず目ざとい弟に息をついた。
「…いえ。あなたももう、成人も近いというのに、浮いた噂の一つも聞かぬと思うて。そういえば、お父様が紫翠は政務が忙しすぎてそれどころではないので、緑翠だけでも誰か一人でも娶ってはくれぬかと申しておりましたわ。最近、桜の様子を見に参った時にですけれどね。」
緑翠は、顔をしかめた。いくら定佳の件がもう、遠く忘れてしまっているとはいえ、まだ誰かを娶って過ごすなど考えることも出来ない。気に入るような女にも、まだ出会ってはいなかった。
なので、否定しようと口を開こうとすると、隣りから白蘭が言った。
「いろいろございましたの!」びっくりした緑翠が目を丸くして白蘭を振り返ると、白蘭は一生懸命身を乗り出して椿に訴えた。「緑翠様にもご事情がございますの!ですから、そのような事はご本人にお任せするのが一番かと御父上にお伝えいただきたいのですわ!」
緑翠は、白蘭に自分のトラウマな出来事を全て乞われるままに、白蘭のやる気を引き出そうと話したことを後悔した。何しろ、この150年、いろいろと挫けそうになる白蘭を、なだめたり透かしたりしながら来たのだ。その間に、自分は話したのに緑翠は話していない、と、最初に会った時に心にわだかまっていた事を問われた。緑翠は、確かに不公平だったかと、定佳の事を誰に明かさぬと約させて話したのだ。
白蘭は目を見開いてそれを聞いていたが、そのうちに目に涙を溜めて、きっと誰にも申しませぬから、と何度も言って、とっくにそれを克服している緑翠より、悲しんでいたのを思い出す。
なので、緑翠を守ろうとしてくれているのは分かるのだが、紫翠や翠明が知っているその事実も、椿は知らない。
なので、あまり話題にして欲しくはなかった。
「え、いろいろ?」思った通り、驚いた椿が言った。「緑翠、あなたに何かありましたか。」
緑翠は、急いで首を振った。
「いえ、我とて男でありますからそれなりに。それでも、婚姻にまで至っておりませぬのでご安心を。いろいろ考えてはおるということでありまする。」
椿は、それでも怪訝な顔をした。そんな女のかたの話などあったかしら…。
だが、白蘭がもはや涙目になって、じっと椿を見ているので、今にも泣かせるのではないかと椿はそれ以上言えなかった。




