表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

Iron Flower

作者: うずしお丸


 縁起の良い物。


 タバコ屋のカウンターで埃をかぶっている招き猫。財布に入れてあるお守り。眼前の少女がこれ見よがしに齧っているスルメ。電線に引っかかっている凧。遠景を埋める富士の山(よっ日本一!)。


 縁起の悪い物。


 視界の端で生ゴミと風情を同時にひっくり返しているカラス。本日運気最下位の乙女座。少女が右脇に抱えている幸運の壺と、壺に蓋をするように掛けられた喪服。


 ………幽霊。果たして『幽霊』はいったいどっちに入るのだろう。縁起の良い物か、悪い物か……。


 カーンカーンカーン、と。

 鼓膜を痺れさせる鐘の音が鳴り、少女の背後の遮断機がゆっくりとその腕を降ろす。俺の目を穴が空くほど見据え続ける少女の背後を貨物列車が通過し、台風を引きつれたように通過しきり、錆びついた鐘の音と共にランプの赤い明滅も止まる。遮断機がすーっと上がり切る頃には、少女の真っ赤なスカートのはためきも止んでいた。


「何見とんねんワレ! ああん!?」

「口悪いな!」


 突然の罵倒、それもとても女の子とは思えない罵声を俺に浴びせると、黒いランドセルを背負った少女は綺麗な八重歯でスルメを勢い良く噛み千切った。

「お前あれか、ロリコンか? 不審者か? うちの未発達な身体を弄びたいんかコラ」

 そう言うが早いか、男の子みたいなスニーカーの踵が俺の靴を、つまりは俺の足の甲を、上から思い切り踏んづけ、踏み抜いていた。


「あん?」


 彼女のスニーカーは俺の足を確かに踏み抜いていた。実体の無い俺の足をすり抜け、彼女は地面を踏んでいる。その雲を掴むような奇妙な感触に怪訝そうにしている。

「なんや……お前?」

 俺は薄く笑って、顎で警報機の真下を示してみせた。プラスチック製のコップに生けられた小さな花束が風に揺れている。

「だからなんやねん」

「死んだのさ、俺はここで」

「……なんで誇らしげ?」

 少女は訝るように首を傾げる。

 言われてみたら確かに……自覚はなかったがそう見えていたなら、俺は死んでしまったことを自分の個性か何かだと思っていた節があるのかもしれない。死んでからの月日が幽霊であることを当たり前に思わせていたのだろう。

 怪訝そうにしている少女の目を逆に覗き込んでみると、子供らしい澄んだ瞳をしていた。


「で、おっさん何で死んだん?」

「おっさんじゃない。まだ二十代だ」

 負け惜しみのように俺は言う。

「うちみたいな可愛い小学生から見たら大人の男なんてみんなおっさんやわ。で、何で死んだん?」

 少女は質問を繰り返した。可愛さを自覚しているところが憎々しく、そこが何故か逆に可愛げになっているというパラドックス、はどうでもよくて、どうやら彼女は幽霊相手にも思ったことを平気で訊けるらしい。先程から大人を舐めた対等な態度で接してくる。


「死因なんて」

 聞いてどうするんだ――と、俺が言う前には、少女は何かを思いついたようにニヤリと口元を歪めていた。

「ははーん分かった。世間に言えんようなことやって、それを後悔して死んだんや。ってことは自殺や。鬼畜なロリコンもいたもんや」

「おい待て、何のことを言っている? 俺は自殺じゃねえ。っていうか子供がそんな言葉使っちゃ駄目だろ、先生に言われなかったか?」

「うっさいわロリコン。オマエなんかロリコンの霊魂でロリ魂や!」

「てめースルーしてりゃロリコンロリコン言いやがって! それじゃ俺が死んでまで幼女に情熱燃やしてるみたいじゃねえか! そんな日本語、外国人が着てるTシャツのプリントの中にしかねえ」

「ロリコンは否定せんのやな」

「してるよ!」


 少女が銜えていたスルメは口でバキッと真っ二つに折られ吊橋が落下するように飲み込まれていった。


「むぐ。ま、ええわ。それで、おっさん何か用なん? うちのことずっと見とったけど」

 そうだ。この踏切周辺で地縛霊(というやつ?)になっていた俺は、道を行くこの少女の姿をぼんやりと眺めていたのだ。別に性的意味合いはなく(いや流石に少女を見たら可愛らしいなくらいは思うけどさ、その時点でだめですか、そうですか)、彼女の纏っていた独特の雰囲気が気になった。何の気なしに眺めていた日常の光景に黒いインクが染みているような特異点は、俺でなくとも注目してしまうだろう。しかしまさか彼女の方も俺のことを見えているとは思わなかったが。

「いや……変わった格好してるなと思って。まず、それ」

 そう言って、俺は少女が脇に抱えているそれを指差した。

「あ? そんなことかいな。これは壺。幸運の壺や」

「見れば分かるよ……“幸運”って達筆で書いてあるし……」


 改めて少女を見る。プリーツスカートに白いシャツ、傷だらけの黒いランドセルを背負って、右脇にはバスケットボール大ほどの壺を抱えている。その壺には蓋をするように喪服が掛けられており、少女は余った左腕で背中のランドセルを器用に探ると、二枚目のスルメの包装を取り出した。口だけで袋を噛み切り、スルメを再び咥える。


「その壺の中身は何なんだ? ……流石に気になるだろ」

「これか? ああ」


 そう言うと、少女は喪服の覆いを外してみせた。中にいたのは、黒い猫だった。ただし、内臓の露出した死体の姿だ。頭が陰で隠れて見えないのが幸いだった。膨らみのあるはずの胴の部分は可哀想なくらいに圧し潰されていて、ひしゃげた骨格が外皮を貫いている――


