その夜
そのまま、退屈だ退屈だとまた繰り返す焔をなだめて炎嘉と肩を組んで部屋へと戻って行くのを見送り、維心もそれではと立ち上がって控えへと向かうのを見てから、箔炎も自分の控え室へと向かった。
蒼と志心が和やかに話しながら、その後ろを翠明と駿、高晶が楽し気に笑い合うのを見て、神世は今、平和だなと思った。
いろいろと小競り合いはあるものの、大きな事にならないのは、この上位の宮の王達の、交流と努力があってこそなのだ。
そう思いながら、控えの貴賓室へと戻って来ると、佐紀が入って来て膝をついた。
「佐紀か。どうした。」
佐紀は、顔を上げた。
「は。王、お留守の宮の見張りを命じておりました雲居から連絡がありまして、急ぎお知らせしておこうかと。」
箔炎は、顔をしかめた。自分が箔炎としての記憶を持って生まれているのだと、あの時知らせたつもりだった。
だが、あの時言ったのは、記録にも残っているようなことのみだ。臣下がそれに気付き、あれはもしかして、箔炎が祖父の威光を笠に着て、臣下を押えようとの目論見なのではと、密かに探っているのを感じていたのだ。
「…あれらが、何かやりおったか?」
佐紀は、顔を上げた。
「は。王の侍女にうまく申して、箔炎様のお暮らしぶりを聞いておるようでありまする。つまりは、記憶が戻っていらっしゃるのなら、祖父の箔炎様と同じように生活するはずだと。重臣は祖父王を知っておる者達が多うございますので、それで判断しようと思うておるようで。今、お留守なので、己らで王のお部屋へ押し入って、調べておるようでありまする。」
箔炎は、険しい顔をした。勝手に王の部屋へ入るなど。
しかし、泳がせておけと命じて来たのは、自分なのだ。
箔炎は、言った。
「…どうしたものか。そうであるな。」箔炎は、ふと思い立って己の髪を一本、抜いた。そして、それをパッと術で薄紅色の和紙へと変えると、文机へと向かい、サラサラと筆を走らせた。「これを、玖伊に見せよ。我が陽華に送ったそのままの和歌だと。」
佐紀は、それを受け取って見た。
『君がため おしからざりし 命さへ ながくもながと おもいけるかな』
そこには、人世の和歌が書かれてあった。確かに、祖父の箔炎は陽華と名付けた女神と共に、最後の数年は仲睦まじく幸福に生きていたのだ。
しかし、その頃、貴青という軍神が存命で、それが筆頭であったので、佐紀は今ほど王とは近くはなかった。なので、これが本当に陽華に送られた文なのか、分からなかった。
だが、箔炎の命は絶対だ。
「は。」
佐紀が、怪訝に思いながらもそれを綺麗に畳んでいると、箔炎は気取って苦笑して言った。
「それはの、維心が維月にと送った文を見て、己もそうだと思うて陽華に我が書いた文なのだ。我は、あれに会うまではいつ死んでも良いと思うておった。だが、あれに会った後は、いつまでも共に生きられたら、と思うたのだ。維心と同じ心持ちよ。それを、玖伊も、最近では序列が落ちておったがその頃筆頭であった園明も、見て知っておる。私的な文であるから公式には何も残っておらぬだろう。それを、我が園明に見せよと言うておる、とだけ伝えたら良い。あれはすぐに気取ろう。実はの、誰も知らぬが陽華とは我が与えた名で、その実陽蘭という地の片割れであったのだ。碧黎が許してくれて死ぬまでも、黄泉へ逝ってからも共であった。奥へ入ったのは腹が立つが、もう良いわ。もう歳であるし、我が斬らぬでも死ぬ。せめて納得させてやろうぞ。」
佐紀は、箔炎を疑ってはいなかった。王なのだから、おっしゃることはその通りなのだろうと思い、その文を胸に大事にしまい、頭を下げた。
「はい。では、我は急ぎこれを届けて参ります。」
箔炎は、穏やかに頷いた。
「頼んだぞ。」
佐紀は、頭を下げてそこを出て行った。
その後、箔炎は、やれやれと寝る準備でもするかと、控えの奥へと下がろうとそちらへ足を向けると、いきなりに後ろの扉が、バン!と開いた。
何事かと振り返ると、そこには、炎嘉が焔を引きずって立っていた。
「箔炎!」炎嘉は、焔をその場に捨てて箔炎に駆け寄って来る。「なぜに言わなんだ!覚えておるなら、知らぬふりなどせぬで良いではないか!」
箔炎は、ハッとした。そういえば、ここは炎嘉の宮。炎嘉の結界の中。炎嘉は、もしかして聞いていたのか?
