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狼の翼  作者: 如月真弘
2/8

SCENE‐1 長い一日 one say she is demon, one say she is weapon, and one say she is angel


 ズルッ……。


 ズルズルッ……。


 暗闇の中に、二つの影があった。

 何かを一心不乱にすする音が響く。


 ゴクゴクッ。


 飲み込む音。


 カラン……カラカラ……。


 何かが床を転がる音。

 そして――


「お代わりを頂戴」


 高飛車でどこか甘ったるい声が響く。

 命令を発したのは小さい方の影。横に直立する大きい方の人影は、抑えた低い声でそれに答えた。


「それで最後です、アーデルハイト様」


 灰色の軍服に身を固めた長身の軍人は努めて丁重な返事をしながら、足元の床に視線を向ける。

 軍人の足元には空になった発砲スチロール製の容器が一面に散乱し、そしてたった今彼に「お代わり」を要求した小さな影の横にはちょっとしたピラミッドがつくられていた。


「……なんですって」


 甘ったるかった声が、突然別人のようにドスの効いたものに豹変する。

 貨物室の気温が急に下がったような気がして、軍人は思わず身震いした。


「今なんて言ったの、大尉?」

「も、申し訳ありませんアーデルハイト様! ですが本当に今ので最後でして……」


 大尉と呼ばれた軍人は冷や汗を流しながら、小さな影に平謝りに謝った。


「麺類が足りないと、ドンパチやる気がおこらない。アビアノ基地まで戻って取ってきなさいよ、大尉。とびきり濃厚な背脂豚骨醤油味の奴をね」


 赤い非常灯に照らされて、小さな影の主がぼんやりと浮かび上がる。

 大の男、それもプロの軍人をして萎縮させているその主は、意外なことにとても小柄な少女だった。

 少女というよりむしろ幼女、と称した方が妥当なぐらいの小ささだ。

 そう、彼女を注意深く見さえしなければ、そう思うだけで済むだろう。


「いえ、それも含めて、全部です」

「……どういうこと?」


 だが、よく見ればこの暗闇の中でもはっきりと、彼女の異常さに気がつく。

 普通このくらいの大きさの子どもなら、単純な大きさだけでなく身体つきも、それに見合った幼いものであるはずだ。


「アビアノにあったストックも今回全部積み込みましたので。また日本から輸入しないといけませんね」

「……」


 しかし彼女は違っていた。

 幼女といってもおかしくない大きさであるにも関わらず、その身体つきは大人の女のそれと同様に均整が取れている。

 否、それ以上だった。第一級のグラビアアイドルでさえ遠く及ばないといっても過言ではないほどの、限りなく完璧に近いプロポーション。

 人間の幼女がこんな体格をしていることは、絶対にありえない。

 そう、人間なら。

 まるで大人をその体格のバランスを変えずに縮尺だけ小さくしたかのような存在……そういった存在は、この世に一つしかないはずだった。

 人形。

 人間の形状を模して作られたモノ。

 大尉の目の前にいる彼女は、人間ではない。

 そして同時にそれは、人形でもなかった。

 ヒトの手によって無機物から作られたにも関わらず、自らの意志を持ち、その意志によって行動する能力を備えた存在。


 ――ヴォルフスフリューゲル。


 その存在は、現時点でNATO(北大西洋条約機構)の最高クラスの軍事機密だ。

 だから今から数年前、大尉が初めて彼女の護衛を命ぜらた際に上層部から与えられた情報は、極めて断片的で乏しかった。

 今から約半世紀前、第二次世界大戦中のドイツに一人の天才科学者がいたという。

 ヴォルフ博士。

 ヴォルフスフリューゲルとは、彼によって作られたものだ。

 事実驚くべきことに、これまでに行われたあらゆる年代測定の結果が、この現代の科学技術では遠く及ばない能力を有する人形の製造年を、今から数十年以上も前だと証明していた。

 そして、彼がどうやってヴォルフスフリューゲルを作り出したか、それは現代の最先端技術をもってしても解明できない。既存の技術体系からはみ出した、いわばオーバーテクノロジーの産物。

 ちょっとばかし演算能力や学習能力が優れた電子頭脳が備わった超小型ロボット、というような生易しいものではない。

 従来のノイマン型コンピュータは勿論、ヒトの脳の神経細胞を模倣している最新のニューロチップを用いた人工知能でさえ、個性や感情の発現は未だ夢物語とされている。

 ロボット技術に至っては、二足歩行さえおぼつかないのだ。

 にも関わらず、ヒトに限りなく近い、いや、ヒトをも超えた能力をもった彼女が、電子工学もロボット工学も未だ未発達だった何十年も前の世界で作られたというのだ。

 それだけでも、科学的には信じがたい話だ。

 だがヴォルフスフリューゲルである彼女がこうして軍に重用されている理由は、他にあった。

 強大な破壊力を持つ兵器としての、軍事的利用価値。

 ヴォルフスフリューゲルの構造、性能は、未だ現代の科学では解明されていないブラックボックスがほとんどだ。そんな中、ヴォルフ博士が彼の美しい娘達に与えた性能で、一つだけ目に見える形ではっきりしているものがあるとすれば。

 その比類なき戦闘能力。

 ヴォルフスフリューゲル、この可憐な少女の外見をした人形は、その威力……機動力と火力において少なく見積もっても最精鋭の一個機甲師団に匹敵するとさえいわれ、たった一機で戦場のパワーバランスを覆しかねないポテンシャルを秘めた戦略兵器と位置づけられていた。

 ヴォルフスフリューゲルの存在が知られた当時は冷戦下。

 東西両陣営はこの小さな戦略兵器を、相手より早く確保して自分のものにしようと躍起になった。

 存在が確認されたヴォルフスフリューゲルは、全世界で十機に満たない。

 彼女は、そのうちの一機。

 高機動特装戦闘爆撃機、エンジェル・アルファ。

 ヴォルフスフリューゲルの一号機にして、NATOの管理下にある三機の中では抜きん出て戦闘能力に特化しているとされる。

 もっともヴォルフスフリューゲルの最大の軍事的価値は、その火力ではなく、むしろその機動力と隠密性にある。

 何しろ、例えば合衆国空軍が誇る巨人爆撃機B‐52を投入しないとできないような絨毯爆撃と同じ破壊力を、レーダーにもほとんど探知されないこの小さな人形が単機で行使してしまうのだ。精密にかつ隠密に敵を撃滅することが求められる特殊な奇襲作戦でこそ、彼女は実力を最大に発揮できる。

 そう、今回のような作戦でこそ。


〈エンジェル・アルファ、ロードマスターです。今ウェイポイント・ゴルフを通過しました。降下目標到達まで、後十五分です〉


 内線からの機長の報告に、「エンジェル・アルファ」と大尉は天井を見上げた。

 赤い非常灯に照らされた、金属の骨組みとパイプ類が見える。

 今自分たちがいるのは、高度九〇〇〇フィートを飛んでいる輸送機の格納庫の中だ。

 NATO軍ロッキードC‐130H輸送機ハーキュリーズ。

 四発のアリソン・ターボプロップエンジンが奏でる爆音が、細かい振動となって伝わってくる。


〈それと、観測班から悪いニュースです。セルビア軍の侵攻が想定より早い。このままでは舞踏会に間に合いません〉


「あら、いいじゃない? 少し遅れて入場するのが淑女のたしなみというものよ」


 そう言って不敵に笑う彼女の装いに目を落とすと、機長が使った「舞踏会」という比喩が必ずしも比喩に聞こえなくなる。

 彼女の身を包むのは、フリルが沢山ついた時代錯誤なまでに凝ったデザインのドレス。

 黒を基調とした衣装と背中まで流れる美しいプラチナブロンドの長髪が目の覚めるようなコントラストを描き、その姿は荘厳ですらある。

 ……カップ麺でいっぱいになったお腹を押さえて盛大にげっぷをしていなければ、の話だが。

 だから食べ過ぎだというんだ。大尉は顔をしかめた。


「……しかしアーデルハイト様、今回の作戦の目的は、UNPROFOR(国連防護軍)が行う当該地域のクロアチア系住民の保護の側面支援です。セルビア軍に虐殺されてしまってからでは遅いかと」