「うっ……」

「うちと一緒によく遊ぶ子なんやけどな。今日学校から帰ってきたらうちの家の前でな、車に轢かれて死んどった。可哀想やからどっかに埋めたろ思うねん」

 少女は感情のこもらない声で言う。ただ事実を口にしているのだと思う。

「そうだったのか……」

 そのような相槌しか打てなかった。


 話しているうちに踏切の鐘が鳴って、再び遮断機が降りる。

「なあおっさん、この辺りでいい場所知っとる? この子を埋められそうな」

 大声を上げて、そう少女は訊く。咄嗟に俺の記憶に思い当たったところがあった。

「あっちの方に神社があるよ!」

 踏切の向こうを指すと、その目先を電車が音を立てて通っていった。

「んー、あっちじゃよう分からんな。おっさん付いてきてくれや!」

 と、少女はあけすけに、地縛霊に向かって道案内を頼むのだった。


    ◇


 境内の片隅に位置する大木の近くの土を、少女はスコップで地道に掘り返していく。日陰の土が硬くないところを選んだので猫一匹を埋めるにはそれほど手間が掛からなそうだと思ったが、少女はえらく大きな穴を掘って重労働に汗水を垂らしていた。


 俺はというと、そんな少女を眺めながら、自分があの踏切の周辺から離れられたことに淡々と驚いている。今まで踏切に縛り付けられていたと思っていたのは何だったのだろうか。思い込みの力って恐ろしい。地縛霊でなくて自縛霊だったのだ。

 なんじゃそりゃ。


「なぁ、もうその辺でいいんじゃないかな?」

 せっせと穴を掘っている少女に向かって言ってみる。

「そうかな? まだ壺より浅いと思うんやけど」

 彼女はきょとんとして振り返った。傍には猫の死体の入った大柄な壺がある。

「それごと埋めるつもりなのか?」

「ほーや。幸運って書いてあるくらいやから、これに乗せたればコイツも天国いけるやろ」

 いい思いつきやろうと胸を張って、そう言う。


 口が悪い癖にこういうところで純真な彼女に胸がちくりと痛んで、俺は少し迷った。しかし結局はちゃんと話をしてあげよう思った。物事を教えてくれる大人は、周りに居たほうがいいに決まっている。

「壺からは出してあげたほうが良いよ。猫の身体は養分になって、この木に戻っていくから。壺の中だと、猫の体はどこにも行けなくなってしまうから」


 そういった、自然の摂理を話す。肉体が土に戻っていくイメージなど、少し、彼女には難しかっただろうか。少女は俺の瞳を覗き込んで、その言葉の意味を考えているようだった。しばらくすると納得したように、壺と猫とを見下ろす。


「ああ、そっか……そうやなあ………。じゃあ使えんやん、幸運の壺。なんやねん、ガラクタやん」


 それから少女は壺から猫の体を両手で支えるようにして取り出した。手が血で汚れることも、ひしゃげた猫を直視することも構わないで、丁寧な手つきで、今度は掘った穴の中に仕舞いこむように入れる。その上から、横に盛られた土を掛けていく。そういったことを黙々と済ませていくのだった。


「……うちのおかんがよく魂の話をするんやけどな、それと違ってさっきのおっさんの話はすっと頭の中に入ってきてよく分かったわ。

 猫の魂の方を幸福にしたろ思ったんやけどなあ……。おっさん、養分になったこいつの魂はどこに行くん?」

 少女は背後にいる俺に訊いた。

「大丈夫だよ、ちゃんと天国に行ったさ」


 そう答えた俺に対して、たしたしと目の前の土を叩いている少女は表情を変えない。


「……おっさんさぁ、説得力無いで? 自分の身体見てみ? 透けとるで。消えかかってるやん」

「マジで!?」


 慌てて俺は自分の腕や足を確認するが、何も変わったところは無い。そんな間抜けな大人を見て少女はぷくくっと笑った。

「あーあほらし。所詮おっさんやな」

「所詮って言うな」

「いわゆるおっさんやな」

「どういうことだよ……」

「なにゆえおっさんやねん」

「お前がおっさんって言い始めたんじゃねーか!」


 いつの間にか神木の下には土の山ができていた。猫を埋め終わった少女は血や泥だらけの手をそのままに立ち上がると、無言で壺を蹴飛ばした。

「こんなん要らんわ。ほんま、アホくさい」

 壺はごろごろと転がって俺の目の前で止まる。

「なぁ、どうしたんだこれ?」

「おかんが買ってくんねん。次から次へとしょーもないものばっか。神の水とか願いの叶う札とか持ってるだけで痩せられる石とかな」

「その壺に掛けてあった服は?」

 今ではぶっきらぼうに土の上に捨ててあって泥だらけの喪服を俺は指さした。

「ああ、それもおかんのやつや。壺の覆いに丁度良かったから」


 少し苛立ちながら言う彼女だった。その言いようから、彼女は母親のことが好きではないように思う。それに、裕福な家庭というわけでもないのだろう。母親が宗教に嵌って色んな物を購入してしまうのに、彼女の靴は猫の墓を作る前から汚れていた。新しい靴を買ってもらう余裕もないのか。黒いランドセルも誰かのお下がりなのだろう。


「手」

「ん?」

「随分汚れちゃったな。あそこに手水舎(ちようずや)があるから、洗ってきたら?」

 とりあえず、そのままでは帰ることもできないだろうと思い、提案した。

「おーそうやな。でも使い方が分からんわ。こんなとこ初めて来たし」


 少女はそう言う。暗に付いてきてくれと言っているのだ。仕方ねえな、と思いつつも胸に暖かい何かがじわりと広がっていくのに驚く。俺は小さな娘を持つ父親の気持ちが少しだけ分かったような気がして、手水舎の方に勇んで歩いて行く彼女を追いかけていった。

 手水舎に着くと彼女は連なった柄杓のうちの一つを迷いなく手に持って並々湛えられた水を掬う――「あれ? 使い方分かってるじゃん」と俺の思うが早いか――振り向きの遠心力に任せて水を広範囲にスプレッドした。


「危ねえ!」


 咄嗟に危機を察知して身を翻したが、地面には飛沫の染みがじわりと広がっている。それを見て何故か背筋に油汗が流れた。


――何のために、奴はこんなことを……?

