SCENE‐3 叛乱 contrived rebellion
一九九四年四月一日 〇六三〇時(中央ヨーロッパ時間) アビアノ空軍基地 第三滑走路
「エンジェル・アルファ、チェック・イン(準備完了)。リクエスト・テイクオフ」
夜明け前から降り続く小雨が、滑走路をしっとりと濡らしていた。
晴天の多いここイタリアで、雨は珍しい。
〈エルフェン自己診断機能、オールグリーン。全てモニターできています〉
朝焼けが、静かに大地を包んでいく。
広大な滑走路には、本来そこにあるべき航空機の姿が一つも無く、基地の整備兵達の姿も無い。
ただ独り、アーデルハイトだけがそこに立っていた。
アーデルハイトのためだけの、貸切りの滑走路。
ただでさえだだっ広い空間なのに、小さな人形が一体ぽつんと立っているだけだと、余計に広く、空虚にさえ感じられた。
〈通信機能チェック。聞こえるか、ハイディ?〉
管制室から呼びかけるアーレンの声が、頭の中で響く。
ちなみにアーデルハイトが内蔵する通信機能が故障したことは、アーデルハイトが造られてからこの半世紀、一度も無い。
それでも毎回チェックを怠らない彼の生真面目さに苦笑しながら、アーデルハイトは答える。
「ええ、良く聞こえてるわ」
〈そいつは何よりだ。・・・・・・今日の天候はウィンド・ツーゼロゼロ、ディグリーズ・アット・ファイブノッツ。雨で視界が悪いが、風はそれほど強くない。エンジェル・ベータとの合流ポイントでは雨も降っていないし、飛行への支障は無いだろう〉
「そりゃお望みとあらば地球を一周だってしてみせるけどね。雨でドレスがぐしょ濡れよ、どうしてくれるの?」
アーデルハイトが軽口で怒ってみせると、アーレンは珍しく声を曇らせた。
〈すまない、本当は君の機密保持も兼ねていつものようにハーキュリーズで降下地点まで護送したいのだが・・・・・・今回は任務の性格上、軍の輸送機は使えないそうだ。飛行制限が敷かれてるから、途中で航空機に出くわすことは無いと思うが・・・・・・〉
〈・・・・・・もう、冗談よアーレン。わかってるから気にしないで〉
どうせベアトリクスの差し金だろうということはわかってはいたが、口にはしなかった。
もう引き返すことはできない。
アーデルハイトは、空を見上げた。
降りしきる雨が顔を濡らし、髪を伝って流れ落ちていく。
〈本当にすまないな、ハイディ。戻ったら服を乾かしてアイロンにかけよう。・・・・・・待ってるからな〉
「ありがとう、アーレン」
目を細めて、アーデルハイトは笑った。
背中の翼を、ゆっくりと広げていく。
雨で濡れているせいだろうか、翼はいつもより重かった。
〈エンジェル・アルファ、クリア・フォー・テイクオフ(離陸を許可する)〉
「ラジャー。・・・・・・エンジェル・アルファ、テイクオフ」
次の瞬間、アーデルハイトは地を蹴って飛び立っていた。
元々、こんな長い滑走路など不要なのだ。
アーデルハイトが飛び立つのに、滑走路など必要ない。
力強く羽ばたいて、まっすぐ垂直に、上へと昇って行く。
羽ばたくたびに翼から落ちる雨水が、雲の切れ間から漏れる朝の日差しを反射して、きらきらと輝く。
その光景は、機密保持のために立ち入りが禁止された滑走路で誰も見る者のいないのが惜しまれるほどに、幻想的で美しくて、そして物悲しかった。
管制室。
アーレンはレシーバーをコンソールに叩きつけた。
スタッフ達が驚いて振り返る。
「どうされたのですか?」
大尉が心配そうに訊ねた。彼等の上司は普段物にあたるような性格ではないからだ。
「いや・・・・・・すまん。夕べ寝不足だったもんで、少しむしゃくしゃしてただけ・・・・・・それだけだ」
そう詫びながら、アーレンはこみ上げる内心の不安感を抑えきれずにいた。
それと、自分への怒り。
どうして、もっと気の利いたことを言えなかったんだ。
これが・・・・・・ひょっとするとこれが、最後になるかもしれないのに。
同時刻、アドリア海上空、E‐3セントリー早期警戒管制機。
「監視班より報告、狼が森を出ました」
『空飛ぶ司令室』と呼ばれるAWACSの機内で悠然と朝のコーヒーを飲みながら、ベアトリクスは部下からの報告を聞いていた。
「ふ・・・・・・従順ですこと。『黒い悪魔』と恐れられた一匹狼も、宮仕えが長過ぎて従順なラングレーの飼い犬に成り下がったのですことよ」
「大佐殿」
ヘッドセットをつけて本国と通信していたマリーが、通信の内容をメモした紙片をベアトリクスに差し出した。
「委員会からゴーサインです。手段は大佐殿に一任すると」
「・・・・・・ほう」
紙片に目を通して、ベアトリクスはほくそえむ。
「あんまり期待していませんでしたけど、老人達がお墨付きを下さるとは。お手並み拝見、という訳ですこと?」
「は、何にせよ、これでラングレーに妨害される心配は無くなりました。我々は『狩り』に専念できるというわけです」
「ここまでは全て予定通りなのですことよ。狼を森から誘い出すことには成功した。後はこちらの猟犬の実力次第・・・・・・部隊は配置につきましたのですこと?」
「イエス・キャプテン。全てご命令通りに」
「よし・・・・・・」
コーヒーを美味そうに一すすりすると、ベアトリクスはしばし目を閉じた。
アーデルハイトはどうせ私を、人間の組織の歯車に成り下がった憐れな存在だと蔑んでいるのだろう。
だが私に言わせれば、人間に振り回され言いなりになっているのは彼女の方だ。
彼女はあまりにナイーブだ。
だから私の行動を理解できない。
しかし、いずれは彼女にもわかるだろう。
私がこの軍という組織で、何を求めているのか。
私には、夢がある。
アーデルハイト、貴女にはその夢のための礎となってもらおう。
ベアトリクスは、目を見開いた。
「状況開始なのですことよ!」
クロアチア共和国東部、スラボニア。
理想の崩壊がもたらした悲劇は、ここでもくすぶり続けていた。
