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狼の翼  作者: 如月真弘
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SCENE‐5 狼は目覚める the pride as Wolfs Flügel


白い。

天井も壁も床も、何もかもが白い。

ここでは、まるで他の色が存在を許されていないかのように、ただ蛍光色の白だけが、視界を埋め尽くしていた。

もうずっと前から、目を開けていることが苦痛だった。

それなのに、瞬き一つできない。

手も動かない。

足も動かない。

そして胸は――ああ、なんということだろう――胸には、大きな空洞がぽっかりと空いていた。

もう何年、何日、何時間、こうやって動けないまま、穴を開けられ、無数のケーブルに繋がれて、この部屋に閉じ込められているんだろう。

「残念なことだ、重力制御能力が無いとは」

「アルファと同じように翼があるというのに」

冷たい靴音とともに、白衣を着た数人が私の前に立つ。

何を話しているのだろう。

意識が混濁して、もうよくわからない。

「もはや、研究する価値は無いな」

「では、予定通り軍に・・・・・・」

「どうかな。空が飛べない上に、あらゆる点でスペックが劣っている。所詮はエンジェル・アルファの劣化版ということだ」

「唯一興味深いのがオプション装備の『音響兵器』だが・・・・・・」

「だがそれも試作段階で終戦を迎えてしまったせいで、特殊な環境を整えなければ十分に威力を発揮できない。兵器としてはあまりに不安定だ。実戦では使えんな」

「全く、芸術的なまでに強力なアルファとは、雲泥の差だ」

――アルファ。

「そのエンジェル・アルファだが、CIAが制御に成功したそうだ」

「馬鹿な! ファーストの制御にどれだけのリスクが伴うか・・・まさかヴォルフ博士が?」

「ありえん。ヴォルフ博士は死んだんだぞ!」

「いや、終戦時には図面だけだったはずの七号機を、ソ連が完成させたという噂もある。この分野の研究では大きく出遅れているからな、我々は」

「CIAは、対キューバ工作へのエンジェル・アルファの投入を検討しているそうだ。既にエンジェル・アルファを運用するための部隊まで密かに結成したとか」

「いまいましい! 本来ならばあれは我々の管理になるはずだったんだ!」

「アルファさえ手に入れば、こんな役立たずの二号機に頼る必要も・・・・・・」

――アルファ。アルファ。アルファ。

ここで何回、その名前を聞いただろう。

アルファとは一体何なのだろう。

・・・・・・私は一体何なのだろう。

「諸君、今は済んだことを言っても始まらない」

白衣の群れの後ろから、低いが、よく通る声。

「二日前、我が国の偵察機が東ドイツ上空を飛行する三号機を捉えた。・・・・・・これがその写真だ」

「三号機だと? 早過ぎるぞ!」

「ヴォルフ博士が遺した機体の中でも、実戦配備には最低で後十年はかかると言われていたのに・・・・・・!」

「恐らくは東ドイツにあった研究施設に試作品が残っていたのだろう。確認されたのは今のところ三号機だけだが、あの機体は単体での運用を前提としていない。連携して作戦ユニットを構成する四号機も、既に実戦配備の段階にあると予想される」

何を言っているのか、よくわからない。

「西側陣営が保有するヴォルフスフリューゲルの中で、現在安定した実戦運用が可能なのは残念ながら英国軍の持っている五号機だけだ。対して東側は独自に完成させたとされる幻の七号機に加え、これで新たに二機のヴォルフスフリューゲルを、鉄のカーテンに配備できることになる。これは我が合衆国にとって、スプートニクショックに続く手痛い敗北だ。この状況を変えられなければ遠くない将来、両陣営のパワーバランスは一変してしまう」

何を言っているのか、よくわからない。

わからないけれど。しかし。

「賭けてみるしかあるまい、このヴォルフスフリューゲル二号機、エンジェル・ベータに・・・・・・」

それでこの白だけの世界から、抜け出せるというのなら。







「アビアノ基地より緊急連絡! CIAの捕虜二名が脱走、ハーキュリーズが奪われたそうです!」

「今はそれどころじゃない! 残っている機を再編成して・・・・・・」

「駄目です! ゴルフフライトも全機シグナルロスト、全滅です!」

情報が錯綜し混乱する指揮車輌。

マリーは近くにあった衛星通信機の受話器を掴むと、専用の秘話回線のキーを叩いた。

数秒の後、通信はベアトリクスが直属する委員会の幹部につながった。

〈どうしたのかね?〉

電子的に加工された声。

「申し訳ありません、ミスター・マクスウェル。目標の抵抗が予想以上に激しく、部隊が甚大な被害を受けました。作戦の続行は困難です」

マリーは焦燥を抑え、つとめて冷静に報告した。

〈そうか、それは残念だったな〉

幹部のそっけない返事に、マリーは眉をひそめる。

「ベータ大佐が危険です。増援部隊の派遣を要請します」

〈いいや、その必要は無い〉

「・・・・・・なんですって?」

〈状況は、第三段階に移行したのだよ。君達の任務は、ここで終わりだ〉

「第三段階? し、しかしミスター・・・・・・」

〈ここからは、我々の仕事だ。ご苦労〉

一方的に通話は途絶した。

「ここは任せるぞ!」

参謀達を押しのけて、マリーは早足で出口へと向かう。

考えるより先に、身体が動いていた。

今、ベアトリクスを助けられるのは、自分しかいない。




同時刻、北半球の某所。

〈・・・・・・やはりアルファの真の力を引き出すには、空蝉の術では荷が重すぎたか〉

地の底かとさえ思える暗闇の中。

漆黒の円卓を、青白く光る十一のモニターが囲んでいた。

〈どうやらこの賭けは私の勝ちのようですね、ミスター・マクスウェル。お約束通り、凍結中の七号機拘束殻は我が国に〉

円卓を囲む『音声のみ』の一人が、どこか愉快げに言う。

ミスター・マクスウェルは肩をすくめてみせた。

「約束は守ろう、ミスター・シュレディンガー。しかし貴国は感心だな、カメラや自動車では飽き足らず、ヴォルフの人形まで模倣に挑戦とは」

〈恐縮です。我々はただ、神々の道を忠実に辿っているに過ぎませんが〉

ミスター・シュレディンガーと呼ばれた参加者の声は、子どもが大人をからかうようで、どこかこの場には場違いだった。

〈戯言は後にしたまえ〉

他の参加者の声が二人の会話に割り込む。

〈巫女の予言書に記された、『フィンブルの冬』まで間が無い。ここであの狼の翼の真贋を見極めておかねば、後の計画に重大な支障を来たすぞ〉

「わかっている・・・・・・」

ミスター・マクスウェルは、瞑想するかのように目を閉じた。

〈計画第三段階の実行を〉

オブジェのように並ぶ青白いモニターの声が和する。

しばしの沈黙の後、ミスター・マクスウェルは呟いた。

「急がねばなるまい。狼の覚醒をもって、人類は初めて真の救済を得るのだから」




アビアノ空軍基地、滑走路。

息を切らせて走ってきた第六六六特殊任務大隊配下の米兵達が、轟音を上げて離陸していくハーキュリーズ輸送機を見上げて舌打ちする。

「くそっ、間に合わなかったか」

「早く戦闘機を上げて追撃させろ!」

「急げ急げ!」

一人が米軍の格納庫へUターンしようとして、何かにぶつかって派手に転倒した。

「おっと、どこへお急ぎかなセニョール?」

恰幅の良い、いやはっきり言えばでっぷりと太った壮年のイタリア軍人が、そこに悠然と立っていた。

基地司令官のスカルポリーニ大佐だ。

その背後には武装したイタリア軍兵士の一個小隊がずらりと並んでいる。

「じゃ、邪魔だ! そこをどけ!」

若干うろたえながらも、米兵のリーダーが乱暴に怒鳴って先へ進もうとする。

スカルポリーニ大佐はさりげなく身体を右へスライドさせて行く手を阻んだ。

「だからどけと言っている! 英語がわからないのか?」

「どくのは構いませんがねえ、今日はもう飛行機の離陸はできませんよ」

たっぷりと口髭をたくわえた顔に愛想の良い笑みを浮かべたまま、基地司令官は告げる。

皮肉にも極めて流暢な英語だった。

「何?」

「お忘れですか? 我が国とあなた方の国との間に結ばれた協定で、あなた方がこの基地で一日に離陸できる回数は二十二回以内と決まっているんです。それでもって、今離陸していったあの輸送機で丁度二十二機目なんですよ。困りますなあ、ルールはしっかり守って頂かないと」