 日輪が映す逆光の中で彼女の口元は醜悪に笑っている。


――それに何故俺は咄嗟に避けたんだ?

 俺の身体は霊体であることを、『俺の身体』は本能的に知っている。


――何か、危ないと思って……。神社の水は………霊体の俺に対して……

 そう、彼女は最初から俺が見えていて、かつ驚かなかった……。それは霊の対処に慣れているから……


 少女の手に持った柄杓とぎらぎら光る水を見て、俺の追いつめられた脳髄がついに一つの結論を導き出した。

――――殺られる!


 再び身を躱したとき、さっきまで座りこんでいたそこに水溜りができている。

「あー逃げんなや。おっさんに神社の神聖な水をかけたらどうなんのかなーって思ったのに。シュワーってなんのかなって」

「おまっ、何て危ないこと考えてやがる! 溶けるのか俺!? 人殺し!」


「いや死んでるやんって突っ込まんけどな」


 続けざまに少女は水を打つ。なんとも愉快そうに口元を歪めて、左右の手に四本ずつの柄杓を装備して、どこぞの投擲剣使いの如く迫ってくる。


「あははは! 待てやおっさん!」

「馬鹿! ちょっ、マジでやめろって!」


 すぐ背後に掛けられる水や頬を切る飛沫から逃げ、手水舎の周りを回ったり鳥居をくぐったりしながら、ついに俺は賽銭箱の前まで追い詰められていた。階段を登った先にある社という行き止まり。振り返れば境内に付けられた水の染みは、まるで俺がここまで辿り着けるように作られた一本の道となっていた。


「おっさんやっぱあほやなー。水の上を通れん妖怪みたいやったで。簡単に誘導されてるやん」

 ああそんな妖怪、日本昔ばなしで坊主を追いかけ回していた気がするぞ。気合で泳ぎきっていたような気もするが。

「………話が違う、柄杓の使い方が分からないって言っていたじゃないか……」

「いや…あんな原始的な道具サルでも使えるやろ」

 絶望が胸を染め上げる。

「そりゃ作法とかは知らんけどな、そういう意味で分からんって言ったんやけど。まあとりあえず観念しろやおっさん」


 少女はそう勝利宣言をする。俺は女児童に頭脳戦で完全敗北した事実を認められず、苦し紛れの小者のようなセリフを吐くのだった。


「馬鹿な真似はよすんだ……。俺が一体何をした――」

 あ駄目だ、と思った。少女の瞳は人形の関節がどこまで曲がるかを試すような純粋な好奇心で爛々と輝いていた。それは当然壊れるまで曲げるのだ。『あ、壊れちゃった』という喪失感を覚えて、子供は成長していくのだ。『あ、おっさん溶けちゃった』と。


 好奇心猫を殺す、というけれど。


 猫?


 たったいま去来した雑念を払おうとしている俺に向かって、少女は言う。


「おっさん、あの猫もちゃんと仏さんになったことやし、いい加減あんたも成仏せんとな」


「ま、待てよ……待ってくれ、やめっ。た――助けて!」


 びしゃり、と少女は柄杓の水を俺に向けて撒いた。水飛沫は怯える俺をすり抜けて当然のように地面を濡らす。賽銭箱の前の階段が黒く染みる。ただの打ち水。俺は溶けない。


 少女は心底呆れた目つきをして、俺の隣に座る。


「いやいや、溶けるわけないやん……。おっさん雨の日とかどうしてるん? ずっと雨宿りでもしてるんか、違うやろ?」


「あ」


 そうだ。今は何故か遠出できているがもともと地縛霊だと思っていた俺は、雨の日でも踏切の周辺に佇んでいる。その時俺を濡らす筈の雨は、俺の身体を通過して水溜りを作っている。霊体である俺は物質に干渉することができず、物質もまた俺に触ることができないからだ。


 ならばどうして俺は地面に向かって落下しないのかとか、重力は霊体に干渉するのかとか色々と考えが巡ったが納得できる答えは一つも浮かばなかった。そこは苦し紛れに『自分は浮いているのかもしれない』と仮定しておくとして――


「お前……知ってたのか? 俺が地縛霊で、水に濡れないってこと」


 恐る恐る訊くと、少女は答える。


「なんや『じばくれい』って……。まぁうちは『かみさま』を信じてないからな。だから神社の水だってただの水やと思っとるし、ただの水なら、さっきうちがおっさんの足を踏んだ時みたいにすり抜ける筈やろ? そうやなかったらこんな悪戯せんって。でも脅かしたら予想以上におっさんがビビるもんやから面白くて、追いかけまわしたらついには命乞いし始めてそろそろ可哀想になってたところや。おっさん可哀想。童話『可哀想なおっさん』」