かつて『他民族共存国家』のモデルと讃えられた旧ユーゴスラヴィア連邦では、異なる民族が混在して住む地域が珍しくなく、このスラボニアにも、クロアチア共和国でありながら多くのセルビア人が住んでいた。
しかし一九九一年、クロアチア共和国がユーゴスラヴィア連邦から分離独立すると、クロアチア国内で人口の実に十二パーセントを占めていたセルビア系住民は孤立し、このスラボニア及びクライナ地方に『クライナ・セルビア人共和国』を建国し、クロアチア共和国からの独立を宣言。
クロアチア共和国は当然これを認めず、隣接するボスニア・ヘルツェゴビナも含めて、文字通り『隣人同士が殺しあう』泥沼の戦争が続く。
セルビア軍が支配するある町で、その戦闘は行われていた。
廃墟と化した市街地に、RKT七・六二ミリ機関銃の耳をつんざく銃声が木霊する。
戦争が始まる前は商店街だった通りを挟んだ、激しい銃撃戦。
「撃て! 撃て! 侵略者を祖国から追い出せ!」
「母なるクロアチアの自由のために!」
口々に叫びながら敵陣に突撃していくクロアチアの民兵団、約一個小隊規模。
そのほとんどが正規に訓練された軍人ではなく、元農民や商店主、銃を取って立ち上がった一般住民だった。
そのため少年や老人の姿も多い。
しかし、スラボニアには現在クロアチア人の解放を掲げて戦うこうした民兵組織が大小合わせれば数百はあったが、この一団はその中でもクロアチア本国からの潤沢な支援も受け、特に士気が高い部隊だった。
銃弾をかいくぐって真っ先に敵の立てこもる廃墟の外壁にはり付いた少年兵が、手榴弾を廃墟に投げ入れる。
くぐもった爆発音がして、敵陣は沈黙した。
「よくやったぞ! 君はとても勇敢だ!」
後から駆けつけてきた年配の隊長が、少年兵の肩をたたいて賞賛した。戦争が始まる前はこの町で雑貨屋を営んでいた、人の良い小太りの中年男だ。
「祖国を守るためですから!」
息をきらしながら、少年兵は無邪気に笑う。
「よしよし、それでこそクロアチアの若者だ!」
「隊長、セルビア軍は中央広場まで退却したようです。今がこの町を奪還する好機です、追撃しましょう!」
連邦時代チトーがこの町を訪問したのを記念した銅像がおかれている中央広場は今はセルビア軍が野営する後方基地となっていた。
「うむ、今ならセルビア軍は総崩れだ。よしみんな、後一息だ! このまま一気に敵の本陣を叩くぞ!」
「おー!」
大部隊で待ち受けているだろうというアーデルハイトの予想に反して、合流ポイントで待っていたのはベアトリクスが乗るAWACS一機だけだった。
〈時間ぴったりですこと、アーデルハイト。約束通り来てくれて嬉しいですことよ〉
アーデルハイトの目の前をゆっくりと旋回するAWACSから、ベアトリクスの通信が入る。
「仕事はきっちりこなす主義なの。それよりご自慢のヘリ部隊が見えないわね、てっきりステイツ(米本土)から運んできてると思ったのに」
アーデルハイトは軽くカマをかけてみる。
どうせ既に輸送機に積んで現地に先回りさせているのだろうが。
〈私達はまだ来たばかりでこの土地には不慣れなのですことよ。それに共同作戦と言っても、どうせ貴女は単独行動がお好きでしょう?〉
ベアトリクスからの白々しい言葉が返ってくる。
妙に余裕のある口調だ。また何かを企んでいる。
こいつの言うことは何一つとして信用するわけにはいかない。それがかつてパナマでアーデルハイトが得た苦い教訓だった。
「ふうん、それで高みの見物ってわけ?」
〈ふふっ、そんなところですことよ。今回は貴女に任せますのですことよ、アーデルハイト〉
通信が切られ、ベアトリクスのAWACSは高度を上げて飛んで行く。
アーデルハイトはしばらく空中でそれを苦々しげに見送っていたが、結局はその後を追った。
ここで詮索しても仕方が無い。
作戦が始まれば、自ずと答えは明らかになるはずだった。
何があろうとも、ベアトリクスの思い通りにはさせない。
民兵団は優秀だった。
セルビア軍の防衛線を次々と突破し、側面からのサポートチームの援護射撃を受けながら、アタックチームが中央広場になだれ込み、遮蔽物で身を守りつつそこにいるはずのセルビア人達に銃口を向ける。
だが。
「セルビア軍が・・・・・・いない?」
真っ先に広場に踏み込んだ少年兵が、驚きの声を上げる。
広場はもぬけのからだった。
「くそ、罠か!」
隊長が慌てて身をかがめ、周囲に目を走らせる。
「いや・・・・・・違う」
同様に広場を観察して、少年兵は首を振った。
足元を見れば、沢山の真新しいタイヤの後。
辺りには銃やロケット砲、通信装置、水筒や双眼鏡が散乱している。セルビア軍のものだ。
ついさっきまで、人のいた気配があった。
「見て下さい、武器や通信機があちこちに投げ捨ててあります。かなり大慌てで逃げたようですね。一体どうして・・・・・・」
民兵達は狐につままれたような気分で、マリーセレスト号状態となっている中央広場を見回す。
「我々に恐れをなして逃げたんじゃないのか?」
「それならこんな逃げ方はしないでしょう。彼らは確かに、我々と戦うつもりでここにいたんです・・・・・・ついさっきまで。これではまるで・・・・・・」
民兵達は気付かなかった。
広場のあちこちに突き刺さる、無数の小さな黒い羽根に。
「まるで、我々が来る前に他の敵に襲われたような・・・・・・」
「全員、そこを動くな!」
突如広場に響き渡る空からの声。
声の主を探して上を見上げた民兵達は、一人を残してそのまま凍りついた。
「うふふふふっ、びっくりさせちゃった?」
どんな猛禽のそれよりも大きな、禍々しい黒い翼が空を覆い隠している。
そしてその巨大な翼の持ち主は、光の剣を片手に、小悪魔のような笑みを浮かべて空に浮かんでいた。
「あ、あ、あ・・・・・・」
何と言っていいかわからず口を魚のようにぱくぱくさせている兵士。
目をフクロウのように真ん丸にしている兵士。
放心状態になって腕をナマケモノのようにだらりとたらしている兵士。
反応は様々だったが、まあアーデルハイトを初めて生で見せられた人間は普通こうなる。