遠ざかっていくハーキュリーズを指差しながら、スカルポリーニ大佐は丁寧に説明した。

「それは平時の取り決めだろう! 今は非常時だ!」

「ほう、非常時? どこかで戦争でも始まったんですか? おかしいですなあ、そんな話、我々は全く聞いておりませんが」

「これは我が合衆国軍の機密に関わる問題だ、あんたが知る必要は無い!」

「そうですか、はっはっは、なるほど、おっしゃる通りですな。これは大変な失礼をしました。それでもってここは我がイタリア軍の滑走路ですので、どうかお引取り下さい。お急ぎでしたら、明日以降の待機リストにサインをお願いします」

慇懃無礼な返答に、米兵のリーダーは顔を真っ赤にした。

「・・・・・・いいかこの豚野郎。イタ公はイタ公らしく大人しくピザ食って寝てりゃいいんだよ。痛い目にあいたいのか?」

「ほほう・・・・・・」

スカルポリーニ大佐は笑いながら目を細めた。

「他人様の国に居候してる方とは思えないことをおっしゃいますなあ、セニョール」

「はあ? いきがるなよ。敗戦国の分際で、対等にでもなったつもりか?」

「・・・・・・ここは我々の土地です」

大佐の頬から笑みが消える。

同時に、背後のイタリア兵が一斉に銃を構えた。

「な、何の真似だ・・・・・・」

「黙れ! これは、イタリア共和国国民五七〇〇万人の名誉の問題だ! そんなに協定に反して離陸がしたいのなら、貴様等の国の大統領をまずここへ呼んでこんか!」

空気を震わせるほどの凄まじい一喝。

米兵達は、気圧されて思わず後退った。


憤怒の形相を保ちながら、スカルポリーニは空の上で小さな点になったハーキュリーズを視界の隅にとらえている。

(行きなさいアーレン。愛する女性を守るのは、この国では何よりも優先すべき行いですよ)

心の中で、スカルポリーニはそう呟いた。




「よく通してくれましたね、あの司令官」

「ロサリオ・スカルポリーニは俺の古い友人でね。彼がここの司令官をしていたのは幸運だったよ」

アドリア海上空。ロッキードC‐130Hハーキュリーズ、コックピット。

全幅四十・四一メートル、全長二十九・七九メートル、通常の作戦ならば九十名を超える兵員を輸送できる輸送機に乗っているのは、今はアーレン・スミスと大尉の二人だけだった。

「ひとつ訊いてもいいかい、大尉」

操縦桿を握る大尉に、アーレンは問いかける。

「は、何でしょう、ミスター・スミス」

計器類を注視したまま、大尉は応じた。

「軍人の君が何故、軍に背いてまで?」

エンジンの爆音と機体の軋む音だけがしばらく響く。

上昇を終え、追っ手が来ていないことを確認してから、大尉はまるで世間話を始めるような調子で口を開いた。

「私の親父は、ヴェトナム帰還兵だったんですよ。仕事に失敗し酒におぼれておふくろには愛想をつかされ逃げられて、それはもう典型的な駄目親父でした」

アーレンは黙って続きを待つ。

「親父が死ぬ前に、私によく聞かせてくれた話があります。一九六五年十一月、親父が所属していた四百人の空挺部隊が、ヴェトナム中央高地のイア・ドラン峡谷で北ヴェトナムの正規軍二千人に包囲された時のことです。

敵の猛攻を受け前線で孤立し諦めかけた時、突然空から黒い羽根のようなものが降り注いでヴェトナム軍を薙ぎ払い、親父は助かったんだそうです」

「・・・・・・そうだったのか」

アーレンは少し驚いた。

彼が第一三特殊作戦部隊群に配属されてから結構経つが、初めて聞く話だったからだ。

「一瞬の出来事で、ほとんどの兵士は数分遅れで到着した友軍機のナパーム弾投下の方に関心が移って、最初に起きたことを忘れてしまいました。熾烈な戦闘の最中ですからね。しかし親父は、自分達を救ったのは確かに黒い羽根のような何かだったと言っていました。私も、酒に酔った親父の与太話だと思って、その時は信じませんでしたが。親父はこうも言っていました、黒い羽根と一緒に、空から声が聞こえたそうです。若い女の声で、『せめて最後まで足掻いてみせなさい』、と」

「あいつらしいな」

アーレンは笑った。

大尉の父親の命を救ったのが誰なのか、考えるまでもなかった。

「・・・・・・別に親父の命を救ってくれたことを、恩義に感じているわけではないんです。戦争が終わって国に帰ってから、親父は平和な世の中で何をやっても上手くいかず、アルコール中毒とDVで家族から見放され、残りの半生を惨めに過ごし、誰からも悔やまれずに死にました。もしあそこで戦死していれば、親父はアーリントンに眠る英雄になれて本望だったでしょうし、おふくろはもっとましな男と結婚できたかもしれないし、私のようなひねくれ者がこの世に生まれることもなかったのですから」

どこか自嘲気味に、大尉は肩をすくめる。

「強いて言うなら、好奇心を抱きました。幾多の戦場に風のように現れ、人々の運命を変えて去って行く、そんな神話に登場するワルキューレ(戦乙女)のような存在の素顔を、この目で確かめたかった。そしてもし本当に、神話の神のような存在なら、世界の秩序に対して責任を持つ我々合衆国軍によって管理されてしかるべきだと考えていました」

「それで、どうだった? ハイディの素顔は」

アーレンが促す。

「はい、この任務についてから、ずっと考えていました。エンジェル・アルファ、アーデルハイトが・・・・・・彼女が一体何者なのかを。今でも理解できていないことの方が多いですし、確かにある部分では、彼女は人間とかけ離れた、恐ろしい存在でしょう。・・・・・・ですが、別の部分で、私は彼女の中に、人間と全く違わないものも見つけました。当初の予想に反して、彼女は運命を変えたりするような世界にとっての超越者ではなく、我々と同じ場所で戦っている、世界の一部だったんです。それに気付いた時から、軍人である私にとって、彼女はある部分では特別であり、ある部分では特別ではなくなった。そういう存在を、我々軍人は普通何と呼んでいるか、ご存知ですか?」

大尉は初めてアーレンの方に顔を向けて、にっこりと笑った。

「戦友、ですよ。だから行くんです。戦友を裏切るなんて、軍人としてあるまじき行為ですからね」

そう言って、再び計器に目を戻す。

アーレンは、大尉の言葉の意味を考えた。

戦友だから。

それが、大尉の出した答え。

では自分にとって、ハイディとは何だったのか。

不意にアーレンの脳裏に、昔ラングレーの一室で、ハイディと初めて対面した時の情景が浮かんだ。


「紹介しようアーデルハイト、この男が今日から『アーレン・スミス』の名を継ぐ者だ。君の身の回りの世話を担当することになる」

「初めまして、アーデルハイト。お会いできて光栄です」

「はぁ? このへなへなした若造が新しい担当官? 何よこれ、目障りだわ」


――初めて出会った頃の彼女、『高機動特装戦闘爆撃機エンジェル・アルファ』は、とにかく恐ろしくて、その目はぞっとするほど冷たくて、ただの人間に過ぎないアーレンには、近寄りがたい存在だった。