「勝手に泣けそうな童話を作るな……。はぁ、ほんとに死ぬかと思ったぜ…」


 脱力して賽銭箱にしがみつく俺の間抜けな格好を見て少女はふふと笑った。なんだか楽しそうにしているなあと俺はようやく思った。


「うちは柊楓ひいらぎかえで。その辺の小学校に通っとるよ。おっさんは何て名前なん?」


 休戦条約を結ぶように、少女は名乗った。


「その辺って……アバウトだなお前。おっさんの名前は遠藤幸一えんどうこういち。踏切の辺りで暮らしてるよ」

 そう言う。駅と駅の間、家賃ゼロ円の雨ざらしに住む幽霊だ。


「幸一か……なんか嫌らしい名前やなあ」

「どこかだよ」

 相変わらず思ったことをはっきり言う奴だと思って俺は苦笑すると、楓はそのまま言葉を続ける。

「うち、“幸せ”って言葉嫌いやわ。意味ないやん、幸せになっても」

「そんなこと言うなよ。俺は『幸せになりますように』って名付けられたんだから」

 幸福を疑う楓は言う。


「だって目に見えんから在るかどうかも分からんし、勘違いかもしれんし、そもそも死んだら終わりやん」


「そうかもしれないけど、だからこそ大事なんじゃないのか?」

「どういうこと?」


「死んだら終わりだから、“今”を精一杯生きて、幸せを感じられるように頑張るのが大事なんじゃないか?」

 と言葉が口をついて出てきたが、これは俺が命を失ってから思ったことだ。霊となって、踏切周辺の出来事を眺めるだけの存在となって、はて今までの“生”とは何だったのかということを考えてみて、死んでしまった俺に最も欠けてしまったのは精一杯生きることだと思ったのだった。それが生と死を隔てるものについての最も腑に落ちた考えだった。


「だけど肉体が在る限りは、心は死んだように見えても死んでないんだよな。生きる目標を足で探せるわけだから」

 そんなこともうそぶく。

「いーみー分からーん」

 楓は『いーっ』と口を歪めた。彼女は賢いけれど、こういう話は抽象的すぎていけないのかもしれない。

「いやおっさんが言ってることなんとなく分かるけどな、分かるけど、分かっちゃいけない気がする」

「なんでさ」

「それが分からん。子どもだから?」

「お前は……本当に子どもっぽくないけどな。ま、これから人生長いんだ。そんなこと考えなくても大丈夫さ」

「分かったようなこと言うなや……早死したくせに」

 色々言ったが、たったいま彼女が『分かっちゃいけない気がする』と直感で選んだ道は『明るい道』だと思った。俺の話はいつか万が一、暗い道の中、生きると死ぬの間で迷子になったときに、分かればいい話だと、そう思う。


 俺と楓は賽銭箱の上に座って境内を見下ろしていた。陽が少しずつ傾いてきていた。

「ホントのとこ、おっさんは何で死んだん?」

 楓は聴きたそうにしている。

「いや、面白い話じゃないぞ? いや事故に面白いもクソも無いけど……ただの踏切事故だよ。靴紐が線路に引っかかって転んじまったんだ」


 またもや楓に馬鹿を見るような顔をされた。


「はぁ? んで列車に轢かれたんかい。靴脱げば良かったやん」

「昔っから貧血気味でさ、転んだときに気を失っちゃったみたいなんだよな」

「ふーん。ご愁傷様やな」

「……お前妙に語彙力あるよなあ」

「そうか? 最近覚えただけやで。で、死ぬ前は何してたん?」


「ん、浪人生活してた。医学部志望で、四年目こそ受かる筈だったのになあ」

「医者になりたかったんか。まーおっさんアホやしな、結局その年も駄目だったんとちゃうん?」

「言いやがって。それも今となっては分からないよ。先の結果がどうなるのかなんて分からない。それこそ事故の日も、その日死ぬとは思ってもいなかった」

「……ひょっとしておっさん、医者になれんかったのが悔しくて成仏できひんのか?」


 楓は首を傾げた。

「なんだよ、心配してくれるのか? 違うと思うよ……多分。考えてみたけれど、悔しくはない。もういいんだ。死んじまったら、もうどうしようもないことさ」

「人はそれを未練と言います」

「てめー」


 楓は未練を俺の存在理由に上げたけれど、実際のところどうなのだろう。思い当たらない。確かに俺はもはや医者になることはできないけれど、夢半ばではあったけれど、今はそのことが悔しいわけではないし、勉強だって当時は精一杯やっていた。やり切った筈だ。だから今更……何を今更。


「ふー」


 俺は息を吐いた。たっぷりある時間の中で散々考えたことだ、これ以上煮詰めても仕方ない。今更悩む必要もないだろう。俺はもはやあの空に浮かぶひつじ雲みたいなもので、何も考えず、ただ漂っていればいいのだ。


「おっさん?」

「いや、なんでもないよ。っていうかお前があまりにおっさんおっさん言うせいで、ほんとにおっさんっぽく物思いに耽ってしまったじゃないか」

「いや、それはほんとに知らんて……」


 ふと、楓の手を見た。指には絆創膏が貼ってある。それだけなら気にしなかったろうが、腕が異様に細いことも相まって細枝のようだと思った。よく見たら彼女は、ガリガリに痩せている。


「なあ、お前ちゃんと家で飯食ってるのか?」

 それは楓にとっては意外な質問だったらしく、きょとんとしてこちらを見た。


「あん? 普通に食っとるで。家にスルメの箱詰めがあっておやつはそれ食えるし、料理は本読んで覚えたし。まだ偶に包丁で手ぇ切ったりするけどな」

 彼女は言う。またしても平然と。


「まさか、お前が自炊してるのか? ……親の代わりに?」


 『親の手伝い』と言わなかったのは何故だろう。俺は咄嗟に嫌な想像をしていたのだ。この子の母親に限って、“育児放棄”というイメージが浮かんでいた。薄暗い台所で、自分自身や親のために料理をする楓。そんな想像をしてしまったのは、楓の手の絆創膏が不吉に赤く滲んでいたからか。楓がほとんど笑わない子だからか。

 俺のそんな妄想を補強するみたいに、楓は言葉を継いでしまった。

「まぁ、うちのおかんほんとに何もできへんからな。すぐ部屋も汚すし、掃除も大変や」


――うっそだろう……本当に家事を親の代わりに……?


