魔法と痛み
魔法学校の少し広めの廊下を、あんずは全力疾走していた。憧れの、ソテロ先輩に会うために。道行く魔法少女見習いたちのローブが、彼女の起こす風圧ではためいていく。それは日常の光景だったので、誰も気にはしていなかった。
「先輩、マジカル焼きそばパン、買ってきました!」
がらりとあんずが開け放つのは、生徒会室と書かれたプレートのある部屋だ。部屋の内部には豪奢な絨毯が敷いてあり、両脇に置かれた棚には数多くのマジックアイテムが飾られている。
「ご苦労様、あんずちゃん」
部屋の最奥、黒檀の机のほうから、声がかかった。黒い革張りのいかにも高級な椅子に腰かける、優美な金髪の青年がにこりと笑う。
「扉はもっと静かに開けろ、あんず」
金髪の青年の傍らに立つ、黒衣の青年が冷たく言った。
「せっかくの熱々マジカル焼きそばパンが、冷めちゃったらどうするのよ、リゾット!」
あんずが黒衣の青年に噛みつくように言って、それから金髪の青年に笑顔を向けた。
「どうぞ、ソテロ先輩!」
言って突き出すのは、くだんのパンである。七色の焼きそばを、白銀のパンで挟んだ逸品だった。
「ありがとう、あんずちゃん」
あんずに笑顔を向けて、ソテロはパンを受け取る。ビニールの包装を破ってかじり始めたソテロに、リゾットはうろんな目を向ける。
「……よく、そんなもの食えるな」
「案外、美味しいんだよ。それに」
ソテロはパンを頬張りながら、あんずに優しく微笑みかける。
「可愛い後輩が、せっかく買ってきてくれたんだから」
「せ、せんぱい……私、もう、死んでもいい……」
感涙を浮かべながら、あんずは幸福の文言を口走った。リゾットが苦い表情を浮かべ、息を吐いた。
「お前は、どうしてそうアレなんだ……」
ぼやくように言うリゾットの横で、ソテロがパンを飲み込んだ。机の上に置かれていたティーカップを持ち上げ、優雅に紅茶をひとすすり。
「どうやら、あんずちゃんの準備もできてるみたいだね、リゾット」
ソテロの切れ長の眼が、あんずを射抜くように見つめる。
「ソテロ、こいつの死んでもいいっていうのはだな、心構えというか、何というか……あんず、お前も軽々しくそんなことを口にするんじゃない」
「軽々しくないよ、リゾット! 私、本当にソテロ先輩のためなら」
「わかった。お前のやる気はよおくわかる。だが、ひとつだけ言っとくぞ」
びしり、とリゾットがあんずを指差し言った。
「俺も、先輩だ。呼び捨てにするんじゃない」
「リゾットは、リゾットだよ。ね、先輩?」
「うん。リゾットは、リゾットだね、あんずちゃん」
微笑みを交わしあう二人を、リゾットは苦い顔で見つめる。
「……もういい。それじゃ、行くぞ」
何かを諦めたリゾットは、机の上に魔法陣を描き始めた。
「転移用? どこか行くの、リゾット?」
首をかしげるあんずに、答えるのはソテロだ。
「行けばわかるよ、あんずちゃん。僕のために、死んでくれるんだよね?」
平然と物騒なことを言うソテロに、あんずが返すのは力強いうなずきである。
「はい! 私、先輩のために、頑張ります!」
「まったく……本当に死なないように、気をつけろよ」
魔法陣を描き終えたリゾットが、あんずとソテロに防御用の魔法をかけた。
「耐熱結界が三枚に、物理のやつは……二枚でいいか。あとは根性だな」
防御魔法を身に受けたあんずは、リゾットの描いた魔法陣の上に立った。
「いつでもいいよ、リゾット!」
あんずの動きに合わせて、リゾットが魔力を魔法陣に流し込んだ。魔法陣が輝き、あんずの視界が歪む。転移魔法は、作動した。
くらりとめまいを覚えて、あんずはふらついた。転移による酔いである。ふらふらと千鳥足になったあんずは、両手を振ってバランスを保とうとする。その手が、硬い何かに触れた。
「熱いっ……!」
じゅう、と手のひらから音が鳴った。右掌が、焦げて炭化している。触れたものに視線を向ける。そこに鎮座していたのは、赤く巨大な竜の顔面だった。
「グオオオオオ!」
竜が大きく口を開けて、強烈な炎を吐き出した。両手で顔をかばったものの、熱波と衝撃があんずを強く打ち据える。吹き飛ばされたあんずの前面は、こんがりと焼けて灰になりかけていた。
「氷の剣よ! はああ、冷凍剣!」
さらにあんずへ放たれた、とどめのブレスが二つに割れる。氷の剣を手にしたリゾットが、赤い竜と対峙していた。
「ソテロ、治癒だ! こんがり焼けてる!」
「今日は火傷だね。ケア・ライト!」
炭化して倒れていたあんずを光が包み込み、たちまち肉体の再生が完了する。その間に、リゾットが剣を大上段に振りかぶり大きく跳んだ。
「あ、先輩……おはようございます!」
「おはよう、あんずちゃん。とりあえず、コレ、羽織りなよ」
元気よく跳ね起きて、あんずがソテロに挨拶をする。ソテロは、あんずの焦げた服の上からローブをかける。その動作が終わると同時に、リゾットが竜に背を向けて着地した。
「……終わったぞ、お前ら」
つまらなそうに言うリゾットの手には、血を滴らせる竜の心臓があった。
「先輩……ああ、先輩のローブだ」
「あんずちゃんは、可愛いね」
ローブの袖に鼻先を当てて、くんくんと鼻を鳴らすあんず。その様子を微笑んで眺めながら、あんずの頭を撫でるソテロ。リゾットの心の中に、やるせない気持ちが広がっていく。
「とっとと帰るぞ」
ぼそりと言って、転移魔法陣を逆稼働させる。和やかな空気の二人と、リゾットの姿が掻き消えた。
生徒会室に戻ってきて、あんずはレポート用紙にペンを走らせていく。
「あんずちゃん、どんな風に痛かったか、ちゃんと書くんだよ」
ソテロは慈愛のまなざしで、見守りつつ言った。
「はい! 今日は、とても熱かったです、先輩!」
元気よく言って、あんずは微笑んだ。リゾットは半目を作って、あんずとソテロを交互に見つめる。
「本当、いい趣味してるよ、ソテロは」
「とうとうリゾットにも、僕の趣味が理解できるようになったのかい?」
嬉しそうに目を輝かせるソテロに、リゾットは首を横へ振る。
「皮肉だよ。俺にはたぶん、一生理解できないね」
「残念だね、リゾット」
「大丈夫です、先輩!」
肩を落とすソテロを見上げ、あんずが言う。
「私は、先輩の趣味も、何でも愛してますから!」
「僕も大好きだよ、あんずちゃん」
ソテロはあんずを見下ろして、頭を撫でる。ソテロのそのしぐさが、自宅のペットにするそれと同様だということは、リゾットからはとても口にできないことだった。
「それより、どう熱かったのか、腕が吹き飛んだとき、どんな感じだったか……もう少し、詳しく書いてね」
「はい、先輩!」
元気よくうなずいて、あんずは再びペンを動かしていく。リゾットは大きく息を吐いて、窓の外へ視線をやった。
「神様、どうか、あんずまでイカレタ趣味に目覚めませんように……」
二人に聞こえないよう、そっと呟くリゾットであった。