翼を普段の何倍にも広げて空に浮かぶアーデルハイトは、とりあえず攻撃しようとしてくる者が誰もいないことを確認して内心で安堵した。
まずは第一関門は突破だ。
こうやって最初に強烈なインパクトを与えることで相手の戦意を喪失させ、後は話し合いで解決するのがアーデルハイトのセオリーだった。
余計な殺生は極力避けるのがアーデルハイトの主義だ。
敵を殺すのは面倒だし、何より後味が悪い。
前回交戦したセルビアの正規軍のような手合いは厄介だが、ろくに訓練も受けていない民兵ならこのぐらいの脅しで十分無力化できる。
凍りついたまま動かない民兵達を満足げに見渡してから、アーデルハイトはついさっきまでここにいたセルビア側の兵士達にしたのとほとんど同じ口上を始めた。
「そうそう、聞き分けが良くって助かるわ。いいことクロアチアの民兵さん達、まずはっきりさせとくけど、今貴方達の目に映ってるものは、残念なことに幻覚でもなんでもない、紛れも無い現実なの。いわゆるひとつのアンビリバボー体験ってやつ? まあこうやっていちいち説明しなくても私を見れば一目瞭然だとは思うんだけどぉ、ぶっちゃけちゃった話私はこの世の物理法則が通用しないちょっとばかし非常識な存在なわけ。わかるぅ? で、わかったついでにお願いなんだけど、今すぐ持ってる武器を捨てて解散してほしいの。私は別に貴方達がここで何をしていようと知ったことじゃないんだけど、貴方達がここでセルビア相手にどんぱちやると困る人達がいるらしいのよぉ。え、誰かって? それは企業秘密。とーにーかーくー、戦争ごっこは他の場所でやって頂戴。そうじゃないとお姉さん困っちゃう。ね? みんな良い子だからぁ」
こういう時、猫なで声で喋ると不気味さが増すらしい。
前にアーレンが持っていた何かの本にそう書いてあった。
一通り喋り終えて、アーデルハイトは民兵達の反応を窺う。
だが、当然といえば当然だが、民兵達は相変わらず呆けたような顔でアーデルハイトを見上げているだけで、誰も返事をしなかった。
「あらぁ、返事はどうしたの? 私のクロアチア語、聞き取り辛いかしら?」
ステップ二。
アーデルハイトは広場を囲んで建つビルの一つをおもむろに指差す。
何事かと何人かがビルの方に視線を向けた。
すかさずアーデルハイトは戦闘管制妖精エルフェンを呼び出す。
「フルオート射撃よ、エルフェン」
〈ラジャー〉
瞬間、アーデルハイトの左右に広がる翼がバルカン砲のような唸りを上げた。
アサルトフェザー(電磁攻性羽弾)。
アーデルハイトが持つ攻撃手段の中では一番オーソドックスなものだが、その建造物に対する破壊力たるや絶大だ。
秒間実に二〇〇発の掃射で梁と柱を粉々に砕かれ、ビルはたちまち粉塵を上げて一同の目の前で倒壊していく。
隊長以下古参の民兵達はもはやすっかり腰を抜かして言葉も無い。
ちなみにさっきここにいたセルビア兵達はこれで一目散に逃走した。
話し合いの仕上げをすべくアーデルハイトは再び口を開く。
少し荒っぽいやり方だが、時間が無かった。
ベアトリクスが何を企んでいるかはまだわからないが、もし本当に昔パナマでやったのと同じことをやろうとしているのなら、ベアトリクスの部隊がやってくる前に彼等を逃がさなければならない。
「ほら黙ってないで返事をしなさい。私こう見えても忙しいのよ、この建物と同じ運命を辿りたくなかったら・・・・・・」
「天使様!」
信じられないことが起こった。
民兵の一人がアーデルハイトの口上を遮ったのだ。
「え・・・・・・?」
予想外の事態に驚いて、アーデルハイトは下を見回す。
「お、おい何やってるんだよマルコ!」
「こ、こ、殺されちまうぞ!」
叫んだのは、一人の少年兵。年配の民兵達から肩を抑えられてもなおアーデルハイトをまっすぐに見て叫んでいる。
「天使様! 天使様ですよね? どうしてですか? 天使様は僕達の味方じゃなかったんですか?」
どこかで聞いた声だ。それに。
「・・・・・・マルコ?」
アーデルハイトは、その名前を覚えていた。
あれは確か――
「貴方・・・・・・ひょっとして?」
忘れもしない。
半月前モスタル近郊のあの村で、セルビア軍から姉を守ろうとして捕まっていた少年だ。
「坊やじゃないの。貴方・・・・・・どうして民兵組織なんかに?」
「決まってるじゃないですか! セルビアと戦うためですよ!」
咎めるようなアーデルハイトの詰問に、少年はきっとアーデルハイトを睨んで言い返す。
アーデルハイトは我を忘れて翼をたたむと地面に降りる。
「ひいっ!」
「き、き、き・・・・・・君のお友達かね、マ、マルコ君?」
二人の会話についてこられない他の民兵達があっけに取られて後退りしているが、もはやアーデルハイトの眼中にはなかった。
「そんな・・・・・・お姉さんはどうしたの! 大切な弟がこんな危険なところで戦っていたら、お姉さんどんなに心配するか・・・・・・」
姉のことを言われて、少年の目が真っ赤になった。
「姉は・・・・・・」
「え・・・・・・」
「姉はあの二日後に、セルビア軍の砲撃で死にました!」
「・・・・・・!」
優しげな顔をした年若いシスターの顔が、アーデルハイトの脳裏に一瞬浮かんで、消えた。
「天使様、言いましたよね。姉を守れって・・・・・・。でも、僕には守れなかった。たった一人だけの家族だったのに、大好きだったのに、僕にはただ冷たくなった姉にすがりついて泣きじゃくることしかできなかった。姉だけじゃありません。この戦争が続く限り、こうやって人が死に続け、悲しみが生まれるんです。・・・・・・それを断ち切るために、僕はこうして戦う道を選んだんです」
先ほどまでのように激するのではなく、静かにそう語る少年の瞳は、ぞっとするほど暗い灰色をしていた。
まるでそこに、底無しの虚ろな暗闇があるような、光を失った瞳。
こういう目をした人間を、アーデルハイトはちょっと前にも見たことがあった。
ああ、こうやって繰り返されるのか。
自分のことを語り終えた少年は、再びアーデルハイトに不審の目を向ける。