 大尉がそう進言すると、アーデルハイトと呼ばれた少女は目を丸くした。


「虐殺? 非武装の民間人をいきなり殺しはしないでしょ。捕虜にするとか」

「いいえ、残念ながら」


 大尉は静かに首を横に振る。


「彼らの目的はこの紛争に勝つことよりも、一人でも多くの異民族を殺すことですから」


「そうね……」


 少女の端整な横顔に、暗い影がさした。

 民族浄化。

 憎しみと復讐の連鎖が紡ぐ血塗られた歴史。

 この国はもう長い間、明日への希望を奪われていた。




一九九四年三月十五日 一四三〇時(中央ヨーロッパ時間) 旧ユーゴスラヴィア連邦 ボスニア・ヘルツェゴビナ モスタル近郊 クロアチア人居住地域


 どこかで砲声が響いている。

 かつては抜けるような青空の下、メルヘンの童話に出てくるような美しい田園風景とのどかな町が広がっていたのだろう。

 だが執拗に繰り返された戦闘が、童話の世界を廃墟に変えていた。

 戦車のキャタピラで踏み荒らされた田畑。機銃掃射で穴だらけになった家々。

 真っ黒な煤で覆われたビルには、ガラスがほとんど残っていない。

 歴史的価値のあったはずの古い建物は、どれも砲弾を浴びて崩れ落ち瓦礫と化していた。

 放置された火災があちこちで黒煙を上げ続け、空を鉛色に染めている。

 そのはるか上空を飛ぶ機影など、下界からは見えるはずもなかった……




「ここで降りるわ」


 まるで繁華街でタクシーの運転手に告げるような気取りも気負いも無い声で、少女はそう言った。


「は。しかしまだポイント・ホテルに到達していません」

「あんたが急かしたんでしょう? それに……」


 すっと立ち上がった彼女の背中。ヒトには決して無いものがそこにあった。

 漆黒の翼。小さな彼女の身体とは不釣合いなほどに大きい、猛禽のそれのような翼。


「これは、飾りじゃないのよ?」


 少女の言葉に合わせて、その翼が大きく前後する。


「わかっております。ですが、作戦区域外での単独行動は『カンパニー』に申請し許可を取る必要が」

「今は非常時よ」


 先ほどまでとはまるで別人のような凛とした声で、少女は大尉を遮った。


「大勢の人間の命がかかったこの時に、ラングレーのエアコン効いたオフィスでぐうたらしてる連中が決めた規則を私が守る理由は無いわ。ハッチを開けて」


 大尉もそれ以上は、時間を無駄にしなかった。


「イエス・マム。聞いたな機長! 機を回頭させてカーゴハッチを開け!」

〈了解、ハッチ開きます〉


 格納庫後部のハッチがゆっくりと開いていく。

 強い日光が差し込み、吹き込んだ乱流が格納庫内で荒れ狂う。

 床中に転がっていたカップラーメン、カップうどん、カップやきそば、ありとあらゆる日本のカップ麺の空き容器が舞い上がり、異国の空に散って行く。

 風に飛ばされないように左手で手すりにつかまった大尉は、右手で少女の背中に敬礼するのを忘れなかった。


「ご武運を!」


 既にふちに立って黒い翼をいっぱいに広げていた彼女は、振り返って風に負けない大声で叫び返す。


「帰るまでに麺類用意しときなさい! バリカタ極細麺と濃厚トコトンコツに、名古屋流台湾ラーメン、後ラーメン二郎をインスパイアしたやつもよろしく!」


 ラーメンジロウとはなんですかと大尉が訊ね返そうとしたときには、もうそこに彼女はいなかった。

 かすかなはばたきだけで、たちまち小さくなっていく背中。

 空に曲線を描き、どんな最新型の戦闘機でも出せない驚異的な加速で飛んでいく。

 黒い翼が朝焼けを浴びて、一瞬きらりと光ったのが見えた。

 その姿は、まるで……。

 大尉は、彼女の戦場での呼び名を思い出す。

 黒い天使。

 この戦場で、これほど自在に空を駆ける者は、他にない。




 血走った目をした兵士達が、半分崩れかけた小さな教会に銃口を向けていた。

 教会の入り口には、中に入りきらないのだろうか、あふれ出してうずくまっている大勢の人々。

 やせ衰えた老人、女、子ども……。赤ん坊の泣き声もする。

 誰も彼も衣服は汚れ、怯えて疲れきった顔をしている。

 彼らを兵士達から守るようにして、数人の若いシスターが教会の前に立ちふさがっていた。

 シスターの一人が、先ほどから兵士を必死に説得している。


「どうか……どうかお慈悲を! ここにいるのは戦乱で家を焼かれ、行き場を無くして逃れてきた避難民だけです。貴方様のおっしゃるような人間は……」

「うっせえんだよ、邪教徒の豚が!」

「きゃああああっ!」


 憤った兵士が、銃でシスターを殴りつける。


「ここは神の家です、お願いです、乱暴はやめて下さい!」

「黙れ! ここがクロアチア民兵の武器の隠し場所になってるってことはわかってるんだよ! この薄汚い人殺しどもめ!」

「違います! そんな、ここには武器なんかありません! 本当です、信じて下さい! 神に誓って……」


 銃を突きつけられて震えながらも、必死で懇願する少女達の目に偽りの色は無い。

 しかし。


「……貴様らの信じる汚らわしい神など、知ったことか」


 まるで押し殺したように低い、カサカサした耳障りな声。

 兵士達の後ろに停まった戦車の上に立っていた一人の将校が、そう言いながら戦車を降りた。

 カミソリのように鋭い目。頬には大きくて目立つ傷跡がある。


「大佐殿!」


 兵士達が、さっと左右に分かれて道をあける。

 頬傷の男はシスター達にゆっくりと歩み寄ると、先ほど殴られて倒れているシスターの顔を右手の指でぐいっと持ち上げた。


「な、何……?」


戸惑うシスターに、かすれたような低い声で囁く。


「いいか、よく聞けクロアチア人。ここがゲリラの根城じゃなかろうが何だろうが、そんなことは実際はどうでもいいんだ、我々にとっては」

「え? ど、どうしてですか……」

「決まってるだろう。お前達クロアチア人は、どっちみち皆殺しだからさ。ムラディッチ将軍閣下は、全土の浄化を望んでおられる」

「そ、そんな!」


 シスターは目を見開く。


「……まずは、お前からだ」


 頬傷の男は腰の拳銃を抜いて、シスターの頭に突きつける。

 その表情には、興奮も憤りも喜びも、何も無かった。

