始まりは最悪の日③
「指輪」
「・・・何?」
架純は辛そうに答えた。
「指輪」
「指輪? 何なの?」
架純は少しだけうずくまっている体を持ち上げチラッと赤の他人にするかのように亮二の方を見た。
「指輪、半年くらい前からしてなかった」
「え? 誰が?」
「君」
架純は虚を突かれて我に返り、顔の左半分をまだ覆いながらも、半年前まで指輪をつけていた右薬指を確認した。そして、顔を覆っていた左の手のひらと右手もゆっくりとおろしながら亮二の顔を見つめた。
「何で? 知ってたの? 私が半年前に別れたこと? どうやって?」
「うん」
「浮気男」
「え?」
「彼女いるでしょ。浮気男でしょ」
「別れた」
「え? いつ頃? 最近? わー嘘つきだねー」
「7カ月くらい前に」
「・・・そんな前? え? 何で? あんなに仲良くしてたのに」
「うん」
「もしかして・・・浮気したの?」
「してない」
「じゃあフラれたの?」
「あれはきっと俺がフラれたような雰囲気で、フッた形になったと思う」
「ふっ、あんないい子をフッたなんてどうかしてる」
「しょうがない」
「しょうがないで片付けられない」
「今はしょうがないで片付けただけ」
「どんな時でもそれはだめでしょ」
「そうかもしれない。君は6カ月前から、誰とも付き合っていない。俺は7カ月前から誰とも付き合っていない」
「だったら何だっていうの」
「だから大丈夫」
「何も大丈夫じゃない。弱ってる私につけこんだ」
架純は視線を斜め下に逸らし吐き捨てるように言った。
「しょうがない」
「しょうがなくない」
「キス、心地よかった」
そう言われた瞬間、架純は強いまなざしで亮二の顔を見た。
「胸出てる」
架純の一つボタンが取れてしまったブラウスからはだけて胸が少し見えていた。
架純はさっとブラウスを押さえて恥ずかしさをわずかに目に見え隠れさせながらも亮二の様子チラッと見て少しうつむいた。
「今日は帰る」
亮二はそう言うと、そそくさと玄関から出て行った。
架純は肩透かしを食ったような気がしてそれを複雑な気持ちで眼で引き留めながらも、その場に何も言うことも動くこともできずに立ちつくした。
ドアが閉まってもフリーズしていた架純の耳にやかんがぐつぐつと沸騰する音が大きくなって水蒸気をやかんの口が激しく噴き出すようになってからようやく、ひとまず我に返り、けたたましく鳴っているやかんの火を止めた。
冷蔵庫から1リットル入りのパック牛乳を取り出してそのまま口をつけずに上を向いて流し込むようにごくごく飲むと、少しだけ口元を外れた牛乳を手の甲で拭い、水道水で洗い流すと居間にへたり込んだ。
ぼーっと自分の唇の感触を手の甲に押し当てて何度も確認して、少しだけ拭った。さっきのキスの場面が脳裏をよぎる。