「何度言わせるのよ、あんたみたいな愚図な世話係なんて私には必要ないわ」

「余計なお節介はやめて!」

「あんたみたいなの、虫唾が走るのよ」


――それが、いつからだっただろう。


「ったく・・・・・・勝手に死なれたら迷惑なのよ、人間! 私の背中から離れるんじゃないわよ」

「ちょ、ちょっとだけなら食べてやってもいいわよ。ほら、たまにはあんたの作る食事とやらがどんなに不味いのか試してみようじゃないの、暇つぶしよ暇つぶし」

「・・・・・・アーレン、貴方って銃の腕はからっきしだけど料理の方は天才ね! CIAのエージェントなんてやめて、料理人に転職しなさいよ!」


今になればわかる。

怖かったのは、彼女の方だったのだ。

人間と親しくなることが。

だから、遠ざけていた。


そしてあの時、アビアノの丘の上で、ハイディが呟いた言葉。


「私にはそんなもの・・・・・・始めっからありゃしないわ」


夕陽を浴びて佇む彼女は、本当に儚げで、その声は悲しみで溢れていて。

彼女が欲しがっていたものが何か、自分にはわかっていたはずなのに。

(ここがお前の居場所だって、どうして言ってやれなかったんだ)

アーレンの後悔を察したのか、大尉は呟く。

「足掻きましょう、最後まで。・・・・・・彼女がそう教えてくれました」

ハーキュリーズはアドリア海を越え、クロアチア上空に達していた。




アサルトフェザーに貫かれ、最後のダインスレイヴが墜落する。

歓声を上げる民兵達の輪の中に、アーデルハイトは舞い降りた。

「やったぞ! 勝った! 勝ったんだ!」

「作戦は見事成功ですね!」

「天使様、ありがとう!」

口々に賞賛や感謝の言葉をかけてくる。

あんなに自分を怖がっていた人達が、皆満面の笑みで自分を見ている。

人形が喋っている不気味さや、超常的な力の恐ろしさを、戦いで芽生えた信頼関係がどうでもよくしていた。

その信頼が、アーデルハイトには懐かしくて、しかし胸に痛く響いた。

「・・・・・・礼を言ってる暇があったら、早くここから逃げなさい」

努めて感情を押し殺した声で、アーデルハイトは民兵達に最後の指示を出した。

「予定通りルート4を使うのよ。途中で逃げ遅れた市民がいたら保護してあげて」

「了解。でも、天使様は?」

民兵達が心配そうな顔をする。

「程無く敵の増援がやってくるわ。私はここで食い止める」

そう言いながらも、アーデルハイトは先ほどベアトリクスの乗ったヘリが墜落した辺りに鋭い目を向けていた。

恐らくこれで終わりではないだろうと、直感が告げていた。

墜落や爆発に巻き込まれたのか、付近のモニターフェザーがさっきから沈黙しているのも気になる。

「天使様・・・・・・」

呼ばれて再び振り返る。

マルコが立っていた。

「ここでお別れよ、坊や」

坊やと呼ぶには身長差がありすぎるなと、今更ながらにアーデルハイトは苦笑した。

だから頭をなでてやる代わりに、アーデルハイトは少年の手を握った。

「煙草、ご馳走様。でも貴方にはまだ早過ぎるわ・・・・・・銃を手にするのも」

マルコの目をまっすぐに見る。

「貴方は、お姉さんの分まで生きなければいけないのよ」

「わかってます、でも・・・・・・」

マルコが何か言いかける。アーデルハイトは首を振った。

「貴方を心から愛してくれた優しいお姉さんのこと、もし貴方が死んでしまったら、世界中で他の誰が覚えていてくれるの?」

一言一言ゆっくりと言う。

臭い台詞は、慣れていなかった。

「あのセルビア人の男のように、復讐のために戦うのだけが戦いじゃないのよ。・・・・・・お姉さんとの思い出を大切にして生きなさい。命日には泣いてあげなさい。それは、貴方にしかできない、尊い闘いなのよ」

「闘い・・・・・・」

「そう。それが貴方の任務。そしていつか、お姉さんと同じくらい大切に思える人ができて、その人を守るために必要になったら、その時こそ銃をとればいい」

今は理解できなくても、いつかきっとわかる日がくるはずだ。

その日まで生きてさえいれば。

それにしても。

いつから自分は、こんな人生の教訓めいたことを語るようになったのだろうか。

外見は変わらずとも、精神は着実に老いているのだろうか。

長い間一匹狼として生きてきた反動が、自分を饒舌にしているのか。

アーデルハイトは手を離した。

直後、管制妖精エルフェンが、ヘリの残骸からの動体反応を観測する。

「さあ、逃げて!」

アーデルハイトは鋭く叫ぶ。

ただならぬ様子に、民兵達は下水道の入り口へと駆け出した。

「天使様も、どうかご無事で!」

「また会いましょう!」

去り際に声をかけてくれる民兵達に、アーデルハイトは手を振った。

これで彼等の心配はなくなった。

ベアトリクスにとって最大の失敗は、本当ならベアトリクスとその部隊を圧倒する機動力を有するアーデルハイトをこの街に繋ぎ止め、空へ逃がさないための人質、ベアトリクスにとって作戦の要であったはずのクロアチア民兵を自分の手の内においておかなかったことだ。

アーデルハイトにとって次の気がかりは、アビアノ基地でやはり人質にとられているであろう第一三特殊作戦部隊群の人々だったが、その前に、まだここでやることが残っていた。

アーデルハイトは右手に荷電粒子剣を活性化させる。

「さて・・・・・・出てきなさい、ベアトリクス。仮にも私と同じヴォルフスフリューゲルなら、まさかこの程度でやられてはいないでしょう?」

その言葉を待っていたかのように、ヘリの残骸の一部がガコンと持ち上がった。

「その通り・・・・・・ですことよ・・・・・・」

アーデルハイトより脆弱な彼女の防壁は、ロケット弾の直撃を防ぎきれなかったようだった。

衣服は真っ黒に焼け焦げ、髪の毛も煤けて乱れている。

だがその瞳は、闘志を失っていなかった。

「私は・・・・・・ヴォルフスフリューゲル二号機、エンジェル・ベータ、ベアトリクス・・・・・・これぐらいでやられたりは、しないのですことよ」

よろめきながら、ベアトリクスはアーデルハイトの前に立った。

その手に携えている物を見て、アーデルハイトは静かに言った。

「父上様から頂いた武器で私と正々堂々勝負をしようと考えを改めたのなら褒めてあげるけど・・・・・・止めておきなさい。貴女は、さっきの爆発から身を守るために使用可能なエネルギーをほとんど使い切ってしまっている。今更それを持ち出しても、自分を傷付けるだけ。私には勝てないわ」

ベアトリクスは笑った。

「ふっ・・・・・・こんなところで終わるわけには・・・・・・いかないの・・・・・・ですことよ。この半世紀、私は今日のためだけに生きて・・・・・・組織の中で這い上がってきた・・・・・・貴女の身体の秘密を解明すれば・・・・・・ようやく、この世界を変えられる! 私の・・・・・・この身体も・・・・・・」

「なんですって? よく聞き取れないわ」

「ここで貴女を倒すのですことよ、アーデルハイト!」

ベアトリクスは手に携えたそれを高く掲げた。

それは、小さなヴァイオリンだった。

光沢のある木製の美しい曲面、ぴんと張った銀糸の弦。

ぼろぼろになったベアトリクスとは対照的に傷一つついておらず、それ故に硝煙のたちこめる荒れ果てたこの場所にはあまりに不似合いだった。

「本当は、こんなものは持ちたくもなかった・・・・・・。私が私自身の手で作った兵器で、軍隊で、貴女を倒したかったのですことよ」

ヴァイオリンを左肩に乗せ、顎に挟み、右手に美しい螺鈿細工が施された弓を構えながら、ベアトリクスは苦々しげに呟く。

「・・・・・・屈折してるわね、貴女は」

アーデルハイトは溜息をついて、荷電粒子剣を構えた。

ヴォルフ博士は、製作したヴォルフスフリューゲルそれぞれに武器を授けており、アーデルハイトはその全ての性質と能力とをCIAの機密資料を読んで把握していた。

ベアトリクスに与えられたヴァイオリンの場合、一定範囲の敵や建造物に無差別にダメージを与える、範囲攻撃型の武器のはずだ。

空を自在に飛べるアーデルハイトと較べて機動性に欠けるベアトリクスには相応しい武器だったが、能力の性質上攻撃のダメージはベアトリクス本人にも及ぶため、攻撃中は防壁を展開して自身を守らなくてはならず、そのためこれを使って長時間戦えば、制限されたユミルスマクトのエネルギーを大量に消費する。