 ただの無表情。くすんだ灰色の瞳は、焦点があっていない。

 狂っている。シスターは身がすくんだ。


「恨むなら、自分達の身体に流れる、罪深い呪われた血を恨むが良い」

「ひっ……!」

「止めろお!」


 頬傷の男が引き金を引こうとした刹那、飛んできた小石が男の後頭部を直撃した。

 男は反射的に石の飛んできた方向に銃を向けつつ振り向く。

 いつの間に回り込んだのか。まだ年端のいかない少年だ。


「こいつ!」


 兵士達に取り押さえられ、懸命にもがきながら少年は頬傷の男を睨み付けて叫んだ。


「姉ちゃんを……姉ちゃんを放せ!」


 同時にシスターが少年の顔を見て悲鳴を上げる。


「マルコ!」

「ほう……」


 無表情だった頬傷の男の顔に、初めて感情らしきものが浮かんだ。

 ぞっとするような、冷たい笑みが。




 懐かしいにおいがする。

 火薬のにおい。

 鉄のにおい。

 油のにおい。

 血のにおい。

 街が燃えるにおい。

 人や動物がこげるにおい。

 大切なものが、失われていくにおい。


 砲声がとどろく戦場のはるか高空。

 「エンジェル・アルファ」ことアーデルハイトは、風の間をすり抜けるように飛んでいく。


「状況を、エルフェン」


 何もない空間にアーデルハイトがそう呼びかけると、彼女の視界のやや上に、ぱっと白い光球が浮かび上がった。

 戦闘管制妖精。

 ヴォルフスフリューゲルを情報処理、火器管制など各方面でサポートする為にシステムに組み込まれ、召還に応じて空間に立体投影される、擬似人格プログラムだ。

 いざ戦闘ともなれば、ヴォルフスフリューゲルは各センサーから収集される膨大な情報を瞬時に把握し、そこから正しい判断を導き出さねばならない。

 その洪水のように押し寄せる情報の交通整理をすることでヴォルフスフリューゲルの判断を助けるのは、戦闘時における戦闘管制妖精の重要な役目だ。


〈状況。MBT(戦車)三、脅威度レベルCの対空機銃を装備したAPC(装甲兵員輸送車)五、及び歩兵約一個中隊規模、降下目標周辺を包囲中。アサルトフェザー(電磁攻性羽弾)斉射による制圧を推奨〉


 アーデルハイトの戦闘管制妖精エルフェンは、脅威に対して探知から反撃準備に至る過程を全て処理し、脅威度、攻撃優先順位、攻撃方法まで的確に助言する。そのためアーデルハイトは戦闘機動に専念できる。その役割は、イージス艦のCIC(戦術情報センター)に極めて近い。


「よし、データリンクテストよ、エルフェン」

〈了解。ADM、オン。PCM、コンタクト……〉




「お願いしますっ! どうか弟は……」


 教会の前に引き出された少年とシスター達を、死の銃口が取り囲んでいた。


「ふ……幸せなことじゃないか。姉弟揃って仲良くあの世へ行けるのだからな」


 姉のシスターの必死の懇願を、頬傷の男は嘲笑した。


「どうか、どうかお慈悲を……」

「……慈悲、だと?」


 男の口元が、痙攣したように歪む。


「慈悲、だと?」


 もう一度繰り返す。まるで、壊れたテープレコーダーのように。

 男の腕に力がこもった。

 額に押し付けられた銃が肌に食い込み、少女は苦痛と恐怖にうめいた。


「い、痛い、嫌……」

「慈悲とはな……。ナチスかぶれで我々やボシュニャク人を虫けらのように殺してきたクロアチア人が、よりによってそんな言葉を口にするとはな……。教えてやろう。私の家族は、大戦中、私が五歳の時に皆殺しにされた。私の目の前でな。クロアチア人に、お前達に殺された!」


 頬傷の男の声が、突然激した。銃を持った腕をぶるぶると震わせて、男の目に憎悪の炎が燃え上がる。


「ひっ!」

「あの日のことは、今でも昨日のように覚えているよ……忘れられるものか。いつもの家族揃っての朝食の後だった。父は会社に行く仕度をしていた。母はゆり椅子に腰掛けて編み物を、八歳上の姉はピアノの練習をしていた……。突然、銃を持ったクロアチア兵どもがドアを蹴破って押し入って来た。……私達は普通の市民だった! それを……それを、ただセルビア人だというだけの理由で! 私を庇った父の頭を、奴らはげらげら笑いながら撃ち抜いた! 飛び散った父の脳漿が、私の顔にかかって……!」

「そんな……! 嘘……嘘よ……」


 シスターは驚愕で凍りついた顔で、何度も首を横に振る。

 無理も無い。

 まだ二十歳にもならない彼女にとって、先の大戦など遠い昔話だ。彼女には、男の怒りが理解できなかった。


「嘘なものか……母は銃剣で腹を何度も突き刺されて、まるで公園の噴水みたいに血を吹いて死んだ! その時、母のお腹には赤ん坊がいた……私の弟か妹になるはずだった赤ん坊が……」

「嫌……もう止めて……!」

「姉は、その場で服を引き裂かれ何度もレイプされた挙句ナイフで乳房を抉り取られて……! 気が狂って、その晩自殺した」

「もう止めて! 許して!」


 耐え切れずに悲鳴を上げたシスターの襟首を掴んで、男は激しく揺さぶる。


「何が『お慈悲を』だ! 私達がどんなに泣き叫んで頼んでも、お前達は止めなかったじゃないか! 遊び半分で笑いながら殺戮と陵辱を楽しんだ! 私の全てを奪った! お前の身体に流れる、その汚れた血の仕業だ! それを自分達が殺される番になったら慈悲をだと? だったらどうしてあの時私の家族を殺した? クロアチアの悪魔どものくせに、人間様のような台詞を吐くな!」


 彼の中では、それは単なる半世紀前の記憶ではなかった。

 それこそが『現実』。


「そんな話……僕達と関係ないじゃないか!」


 少年の怒声が、男を遮った。


「……なんだと」


 頬傷の男は立ち上がって、少年に向き直った。

 兵士達も、少年に銃を向ける。少年は一瞬躊躇したが、声を張り上げた。


「僕達はそんな人殺しなんかしてない! それを、そんな昔の事を理由に、僕達を殺すのかよ? そんなの、お前の勝手な逆恨みじゃないか!」

「貴様ァ!」


 頬傷の男の引き金にかけた指に、一気に力が入る。


「マルコ!」


 シスターの絶叫が響き渡る。

 彼女は、この時ほど神に願ったことはなかった。

 神よ……どうか、どうか弟の命をお救い下さい……!