「お、おい楓……。お前の母親は普段何をしているんだ……?」


 当然の疑問を口にする俺の声は少し震えていた。何もかもが何でもないことのように思っている楓が普通じゃないと思ったから。何もかもが当たり前のように存在しない俺を受け入れた彼女が恐ろしく見えたから。

 楓は仮面のような、心がここに無いような微笑みを浮かべる。


「なぁんも。『かみさま』に近づくためには、家の仕事をしたらいかんのやって。だからおかん、テレビ見て、ゲームして、家に来る信仰者と話して、高い買い物して、あとは毎日仕事のつもりでお祈りしてるで、『かみさま』に向かって」


 頭がくらくらした。


 彼女の母親は新興宗教に嵌っている。先ほどの会話でそのことを知ったとき、俺はもっと深刻に受け止めるべきだったのだ。


 小学生が、こんな子供が、親を養わなければいけないような生活をしている。彼女と同じ年の頃、俺は一体何を考えて生きていただろうか? 自分が彼女の立場となっていたことを考えるだけでぞっとした。楓は今すぐにでも保護されるべき子供だったのだ。


 ………いや。まだ何かが引っかかる。この子の不幸はきっとそれだけじゃないと、俺の胸を早鐘のように打つ嫌な予感がそう告げる。俺は楓との会話を遡って考えていた。ちらつく不吉な影は黒猫の入った丸い壺を覆っていた。《喪服》。


『その壺に掛けてあった服は?』

『ああ、それもおかんのやつや。壺の覆いに丁度良かったから』


 ……果たして、覆いに丁度良い布が“喪服”なんてことがあるだろうか。喪服は通常、箪笥やクローゼットの奥に仕舞うものではないのか。それは人の死を連想させるから、嫌なことを思い出さないように、目に付かないところに仕舞うものではないのか。


 楓が家を出るときに丁度良く手に取れるところに喪服はあったのだ。それは、ごく近い日に楓の母親が着て、出しっぱなしにしていたことを意味する。


 つまり最近、葬式か法要があったのだ。それは誰の? それより先の想像は、自然と口をついていた。


「楓、お前の父親ってもしかして……」

「おとん? ああ、去年に病気で死んだで」

 またしてもあっさりと彼女は言う。

「おっさんと同じや。そうか、なら霊になったおとんにもまた会えるかもしれんな」

「楓!」


 俺は怒鳴っていた。頭の奥が痺れる。かつてこんな風に子供を大声を上げたことはない――


「お前の家は普通じゃない! お前の母親も、お前も! お前だって本当は気付いている筈だ……。だって、どう考えたっておかしいだろ!?」

 俺は感情をただぶつけているだけなのだろうか。彼女に向かって、強い言葉ばかりが出てくる。


「おっさん……急にでかい声出すなや………」

 心底面倒くさそうに、しかも不快げに目を逸らした楓に構わず、俺は言う。


「お前なら、周りの同級生を見るたびに分かったはずだ! 自分の家はおかしいかもしれない、普通じゃないって! 自分の声を無視するなよ、なあ!」

「なぁ、おっさんに何が分かんねん………そんなん分かってんねん……」


 俺は立ち上がって、楓の肩に手を掛けようとすると手が半分以上彼女の肩に埋まってしまう。もどかしい。そのまま力を入れると、俺の身体はすり抜けることになる。

「いいかよく聞け楓。お前がしているのは普通の生活じゃない。現実を見ろよ! マトモな生活じゃないんだ!」

「マトモって何やねん!?」

 ついに楓は怒鳴った。立ち上がって、今にも殴りかかってきそうな形相で。俺に額をぶつけるほどに顔を寄せた。


「普通って何や! 答えられるかおっさん、言ってみい。誰かて五十歩百歩やろ? うちより不幸なヤツ世界中にいっぱい居るやろ!? 貧しい国で食えるもんがなくて病気で死んでる人間とか、戦争で殺される人間よりマシやろ!? 人を指ささんと幸せって測れんやろ!?」


 楓は真っ赤になって叫ぶ。


「現実って何やねん! うちかて現実見ようと努力しとるわ! でも見たって見んかって結局何も変わらんやん! どっちにしろおとんは癌で死んだで!? 幸福って何やねん! そんなん求めるから不幸になるんやろ!? うちのおかんなんて悲惨やん! でもそんなの特別なことでもない! だから幸福とか不幸とかに意味なんて無い筈やろ!?」


――俺が子供の頃。世の中の理不尽や自分が犯した失敗に直面したとき、俺はとにかく誰かのせいにしていた。自分自身と向き合って、楓みたいに、すぐに答えの出ない問いを延々と考えこんだりしなかった。

「うるせえええ! 子どもが理屈こねてんじゃねえ!」

「逆ギレ!? ガキかおっさん!」

 その意味で俺は卑怯者だ。向き合うべきことから逃げてきた俺はいま彼女の前に立つ資格なんてないのだろう。しかし彼女のことを心底から偉いと思っている。そして彼女の閉塞した世界を変えてやりたいと思う。思うのだが、口をついて出るのはどうしようもなく情けない呻きに過ぎなかった。