ベアトリクスが嫌って使おうとしてこなかったのは、それが理由の全てではないだろうが、威力はあるものの範囲が限定されているため現用技術による通常の兵器と較べて特別優れているわけでもなく、実用性は極めて乏しかった。

対してアーデルハイトは本来、ヘリコプターなど到達もできない高高度での超音速の空中戦は勿論、地上への精密爆撃や急降下など自在に戦うことができる機体だ。

クロアチア民兵を逃がすことに成功した今、アーデルハイトが地上に留まることにこだわらずに戦えばベアトリクスは敵ではないし、また戦わずに逃げるという選択肢もあったが、それはどちらもアーデルハイトの誇りの許すところではなかった。

「いいわ、決着をつけましょう」

廃墟と化したサッカースタジアムに、一陣の風が吹きぬける。

構えた姿勢のまま、アーデルハイトは動かない。

心の隅で、昔アーレンに見せてもらった古い西部劇のワンシーンみたいだな、と思う。

ガンマンが一対一で、自分の得物を構え合って・・・・・・。

ふと違和感を覚えた。

ベアトリクスのような性格の持ち主が、果たして我が身を危険に晒して敵に一対一の戦いなど挑むだろうか。それも勝てる見込みの無い。

アーデルハイトの能力を、ベアトリクスは研究し尽くしているはずだ。

その上でアーデルハイトが一人で逃げることができないよう、回りくどいやり方でわざわざこの舞台を用意した。

自分の作戦が失敗して、自暴自棄になっているのだろうか。

アーデルハイトの知る限り、ベアトリクスは自分の企てが失敗したからといって自暴自棄になったり、ましてや自分の命を粗末にしたりするような性格ではない。

自分の命は地球よりも重いと考えているから、まず手段を選ばず保身をはかる。

そして長い時間をかけて、次の企てを準備する。失敗しても、何度でもだ。

詰めの甘さはともかく、その執念深さだけはアーデルハイトは認めていた。

ここでアーデルハイトを倒すと、ベアトリクスは宣言した。

つまり、ベアトリクスはまだ、切り札を残している・・・・・・?

馬鹿な、虎の子のヘリ部隊を失い、満身創痍のベアトリクスにこれ以上何ができる。

その時、唐突にベアトリクスの唇が動いた。

「私です・・・・・・はい・・・・・・お許し下さい・・・・・・第三段階移行の許可を・・・・・・」

狂って独り言を呟いているのではない。

通信しているのだ。

「はい・・・・・・はい、必ずや戦果を・・・・・・感謝します、ミスター・マクスウェル」

アーデルハイトがとっさにエルフェンに指示した通信相手の探知が終わるより先に、ベアトリクスは通話を終え、そして叫んだ。

「グレイプニル!」

召喚に応じて浮かび上がったのは、ベアトリクスの戦闘管制妖精、グレイプニル。

「これは・・・・・・?」

光を明滅させながら、グレイプニルからアーデルハイトには解読不能な電波が広域に発信されていく。

「何をしたの・・・・・・答えなさい、ベアトリクス」

「うふふ・・・・・・お察しの通りですことよ、アーデルハイト! 私はヴォルフスフリューゲル一の頭脳、貴女と違って頭を使うのが仕事なのですことよ。独りだけで戦おうなんて愚かな真似をするわけがないのですことよ。もっとも貴女もあの民兵どもを仲間にして私に卑怯な戦いをしかけたから、これでお相子ですこと?」

「どうでもいいけど、自分も卑怯だって自覚はあったのね・・・・・・」

ぼそっと呟きながら、アーデルハイトは翼を広げ地を蹴る。

何が起こるかわからない以上、ここはいったんベアトリクスから間合いをとるために空へ――

上昇してスタジアムを出ようとした瞬間、目に見えない強い力が、アーデルハイトの真上の空間を切り裂いた。

「・・・・・・!」

辛うじて直撃を免れたものの、衝撃波で地面まで叩きつけられ、ぎりぎりのところで身体をひねって着地する。

ベアトリクスの攻撃ではない。

素早く視線を巡らしたアーデルハイトは、スタジアムの観客席の高いところに、いくつかの人影を見つけた。

人影は、次第に増えていく。

・・・・・・いや、違う。あれは人ではない。人型をした、別の何かだ。

焦点が定まった時、アーデルハイトはそれらが何であるかを悟った。

「DOLLシステム・・・・・・」

 Diversified Optimal Learning Lady(多角的高度学習人型機械)。

裸のビスクドールと中世の甲冑の合の子のような、細くてアンバランスな手足と胴体。

灰青色の都市迷彩で塗装された、強固で柔軟性もある繊維強化系複合材の装甲。

頭部の正面は暗視ゴーグルのようなバイザーで覆われ、携帯火器が装備されるのであろう右腕部には、まるでエレキギターを小さくしたような形の、見たことも無い機械が握られている。

何体かの機体が表面に焦げた跡があったりちぎれたケーブルを引き摺ったりしているのを見て、アーデルハイトはあの攻撃ヘリ、ダインスレイヴの操縦者の正体を知った。

これで、アーデルハイトが起こす超常現象に一切動揺しなかったヘリの動きにも得心がいく。

「一九七〇年代にジェネラル・エレクトロニクス社が発表した、XRE‐68Hという強化外骨格の開発計画を知っていますこと?」

飛び上がったアーデルハイトが地面に落ちてくるのを自身は何もせずに眺めていたベアトリクスが、冷笑を浮かべながら問いかける。

「・・・・・・。アクチュエーターに油圧式を使った、人間が乗り込んで操縦するパワードスーツだったわね。モックアップとパーツの一部が完成しただけで、当時の技術的限界から開発は中止されたと聞いたけど」

七〇年代、ヴェトナム戦争においてマングローブ林でのゲリラ戦に翻弄された苦い教訓から、アメリカでは第一次世界大戦以来の陸戦の王者である戦車に代わる新しい陸戦兵器の研究・開発が試みられていた。

従来戦車や重砲の運用が困難だった密林や山岳地帯を難なく走破し、敵を制圧できる機動性と打撃力とを兼ね備えた兵器。

そのひとつの答えが、歩兵の筋力を機械装置で補強し、装甲と重火器を備えさせるパワードスーツ。人体に着用させる強化服の延長である以上、必然的に人型となる兵器である。

実現すれば、歩兵戦術の革命となるはずだった。

だが、戦場での実用に耐え得る人型兵器の開発は、現実の厳しい壁に直面した。

二足歩行は技術的に困難だけでなく必然的に正面投影面積を過大にし、それによって想定される戦闘時の高い被弾率から機体を守るためには重たい装甲と高い機動性を両立させねばならない。そんな要求を満たせる駆動系の技術も動力も存在せず、攻撃ヘリコプターの性能向上によって地上部隊の脆弱性を補う方が現実的だったことから、開発は途中で断念された――はずだった。

「開発は継続されたのですことよ・・・・・・私のチームが引き継いで極秘裏に。私がペンタゴンでやってきた仕事は、まず戦車を倒せるだけでなくゲリラさえも狩ることができる攻撃ヘリを作ること・・・・・・そして次は、その攻撃ヘリさえも超越する機動性を有する陸戦兵器を生み出すこと。ヴォルフスフリューゲルのオーバーテクノロジーを利用して・・・・・・フレーム構造・・・・・・制御システムの極小化にも成功したのですことよ。ただし・・・・・・その過程でパワードスーツという構想の最大の弱点は修正され、全く異なる兵器になったのですことよ」