 その時。


「およしなさい」


 その声はあまりに間延びしていて、場違いだった。


「大の男が子ども相手に。みっともないったらありはしないわ」


 全員の耳に、それは聞こえた。

 そして。

 その声は確かに、空から聞こえた。


「まずは敵装甲車輌よ。弾種、徹甲。撃ち方始め」

〈了解。アサルトフェザー、弾種・徹甲弾を選択。フルオート、ファイア〉


 次の瞬間。

 高空より飛来した無数の黒い矢が、兵士達の背後に停めてあった戦車を射抜いた。

 天板が貫かれるけたたましい金属音。

 砲塔を潰し、エンジンを破壊し、戦車を内側から爆発させる。

 激しい爆風に銃を構えていた頬傷の男と部下の兵士達は吹き飛び、地面に叩きつけられた。

 さらに他の戦車、装甲車が、次々と何かに撃たれてなすすべもなく破壊されていく。

 まるで黒い豪雨が、辺りに降り注いでいるような光景だった。


「くそっ、どこからの攻撃だ!」


 いち早く身を起こし、頬傷の男は空を見上げる。

 攻撃ヘリのローター音など、聞こえなかったのに……。

 空を見上げた男は、自分の目を疑った。


「あらあら、怖い声。炭水化物不足でストレスが溜まってるんじゃないの? 麺類を食べなさい」

「な……!」


 信じられるだろうか。

 自分の目に映るモノ。

 一人の少女が、空中に浮かんで、悠然と自分を見下ろしている。

 落下傘兵ではない。

 それどころか、人間ですらない。

 背中にあるのは、パラシュートなどではなく、黒い、あれはどう見ても翼……


「うわあああっ!」


 気が動転した兵士の一人が、空に向けてでたらめにAK‐47を乱射する。


「ふふっ、無駄無駄、あたらない」


〈迎撃モード。ユミルスマクト・ファンクション・ツヴァイ、防壁展開準備完了〉

「防壁展開♪」


 直後、空間が歪み、閃光が放たれた。

 粒子を振動させて増幅したエネルギーが、弾丸を全て空中で叩き落す。


「ストレラだ、ストレラで撃ち落せ!」


 兵士達がランチャーを構える。


〈警告。三時の方向よりSAM接近。SA‐14グレムリンと推定〉


 NATOコードSA‐14グレムリン。東側での正式名称は9K36ストレラ3。

 旧ソ連コロムナ設計局が一九七八年に9K32ストレラ2の後継として開発した赤外線誘導式の個人携帯型地対空ミサイル。開発期間短縮のために外見こそ旧式をベースとしているものの、命中率の信頼性に問題があった旧式と異なり全方位から目標をロックオン・攻撃可能で、弾頭の炸薬は二倍、推進装置も改良され射程も長く、唯一重量が重くなってしまったことを除けば優秀な対空兵器である。

 量産開始後は旧ソ連の他キューバ、シリア、北朝鮮、中央アジア諸国、東欧諸国や、ゲリラ・反政府テロ組織などに供給され、世界各地の紛争で使用されている。


「ふふ、熱探知式じゃ私は追尾できないわ。なんてったって私は血の通わないつめたーいお人形さん……」

〈警告。ロックオンされています〉

「ちょ、なんでよお!」

〈考察……回答。待機中に、過度に摂取した炭水化物を分解するために通常より機体の温度が……〉

「お黙り!」


 アーデルハイトが手を一振りすると、それだけでミサイルは爆散した。


「た、弾が途中で……」

「化け物だ……!」


 セルビア兵達が怖気づき、後ずさりする。


「天使様だわ……!」

「奇跡じゃ!」

「天使様が救いに来て下さったぞ!」

「見ろ、神はやはり我らをお見捨てにはならなかった!」


 一方のシスター、そしてクロアチア避難民の間からは歓声が沸き起こる。そのシスターや避難民を背中に庇う様にして、アーデルハイトはひらりと地に舞い降りた。


「よく頑張ったわ、坊や」


 声をかけられて、少年は目を真ん丸にする。


「あ……貴女は……?」

「私は戦うためにここに来た。あなたはお姉さんを守りなさい」


 少年はしばらくあっけにとられていたが、やがて大きく頷いた。


「うん!」



「密集しろ! 敵はたったの一人だ!」


 破壊された戦車や装甲車の残骸を盾に、セルビア兵達が応戦してくる。

 だが、アーデルハイトの翼から高速で撃ち出される無数の羽根が、兵士達を次々となぎ倒して行く。


〈警告。アサルトフェザー徹甲弾、残弾数低下。榴弾による広域攻撃を推奨〉

「却下よ、こんな近距離で使ったら後ろの民間人も無事では済まないわ」


 アーデルハイトが攻撃を止めた隙をついて、兵士達が決死の突撃を敢行する。

 迫り来る兵士達を前に、アーデルハイトはにやりと笑った。


「ふふっ、馬鹿ね。私が抜け毛を飛ばすしか能が無いと思ったら……」


 ユミルスマクト・リアクター出力、白兵戦モードへ。


「大間違いよおっ!」


 アーデルハイトは跳躍した。


「荷電粒子剣、活性化!」


 アーデルハイトの右手に、光り輝く長剣が形作られる。


「くたばれ化け物ぉ!」


 間合いに飛び込んできたアーデルハイトに、前列の兵士が至近距離から発砲する。

 否、したはずだった。だが銃声も無く発砲の手ごたえも無い。


「あれ……?」


 兵士は恐る恐る銃を見る。

 握っている部分から上が、綺麗にすっぱりと切断されていた。

 使い物にならなくなった銃を抱えて呆然と立ち尽くす兵士を捨て置いて、アーデルハイトは残った兵士達の中央に舞い降りる。


「さぁて、お次はどなたかしら?」


 うっすらとルージュを引いた唇が弧を描く。

 兵士達は戦慄した。

 理性より先に、本能が告げていた。

 人間の力などが、通用する相手ではないのだということを。


「に、逃げろー!」


 生き残った兵士達が、くもの子を散らすように我先にと逃げて行く。


「馬鹿者、勝手に逃げるな! 退却命令は出していないぞ!」


 ただ一人残った頬傷の男に、アーデルハイトがゆっくりと近付いてくる。

 全身から吹き出す汗を感じて初めて、男はこの人形に気圧されている……いや、恐怖している自分に気付いた。


「うふふっ……勝負あったようね、指揮官さん」

「く……」


 恐ろしい。

 この人形は、人形のくせに、なんでこんな獲物を静かに見下ろす鷹のような、恐ろしい目ができるのだ?

 そうだ、確かどこかで……。


「貴様……噂で聞いたことがあるぞ。CIAが対外軍事支援用に保有する最強の切り札……世界各地の紛争地帯を暗躍し、アメリカに敵対する政権や組織を殲滅する超兵器、『黒い悪魔』……! 空を飛んで弾丸をはね返す生きた人形など、たちの悪い戦場伝説だと思っていたが……まさか、本当に実在していたとはな……」

「あらぁ、ご存知とは光栄ね」

「アメリカは、何故我々の邪魔立てをする! またお得意の人道主義とやらか。できたばかりで、それも土地と金が有り余っているようなお前達の国に、我々の民族の苦しい歴史や、我々が戦わねばならない理由の何がわかるというのだ!」