「俺はただお前を………可哀想なお前を救ってやりたいだけなんだよ……」


 俺が人生を通して自分自身から逃げずに向き合い続けていたら、ここで起死回生の一手を思いつけただろうか。きっといま楓より俺の方が顔が真っ赤で、とことん無様な醜態を晒しているはずだ。そんな自覚をしている場合ではないのだが、やはり何も思いつけない無力さに歯噛みする。全く、なんてことだ。初めて会ったときからそうだったが、楓を見ていると胸が痛いのだ。

 そんな俺の姿を見て、楓のほうが、肩から力が抜けていったようだった。


「はあ……あー、あほくさ。なんかちょっと涙出てきた。おっさん凄いあほみたいな顔してるもん。あかんな。泣いたらあかん」

 楓は目元を腕で拭って悔しそうに言った。彼女にとって、涙は我慢するものなのだ。泣くことで気持ちが晴れたところで、問題は解決しないと考える、自分に誤魔化されていると考える子なのだ。


「泣けよ。泣いたっていいんだよ。お前は子どもなんだから」

 楓は鼻をすすった。

「子どもとか、可哀想とか言うなや……子ども扱いすんなや」

「子どもなんだよ……お前はまだまだ。んで、大人の俺から一つ教えてやる。涙は我慢するもんじゃないんだ」


 楓はまた賽銭箱の上に腰をかけて、俯く。

「なら、ちょっとだけ泣いてもええ?」

「いいよ。好きなだけ泣け」

「グスッ……」


 そうやって少しずつ、確かめるようにさめざめと泣き始めた楓の隣に、また俺も座り直す。

 いつの間にか空は茜色に鮮やかに染まっていた。ぽつぽつとした高積雲が美しく千切れては散っている。


「いつの間にか綺麗な夕焼けになってるな」

「ん………ああ、ほんどやな……」

「綺麗だな」

「うん」

「本当に、俺たちのちっぽけな悩みとか、色んな悲しみを吸い込んでくれそうじゃないか? 楓、あの空に吸い込んでもらうみたいに、思いっきり泣いてみろよ」


 楓は頷いた。それから――

「う、ん…………っ……あ、………ああ………わああああああ――――」


 夕焼けに向かって楓は泣いた。ようやく泣くことができたのだろう。彼女の横顔を見ながら俺は、なんとなく、自分の役目を果たしたような気がしていた。


    ◇


 「もう帰らなあかん」と彼女が言うので、俺たちはあの踏切まで歩いて戻ってきた。夕暮れとは門限を告げるもので、夕焼けがもの寂しく見えるのは子供の頃の帰り道が思い起こされるからかもしれない。そんな適当なことを考えていた。


「おっさん、あの花って誰が入れ替えてるん?」

 踏切の下の花束を楓は指さしている。それは事故に遭った俺のための献花だ。

「ああ、俺の母親が毎週替えてくれてる。仕事が忙しいときだってあるし、もういいのに」

 本当は忘れていってくれるのが一番いいのだ。そう思う。


 楓は俺の表情を見上げていた。

「花、うちもたまに替えに来ていい?」

「え、も、もちろん」

 そうして楓は目の前に出てくるりと振り返った。

「そんな寂しそうな顔せんくても、ちゃんと会いに来たるって」

 

 不意打ちで見せる楓の優しさに俺は少し泣きそうになってしまった。ひょっとしたら、この子に会うために俺はこの世に残っていたのかもしれないな、と。楓が来てくれることで俺の母親の負担も減ってくれるなら嬉しい。花屋の経営を一人でこなすのだって手が回らないはずだ。


 目の前で警報機が鳴る。遮断機が降りる。

 楓と俺は大声で馬鹿話を続けていた。また明日も来るかもしれん、と楓が言った。

 その時、踏切の対岸に、見知らぬ中年女性の姿が浮かんでいた。夕陽の強い逆光に炙られて、顔はよく見えない。

「おかん………」

 楓が呟いた。

「楓ェ! やっと見つけた。何してんねん早く帰ってきぃ!」

 その人はそう怒鳴った。あれが楓の母親。俺は自分の目を疑った。


 その人は降りきった遮断機を手で持ち上げて、線路の中に踏み入ってきたのだ。


「なっ、」俺は驚愕して声を失う。


「はよ飯作れって楓ェ。わたし腹減ったわあ」


 その人は苛立ちながら、警音器の鳴り響く踏切を突っ切ってくる。のろのろと、楓の方に向かってくる。


「な……何してんねん! このアホンダラァ!」


 楓は母親に向かって怒鳴っていた。俺は彼女の母親を初めて見て、驚愕してしまった。警報機が鳴り響く線路の中に、当たり前のように踏み込んできているのだ。あの人には常識が全く抜け落ちている。この異常事態を、何も気にしない風に歩いてきている姿が想像を超えていた。


 いくら何でも、もっとマトモだと思っていたのだ。


「楓ェ、帰ってこいってェ」

「はよ戻れ! 入ったらあかんってアンタの頭でも分かるやろ! 踏切鳴っとるやん! なんでそんなことも分からんの!」


 楓は叫ぶ。カーンカーンカーン、と警報が鳴る。楓の母親はぶつぶつと口の中で何か文句を呟きながら近づいてくる。この人が一体何を考えているのか、俺には全く分からない。誰にも理解できない奇行が繰り広げられている。


「戻れ! はよ戻れや!」


 楓が叫んでも、その人は止まらない。

「戻れって………何してんねんほんま……いつもいつもさぁ――」


「楓! 非常停止ボタンを押せ! まだ間に合う!」


 咄嗟に俺は楓に言った。俺では押すことができないからだ。しかし楓は俺の声が聴こえていないように、ぼーっと遠くを見つめていた。


「ああ、嫌や……」


 楓は放心したように、そのまま地面に膝をついてしまった。西日に染まった踏切を母親が渡っている。その影を前にして楓は腰が抜けている。


「嫌や………うちもう嫌や、こんなん嫌や………」


 ついに楓は自分の髪を掻きむしり始めた。しばらくそうし続けて、それから、疲れて放心したようにゆっくりと頭を上げた。彼女の瞳には、警報機と、線路と、遮断機と、踏切の中にいる母親が焼けつくような一枚の夕景のように写っている。