「パワードスーツの最大の弱点? 制御のために人間が搭乗しているということ?」

「ご名答! ・・・・・・どんな装備を施そうと、人間を戦場に送り出すという行為自体が、我が国の手足を縛ってしまう。いわゆるヴェトナム症候群なのですことよ・・・・・・」

十一年間に及んだヴェトナムへの軍事介入がアメリカに残したのは、ゲリラ戦の教訓だけではない。

ヴェトナム症候群。

ヴェトナム戦争以降のアメリカは、本国の世論が人命の犠牲に対して敏感になり過ぎてしまったせいで、紛争地域での軍事行動において大きな制約を受けることになった。

「・・・・・・例え百人の敵を倒しても、その作戦でたった一人でも米兵が命を落とせば、メディアはそのたった一人を過剰に取り上げ、国民はヴェトナム症候群を発症する。ホワイトハウスは選挙のことばかり考えて、せっかくの軍事力を有効に使えない・・・・・・。対する紛争地域の反米組織や独裁国家は世論とかそういうしがらみは一切無いからやりたい放題。民主主義という正義の守護者である合衆国が、非民主的な野蛮人に対して劣勢に立たされる、このアンフェアで不道徳な状況を打破するために・・・・・・私のDOLLシステムがどれだけ重要か、いくら頭の悪い貴女でもわかりますこと・・・・・・アーデルハイト?」

人命の損失を抑えるために従来人間が担ってきた活動を機械に置き換えようという思想は、第二次世界大戦で活躍した数々の初歩的な無人兵器に既に垣間見ることができる。

今日でもアメリカを始め先進国の軍隊は軍事用ロボットの研究・開発に余念が無い。既に偵察、哨戒、地雷等爆発物の処理といった単調もしくは危険な任務には多くの軍事用ロボットが従事しているが、SFに登場するロボット兵士のような、歩兵の代用品になるまでのレベルに達したロボットを作ることは、現用技術では不可能だといわれている。

それでも、アメリカは軍隊の無人化という夢を追い続けてきた。

特にロナルド・レーガン政権時代に台頭し政界に影響力を持つようになった保守派は、アメリカの民主主義を至上の価値と信じ、しがらみを打破するためには従来SFの世界の産物と考えられてきた兵器であっても真剣に検討し、予算をつぎ込んできた。

『悪の帝国』であるソ連とアメリカが共存しなければならない前提となっていたMAD(相互確証破壊)を嫌ってスターウォーズ計画をぶち上げたのも、その文脈からだ。

同様に、もしもロボットだけの『戦死者の出ない軍隊』が実現したとしたら。

アメリカ合衆国はもう世論に煩わされること無く、世界中の紛争に自由に介入できるようになる。

「大した愛国心ね、ベアトリクス。そこまで合衆国軍人になりきった物の考え方ができるのは立派なものだわ。私にはとても真似できない」

アーデルハイトの言葉を嘲りと受け取ったベアトリクスは、表情を歪ませた。

「だから頭が悪いというのですことよ・・・・・・貴女がCIAの下でどれだけ頑張ってあちこち戦って回っても、所詮は焼け石に水・・・・・・。だから私が、この世界にとって何が一番良いか考えて、貴女の身体を有効活用してあげると言っているのですことよ。無限の力が湧き出す『生命の木』の実を持っているのなら・・・・・・世界のために貢献しようとは思わないのですこと・・・・・・?」

満身創痍で、声を震わせながらも持論を語り続けるベアトリクス。

アーデルハイトは、再び溜息をつく。

「・・・・・・悪いけど、私はそこまで献身する気はないわ。世界なんてどうでもいいとか言うつもりはないけど、私は生きていたいし、死ぬなら死ぬで最後まで足掻く」

アーデルハイトは翼を広げ、再び地を蹴る。

これ以上、ベアトリクスの長話に付き合うつもりは無かった。

周囲に視線を走らせる。

スタジアムに集まったDOLLシステムの数は、今や二十を超えていた。

「ヴォルフスフリューゲル並みの機動力をもった戦闘ロボットか・・・・・・厄介ね。でも」

アーデルハイトは上昇し、スタジアムの外に抜けようとする。

先ほどと同じ動きだ。

DOLLシステムが一斉にエレキギターを構えるのが見える。

やはりあれが、先ほどのカマイタチのような攻撃の発生源か。

直後、再び不可視の力が空間を横薙ぎにし、アーデルハイトは地上へと落下する。

落下するアーデルハイトに止めを刺そうと、予想される落下地点にDOLLシステムが集まってくる。

瞬間、アーデルハイトはにぃっと笑った。急旋回して方向を変える。

攻撃の前に、アーデルハイトは既に反転していたのだ。

衝撃波を背中に受けて、驚異的な加速でDOLLシステムの群れに横から迫る。

その速さに、DOLLシステムは対応できない。

「やっぱり・・・・・・所詮はロボット」

ロボットが歩兵の代わりにならないのは、ロボット工学ばかりの問題ではない。

むしろ先で技術が進歩すれば、人間よりはるかに俊敏な戦闘機動ができるロボットはいくらでもでてくるだろう。

問題なのは頭脳だ。

先ほどまでのダインスレイヴとの戦いから、DOLLシステムにベアトリクスが相当優秀な電子頭脳を搭載させているのは明らかだったが、それでも複雑で柔軟な自己判断能力や応用動作が求められる地上戦闘において、機械の電子頭脳には限界があるのだ。

現在アメリカが開発中の無人偵察・攻撃機にしても、攻撃時は司令部から人間が遠隔操作しなければならない。

先ほどアーデルハイトは衝撃波をもろに食らって落下し、DOLLシステムはそれを学習した。

だから今回も同じようにアーデルハイトが落ちてくると予測したのだろう。これがもし経験を積んだ人間の兵士なら、フェイントだと簡単に気付いたはずだ。

「アサルトフェザー、弾種・榴弾。撃ち方始め!」

アーデルハイトの翼が鈍いうなりを上げる。

フェザー・グレネード。着弾地点の半径数メートル内を火の海にする粘着榴散弾が連射された。

アーデルハイトが普段、人間相手の戦いでは滅多に使わない広域制圧用羽弾である。

命中精度が低い代わりに、その威力たるや絶大だ。

それが至近距離から一秒間に数十発。

撃ち込まれた榴弾は、DOLLシステムの大半を巻き込んで炸裂する。

爆圧がスタジアムの観客席に大穴をつくり、爆風が吹き荒れた。

その炎の中に、アーデルハイトは荷電粒子剣で斬り込んで行く。

その時だった。

炎が割れ、DOLLシステムが飛び退って荷電粒子剣をかわした。

見事な跳躍力だったが、アーデルハイトが驚いたのはそのことではなかった。

榴弾によって損傷した様子が、全く無い。

「まさか・・・・・・!」

あれほどの攻撃を食らって無傷でいられる手段を、アーデルハイトは一つしか知らなかった。

ユミルスマクト・ファンクション・ツヴァイ。

ユミルスマクトのエネルギーを開放して展開する、ヴォルフスフリューゲルだけがもつ絶対防壁。

DOLLシステムのエレキギターが発するカマイタチがアーデルハイトの頬をかすめ、アーデルハイトの疑問は確信にかわる。

「ベアトリクス・・・・・・貴女まさか、自分のユミルスマクトを?」

戦闘中であるにも関わらず、アーデルハイトは振り返ってベアトリクスに叫んだ。

「ええ・・・・・・そうですことよ・・・・・・この子達は、私の可愛い妹」

肯定するベアトリクスの声には、自嘲の色が混じっていた。

「最強の自動歩兵を完成させて、軍に私の実力を認めさせる必要があったのですことよ・・・・・・。でも、装甲を厚くすれば機動性が落ちる・・・・・・理想的な動力源も無い・・・・・・だから、私のユミルスマクトの半分を切り取り、小さく砕いてこの子達に・・・・・・」