「そういう天使様こそ、どうして僕達の邪魔をするんですか。まさかセルビアの味方になったんじゃないですよね? それとも、あの平和がどうこうと偉そうに言うくせに自分の身が危うくなったら真っ先に安全な場所に逃げる国連軍みたいに、天使様も僕達に戦いは止めろとでも言うつもりですか?」
少年の問いかけで、アーデルハイトは我に返った。
「ち・・・・・・違うわよ! 私は貴方達を助けるためにこうやって・・・・・・」
言いかけた時、突然アーデルハイトの頭の中でエルフェンの警告音が鳴り響いた。
〈警告! 後方六時よりガンシップらしき熱源が接近!〉
「伏せて!」
そう叫ぶと同時にアーデルハイトは少年を地面に引き摺り倒した。
直後、二人が立っていた空間を嵐の様な機銃掃射が薙ぎ払う。
防壁展開は、間に合わなかった。
反応するのが遅れた何人かの民兵が、銃弾で文字通りばらばらになって吹き飛ばされていく。
通常の機関銃とは比較にならない威力。
NATO軍で一般的に使われている七・六二ミリ弾ではなく、はるかに大口径の三十ミリ自動式機関砲。
間違いない、対戦車ヘリだ。
「みんな!」
「見ては駄目! 傷になる!」
悲惨な光景を見せまいと少年の目を両手で押さえながら、アーデルハイトはエルフェンを叱責した。
「何故この距離に接近されるまで探知できなかったの!」
〈・・・・・・エンジン音及びローター音が微弱だったため、聴音センサーの反応が通常より遅れました。音紋をデータベースに照合・・・・・・該当機無し。特殊な減音システムを採用した新型ヘリコプターと推定します〉
エルフェンにしては珍しく、回答に自信が無い。
それにしても・・・・・・減音システム?
そんなものが実用化されたなど、聞いたことが無い。
アーデルハイトの知る限り、そんな特殊な技術でヘリコプターを改造するような芸当ができるのは――
〈仕事をさぼるのは良くないのですことよ、アーデルハイト~〉
耳障りな黄色い声が、アーデルハイトの思考に割り込んでくる。
たった今機銃掃射をしたヘリコプターからの通信。
ベアトリクスだ。
「私に任せるって言ったはずよ、ベアトリクス!」
怒鳴り返しながらアーデルハイトは、周辺一帯に防壁を展開する。
それと同時に、廃墟の影からベアトリクスの乗ったヘリが姿を現した。
地上一メートル以下の超低空にホバリングして遮蔽物の影に身を潜めていたのだ、それもヘリコプターなのに音も立てずに。
忍者のような恐ろしい兵器だ。
狐の顔を思わせるスリムなボディは、湾岸戦争で世界的に有名になったあのAH‐64アパッチと酷似しているが、細かいところで形状が違っている。
何より特筆すべきは、コックピットを異常に小さくしてあるところだった。
まるで人間が搭乗することを前提としていないかのように。
間違いない、四年前パナマでベアトリクスが乗っていたAH‐64Wダインスレイヴだ。
しかし、四年前のこの機体は、ローターブレードの旋回音を消す能力までは持っていなかった。
あれからさらに改良を加えたということか。
〈あ~ごめんなさいアーデルハイト、任せるってのは嘘だったのですことよ。今日は四月一日、エイプリルフールですことよ~おほほ~〉
「く・・・・・・!」
アーデルハイトは歯軋りした。
嘲るように広場の周りを旋回しながら、ベアトリクスはアーデルハイトを挑発し続ける。
その機体の両脇にガルウィングのように張り出した補助翼の下にあるハードポイントには、ご丁寧に二種類のミサイルが装着されている。
対地ミサイル、AGM‐114ヘルファイアはアパッチの標準装備だが、もう一種類は空対空ミサイル、スティンガーだ。
普通対戦車ヘリに、空対空装備は必要ない。
それなのに敢えて装備されたこのスティンガーが誰に向けられているかを悟って、アーデルハイトは表情を硬くした。
〈あら~、怒らせちゃいましたのですこと~? ごめんなさいね~、私、アーデルハイトっててっきりユーモアを理解してくれる人かと・・・・・・〉
「この民兵組織はさっき私に投降した! 今武装解除をしていたところよ。攻撃するのは止めなさい!」
わざとらしい道化を続けるベアトリクスをアーデルハイトは鋭く遮った。
それを聞いて、ベアトリクスはヘリを旋回させるのを止める。
〈・・・・・・投降? ・・・・・・武装解除? 一体何を言っているのですこと?〉
ベアトリクスは唐突に、通信の向こうで笑うのを止めた。
ヘリはアーデルハイトの目の前で静止した。
機首の機関砲が鎌首をもたげ、アーデルハイトの顔に真っ直ぐにポイントされる。
〈・・・・・・アーデルハイト、貴女何を聞いていたのですこと? 武装解除してくれだなんて、誰が言ったのですこと? ・・・・・・私達が受けた任務は、そいつらの殲滅ですことよ〉
少年を後ろにかばって、アーデルハイトは機関砲の銃口に正面から向き合った。
ヘリが巻き起こす風で、長い銀髪が横になびく。
「貴女と違って記憶力は良いから、当然覚えてるわよ。それがどうかした?」
なんでもないように軽く肩をすくめて、アーデルハイトは訊き返す。
〈だったら話は早いですことよ。貴女の後ろにいるその虫けらどもを、さっさと片付けなさい〉
「あのねぇ、ベアトリクス・・・・・・」
凄みの効いた微笑をたたえて、教師が教え子の間違いを指摘するように、アーデルハイトはゆっくりと答える。
「大丈夫? 貴女、目が悪いんじゃないの? 私の後ろに虫なんかいないわ」
瞬間、アーデルハイトは左右の翼を一気に広げた。
平時は四十センチも無い小さな翼が六メートルを超える巨大な翼に変貌し、そこに装填された無数のアサルトフェザーが、ベアトリクスのヘリをロックオンする。
「ここにいるのは人間よ! 『虫けら』じゃない!」
だがアーデルハイトの気迫にも、ベアトリクスはたじろがない。
「これは上官としての命令ですことよ」
「・・・・・・命令、ですって?」
アーデルハイトの眉間にしわが寄った。
怒りが極限にまで達した証拠だ。