 極度の恐怖が、逆上を生んだのか。

 激する男に、アーデルハイトは冷笑を浮かべる。


「合衆国が人道主義で戦争をしたことなんか、これまでに一度だってありはしないわ」

「何……?」

「おしゃべりはもうお終いよ。残ったのはあなただけ……大人しく降参するならそれで良し。もし抵抗するなら……」


 右手の荷電粒子剣を、さっと一振りしてみせる。


「……」

「選びなさい」

「……そうだな」


 頬傷の男の強張っていた顔が、かすかにゆるんだ。

 静かに目を閉じて、男はふっ、と笑う。

 その態度をはかりかねたのか、アーデルハイトは首をかしげる。


「? ……降参するの?」

「ああ、降参……」


 男は、覚悟を決めた。


「できるわけがないだろうっ!」


 目を見開き、間合いに入っていたアーデルハイトに全力で体当たりしてそのまま一気に押し倒す。

 予想していたよりあっけなく、アーデルハイトは地面に倒れ込んだ。

 それは男の、最後の賭けだった。

 いかに人知を超えた力を持った人形でも、この至近距離ならば。

 隠し持っていた手榴弾を取り出して、男はアーデルハイトに覆い被さる。

 またあの衝撃波のようなもので吹き飛ばされるか黒い弾丸で蜂の巣にされるかと思っていたのに、何故か抵抗は無い。

 さすがのこの超兵器も、とっさのことに反応できないのだろうか。

 最後に、目と目があった。

 慌てふためくでも怯えるでもなく、自分をまっすぐに見つめる瞳。だが。

 人形の無機質なガラス玉ではない、その澄んだ瞳には、確かに生きるものの意志がある。

 手榴弾のピンを引き抜きながら、男はふと思う。

 そういえば姉さんも、こんな綺麗な瞳をしていた――

 男は、ピンを引き抜いた。


「セルビアのために!」


 閃光が走る。

 痛みは感じなかった。

 ただ、熱い。身体が溶けていくように。

 真っ白になっていく視界の先に、何かが見える。何かが聞こえる。

 懐かしいピアノの音。

 ほのかに甘い焼けたトーストとバターの匂い。

 あれは――


「……あなた、早く出ないとまた遅刻してしまいますよ」

「何、少しぐらい構わないさ」

「あーどうしよう、発表会もうすぐなのに全然上手に弾けないよ」

「ははは、今ので十分上手いとお父さんは思うがな。母さん、コーヒーをもう一杯」

「はいはい」

「もう! みんなもっと真面目に聴いてよー!」


 そこは、暖かい陽が差し込む居間。

 いつもの朝食の後の家族の団欒。

 父さん。母さん。姉さん。

 自分は、ずっと悪い夢でもみていたのだろうか。

 良かった。

 でも――

 どうしてだろう。幸せな光景のはずなのに、こんなにも悲しいのは。


 幸せな光景が、不意に灰色の世界に切り替わる。

 銃声。砲声。人の悲鳴。断末魔。

 そうか。

 あれは、夢ではなかったんだ。




〈警告。至近距離で爆発を確認〉


 アーデルハイトはただ、地面に倒れたまま、回避しようとしなかった。

 だがその意志とは関係なく、至近距離で発生した爆発に戦闘管制妖精エルフェンが自動的に対応する。


〈近接防御モード。ユミルスマクトファンクション・ツヴァイ、防壁緊急展開〉


 最大出力で形成された光球がアーデルハイトを包み込み、周囲の物質を原子レベルにまで分解していく。

 爆発した手榴弾も、その衝撃波も炎も、そして頬傷の男も、何もかも。

 数秒後、全てが消滅した半径三メートルのクレーターの真ん中に、アーデルハイトは大の字で寝そべっていた。

 敢えて抵抗せず、男の自爆攻撃を受け入れた理由。

 飛びかかってきた男と身体が触れ合った瞬間流れ込んできた彼の心を、アーデルハイトは見てしまった。

 欺瞞なのはわかっている。敵を哀れむ資格など、自分には無い。

 それでも。

 静かに立ち上がってドレスについた埃を払い、ふと頬に手をあてる。冷たい感触が伝わった。


「……」


 爆発の瞬間、覆いかぶさった男の灰色の目から、アーデルハイトの頬に落ちた一滴のしずく。

 それだけが、消滅せずに残っていた。


〈損害状況確認。……終了。右腕マニピュレーターに軽度の損傷、レベル三で自己修復モード作動中、活動に支障無し。全高脅威目標の制圧を完了。索敵モードに移行します〉

「ええ……」


 どこか気の無い返事をしてむっくりと立ち上がると、教会へときびすを返す。


「天使様ぁ!」


 教会に戻ったアーデルハイトに、人々が駆け寄ってきた。


「先ほどの爆発は? お怪我はありませんか?」

「セルビア軍はどこへ?」


 どうやらここはとても信仰心の厚い村らしい。最初こそ驚いていたものの、一度『天使様』だと信じてしまえばその存在を疑うことも無ければ恐れることも無く、こうして自然に存在を受け入れて話しかけてさえくる。


「……敵は逃げたわ。もう安心よ」


 本当は、天使様だなんて呼ばれるのは心外だった。

 だが、こちらの方が何事もスムーズに進むのを経験から学んでいるアーデルハイトは、敢えて訂正はしない。

 こうしておけば、自分が現れたこの日の戦いも、『ある信心深い田舎の村に天使が舞い降りて村人を異教徒の侵略から守った』というような、よくある『神の奇蹟』のエピソードの一つとしてこの地に記憶され、外交・軍事上の厄介な問題は回避される。いつものことだ。

 ついでに地面から一メートルほど浮かんでおく。これでさらに神がかって見えるし、身長の低さもごまかせるというものだ。


「私達のために……なんと御礼を申し上げたらいいのか……」


 先ほどのシスターが声を詰まらせている。


「そんな、私は自分の仕事してるだけよ。礼なんて要らないわ」

「……あ、天使様、怪我してる」


 照れ隠しにシスターの背中をぽんぽんとたたくアーデルハイトの右手に傷があるのを見て、シスターの弟の少年が顔を曇らせた。


「くそ、セルビア人め……」


 その少年の肩にそっとおかれる、アーデルハイトの手。

 アーデルハイトは静かに首を振った。


「悪いのは『セルビア人』じゃないわ。この戦争そのものよ」


 遠い丘の向こうから、国連軍の旗を掲げた白い装甲車の列が近付いてくる。

 それは、アーデルハイトのここでの役割が終わったことを意味していた。

 国連がNATO軍に許しているのは、あくまで地上での国連軍の安全を確保するための空爆による側面援護と、飛行制限空域の監視による制空権の維持だ。

 紛争介入の主導権は本来国連軍にあり、その点でこの日のアーデルハイトのミッションは、支援空爆のみに徹するべきNATOの分を超えていた。

 それでも敢えてCIAがアーデルハイトを差し向けたのは、この紛争でクロアチアを支援しセルビア人勢力に敵対的な姿勢を貫いている欧州諸国の、非公式な要請に応えるためだ。