 ベアトリクスは、自分の胸を手でさするようにする。

「ベアトリクス・・・・・・なんでそこまでして」

「私を憐れむなぁっっっ!」

唐突にベアトリクスが怒鳴った。

ぎらぎらとしたその目は、これまで見た中で最も鋭く、殺意に満ちている。

「決まっているのですことよ! 貴女に勝つためですことよ! ええそう、私の能力は貴女より弱い! 認めるのですことよ! 私が貴女より強くなるには、こうするしかなかったのですことよっ!」

ベアトリクスは一気にそう叫ぶと、ヴァイオリンに当てた弓を動かした。

「交響曲ミスティルテイン第一楽章、演奏開始!」

「ラジャー」

散開したDOLLシステムから機械的な少女の声が一斉に響いたのと、アーデルハイトがユミルスマクト・ファンクション・ツヴァイによる防壁を展開したのはほぼ同時だった。

ベアトリクスの能力は、超音波を用いた物理的攻撃だ。

ヴァイオリンを始め、弦楽器は基本的に弦を弓もしくは指でこすって振動させ、その振動が楽器の中で増幅されて音楽となる。

圧倒的な出力を持つユミルスマクトで、それを再現したらどうなるか。

超音波は指向性が高く、音圧を上げれば金属やプラスチックの研磨・溶接にも使用できる弾性振動波だ。

サイクルを上げてぶつければ、物体を破壊することも不可能ではない。

だが、逆に言えばそれだけだ。

超音波を用いるという特殊性はあっても、破壊力そのものは火薬の爆発と変わらない。

アーデルハイトが、ベアトリクスの能力を恐れていなかったのはそのためだった。

ベアトリクスのヴァイオリン、ベアトリクスのユミルスマクトを分けたDOLLシステムのエレキギターから、超音波が発振される。

アーデルハイトはそれらをまとめてファンクション・ツヴァイの防壁で受け止めた。

「第二楽章、演奏開始!」

ベアトリクスの号令で第二波が繰り出される。

再びアーデルハイトが防壁を展開し、力と力がぶつかり合って突風が吹き荒れる。

超音波攻撃は、明らかに力がセーブされていた。

ベアトリクスの使用可能なエネルギーが、残り少ないためだろう。

当然、アーデルハイトは倒せない。このまま戦いが続けば、先に倒れるのはベアトリクスだ。

不意に、ベアトリクスが目を閉じた。

「・・・・・・そろそろですこと?」

何の前触れも無かった。

突然、アーデルハイトの防壁が崩れた。

「・・・・・・?」

咄嗟に回避しようとする。できない。

アーデルハイトは気付いた。

通常の聴力では聴こえない、音楽が流れている。

その旋律が、空気に、アーデルハイトが生み出す防壁に、そしてアーデルハイト自身に浸透していることを。

「共鳴現象・・・・・・!」

アーデルハイトの表情がこわばった。

共鳴。

この世界の全ての物体は、それぞれの固有振動数を保ち、それらが調和して均衡が保たれている。

だが、位置や周波数など特殊な条件が揃った時、その調和は崩れ、物体は自ら崩壊する。

理論上は、鉄筋の高層ビルさえも崩すことができるといわれているその現象が、今異常な振動としてアーデルハイトを内部から壊し始めていた。

「ぐっ! う・・・う・・・」

〈警報・・・・・・胸部骨格に亀裂発生・・・・・・第一及び第二動力伝達経路破損・・・・・・ユミルスマクト・ファンクション・アイン機能低下・・・・・・警報・・・・・・両翼火器管制に重大な損傷、アサルトフェザー使用不能・・・・・・警報・・・・・・左脚部関節に亀裂発生・・・・・・〉

警報を告げるエルフェンの音声もノイズ混じりだ。

骨格が歪み、関節が砕けていく。どうすることもできない。

ついにアーデルハイトは、地面に膝をついた。

「・・・・・・どうですことアーデルハイト。私達が編み出したシンフォニー(交響曲)は」

攻撃が止み、ベアトリクスの声が聞こえた。

「悪趣味なオーケストラね・・・・・・」

何とか憎まれ口をたたいてみせるが、アーデルハイトが被った損傷は極めて深刻だった。

正直、戦闘機動を継続するどころか、満足に動けるかも怪しい。

長い時間をかければ自己修復機能が働くが、今はその時間が無かった。

最初の第一楽章と第二楽章は、共鳴現象を起こすまでの時間稼ぎだったのだ。

ベアトリクスの能力の上達を、認めざるを得なかった。

「お褒めに預かり光栄なのですことよ・・・・・・私のソロ(独奏)では貴女には勝てない・・・・・・。こうしてDOLLシステムとユミルスマクトを分け合い、オーケストラを組むことで、初めてこの能力を会得できたのですことよ」

ベアトリクスの声もまた疲労の色が濃かったが、こちらはまだ余力を残している。

しかも、共鳴現象は音をぶつけるのではなく、相手が持っている音のリズムをかすかに狂わせて、いわば自壊させる能力。

必要なエネルギーは、極めて少ない。

「散々手こずらせてくれたのですこと・・・・・・でも、これで終わり」

ベアトリクスとDOLLシステムが、アーデルハイトを取り囲む。

ベアトリクスは、死の調べを奏でる弦に弓を乗せた。

「さようなら、アーデルハイト」

アーデルハイトは、懸命にファンクション・ツヴァイの再起動を試みた。

無理だ、防ぎ切れない。

まだ辛うじて動く翼を盾に、身体を庇う。


予想に反して、攻撃は来なかった。

代わりに、前で何かが倒れる音がした。

「・・・・・・?」

恐る恐る顔を出す。

そこに人間が、うつ伏せになった人間が転がっていた。

「ちっ、邪魔が入ったのですこと」

ベアトリクスが舌打ちする。

地面に見る見る血が広がっていく。

アーデルハイトは、目を見開いた。

その人間に見覚えがあった。

「そんな・・・・・・」

アーデルハイトは立ち上がった。

よろめく足で近付く。

「どうして・・・・・・」

震える手で、倒れた人間の・・・・・・マルコの顔に触れた。

「天使・・・・・・様・・・・・・」

マルコはかすかに笑った。

顔色は青く、唇は土気色で、その微笑は痛々しかった。

「良かった・・・・・・ご無事で・・・・・・」

「マルコ、どうして・・・・・・どうして逃げてくれなかったの」

「天使様・・・・・・僕、天使様のことが・・・・・・好きです」

「え・・・・・・」

「・・・・・・だから、天使様を・・・・・・守りたくて」

少年の言葉は、そこで途切れた。

気を失ったのだ。

「本当に・・・・・・馬鹿・・・・・・なんだから・・・・・・」

マルコの傷を確認する。

脇腹に大きな裂傷。

超音波に切り裂かれたのだ。

そこから赤い血がどくどくと溢れてくる。

幸い内臓や太い血管は外れている。でも、このまま出血が続けば、遠からず命が危ない。

助けないと。

北西の空から、輸送機が近付いてくるのが聴こえる。

四五〇〇馬力のターボプロップエンジン四発の轟音。ハーキュリーズだ。

敵である可能性の方が高かったが・・・・・・。

アーレン達だ。アーデルハイトは、その可能性に賭けることにした。

「お喋りは済みましたこと? アーデルハイト」

ベアトリクスとDOLLシステムが、じりじりと近付いてくる。

今度こそ、完全に止めを刺すつもりなのだ。

「ふっ・・・・・・」

アーデルハイトは、口の端を吊り上げ、尖った犬歯を剥き出しにした。

ゆっくりと立ち上がる。

骨格が軋み、神経があちこちで断裂するが、アーデルハイトはなおも笑っていた。

「ここまで・・・・・・追い詰められたのは・・・・・・久しぶりだわ」

笑いとは、生物学的な起源を辿れば動物の威嚇の際の唸り声が始まりだという。

この時のアーデルハイトの笑みは、正にそれだった。

追い込まれた手負いの猛獣の唸り。

「・・・・・・その動けない子どもを庇いながら、まだ戦えますこと?」

アーデルハイトの静かな、しかし凄味を含んだ笑みに気圧されながらも、ベアトリクスは平静を装う。

「ふ、ふっふふふふ・・・・・・あっはははははははは!」

突然の哄笑だった。ベアトリクスばかりか、ロボットであるはずのDOLLシステムまでもが後退りする。

彼女達は気付かなかった。

赤く染まったアーデルハイトの瞳から、涙がひとすじだけ零れたことを。

「ベアトリクス、やっぱり貴女は何もわかってない・・・・・・。貴女はヴォルフスフリューゲルである自分に誇りを持てずに、ヴォルフスフリューゲルの力だけを欲しがった・・・・・・。そんな貴女が作った出来損ないの人形も、貴女自身も、ヴォルフスフリューゲルとは程遠い」