「もう一度言ってくれない、ベアトリクス?」
「何度でも言って差し上げるのですことよ、エンジェル・アルファ。非合法な破壊活動を行うテロリストを殲滅しろ。これは命令だ。・・・・・・この命令に逆らうことが何を意味するのか、わかっているのですこと?」
怒っているふりをしてはいたが、ベアトリクスの声はとても楽しそうだった。
そう、ベアトリクスはこの状況を楽しんでいた。そしてそこから生まれる結果も。
「・・・・・・うだつの上がらない二号機の分際で、この私に『命令』を? ベアトリクス、悪いことは言わないわ。取り消すなら今のうちよ」
アーデルハイトの声は、意識して抑えてはいたが実際には臨界に近かった。
ベアトリクスはそこに、とどめの一撃を加える。
「貴女こそ考えを改めるなら今のうちですことよ。本来ならば今までの言動だけで軍法会議ものですけど、まあ同じヴォルフスフリューゲルが反逆者になると私も肩身が狭いですから、今だったら上層部へ報告せずに済ませてあげてもいいですことよ。そうですねえ、そこにいる虫けらどもを私の見ている前で一人ずつ貴女のその手で絞め殺すってのはどうですこと? そうしたら考えてあげてもいいですことよ、おほほほほほ!」
敢えて最大限の侮辱の言葉を選び、徹底的にその戦士の誇りを踏み躙る。
計算された挑発だった。
「・・・・・・」
「ほらほらあ、早くやるのですことよ、全員絞め殺し終わるまでここで見ていてあげますから」
「・・・・・・」
アーデルハイトはうつむいて、何も返事をしない。
後一押しだ。
ベアトリクスの目が、アーデルハイトの後ろにいる少年に留まる。
民兵組織の一員だろう。
まだあどけなさの残る顔。
ベアトリクスとアーデルハイトとの通信は、彼には聞こえていない。
年相応のおびえた顔で、アーデルハイトの後ろからヘリを見ている。
少年兵などとはいうが、所詮はやはりまだ少年ということか。
「どうしたのですことぉ? ほら早くしてくれないとヘリコプターの燃料が勿体無いのですことよ。そうですねえ、まずは貴女の後ろに隠れてるその可愛い男の子から殺っちゃって欲しいのですことよぉ」
「・・・・・・!」
アーデルハイトのこめかみにくっきりと青筋が浮かぶ。
――ふうんアーデルハイト、貴女ってそういう子が好みなのですこと?
「あ、ビデオに撮って闇市場に売ったらそういうのが好きな変態さんが高値で買ってくれるのですこと? 貴女の白くてすべすべした綺麗な手がぁ、その子の華奢な首をきゅうっと絞めてえ、その子が苦しそうにはぁはぁ言ってそのうち動かなくなる・・・・・・ああ想像しただけで身もだえしちゃうのですことよ~」
「ベアトリクス・・・・・・!」
「そうよ殺すのですことよそのガキを! 命令なんだよさっさと殺せ!」
「ベアトリクスッッッ!」
ついに、限界を突破した。
アーデルハイトの怒りが爆発する。
瞬間、ベアトリクスは素早くスティックを引いて機体を急上昇させ、中央広場を離脱した。
ヘリの胴体のぎりぎり下を、アーデルハイトのアサルトフェザー斉射が際どくかすめていく。
このヘリの並外れた機動力でなければ、間違いなく撃墜されていただろう。
だが九死に一生を得たにも関わらず、ベアトリクスの顔に浮かんでいたのは会心の笑みだった。
「ふう・・・・・・やっぱりね、アーデルハイト。貴女はこの何年かですっかり腑抜けになったのですことよ。四年前の貴女は、こんな安い挑発に乗ったりはしなかった。それに敵の命を庇うなんて、随分とお優しくなったこと。その優しさ、気の迷いが、戦場では命取りになるというのに!」
そのまま再び市街地の通りの中へとダイブして、町の建物を盾に超低空飛行を始める。
複雑なじぐざぐ飛行を続けながら、ベアトリクスは自分の指揮下にある部隊の回線に宣言した。
「全部隊に告ぐ。先ほどCIA一部部隊による、合衆国政府並びに北大西洋条約機構に対する重大な反乱が発生した。我々は現刻より、全力でこれを制圧すべく、戦闘を開始する」
次にベアトリクスは、もうひとつの専用回線につないだ。
「マリー、こちらは予定通り、状況は第二段階に移行したのですことよ。そちらの準備は?」
〈万全であります、大佐殿。ご命令があればいつでも出撃可能です〉
数秒と待たずにベアトリクスの副官、マリーの声がした。
「よし・・・・・・では彼女達につないで」
〈イエス・キャプテン〉
マリーの返事の後、通信機の向こうで、何かが切り換わる音がした。
しばらく間をおいてから、ベアトリクスは再びレシーバーを口にあてた。
「・・・・・・私の愛しい妹達よ」
通信している相手からの返事は無い。
ただノイズのような音がかすかに漏れ聞こえるだけ。
だがベアトリクスは気にせずに続けた。
「狩りの時間ですことよ。今日、貴女達の実力が試される。今回の獲物はこれまでのような生温い相手ではない。これまで世界最強の機動兵器の名をほしいままにしてきた空の狼。でも、臆することは無い。何故ならその通念は、この戦いをもって打ち破られるから」
通信機の向こうから、パソコンが起動する時のような音が聞こえ始める。
「彼女はアフガンでイワン共のハインドを何十機も屠ってきた。だから彼女は『対戦車ヘリコプター』なんて、クリスマスにスーパーに並んでるリボンのついた七面鳥同然だと思っているのですことよ。でも生憎、貴女達は太った七面鳥ではないのですことよ。かといって、血に飢えた狂犬でもない。どんな獰猛な獣でもしとめられる狡猾さと、いかなる過酷な状況下でも任務を完遂する忍耐力とを持った最強の猟犬。・・・・・・スティンガーの牙で、獲物の喉笛に喰らいつきなさい」
相変わらず、返答は無い。
だがベアトリクスは、満足した様子で目を閉じた。
「・・・・・・マリー、彼女達を出撃させて」
〈イエス・キャプテン〉
通信を切って、ベアトリクスは目頭を押さえる。
「祈らずにはいられないのですことよ。全員無事で帰投して下さい・・・・・・私の妹達」
同時刻。
町の郊外に広がる平原に、まるで墓標のように、二十九個のコンテナが並べられている。