 これは、アメリカから欧州への飴だった。

 冷戦後急速にアメリカから距離をおきつつある欧州諸国を、NATOというもはやアメリカ合衆国の覇権を維持する以外に存在意義の無くなった同盟につなぎとめるための。

 そうでもなければどうしてこんな辺境の紛争に、大国アメリカが介入しようと思うだろうか。

 アーデルハイトは、少年からそっと手を離した。


「……それじゃ、ばいばい」


 翼をはためかせ、唐突に飛び上がる。


「あっ、天使様!」


 みるみる遠ざかる下界から、人々が自分を呼ぶ声が聞こえる。

 それはやがて、感謝の言葉へと変わっていく。


「ありがとうございます!」

「ありがとうございます天使様!」

「このご恩は忘れません!」


 ちらりと振り返れば、あの姉弟が手を振っているのが見える。

 人々の純粋な気持ちが、胸に痛かった。

 自分は天使などではない。

 現にここからたった数十キロ離れたモスタルの市街ではクロアチア人によるボスニア人虐殺が公然と行われているのに、自分はそれに見て見ぬふりをしている。

 セルビアが加害者でそれ以外の民族が被害者という構図は、西側メディアの情報操作でしかなかった。

 正教徒のセルビア人、ムスリムのボスニア人、そしてカトリックのクロアチア人。ここではその誰もが被害者であり同時に加害者だ。

 そして誰もが、自らは正しいと信じて戦っている。

 民族自決のため、大切な故郷や家族を守るため、そして守れなかったもののために。

 憎しみが憎しみを、悲しみが悲しみをもたらす終わらない負の連鎖。


 ――何がわかるというのだ。


 目の前で自爆した、あの頬傷の男の言葉が頭をよぎる。

 所詮、余所者の自分には何も理解することはできないのだろうか。

 それでもこの戦場に居続けるのであれば、自分は何を為すべきか。

 答えはまだ、見つからない。




 イタリア北東部、アビアノ空軍基地。

 雄大なアルプス山脈を北に臨むこの基地には米空軍第三一航空団の二個飛行大隊、五十機を超えるF‐16が常駐し、バルカン半島や中東に睨みをきかす。

 ヨーロッパ方面における、合衆国空軍の重要な軍事拠点のひとつである。

 その一画に、米軍・イタリア軍を問わず一般兵士の立ち入りが禁じられ厳重に警備された格納庫があった。

 不意にその鉄扉が重たい金属音と共に開かれ、自動小銃で武装した黒服の男達が格納庫前の滑走路へと走って行く。

 全員の配置が完了し、安全が確保されたことを確認してから、男達を指揮する大尉はレシーバーに小声で告げた。


「クリア ランディング(着陸可能です)、エンジェル・アルファ」


 直後、すうっ、という音にならない音がした。


「ただいま」


 滑走路の両脇に並ぶ滑走路灯の光がその顔に深い陰影を刻み、アーデルハイトの表情はいつになく険しかった。


「お帰りなさいませ、アーデルハイト様。任務お疲れ様でした」


 大尉のねぎらいの言葉に合わせ、整列した黒服の男達が一斉に最敬礼する。

 さながら、幼くしてマフィアのボスを襲名させられた少女がファミリーに出迎えられているような光景だった。

 横に付き従う大尉と並んで、アーデルハイトは格納庫へと歩き出す。


「爆発があったと聞いた時は肝を冷やしましたが……ご無事で何よりです」


 気遣わしげな大尉に、アーデルハイトは苦笑する。


「あら、私の身体のことなら核爆発でもない限り心配要らないのよ?」

「ご冗談を……すぐに整備班に精密検査の準備をさせます。しかし現地で何が?」

「何も無いわ」

「え? ですが……」

「何も無いといってるでしょう」

「はあ」


 それ以上は聞いても無駄だと判断し、大尉は格納庫に足を踏み入れた。


「どうぞ。中でミスター・スミスがお待ちです」


 だだっ広い格納庫の中は、急ごしらえの作戦指揮所になっていた。

 最新鋭の電子機器が所狭しと並べられ、大勢のスタッフがせわしなく作業している。

 機材を運び込むために使われたダンボールが、壁際に積み上げられている。

 それらには目立たなく、だが例外なく、次のような表記がしてあった。

 対外軍事支援計画室・第一三特殊作戦部隊群。

 CIA作戦本部が海外で極秘作戦を展開するために編成した特殊部隊。公式な文書では、そう説明されている。

 だが、文書では語られていない真実があった。

 この部隊の唯一の戦力にして、米国最強の切り札――エンジェル・アルファ。

 彼女を運用するために、この第一三特殊作戦部隊群はつくられたのだ。

 格納庫の隅、うず高く積まれたダンボールの壁に仕切られた向こうが、エンジェル・アルファ担当官の執務室になっていた。


「ご苦労だったな、ハイディ」


 デスクの前、簡素な応接ソファの横に立って、長身の男が甘いマスクに柔和な微笑を湛えながら、アーデルハイトを愛称で呼んだ。

 白いタートルネックの上に寸法よりややゆったりと仕立てられた白いスーツを着崩しているその姿は、CIAのエージェントというよりまるで若手の芸術家に見えた。

 オールバックにしている銀髪は、アーデルハイトのそれととてもよく似ている。

 かつてラングレーのCIA本部にいた頃、二人で連れ立って歩くといつも親子と間違えられたものだ。

 アーレン・スミス。

 肩書きは対外軍事支援計画室室長、アーデルハイトの担当官であり、CIAの人間達の中でアーデルハイトが唯一対等な存在だと認め、「ハイディ」と呼ぶのを許している人間でもあった。


「丁度今、紅茶をいれていたところだ」

「ありがとう、アーレン。でも……」


 アーデルハイトは肩をすくめて、そして次の瞬間、唐突に荷電粒子剣を起動させた。

 一歩足を踏み出し、ソファの背もたれを貫く。

 直後ソファが激しくスパークし、荷電粒子剣を阻む。それを確認してアーデルハイトは荷電粒子剣を引き抜いた。


「こんな奴と一緒に飲むのはお断りよ」

「……こんな奴とは、ひどい言い草ですことね」


 ソファに座っていた先客は、そう返事をすると立ち上がって振り返る。

 剣呑な光を放つ碧氷色の瞳が、アーデルハイトを睨んだ。


「久しぶりですこと、アーデルハイト。相変わらず悪趣味な格好ですことね」


 そこにいたのは、アーデルハイトよりもさらに小柄な少女だった。

 アーデルハイトの黒いドレスを悪趣味と評した彼女の装いは、合衆国空軍の士官服。

 光沢のある金髪がたれた襟首には、大佐の階級章が光っている。

 その制服は、先ほどのアーデルハイトの攻撃にも関わらず傷一つついていない。

 そして彼女の周囲の空間にも、見えない壁のような歪みが発生している。

 背中にはアーデルハイトとは対照的な、白い翼。

 そう、彼女もヴォルフスフリューゲルだった。


「本当に久しぶりねベアトリクス、パナマで会ったきりでしたっけ。それにしても相変わらず喋り方がおかしいわね、ペンタゴンでは会話は教えてくれないのかしら?」


 荷電粒子剣を構えたまま、アーデルハイトは最大限の侮蔑を込めて嘲笑する。


「余計なお世話ですことね。そういう貴女こそ相変わらずカップ麺臭いですこと。あんな低俗な東洋のジャンクフードをよく口にできますことね」

「あら、聞き捨てならないわね。カップ麺は命の源よ?」


 表面上こそ軽い口喧嘩だが、実際には二人は互いにいつでも相手を殺せるよう臨戦態勢をとっていた。

 人外の能力を持つ二人がもしここで戦闘を始めれば、CIAの前線基地であるこの格納庫は、一瞬で地上から消滅するだろう。

 しかし二人を引き合わせた張本人であるアーレンは、悪びれた様子もなく平然とカップに紅茶を注いでいた。


「紹介が遅れたな、こちらの先客は合衆国空軍のベアトリクス・エンジェル・ベータ大佐だ。このたびNSA(国防総省国家安全保障局)の指揮下で活動するSOCOM(特殊作戦軍)所属第六六六特殊任務大隊エンジェル・コマンドグループ指揮官として、こちらに赴任なさった」

「へえ、貴女も随分出世したものね。夜毎国防長官のダッチワイフでもして点数稼いだの?」

「おいおい、一応上官だぞ」


 挑発を続けるアーデルハイトの前に、アーレンが苦笑しながらティーカップを置く。


「格下の二号機よ」


 アーデルハイトはアーレンの忠告を一蹴した。

 アーデルハイトがCIAで与えられている便宜上の階級は少佐だったが、そんなものは知ったことではなかった。

 人間の作った階級など、彼女にとってはママゴトほどの値打ちも無い。

 ヴォルフスフリューゲルには、ヴォルフスフリューゲルの序列がある。


「それで? 翼があるのに空を飛べない哀れな妹が、私に何の用なの?」

「今日は挨拶に来たのですことよ」


 アーデルハイトの放つ殺気に物怖じすることなく、ベアトリクスは答えた。


「アーデルハイト、これまで良く頑張ってくれたのですことよ。アフガンでも湾岸でも、ヴォルフスフリューゲルの活躍は目覚しかった。……でも、合衆国政府もそろそろ、次のステップへ進みたいと思っているのですことよ」