「い、今更何を・・・・・・」

「教育してあげるわ、ベアトリクス・・・・・・ヴォルフスフリューゲルであることが、あり続けることが、どれほど尊くて、そして難しいかを。ヴォルフスフリューゲルの、本質を!」

アーデルハイトの叫び声が、スタジアムに木霊する。

「この後に及んで下らぬはったりを・・・・・・演奏再開! 目標の翼を狙い撃て!」

「ラジャー」

ベアトリクスの号令で、カマイタチがアーデルハイトの身体に殺到した。

アーデルハイトは、それを避けようとしない。

防壁も展開せず、突っ立ったままだ。

アーデルハイトの翼が、美しいドレスが切り刻まれる。

剥き出しになった白い素肌が、傷付いていく。

〈警報・・・・・・損傷拡大・・・・・・予備動力伝達路全損・・・・・・ユミルスマクト・ファンクション・アイン機能低下・・・・・・〉

アーデルハイトの身体が受けたダメージは、致命的な域にまで達している。

それでも、アーデルハイトは動かない。

もはや、戦うことを諦めたか。

ベアトリクスは今度こそ勝利を確信した。

〈警報・・・・・・ファンクション・アイン機能低下・・・・・・骨格系に干渉波発生、危険です・・・・・・ファンクション・アイン機能低下・・・・・・危険です・・・・・・〉

『未解決の構造的欠陥』。

マリーがベアトリクスに伝えてきた情報だった。

戦闘中のため、情報を吟味している余裕は無かった。

だからベアトリクスは、それをアーデルハイトの弱点だと単純に結論付けた。

誰にとっての「未解決」で、誰にとっての「欠陥」なのか、そこにベアトリクスが考えを巡らせることは、遂に無かった。

〈ファンクション・アイン・・・・・・機能停止〉

戦闘管制妖精エルフェンが沈黙する。

アーデルハイトの首が、がくんと下を向く。

完全に動かなくなったアーデルハイトの中から、何かが崩れる音が響いた。

そして、その時はやってきた。

「付属制御機構ノ停止ヲ確認。回復マデノ緊急措置トシテ、拘束殻空間制御ノ限定解除ヲ申請」

くぐもった声がした。

アーデルハイトのものとも、エルフェンのものとも違っていた。

そしてそれは、アーデルハイトの身体の中から聴こえた。

「な・・・・・・なんですこと・・・・・・?」

何が起きているのかわからないベアトリクスは、戸惑うしかない。

「・・・・・・限定解除ヲ承認」

突然だった。

アーデルハイトの上半身が、がしゃりという音と共に地面に落下した。

残った両足も、ばらばらになって崩れていく。

糸が切れた、操り人形のように。

ベアトリクスは戦慄した。

アーデルハイトをばらばらにしてやりたい・・・・・・かつて自分がそう望んでいたことも忘れていた。

あまりに恐ろしい光景だった。

アーデルハイトが崩れて、空っぽになった空間に、光が生まれた。

幾重もの光輪を伴い、赤く光り輝く物体。

不気味にも、それはまるで人間の心臓のように、収縮を続けている。

「アーデルハイトの・・・・・・ユミルスマクト!」

咄嗟に手を伸ばそうとしたベアトリクスの手を、目に見えない巨大な力が薙ぎ払った。

「きゃああっ!」

思わず尻餅をつく。

「・・・・・・目前勢力ヲ敵ト認識。殲滅マデノ間、最終防衛術式Fenrirヲ発動。Fenrirトノ同調開始」

「この声は・・・・・・ユミルスマクトから? そんな馬鹿な・・・・・・ううっ!」

地面がまばゆい光を放ち、ベアトリクスは目を覆った。

血溜まりだった。

先ほど倒れた少年マルコの血溜まりが、鏡面のようにきらめいて、光を発しているのだ。

光は徐々に広がっていく。

「Fenrirトノ同調ヲ完了」

地鳴り。

光の中から湧き出るように、黒い竜巻が発生する。

突風に耐えられず、DOLLシステムの何体かが吹き飛ばされていく。

「後退して態勢を立て直せ! く・・・・・・何も見えないのですことよ・・・・・・」

黒い竜巻は、今やスタジアムいっぱいに膨れ上がっていた。

ベアトリクスの顔に、何かが貼り付く。

ベアトリクスは、それを手で掴んだ。

黒い羽根。

アーデルハイトの羽根だ。

無数の黒い羽根が、竜巻のように吹き荒れているのだ。

竜巻は、次第に収束し、何かの形を成していく。

ベアトリクスは、愕然とした。

竜巻の中から現れようとしていたのは、神話の世界にしか存在しないはずの、異形の怪物だった。

翼を生やした、巨大な狼。

黒い毛皮。

黒い翼。

黒い牙。

黒い爪。

目だけが、爛々と赤く輝いていた。

黒い竜巻を身に纏い、大地を砕き、天を仰ぎ――

狼は、咆哮した。




「着陸します! 舌を噛まないように気を付けて!」

 操縦桿を倒しながら、大尉が叫んだ。

街の大通りと広場が、みるみる迫る。

衝撃。

床が跳ね上がり、前後左右に滅茶苦茶に揺れる。

C‐130ハーキュリーズは、一九五四年に初飛行してから四十年を経ても各国軍の第一線で活躍する名機だ。

その長所は未整地での運用を念頭において設計された機体のタフさにある。

過去にはこのサイズの輸送機としては前代未聞である航空母艦への発着艦テストを成功させたこともあり、短距離での離着陸能力は折り紙つきだ。

街灯や街路樹をへし折りバウンドしながら通りを滑走するハーキュリーズは、交差点にさしかかる。

不意に目の前に、軍用ジープが現れた。

「っ!」

 避けられない。

 輸送機の巨体にジープが吹っ飛ばされて転がっていき、ハーキュリーズはしばらくしてからようやく減速し、停止する。

アーレンは機体を降りて、ひっくり返ったジープに急いで駆け寄った。

大丈夫か、と声をかけようとした刹那、ジープの下から、拳銃を持った手が突き出す。

「・・・・・・!」

ジープを運転していたと思しき女性将校が、アーレンに銃口を向けていた。

「アーレン・スミス・・・・・・CIAのエンジェル・アルファ担当官だな。何故ここにいる」

 アーレンは黙っている。

女性将校は油断なくアーレンに銃口を向けたまま、横転したジープから這い出した。

頭から血を流しているが、命に別状はないようだ。

女性将校が再び口を開いて何か言いかけた時、広場の向こうから響いた轟音がそれを遮った。

空気を震わせる、この世のものとは思えない咆哮。

 そばでガチャリと音がした。

 女性将校が、銃を取り落としたのだ。だが、アーレンはそのことにも気付かなかった。

「今のは・・・・・・一体?」

 アーレンの呟きへの答えなのか、女性将校は、その名を口にした。

「・・・・・・エンジェル・アルファ、アーデルハイト」

 聞き慣れた名前。

「どういうことだ」

 女性将校は、小さくかぶりをふる。

「・・・・・・あれは、閉じ込められていたユミルスマクトの正体だ。ユダヤの伝説では、ソロモン王が封印したとされる有翼の狼マルコシアス。そして北欧神話では、世界に破滅をもたらす巨狼フェンリル」