「嫌や……誰か助けて………なぁ『かみさま』、これがお前の望んだことなんか? なあ……」

「…………」


 俺は黙って楓の前に覆い被さっていた。彼女はもう何も見なくていい。これ以上現実を見なくていい。

 今まで散々なことに耐え続けてきただろう楓は、これ以上現実を見たら今度こそ壊れてしまうと思った。俺にできることなんて、それでも現実を見続けてしまう彼女の前に立ちはだかって覆いになってやることくらい。


「お、おっさん、足――」


 楓が俺の足元を指して狼狽えている。見ると、自分のつま先が透明になり、掠れて消え始めていた。見る見るうちに俺は足先から消えてゆく。クソッ、どうして“今”なんだ……? 膝から下が既に消えて無くなってしまった。

「おっさん……!」


 楓は泣きそうになって俺を見上げる。実体のない俺は、もともとこの世にいてはならない存在だけれど、消えるのは全く今じゃなくてもいいじゃないか。


「泣くなよ、楓。泣いちゃだめだ」

 先ほど神社で話したこととは真逆の言葉を俺は言っている。混乱させてしまうだろうか。だが今は負けちゃいけない場面だ、分かるよな?

「無茶苦茶言うなよ……おっさんが居なくなったら誰も居なくなってしまうやんか!」

 楓が叫ぶ。大丈夫だ、と言ってやるが、実のところ俺も不安だ。楓を残して、消えてゆかなければならないのだろうか。最後まで楓の覆いになってやれるのか。震えを肩で押さえこもうとして、舌の根が合わない。歯が鳴りそうだ。


 俺の背後で楓の母親が喚いているのが聞こえてくる。楓が話を聞かないのを見て、踏切の中央で一歩も動かない腹積もりらしい。


 俺は願っていた。

 どうかこのまま死んでくれないか――


 俺の手が、指先から消えようとしていた。このまま終わってなるものか、と思う。ただじっと耐えるだけじゃない、まだ出来ることはたくさんある。俺は思いを叫ぶことができる。

「いいか楓! 俺はお前に言いたいことがたくさんあるぞ! 伝えたいことがたくさんある! 俺はもう死んじまったけど、お前は生きて世界中を見て回ることができる! “生きた勉強”ができるんだ! 世の中はもっと面白いってこと、知ってくれよ! お前が思っているよりずっとずっと――――」


 視界の端から流星がやってきて、あっという間に騒音が大気を埋めた。貨物列車がやってきたのだ。吹き抜ける音の圧力で、俺の声は馬鹿みたいに、塵芥同然にかき消されてしまった。

――待ってくれ! まだあるぞ、言いたいこと、伝えたいこと! 

 既に胸部まで、俺の体は消えてしまった。消失の手が首を締めているのが分かる。きっとあと一言しか言うことはできないだろう。それも騒音に掻き消されて楓に届きはしないのか?

――俺にはもう、“言葉”しか残っていないのに!?


『楓! 俺の分も精一杯生きて幸せになってくれ!』


 列車が通過しきった後、「眼」だけになった俺に、楓は顔を向けた。泣き腫らした目に、どこか吹っ切れたような笑い顔があった。


『……任しとき。おっさんの分も、全力で幸せになったるわ』


 警報機が止まって、遮断器が重たい夏の空気を持ち上げる。

 踏切の中では、楓の母親が、列車の通過しなかった側の線路で座り込んでいるのが見えた。列車の音に驚いて後ずさったせいで、勝手に助かったのだ。とにかく、誰も死ぬことは無かったらしい。


 さらに遠くの方では、異変に気づいた近所の婦人が、踏切で向かい合っている楓と楓の母親の姿に驚いていた。あの人には見覚えがある。俺の母親がやっている花屋のお得意様で、良識的な人だ。彼女が楓の元に慌てて駆け寄ってくる。事情を必死に把握しようと、何事かを尋ねようと混乱しながらも、楓を助けてくれようとしている。彼女になら、後を任せても大丈夫かもしれない。


 というところで、どうやら俺の精神活動はここまでみたいだ。


 願わくば。

 楓のこれからの生が祝福されますように。

 俺は去り際に誰に対してでもなく、そう祈った。


 鉄の花は今では鳴り響くこともなく、静かに咲いている。








    エピローグ


 鉄の花は静かに咲いていた。

 赤々とした果実だけが喧しく主張する。

 その実が落ちた時だけ、俺たちはその下を走り抜けることができる。

 俺たちは果実に追われている。

 Clang-clang-clang.