近くに停車した大型トラックに偽装した指揮車の中マリーは、無表情で静かに命じた。
「・・・・・・始めろ」
それを合図に、コンテナの外板がゆっくりと四方に展開し、中の物が姿を露にする。
折り曲げられていた補助翼が真っ直ぐになり、後方に束ねられていた回転翼が広がる。
二十九機の、AH‐64Wダインスレイヴ。
中世の騎士が剣を振り回すかのように、メインローターが回り始める。
異変を察して逃げるように草原を飛び立つ鳥の群れを従えて、鋼鉄の猛禽達は空へ舞い上がった。
「任務内容はフォーメーションD・8、敵勢力優勢地域での強襲制圧、及び対ゲリラ遭遇戦を想定しろ。目標の捕獲に全力を尽くせ。作戦の障害になるものはその如何を問わずこれを排除せよ。合衆国政府は、あらゆる犠牲を容認する。・・・・・・繰り返す」
電子機器の照り返しでひどく青白い顔をしたマリーは、通信機に淡々と告げた。
「合衆国政府は、あらゆる犠牲を容認する」
どうも嫌な予感がする。
既に灰皿をはみ出し山のようになった煙草の吸殻を乱暴にデスクの脇に押しやると、アーレンは膝をついて頭を抱えた。
「何か飲み物をお持ちしましょうか、ボス?」
心配そうな顔をして秘書の女性スタッフが声をかけてくる。
「・・・・・・いや、結構」
ひどく機嫌の悪い低い声で返事をすると、秘書は触らぬ神にたたりなしと慌てて遠ざかっていく。
アーレンは思い出したかのように新しい煙草に火をつけた。
ぼんやりと横の壁を眺める。
壁にはセロテープで、
『禁煙! 人間は煙草を吸いすぎると肺が故障しちゃうらしいわよ』
と大きく書かれた紙が貼ってあった。
ひどく下手くそな字だ。
小学生でもこんな字は書かないだろう。
だが、アーレンは今、これを書いてくれた人物のことが心配でたまらなかった。
・・・・・・正確には人ではないが。
今更ながら貼り紙の言いつけに従って煙草を途中でもみ消すと、アーレンは電話をとった。
なんだか、ひどく悪い予感がする。
長年CIAで働いてきた彼の勘が、現状に対して警告を発していた。
これまでに幾度も、アーデルハイトが飛び立つのを見送ってきた。
世界中の数え切れない紛争地帯を点々としながら。
ちゃんと帰ってくるか、心配したことは正直何度もある。
だがそれは危険な任務だから、というわけではない。
世界最強の機動兵器である彼女にとって、その身体が危険になるような任務などほとんど無い。
それよりも不安だったのは、彼女がCIAを去ってしまうのではないかということだった。
初めて出会ってからこの数年で、アーデルハイトの任務に対する姿勢は変わったような気がする。
自分の納得の行く任務には前よりも積極的に取り組むようになり、それは好ましい変化だったが、一方で納得のいかない、理不尽だと感じる任務には戸惑いやためらいを見せるようになった。
もう、認めざるを得ない。
かつて何事にも冷笑的で無関心、ただ淡々と目の前の任務を遂行するだけだった『高機動特装戦闘爆撃機エンジェル・アルファ』はもういない。
彼女は変わった。
今回だけではない、彼女にとって理不尽な、納得のいかない任務はこれまでにも沢山あった。
そのたびに彼女が憤り、悩んできたのを、アーレンは見て知っている。
だから、アーデルハイトがいなくなってしまうのではないかと、ずっと不安だった。
そもそも、アーデルハイトは何故CIAに居続けるのか。
アーレンがこの役職についてから、一度ならず疑問に思ってきたことだ。
アーデルハイトはその気にさえなれば、いつでもCIAを出て行くことができる。
理由は簡単だ。
CIAはアーデルハイトを必要としているが、アーデルハイトはCIAを必要としていない。
CIAばかりか、人間を必要としていない。
聞いた話では、ヴォルフスフリューゲルシリーズのうち彼女以外の機体は、『解錠者』と呼ばれる人間の補助が無いと一定の時間を超えて動き続けることができないような構造になっているらしい。
アーデルハイトと同じユミルスマクトなる永久機関を皆内蔵しているはずなのにどうしてそうなっているのかはわからないが、少なくともその構造的束縛が、他のヴォルフスフリューゲルを人間の世界に繋ぎ止めている。
だが、アーデルハイトにはそれが無い。
発見されてからこの半世紀、彼女は誰の力も借りずに動き続けている。
第一三特殊作戦部隊群には、アーデルハイトのメンテナンスを任務とする専門の整備班がおかれているが、整備班とは名ばかりの機体を分析するチームに過ぎない。
アーデルハイトの身体が正常か点検するのが主な役目で、本当の意味での整備、つまり一般の整備兵が戦闘機や戦車に対してするような、修理や分解といった行為はできない。
当然だ、彼女の身体の構造が現代の科学では全く解明されていないのに、修理や分解などできるはずがない。
それができるのは作った本人のヴォルフ博士だけだろうし、それにアーデルハイトの身体は修理を必要としない。
無機物から作られた人形のはずなのに、人間と同様に、いやそれをはるかに超えた治癒力があるからだ。自己修復能力、とでもいうべきか。
だから、アーデルハイトは人間と一緒にいなくても構わないのだ。
そして、CIAは彼女が離れるのを止められない。
その小さな身体で一個機甲師団を上回る戦力となるアーデルハイトを力で抑えるためには核兵器でも使うしかないし、上層部にそれを試す度胸は無いだろう。
では逆に何故、彼女はCIAにいるのだろう。
この組織は、彼女の性格に向いていない。
正義の味方に憧れて警察に入ったら実際には中は腐敗していてがっかりしました、というのとはわけが違う。
開き直るわけではないが、CIAは最初から汚い組織なのだ。これは世界中の誰もが知っている。
CIAは諜報機関だ。
合衆国大統領に直属し、膨大な予算と超法規的な権限を与えられて、アメリカの外交・国防政策の決定に必要な情報の収集と、アメリカの国益のための対外工作・・・・・・つまりは暗殺や、情報操作や、プロバカンダ、民衆扇動といった不安定化工作、あるいはアメリカにとって都合の悪い物事の隠蔽を行う組織なのだ。