「なんだって?」

 彼女が何を言っているのか、意味がわからない。

「ユミルスマクト、またの名を『アングルボザの心臓』。あれは永久機関なんかじゃない。太古の昔に宇宙から飛来した、未知の生命体。それを人形という拘束具に閉じ込め、強い暗示によってヒトの心を宿らせたのが、ヴォルフスフリューゲルだ。もっと早く知っておくべきだった」

 再びすさまじい咆哮が響き渡る。

 アーレンは呆然として、広場の向こうに建つサッカースタジアムに目をやった。

 女性将校は、独り言のように呟いていた。

「エンジェル・アルファが不完全だといわれていたのは、兵器としての戦闘力や防御力に欠陥があったんじゃない。拘束を逃れようとする内側のユミルスマクトを抑える力に欠陥があったんだ。・・・・・・私達は、恐ろしいものを解き放ってしまった」




それは戦いとすら呼べない、一方的な攻撃と破壊だった。

噛み砕かれたDOLLシステムの手足が、ばらばらになって宙を舞う。

別のDOLLシステムは、巨大な前足で薙ぎ払われてスタジアムの壁に叩きつけられ、金属製のはらわたをぶちまけた。

ベアトリクスは手にしたヴァイオリンで、もはや何ら効果の無くなった超音波攻撃を続けていた。

「くっ・・・・・・来るなっ、来るなあっ、この化け物っ!」

強い風切り。

ベアトリクスは、ヴァイオリンごと片腕を噛みちぎられた。

「ぎゃああああああっっっ!」

絶叫しながらベアトリクスはその場にくずおれる。エネルギーが切れ、力尽きたのだ。

 巨大な狼は、そのベアトリクスに容赦なく前足を踏み下ろそうとする。

 その時、DOLLシステムの最後の一機が狼に体当たりをした。

 狼は振り向いて前足を一振りする。

 DOLLシステムの最後の生き残りはあっけなく吹き飛んで、火花を散らし動かなくなった。

衝撃でDOLLシステムの頭部のバイザーが割れ、隠されていた顔があらわになる。

目を見開いたままのその顔は、美しい少女の造形をしていた。

さらさらとしたプラチナブロンドの髪に、銀色の瞳。

狼は、その顔を見下ろし、牙がぞろりと並んだ口を歪めると、天を仰いで咆哮する。

長い咆哮だった。

「ベアト!」

 女性将校が飛び込んでいく。

 アーレンはその後を追って、半壊したスタジアムに足を踏み入れた。

黒焦げになったヘリコプターの残骸。

グロテスクに四肢を捻じ曲げた人型の機械。

 その傍らに、一人の少年兵が横たわっていた。

 出血が激しく、気を失っているが、まだ息はある。

 その右手には、見覚えのある黒い羽根が固く握られていた。

「大尉、輸送機から救命キットを持ってきてくれ」

 遅れて走ってきた大尉に、アーレンは頼む。

「は、しかしアーデルハイト様はどこに? ・・・・・・っ!」

 スタジアムに入って狼を目にした大尉が凍りつく。

「いいから戻るんだ!」

 アーレンは強く言った。

「勝負なら、もうついている」

 ベアトリクスは片腕を失った無残な姿で倒れている。

そして巨大な狼は地響きを立てて、倒れたベアトリクスに近付いていく。

そのベアトリクスの身体に駆け寄った者がいた。

「聞いて下さい、エンジェル・アルファ! 私は合衆国特殊作戦軍所属、マリー・カスカーラ少佐。ベアトリクスの副官です!」

 女性将校、マリーはベアトリクスに覆いかぶさるようにして、目前の狼に向かって叫ぶ。

「エンジェル・アルファ、貴女もそれを見て気付いたはずです。ベアトリクスは貴女のことを憎み、妬み、ですが誰よりも愛し憧れていました!」

 壊れて転がったDOLLシステムの、アーデルハイトと瓜二つに作られた顔を指し示す。

「ベアトリクスに、貴女と戦う道を選ばせたのは私達です。だから、罰なら私が受けます。・・・・・・どうか、ベアトのしたことを許してあげて下さい。どうか・・・・・・」

 声を震わせながら懇願するマリーの肩にそっと手をかけ、アーレンはその前へ進み出た。

 狼が足を止める。

 空気がわななくほどの重量感、肌が火照るほどの熱気。

「・・・・・・ハイディなのか」

 声を振り絞ったつもりだった。

「一緒に、帰ろう」

 出たのは、小さなかすれ声だけだった。

 不意に、狼が前足を持ち上げる。

パワーシャベルのような掌と、尖った爪。

反射的にのけぞって、アーレンは直視してしまった。

狼の顔。大きくさけた口に並ぶ、鋭い牙を。

白いところが一切ない、禍々しい赤い瞳を。

「うわあああああ!」

 理性ではない、アーレンの本能が、恐怖の悲鳴を上げさせた。

 必死で抑えようとしても、悲鳴は止まることなく、アーレンはその場にへたり込む。

 狼はそのまま足を振り下ろす。

 地響きが、スタジアム全体を揺らした。


 数秒の後。

アーレンは、無意識に閉じてしまっていた目を開ける。

無事だった。

 狼は、前足を元の場所に下ろしただけだった。

 牙の間から、低い唸り声が漏れる。

 その唸り声は、どこか悲しげだった。

 狼が巨体をひるがえし、黒い翼を広げる。

「待て!」

 アーレンは手を伸ばそうとする。駄目だ、手が動かない。

「待ってくれ」

 恐怖に身がすくんでいることに、アーレンは気がついた。

 俺はなんて情けないんだ。

 目の前の巨大な狼が、あのアーデルハイトだとわかっているのに、身体は地面に貼り付いたように動かない。

 引き止めたいのに。

 まだ言えていないことがあったはずなのに。

 そうだ、どんな姿をしていようと、ハイディはハイディだ。

 ユミルスマクトなんか知ったことか。

ハイディの命の源は、そんなものじゃない。

ハイディの命の源は――

「俺が死ぬまで毎日カップ麺を奢ってやる!」

 アーレンの大声が、スタジアムに響き渡った。

「博多豚骨ラーメンも、札幌味噌ラーメンも、鶏塩ラーメンも、沖縄タコライス風やきそばも、赤いきつねと緑のたぬきも、ハイディが喜ぶものはなんでもだ! 不健康だから食べるのを控えろなんて言って悪かった! だから頼む、行かないでくれ!」

 アーレンの視界が滲んでぼやける。構わず叫んだ。

「一緒に帰ろう、ハイディ!」




アドリア海、アメリカ合衆国海軍空母セオドア・ルーズヴェルト。

「IFF照合。当該機、第一三特殊作戦部隊群所属、C‐130H。その後方、ドイツ・ラムシュテイン基地より発進した、合衆国空軍第三一六飛行隊所属F‐16六機。管制空域に進入します!」

 航空指令所の壁面に斜めに設置された液晶パネルの空域図には、アドリア海をアルバニア方面へ南下するC‐130Hと、それを追いかける六機のF‐16のシンボルが表示されていた。

「警告を出せ。艦載機を発艦させて牽制しろ」

 航空司令は、傍らに立つSD(先任指令官)に言う。

「は、どちらに対してでしょうか」

 念のためSDは確認した。

 既に、「第一三特殊作戦部隊群が反乱を起こした」との知らせは、ここにも届いていた。

「決まっておる」

 そして航空司令は命令を出す。

「第三一六飛行隊所属の合衆国空軍機全機に告ぐ。当空域は合衆国海軍によるオペレーション・ディナイフライトの作戦空域である。事前申し入れの無い進入は、航空管制の妨げとなるため容認できない。直ちに針路を変更されたし――そう警告するのだ」

「は? ・・・・・・はっ!」

 年老いた航空司令は、ふっ、と笑った。

「借りは返したぞ、黒翼の天使」

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