「…どういうことか。」
箔炎は、酒でフラフラで床を這うようにして入って来る焔には構わず、炎嘉を見て言う。炎嘉は、どこまで聞いていたのだ。
しかし、炎嘉は涙目で箔炎の目の前まで来て訴えるように言った。
「主が箔炎でなくば知らぬことぞ!維心と維月の文なら我だってあれの居間で見たことがある。だが、今はそれは居間には無い。維月の文箱の中ぞ。だからそれを知っておるのは、箔炎だけぞ!何より、主は陽華が陽蘭であったことを覚えておるのだろが!」
箔炎は、顔をしかめた。隠しておきたかった。何しろ、自分は忘れて来るのだと思っていたからだ。皆もそう思っていただろう。それなのに、今さらに記憶を持って戻って来たなどと、言えるはずなどないではないか。
「何の事か…」
箔炎が言い掛けると、炎嘉はずいと箔炎の胸ぐらを掴んだ。
「箔炎!我は聞いておった!焔がどうにも部屋に入らぬから難儀して誰かに応援を頼もうと気を探っておった!佐紀に話すのを聞いて驚いてここへ焔を引き摺って来たのだ!誤魔化しても無駄ぞ!」
開け放たれた扉の向こう、騒ぎを聞き付けて同じ階に控えがある維心と志心が出て来ているのが見えた。二人は黙っているが、箔炎を見ている。
ああ、バレたか。
箔炎は、心の中で思った。記憶を持ってこないと言っておきながら、自分は浅ましくも新しい記憶で鷹を守れる自信がなかった。なので己の古い記憶に頼り、それを持って来ることを願ってしまったことを、知られてしまったのだ。
「…言えるはずは、ないではないか。」箔炎は、涙を流した。「転生の瞬間に、鷹を守る記憶だけはと情けなくも願ってしもうたことを。全て捨てて来ると申したのに、浅ましくも思い出したなど、言えるはずなど…。」
炎嘉は、胸ぐらを掴んでいた、手を放した。
「箔炎…。」
それからしばらく、箔炎は静かに皆の前で、若い姿で涙を流して立ち尽くしていた。
志心が皆を箔炎の控えに押し込んで扉を閉め、炎嘉は我に返って箔炎を促してソファへと座った。焔は足元はふらふらなものの、頭はハッキリしたのか自分で起き出してソファへとよじ登る。
維心が最後に中央に空いた席へと座り、口を開いた。
「…まさか、とは思うておった。我はそちらを探らせておったゆえ、主が臣下に祖父の生まれ変わりだと申して押さえたのを知っておったからの。だが、言うておったのは記録に残ることばかり。もしかしてと思うたが、しかし希望など持たぬ方が良いと知らぬふりをしておったのだ。」
だから宴の席で我を見ておったのか。
箔炎は、思った。義心が居らぬからと思っていたが、孫の同じ名の義心が同様に優秀なのだと聞く。それが、結界内まで入り込んでいたのだ。
炎嘉が、言った。
「別に良いではないか。我らだって記憶を持って参ったくちぞ。焔など己の前世を取り返そうと、必死に記憶を持って参ったと公言しておる。今さらであるぞ。水臭いではないか…。」
炎嘉は、また涙ぐんだ。箔炎は、下を向いて言った。
「何度も、言いたいと思うたのだ。主らが楽し気に話しておるのを懐かしく見るにつけて、その中に己が居るのに、話が分かるのに、入って行けぬのに、もう、我は我では無いのだと孤独に思うて。だが、そんな主らとの記憶すら、あっさり捨てると言うて転生して来たのに、今さらに思い出したのだとは言えなんだ。なのでただ、主らを見て懐かしんで…。」
焔が、炎嘉からもらい泣きして元々赤い目を真っ赤にして言った。
「それを水臭いと申すのだ!思い出した時にさっさと言うておったら、そんな孤独な想いはせずで済んだのに。」
維心が、息をついた。
「それで、いったいいつ思い出したのだ。箔翔を殺した辺りか?」
箔炎は、顔を上げて維心を見て、頷いた。
「箔翔があまりに己の感情で物を言うゆえ、鷹の未来を考えた時に、己の中から別の誰かが激しく憤るのを感じた。我はそれを抑えることが出来ずに、父王であるのに反論するのを止められなんだ。それでも箔翔は己の考えを曲げなんだゆえ、このままでは鷹の地位が危うくなると、悪くすると宮をまた閉じてしまうと思うた時に、全てを思い出した。その、己の中の別の誰かの記憶が一気に我の中に押し寄せて来て、気が付くと我は、我だった。思い出した…かつて生きていた時の事を。ゆえに、鷹の未来を守るため、我は箔翔を殺した。あれには最後に我が父であると申した…あれは、最後の気を読んだので、納得して逝ったと思うておる。もう、王の器でもないのにそんな地位に縛り付けるのも、我には出来なんだのだ。ならば最後は、己が起こしたことの始末をさせて逝かせようと思うた。」
焔も維心も、志心も炎嘉もそれを黙って聞いていた。箔炎ならば、やるかもしれないと危惧していたことだった。やはり箔炎だから、やった事だったのだ。
「…ならば、あれから150年も。主は、ずっと記憶がありながら我らに黙って王座に座っておったのか。我らは、主に会えるなら会いたいと思うておったのに。ならば、これからは我らとまた、助け合って生きて参ろうぞ。もう、隠す事などないのだから。」
箔炎は、それを聞いて涙を浮かべた。自分を責めることもからかうことも無く、かつての友はこうやって受け入れてくれるのだ。こんなに、若造になって帰って来ているにも関わらず。
そうして、その日は皆が月が傾くまでそこで、昔話に花を咲かせた。
とはいえ、焔の昔話は古すぎて前世の箔炎が子供の頃の事だったので、皆が皆よくわからず苦笑していただけだったが。