反米的な国での反政府勢力に対する秘密援助や体制転覆の画策など、表の世界では出来ないダーティーワークに従事し、『インヴィジブル・ガバメント』、『クーデターメーカー』などというありがたくもない通り名をいくつももらっている。
本国ではケネディ大統領を暗殺したのはCIAだとまで、まことしやかに囁かれているほどだ。
つまるところカタギの仕事ではない。
対して、例え超技術でつくられたオーパーツだろうと無敵の機動兵器だろうと、今のアーデルハイトは性格自体はちょっとわがままなくらいのごくまっとうな女、というのがアーレンの率直な意見だった。
もしも――非現実的な想像だが――もしも彼女が人間に生まれていたら、普通に就職でもして、いつか良い男と結婚して、家庭をもって幸せに暮らして、そして最後は愛する孫達に見守られながら静かにこの世を去っただろう。
彼女は、本当はここにいてはいけないのだ。
こんな陽の当たる世界と縁を切った悲しい運命の男達と一緒に、硝煙と血の臭いの漂う世界中の紛争地帯をうろついて、決して自慢できそうにもない理由で戦う・・・・・・そんなことをやらなくてもいいはずなのだ。
そんな、人に言ったら空想的で偽善的だと一笑に付されること間違いない思いを、アーレンは胸の奥にずっと抱いてきた。
だが、アーレンの思いとは裏腹に、アーデルハイトはどんなに任務に不満があっても、必ず帰還した。
だから、今回も必ず帰ってくると、そう信じたかったが、しかしアーレンの脳裏には、昨日夕暮れの丘の上で話した時の彼女の儚げな後ろ姿が、こびりついて離れない。
嫌な予感は、増すばかりだった。
数十回以上呼び出し音がした後、ようやく電話はつながった。
〈アーレンか!〉
しゃがれた老人の声。本国を離れて久しく会っていない、ラングレーにいるアーレンの上司だった。
彼ならあのエンジェル・ベータ大佐とかいう鼻持ちならないヴォルフスフリューゲル二号機の赴任について納得のいく説明をしてくれるかもしれないとアーレンは期待していた。
「お忙しいところすみません部長、例の件で相談が・・・・・・」
〈アーレン、お前何をやらかした!〉
ひどく切羽詰った老人の怒鳴り声が、アーレンの言葉を途中で遮る。
「はい?」
〈とぼけるな! こっちは今大変な騒ぎなんだぞ! さっきも司法省の連中がやってきてわしのオフィスを引っ掻き回していきおった!〉
「司法省が? 何の権限で・・・・・・」
〈委員会の指示だそうだ! ヴォルフスフリューゲルの管理運営に関する最高意思決定機関が、空陸両用自動歩兵運用準備委員会なのは知ってるだろう? 連中曰く、お前んとこのあの呪い人形が連邦政府に対する反乱を起こしたから証拠書類を押収すると・・・・・・お前の監督責任だぞアーレン! 全く、とんでもないことをしでかしおって・・・・・・だからあんな得体の知れない呪い人形、さっさと軍にくれてやっていれば良かったんだ!〉
電話のむこう、老人の怒鳴り声の後ろで、ドアが乱暴にノックされる音が聞こえる。
続いて何人もの人間が部屋に踏み込んでくる音。
〈! ま、また奴等だ! あーくそ、なんでわしがこんな目にあわないといけないんだ・・・・・・おいこら、勝手に入ってくるな! わしを誰だと思ってるんだ!〉
「・・・・・・部長、前にも言ったと思いますが、一つよろしいですか」
しばらく考えてから、アーレンはゆっくりと言った。
「彼女は『呪い人形』じゃない、我々の仲間です」
部長からの返事は無かった。
代わりに受話器が床に落ちて転がる音と老人の叫び声が響いた。
アーレンはため息をついて電話を切る。
直後、格納庫を爆発音が揺さぶった。
扉がC4(プラスチック爆弾)で吹き飛ばされたのだ。
女性職員が悲鳴を上げ、大尉が伏せろと叫ぶ。
破壊された扉から、完全武装した兵士達が突入してくる。
対NBC戦用の真っ黒なボディアーマーに防護マスク、暗視ゴーグル、ダースベイダーのような黒いヘルメット。
第六六六特殊任務大隊エンジェル・コマンドグループの兵士達だ。
「全員動くな! 反乱容疑でお前達の身柄を拘束する!」
先頭の兵士が天井に向けて自動小銃を威嚇射撃する。
跳弾で棚の上にあったアーデルハイト愛用のティーカップが砕け散る。
「始まったか・・・・・・」
両手をあげながら、アーレンは小さく呟いた。
当てた。
そう思った次の瞬間、アサルトフェザーの斉射をかわしてアーデルハイトを嘲笑うかのように補助翼を一度大きく振ると、ベアトリクスのヘリは急上昇して視界から消えて行った。
「・・・・・・外した?」
アーデルハイトは歯軋りした。
威嚇射撃などではない、本気で撃墜してやるつもりだったのだ。
「照準システムが狂ってるわよ! 再調整して、エルフェン!」
〈否定。弾道誤差は設定値の範囲内です〉
「だったら何故当たらない!」
戦闘管制妖精を怒鳴りつけながらも、アーデルハイトは弾が外れた理由がシステムの不調ではないことがわかっていた。
間違いない、四年前より格段に性能が上がっている。
減音システムといい、このすばしっこさといい、厄介な相手だ。
「て・・・・・・天使様!」
マルコの声で、アーデルハイトは我に返って振り向いた。
「一体何が・・・・・・」
ひどく怯えた顔をしている。無理もない、アーデルハイトとベアトリクスとの通信内容を知らない彼には、何が起こったのかもわからないだろう。
「びっくりさせてしまったわね・・・・・・ごめんなさい」
マルコを安心させるために笑顔をつくりながら、アーデルハイトの頭の中ではベアトリクスに侮辱されて生じた怒りが普段の冷静さに取って代わり、一つの結論に達しようとしていた。
それは出撃前から、薄々感じていたことではあった。
罠かもしれないということ。
だが策士のベアトリクスはいつも何かろくでもない策略を練っているものだし、はっきりと何かはわからなかった。