「次のステップですって?」


 饒舌に語り始めたベアトリクスを見ながら、まるで自分はヴォルフスフリューゲルではないかのような口ぶりだと、アーデルハイトは腹立たしく感じた。

 ヴォルフスフリューゲルは、誇り高い存在だ。例え人間と共に生きていても、ヴォルフスフリューゲルは精神的には何者にも依存せず、自らの信ずる道を歩む。

 それがアーデルハイトが信じる、ヴォルフスフリューゲルのあるべき姿だ。

 でもベアトリクスは違う。人間の組織の中で生きていくために、人間に魂を売り渡し、人間と同じように物を考え、人間になろうとしている。

 ヴォルフスフリューゲルの誇りを捨ててまで。

 ヴォルフスフリューゲルが、人間になれるはずがないのに。


「そう。今のままではヴォルフスフリューゲルは、この世界で浮いてしまった単なる奇妙なオーパーツに過ぎないのですことよ。原理も不明、複製も技術の応用も不可能、そんな怪しげな人形にいつまでも頼るわけにはいかないのですことよ。より現実的に安定した軍事計画の中でヴォルフスフリューゲルを運用するために必要なのは、ヴォルフスフリューゲルの技術の解明と、量産」

「……量産?」


 ベアトリクスの言葉に寒気を覚えつつも、アーデルハイトは怒りを抑え切れなかった。


「はっ、気でも狂ったの、ベアトリクス! 私達ヴォルフスフリューゲルは、お父様の指先だけが生み出せたもの……その御業を、今の人間の技術ごときで模倣できるはずが無いでしょう!」

「ヴォルフ博士もただの人間だったのですことよ、アーデルハイト」


 ベアトリクスが平然と言い放つ。


「それは貴女が一番よく知っているのではないですこと? 作りかけのまま、捨てられた貴女が」


 アーデルハイトは荷電粒子剣をベアトリクスの喉元に突きつけた。


「お父様への侮辱は許さないわよ、ベアトリクス!」


 それは、創造主を冒涜されたことへの怒りだけではなかったかもしれない。

 己の誇り、何よりアイデンティティーを守るために、アーデルハイトには許せなかった。

 ヴォルフスフリューゲルは……自分はただの機械ではない。

 もっと神聖なものだったはずだ。

 そう信じて、今日まで生きてきた。

 こうしてCIAにかくまわれ、戦争に協力してはいるが、アーデルハイト自身は自らをただの兵器だなどと、貶めることはできない。割り切れない。

 ヴォルフスフリューゲルには心がある。意志がある。

 それがどうして、道具のような扱いに甘んじなければならないのか。

 

 それは、アーデルハイトが抱える矛盾の一つでもあった。

 アーデルハイトが戦場でしてきたことは、人間の兵器と言われても仕方の無いものだ。

 アーデルハイトだけではない。

 今日、世界中にいる全ての姉妹は、兵器としての役割を期待されている。

 だが、それを屈託無く割り切っているベアトリクスを見ると、苛立ちを覚えずにはいられない。

 ではどうして、アーデルハイトは人のために戦うのか。

 その答えを、アーデルハイトは考えたことが無かった。


「確かにヴォルフスフリューゲルがいかにして知性を持ち得るか、そして永久機関に等しいユミルスマクト、この二つは謎に包まれているのですことよ。でも、ハードの部分、つまりヴォルフスフリューゲルの駆動系の解明に私達は成功した。これで、量産型開発への道が開けるのですことよ」


 アーデルハイトの瞳の中にある迷いを察したのか、ベアトリクスは挑みかかるような目で突きつけられた荷電粒子剣の切っ先を見返す。


「まさか……」


 ベアトリクスが何を語ろうとしているのか、ベアトリクスが何故ここにやってきたのか、アーデルハイトは悟った。


「DOLLシステム……まさか完成したというの?」

「ご明答。試作型だけど、既に実用化できる段階なのですことよ。このボスニア紛争は素晴らしい実験場。喜びなさい、アーデルハイト。これからは貴女は戦わなくて良い。代わりに私のDOLLシステムを、実戦でたっぷり運用するのですことよ。良いデータが取れそうですこと、おっほほほほほ……」

「ふざけないでっ!」


 哄笑するベアトリクスにアーデルハイトは今度こそ本気で荷電粒子剣を突き立てる。だが一瞬早くベアトリクスはソファを蹴って後方へ飛び退っていた。


「ふざけてないのですことよ。これは委員会からの、正式な命令なのですことよ」


 荷電粒子剣が空を切り、アーデルハイトが歯軋りする。傍観するアーレンはかすかに片眉を上げた。


「四年前のパナマ、忘れたとは言わせない……もし今度私の見ている前でヴォルフスフリューゲルの名を汚すような真似をしたら! その時には球体関節を全部砕かれてバラッバラの燃えないゴミになったあんたがアドリア海に浮かぶことになるわ。覚えておきなさい!」

「ふん、それはこっちの台詞なのですことよ。なんなら今ここで試してみるですこと?」

「望むところよ、NSAの備品の一つや二つ、壊したって始末書程度よねぇ?」


 二人が交わす軽口には、その実もはやほとんど余裕が無くなってきていた。

 いや、嘲っているベアトリクスには、まだこの場の主導権を握ってアーデルハイトを挑発しているという余裕があるのかもしれない。だがアーデルハイトは。


「ベータ大佐も、着任したばかりでお疲れでしょう」


 絶妙なタイミングで、アーレンは臨戦態勢の二人の間にさりげなく割って入った。


「これから部下が宿舎までご案内します。……ハイディ、今日はそのくらいにしといてやれ」


 ベアトリクスには見えないようにアーレンがした目配せで、アーデルハイトは我に返った。


「……そうね、今日はこの辺にしといてあげる。命拾いしたわね、ベアトリクス」


 そう言ったアーデルハイトの口元には、いつもの彼女らしい不敵な笑みが戻っていた。

 ベアトリクスはつまらなさそうに肩をすくめる。


「あらあら、ヴォルフスフリューゲル一の頭脳を誇るこの私に恐れをなしましたですこと?」

「ヴォルフスフリューゲル一の頭脳? ぷっ……今年になってから聞いた中で最高のジョークだわ。ま、せいぜい次に会う時までに正しい喋り方をマスターしておきなさい」

「余計なお世話なのですことよ!」


 アーデルハイトをきっと睨むと、ベアトリクスは心なしか足早に部屋を去って行った。どうも口癖をからかわれるのは気に障るらしい。


 部外者が消え、代わりに静寂がやってくる。

 アーデルハイトはアーレンのデスクの前に置かれたダンボール箱を足で乱暴に蹴って向きを変えると、腰を下ろした。

 アーレンは胸ポケットから金属製のシガレットケースを取り出すと、一本出して口にくわえる。


「君も吸うか? 少し落ち着くぞ」

「要らないわよ。吸わないの知ってるくせに」


 間延びしていない、そっけない口調。アーデルハイトが疲れていたり、何か考え事をしている時……もっともそういう時は一週間に一度でもあれば珍しい方なのだが……そういう時に出す声だった。


