始まりは最悪の日④
すぐにはっとなって気を取り直し、夢想するような状態から抜け出すと、今度は今の状況が上手く把握できずに、ぼーっと一点を見つめて頭を振って気を取り直したり、きょろきょろし、カーペットにコロコロをかけたりして落ち着かない。
その時、玄関のチャイムが鳴った。架純は動きを潜めて、誰だろうと思いながら、じっとしていた。今は出たくない。ブラウスのはだけた部分を右手で握り込んだ。ボタンが取れているからなとしばらくじっとしていたが、ドア越しなら見られるわけじゃない。対応できるかと考え直し、玄関に向かった。
「・・・はい?」
「あの。ちょっとお茶忘れた」
「え? 亮二君?」
訪問客が今さっきこの部屋を出て行ったばかりの亮二だと分かると、ドアに背を持たれかけ、少し緊張した面持ちで息を前髪に吹きかけつつ少し考えてから極力冷静に努めようと咳払いして答えた。
「もうお茶はないよ」
架純はドア越しにそう言うとどんな言葉を返してくるのかと耳をそばだてた。
「え?」
「そうでしょ。普通は」
「飲んだの?」
「飲んでないよ」
「じゃあもって帰ろうかな」
「もってはいけない」
「飲むつもり?」
「分からない。後で飲むかもしれない」
「じゃああげる」
「はあ? 意味わかんない」
「ペットボトルの紅茶。あげるよ。良かったら飲んで」
「え?」
架純は慌てて玄関から部屋に戻りペットボトルの紅茶を探した。するとキッチンの調理台にそれはあった。
「これ・・・。亮二君! あったよ! 今持っていく!」
「いや、いいよ、良かったら飲んで。今日はもう帰ることにする」
「え? って言っても飲みさしてるじゃん!」
よく見ると、一口か、二口分減っている。『昼の紅茶 微糖』を見て架純は叫んだ。さっきのことを意識してしまった。
「え? 開けて飲んだけれど全く口は付けてないよ。大丈夫」
「・・・そうなの?」
「うん、そう。口付けてないから普通に飲んじゃって」
「でも・・・いや、いいよ。今持っていくから待ってて」
「いや、いいよ。今日はもう帰るから。あげるよ。それじゃあまた」
「え? ちょっと。・・・亮二君?」
ドアの向こうがしんとしずまり返ったので、架純が慌ててペットボトルを持ち、玄関のドアを開けて外の様子を伺った頃には、亮二がすでに階下に勢いよく降りている音が聞こえ、その音が止み少しすると自転車に乗り込む姿が見えてさっさと漕ぎ出して行ってしまった。後姿がどんどん小さくなっていく。夕日がまぶしかった。
架純はドアを背中越しに寄りかかりながら閉めてカギをかけた。
ため息のような一息をついて、丸いテーブルにペットボトルを置き、へたりと座り込んだ。