「ん、何か違うな。っていうか全然違うな……」


 高校の同級生と結成したスリーピースバンド『ホムンクルス・アンド・シャープペンシル(通称ホムペン)』が解散した。東京進出をしてこれからだという時期で、活動期間は十年にも満たなかった。解散の理由は非常にめでたい話である。ドラムの阿白(あしろ)幹之(もとゆき)とベースの冬音(ふゆね)美咲(みさき)の結婚だ。


 そしてボーカルギターだった俺、袴屋(はかまや)浅葱(あさぎ)は親友二人の結婚式会場に向かって、とぼとぼと地元の道を歩いていた。その心情は複雑で、とても一言で語りきれるものではない。二人の幸福を喜びつつも、これから先の音楽活動を一人でやっていく未来を憂う。ポケットの内側で東京行きの帰りの切符が握られすぎて汗で湿っている。特急券は気づいたら失くなっていたのである。


 その道すがらに一人の女性に出会った。


 その人は、踏切の献花を新しいものに入れ替えていた。その手に寄せているのは小ぶりのカーネーションだ。俺がその姿をじっと見ていると、彼女は振り返る。思わず息を呑んだのは、彼女がまるで天使のようだったから―――

「おうコラ何見てんねんアーン?」

「口悪いな!」

 中身は関西弁のおっさんだった彼女に向かって俺は思わず突っ込んでしまった。


 長い黒髪を綺麗に下ろしている彼女は、眉根を寄せて俺を見上げる。

「兄ちゃんお前もあれか? 事故現場への献花は単なる近所迷惑だって言いにきたんか? 市役所からは一応許可もらっとるし……ええねん、マジで地縛霊やったんやから」

「へ?」最後の部分は独り言のようだったためうまく聞き取れなかった。

「あ、ああ苦情じゃなかったか。忘れてな、こっちの話や」


 そうして花瓶の水を替える作業に戻る素振りが、どこか引け目を感じているように見えたのが気になった。

「ここで定期的に花を替えられてるんですか?」

「そうやけど」

「いつ頃から?」

「もうそろそろ十年になるかなあ。だからちょうど、もうええよなって思ってたところや。花を挿しにくるのも今日でおしまい」

 そう言って寂しげに笑う彼女の横顔に、何故かずきりと胸の内側が痛んだ。ここで亡くなった人は彼女に(ちか)しい人だったのだろうか。十年。長い年月をかけて、花を換え続ける行為を想像する。


「あ、あの!」

「あん?」

「良かったら、そのお話を聞かせてもらってもいいですか?」


 気付いたら言葉が口をついて出てしまっていた。俺は何を言っているのだろうと、自分でも思う。心臓がドクドクと鳴っていた。

 当然、彼女は話の意図を掴めず困ったようにしている。詮索者に対して冷ややかな目線を返す。

「話って、十年前の事故のこと? そんなん聞いてどうすんの」

「いえ、ここで亡くなった人とあなたの話というか、エピソードというか」

「はあ」

「いや突然で、迷惑ですよね……忘れてください」


 俺は言うだけ言って頭が真っ白になってしまった。先のことを考えず、思ったことを口にしてしまう悪い癖だ。そのとき思ったことを伝えられなくて後から後悔することが、何より怖いのだ。今を逃したら多分この人に二度と会えないのは間違いないから。

 彼女は強い瞳をしていた。

「うん。それに、無理や。言っても信じられんような事やし、頭がおかしいと思われるのが関の山やからな」


 意外な反応が返ってくる。どういうことだろうか。


「多分、思わないと思いますよ、頭がおかしいなんて」


 正直言って、十中八九断られると思っている。依然うさん臭い俺を足元から睨めるように見て、彼女はバサバサと長い黒髪をかき上げる。


「最近のナンパの手口は繊細になったもんやな……で、ちょっとそこでお茶でもってかい」

「いえ、これから友人の結婚式なので」

「なんでやねん……!」


 揚げ足を取ろうとして出鼻をくじかれた形で、彼女はノリよくずっこけた。


「話してもええけどな、普通に聞いて分かる話でもないからな?」

 

「俺のことがまともな人間に見えるんですか?」


 そのとき警報機が鳴った。


「また明日同じ時間にここに来ますから!」


 降りようとする遮断器の下を俺は駆けていった。


    ◇


 けったいな男が現れたと思った。


 昨日出会った男と喫茶店で話をしている。この店は夜にはミュージックバーになるらしく、店内には小規模な演奏台があり壁には楽器の類が立掛けてあるが、昼間の今はがらんとしていて薄暗い。


 しかし不思議と気持ちが落ち着く穏やかさがある。


「そうか……大変だったんだね」


 私の話に相槌が返ってくる。

 結局、十年前にあった『おっさん』と私とのことは話せなかった。その思い出は自分の中に仕舞って墓まで持ってゆくことにすると昨日の夜に決めた。その代わり何故か自分の近況を目の前の男に語っていた。


 数年前に母親が脳卒中で死んだこと。私はというと高校時代から二十歳まで花屋で働いて学費を稼いでいて、来月から上京して大学に通うつもりだということ。ちなみにその花屋は、おっさんこと遠藤幸一の母親が経営している店である。献花をしてもいいかと訪ねたとき以来の付き合いで、本当にずいぶん良くしてもらっている。彼女にだけは、おっさんとの話を喋った。


 とはいえ昨日会った程度の相手に身の上話をしてしまう自分に驚いている。


「門出を祝って、楓さんに歌を歌わせてほしい」


 目の前の男、袴屋浅葱は言う。バンドマンなのだそうだ。歳も聞いた。偶然にも生きていればおっさんと同じ年齢であるらしいこの男は、雰囲気もどこかあの人に似ている。だからだろうか、自分の話をしてしまったのは。


 彼はギターを取り出して念入りに調弦をしている。音楽には全く明るくないので、どんな反応をして良いのか全くわからないぞと肩に力が入ってしまう。あかん、ガチガチに緊張してまってる……。


 いきなり弾きだしたので思わず彼の顔を見てしまった。少し笑っている。軽快なリズム。背筋が伸びるような洗練された演奏なのに、笑ってもいいような、泣いてもいいような、自然なくつろぎがある。少しずつ肩の力を抜いていける。不思議だ、気づいたら音に合わせて体を揺すっている。


「曲名は――」


 彼は言う。そして当たり前のように、始めからそこにあったかのように、歌い出しから歌い始める。


『グッドラック』



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