「そうか? たまになら良い気分転換になるんだがな」


 アーレンは冗談めかしてそう答えながら、かなり年季の入ったライターでくわえたガラムに火をつける。

 香草を燃やしたようなクセの強い香りが広がった。

 一服して、アーレンはアーデルハイトに向き直る。


「……珍しいな。君が本気で怒るなんて」

「別に怒ってなんかいないわよ。軽く遊んでやっただけ」

「よくいうよ」


 アーレンは苦笑した。

 アーレンとて伊達にアーデルハイトの担当官はしていない。

 あの時、確かに彼女は本気だった。


「やれやれ……にしても、あれが有名な『皆殺しのベアト』か。噂に似合わず随分とキュートじゃないか。ま、俺のタイプじゃないけどな」


 こういう時の彼女に正攻法は禁物だとわかっているアーレンは冗談めかして話題をずらす。

 実のところ最後に言った冗談は本心だった。

 米国を代表する諜報機関であるCIAで唯一ヴォルフスフリューゲルの存在を正しく認識しそれを運用しているセクションの長を務めるアーレンも、アーデルハイト以外のヴォルフスフリューゲルシリーズをその目で見る機会は滅多に無い。ヴォルフスフリューゲルを有する各機関が、それほど後生大事にこの箱入り娘達を抱え込んで他の機関や国に情報を秘匿しているのだ。


「俺はてっきり、ヴォルフスフリューゲルってのはみんな君みたいにグラマーなんだと思ってた。あんな子どもっぽい奴もいるんだな」


 わざと軽薄な話をしながら、そっぽを向いて足をぶらぶらさせているアーデルハイトの反応を待つ。

 いずれにせよ、こういう素直になれない仕草までが絵になるアーデルハイトの魅力に到底及ばないことだけは確かだが。

 アーレンはそこまでは口に出さなかった。


「……外見だけよ」


 そっぽを向いたまま、アーデルハイトがぽつりと呟く。


「オペレーション・サンセットって、聞いたことある?」


 その名を聞き、しばらく沈黙してからアーレンは頷いた。


「……概略ぐらいは、な」


 それを知っている人間は、パナマ問題に深く関与してきたCIAの中ですら、ごく一部に限られる。

 歴史の教科書では決して語られることの無い、存在しない作戦名。


 一九八九年十二月十九日、米ブッシュ政権はパナマ攻略作戦オペレーション・ジャスト・コーズを発動、二万四千の米軍が中米の小国パナマに投入された。いわゆるパナマ侵攻である。

 アメリカではカーター大統領の民主党政権時代にパナマ運河のパナマへの返還を約束していたが、共和党のレーガン大統領に政権が代わるや政策を転換、CIAの介入によってパナマを傀儡政権化し、返還後も運河の実質的な支配権をアメリカが掌握できるよう画策する。

 しかしCIAがアメリカの傀儡として擁立したマヌエル・アントニオ・ノリエガ将軍はこの策に乗らず、独自の国家路線を歩みアメリカに反抗。

 レーガン大統領はノリエガ将軍をアメリカへの麻薬密輸の容疑で逮捕することとパナマ在住のアメリカ人保護を名目とし一九八九年五月に海兵隊千八百人を派遣したが、ノリエガ将軍の逮捕には失敗した。

 同年十二月、新たに就任したブッシュ大統領は、ノリエガ将軍の独裁政治に対する民主主義の確保、在留アメリカ人の保護、運河の安全確保、国際麻薬密輸の首謀者であるノリエガ将軍の逮捕を名目に掲げ、パナマへのより大規模な侵攻を決定する。

 だがその真の目的は、パナマ運河返還を前に同地域への実効支配を固めることにあった。

 一部では、ブッシュ大統領がCIA長官時代にノリエガ将軍の中南米撹乱協力の見返りにコロンビア産コカインの密輸入を秘密裏に容認していたため、自身の政治生命を守るために電撃的に作戦を発動したという噂すらまことしやかにささやかれているが、真偽のほどは定かではない。

 このように数々の政治的陰謀が巡らされたパナマ侵攻であったが、戦い自体はわずか五百人のパナマ軍防衛隊に二万四千人ものアメリカ軍精鋭部隊が殺到するという、戦争と呼ぶにはあまりに一方的なものであり、そのため米軍はこの戦いをパナマの制圧やノリエガ将軍の逮捕よりも、新兵器の実戦テストや国際社会へのデモンストレーションの場として最大限利用した。

 ステルス機やレーザー誘導爆弾など開発されたばかりのハイテク兵器が次々と使用され、戦闘で得られた貴重なデータは一年後の湾岸戦争に生かされた。

 パナマはさながら米軍の新兵器の実験場にされたわけである。

 オペレーション・サンセットもまた、そうした数ある新兵器の実戦テストの一つといえる。

 にも関わらずこの作戦のみが今なお公にその存在を認められていない理由は、作戦で試された新兵器が、米軍の通常の技術体系には無いものだったからだ。

 ヴォルフスフリューゲルの技術が初めて現用兵器に転用され、実戦で試された作戦。

 米軍の新型攻撃ヘリコプターAH‐64アパッチに、ヴォルフスフリューゲルの駆動技術が取り入れられ機動力と射撃性能が格段に向上した、存在しないはずの新型ヘリ、AH‐64Wダインスレイヴ。

 そして、その指揮を執ったのは――


「四年前、あの戦争で攻撃ヘリ部隊の指揮を任されたベアトリクスは真夜中の市街地を奇襲して、罪の無い一般市民を虫けらのように殺戮した。自分が開発に加わった新型ヘリの夜間における精密射撃能力をペンタゴンのお偉方に証明したい、ただそれだけの理由でね……。私は許さない。……あんな戦い方、認めない」


 小さな拳を握り締めて、アーデルハイトの銀色の瞳は静かな怒りに燃えていた。

 アーレンは何も言わずに、すっかり冷めてしまったティーカップの中身を流しに捨てると、熱い紅茶を注ぎ直して、アーデルハイトの手の上にのせた。


「……ありがとう」


 小さな声で礼を言って、カップを口に運ぶ。その口許に不意にアーデルハイトは、戸惑ったような苦笑を浮かべた。


「……許さないとか、認めないとか、よく言えたものよね、私」


 私は違う、市街地は外した。軍事施設をピンポイントに爆撃しただけ。

 私は違う、無抵抗の者は撃たなかった。攻撃してくる者を制圧しただけ。

 ……そんな言い訳が、いつまで通用するのだろうか。

 人を殺していることには、変わりないというのに。

 いつまで、自分を納得させることができるのだろうか。


「……私、あの子が羨ましいのかもね。あんなふうに簡単に開き直れる、あの子の純粋さが」


 ベアトリクスが出て行った方を見ながら、アーデルハイトは自嘲気味に苦笑する。

 それは、アーデルハイトがときおり見せるようになった、アーレンの知らない表情だった。

 時を経て、人は変わる。

 時計の短針のように、本人さえそれと気付かぬ微妙な変化は、人と人、人と世界との関わりの中に小さなゆらぎとして現われ、波紋を広げる。

 望む者にも、そしてそれを拒む者にも平等に。

 人間と同じ、いやそれ以上の知性を持ったヴォルフスフリューゲルも、その例外ではないのだろうか。

 アーレンは、認めたくなかった。

 少女の姿をしていながら、自分よりはるかに長い歳月を重ねた彼女の心が、変わりつつあるということに。


「お代わり、頂戴」


 いつの間にか空になったカップを差し出すアーデルハイトの手。

 その手はとても小さくて、あまりにか細くて、アーレンを何故か不安にさせる。


「……口にあったか?」

「ええ、美味しかったわ」

「本当か?」

「嘘言ってどうするのよ」

「すまん」

「……? 変なアーレン」


 パトロールを終えて戻ってきたのだろう、着陸態勢に入ったF‐16の爆音が天井をびりびりと振動させて、ポットに残った紅茶に波紋をつくる。

 長い一日が終わろうとしていた。

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