どうせまたパナマでやったように、現地住民を実験台に新兵器の試し撃ちをやる、そんなところだろうと思って、それを止めるために出撃してきたのだ。
――しかし、もしベアトリクスの狙いが、最初から私だったとしたら。
私が激怒し逆らわざるを得なくなる状況を作り出し、私をこの舞台に誘い込んだのだとしたら。
アーデルハイトはCIA専用の衛星通信をかけてみた。
アビアノ基地にいるアーレン達につながる回線だ。
呼び出し音が空しく響く。
きっかり二十秒数えて、アーデルハイトは通信を切った。
第一三特殊作戦部隊群の総員が詰めているはずの格納庫で、誰も通信に出ないとすれば、考えられる事態は一つしかない。
あのうだつの上がらない二号機を、どうやら甘く見すぎていたようだ。
私はベアトリクスの挑発に、最悪の形で乗ってしまった。
「・・・・・・マルコ」
再び言葉を発した時、アーデルハイトの声色はそれまでとは違っていた。
「はい!」
マルコは思わず背筋を正す。
「この部隊の指揮官は?」
「それは・・・・・・彼でした」
過去形だった。
対戦車ヘリの機関砲は、装甲車輌の天板でも射貫ける威力を持っている。
人体を直撃すれば、内蔵や皮膚をずたずたのミンチにされ、頭蓋骨や大腿骨、ありとあらゆる骨を粉砕され、人間の原形もとどめない。
沈鬱な表情でマルコが指差す先に転がっている無惨な亡骸を見て、アーデルハイトはふうっと溜息をつく。
「煙草を」
「・・・・・・え?」
驚いてマルコはアーデルハイトの顔を見た。
「持ってるでしょう、匂いでわかるわ。煙草を頂戴」
「は、はい」
アーデルハイトの剣幕に押されて、マルコはベルトに下げたマガジン・ポーチから煙草を取り出すと、言われるがままにアーデルハイトに渡した。
「まだ未成年でしょうに・・・・・・悪い子ね」
投げやりに呟きながら、アーデルハイトは煙草を口にくわえた。
「ユミルスマクト・ファンクション・ツヴァイ、加熱」
気を利かしてライターも出そうとしたマルコはあっけにとられた顔をした。アーデルハイトがくわえた煙草の先が勝手に発火したのだ。何の魔法かと思うだろう。
「不味いわねぇ・・・・・・なんて銘柄?」
「はい、クロアチア軍支給品のアストラルです。安物ですから・・・・・・」
「そう」
正直、初めて吸う煙草の味なんてわからなかった。
――アーレンが吸ってた奴、もらっておけばよかったな。
心のどこかで、そう呟く。
目を閉じると、つい昨日のピクニックの情景が、何年も前の出来事だったように遠くセピア色をしていた。
自分を囲んで笑っていた、第一三部隊群のスタッフ達。
生真面目な大尉、酒と博打好きな研究者達・・・・・・そしてアーレン。
優秀で、快活で、何より愛すべき人達。
あの時、私は確かに、孤独を忘れることができた。
孤独、それはどんな力をもってしても埋め難いもの。
ひょっとしたら、埋められるかもしれないと期待するが、いつも結局は埋められないもの。
――私は馬鹿だ。こんなに長く生きて、まだ学習していなかっただなんて。
何気ない日常とは、非日常と非日常との間にある中継ぎの時間に過ぎず、ただ何気ない日常というだけの消極的な幸せは、いつか実態としての非日常によって埋め合わされる。
だから悲しい。
また、失ってしまった。
もう私は、あそこへ帰ることができないのだ。
アーデルハイトは、ゆっくりと煙草を味わった。
何かを惜しみ、決別するかのように。
細い紫煙が、空へ昇って行く。
火の消えたアストラルを口にくわえたまま、生き残った四十名余りの民兵達につかつかと歩み寄り、アーデルハイトは腕組みをして全員を見回した。
ベアトリクスの機銃掃射で死んだ仲間の傍で呆然と立ち尽くす者、まだ辛うじて息のある仲間に見込みの無い手当てを試みている者・・・・・・皆お世辞にも戦意が高いとは言えなかったが、アーデルハイトには彼等に言わなければならないことがあった。
それは不覚にも彼らを巻き込んでしまったアーデルハイトなりの責任の取り方であり、そしてベアトリクスに勝利するための手段でもあった。
「全員よく聞け!」
小さな人形から発せられているとはとても思えない鋭い声が、びりびりと響き渡る。
民兵達はびくっとして皆アーデルハイトに視線を集めた。
「この中で生き延びたくないという者、そこで死んでいる戦友と運命を共にしたいという者はいるか?」
辺りがしんと静まり返る。
誰も微動だにしない。
「・・・・・・生き延びたいのね?」
念を押すように、アーデルハイトは訊ねた。何人かの民兵が、小さく首を縦に動かす。
「よし、ではたった今から、私がこの部隊の指揮をとる。残念ながらこの町は既に包囲されている、逃げ場は無い。生き延びたければ、これから襲来するであろうあのヘリの群れと戦って包囲網を突破しなければならない」
民兵達は、あっけに取られた様子でしばらく顔を見合わせていた。
アーデルハイトは腕組みをしたまま、じっと待っている。
「で、でもよ・・・・・・」
一人の民兵が勇気を振り絞ってアーデルハイトに質問する。
「あんなヘリと、どうやって戦えばいいんだ? 俺達小銃と対戦車ロケットぐらいしか持ってないし・・・・・・」
「十分よ」
アーデルハイトはにやりと笑うと、近くに転がっていた対空ミサイル・9K36ストレラ3を苦も無く持ち上げた。
「後はこれも。セルビア軍の置き土産ね・・・・・・これから使い方を説明する。対空ミサイルを撃った経験のある者は?」
人の怒り方には、二つのタイプがある。
怒りで頭に血が昇って赤くなるタイプと、逆に血の気が引いて青ざめるタイプだ。
人間の尺度でアーデルハイトをはかるなら、間違いなく後者だった。
赤くなって興奮するタイプは自分を傷付けることはあっても相手に怪我を負わせることはできない。
青くなるタイプは、どんなに劣勢でも少ない被害で確実に敵に打撃を与える。
アーデルハイトは民兵達に、細かい指示を出し始めた。
気がつけば、あれだけこの得体の知れない人形を恐れていた民兵達が、皆アーデルハイトの周りに集まっていた。