PROLOGUE 暁の空 black feather in the daybreak
流れていく。
風が頬をかすめ、髪と髪の間を通り過ぎ、どこまでも、どこまでも。
その流れは、あまりに速くて鋭い。
ちょっと気を抜けば、自分という存在までがえぐられて、流れていってしまいそうだ。
それは決して、比喩ではない。
何故なら私は……私達は、全てが調和し確かな物理的根拠によって存在するこの世界にあって唯一、存在するはずが無いのに存在している、矛盾によって保たれたものだから。
私達の存在は、いうなれば観念。
自分が自分であるという、確かな意識。
……だから私は、強くなければならない。
もっと心を強く、硬く、矛盾に負けて消えてしまわないように。
そうでないと、私はばらばらになってしまう。
この身体も、そして心も。
〈ハイディ、アーレンだ。ボギーをローカライズした。今データを転送する〉
「ありがとう……捕捉したわ。でもいいのかしら、海軍の縄張りで遊んじゃって?」
〈構わない。君の着任挨拶代わりだと思って、派手にやってくれ〉
高度三三〇〇〇フィートの、電子の海。
耳を澄ますと、無数の情報が流れ込んでくる。
でもここは、とても寒い。冷たくて、寂しい場所。
夜空が、次第に白んでいく。
「了解。始めるわ」
そして私は、翼を広げる。
一九九四年 二月二十八日 〇五四〇時(グリニッジ標準時) アドリア海ボスニア沖
アメリカ合衆国海軍空母セオドア・ルーズヴェルト
「スカイチーフよりIFF(敵味方識別信号)照合……当該機、ノン・フレンドリー」
空母セオドア・ルーズヴェルト艦橋。
コンソールから漏れる光によって水底のようにぼんやりと浮かび上がる航空指令所に、管制官の声が響く。
ノン フレンドリー(友軍機にあらず)。
その一言で指令所内に静かな緊張が広がった。
「エリアG3、アルチチュード(高度)二九、ヘディング(方位)一八〇、速度四〇〇ノットで南下中」
半透過性の液晶パネルを睨んで、航空司令はさながら老いたブルドッグのような唸り声を上げた。
現在監視空域を飛行中の全ての機体の航跡情報がリアルタイムで記される空域図。
その中央に、アンノウンを示す赤色をした三角形のシンボルが四つ表示されていた。
傍らに立つSD(先任指令官)が航空司令に耳打ちする。
「レプブリカ・スルプスカ(セルビア人ボスニア共和国)です。ルートから予想して、ムスリム陣営の基地を爆撃したものかと」
「飛行制限空域を無視して、か?」
航空司令は大げさに首を振って憤慨してみせる。
「我々もなめられたものだ」
「どう対処すれば?」
上目遣いでSDが訊ねる。司令は吼えた。
「決まっておる! ボスニア上空で両軍の違反行為が無いよう監視し、必要とあらば実力を行使するのが我々第八航空団の任務だ。現在付近を飛行中のユニットは?」
「第五二六戦闘飛行隊が、西の海上を飛行中です」
ターゲットからわずかに離れたセクターに表示されていた緑色のシンボルが拡大される。
「よし、共同空軍司令センターに連絡しろ。許可が下り次第攻撃命令を出せ」
「イエスサー!」
ボスニア上空での紛争当事者間の戦闘行為を禁じ、これを監視するオペレーション・ディナイフライトは単なる一作戦ではなく、NATOによるボスニア紛争への介入政策の根幹を成している。
ここでセルビア人勢力が飛行制限空域を侵犯して敵陣営を好き放題に爆撃する行為を容認すれば、NATO、ひいてはアメリカ合衆国の威信は失墜するだろう。
数分後、共同空軍司令センターの攻撃許可が下り、セオドア・ルーズヴェルトから第五二六戦闘飛行隊に攻撃命令が出される。
〈ラフライダー、ディス・イズ・フォックス01、ナウ・アルチチュード四〇。リクエスト・ターゲットポジション〉
〈フォックス、ディス・イズ・ラフライダー。ユー・アー・アンダー・マイ・コントロール。ステアー・ヘディング〇九〇〉
〈ラジャー〉
セオドア・ルーズヴェルトからはるか離れた海上。
フィンガーチップ隊形で哨戒飛行に当たっていた四機のF‐16戦闘機フォックス・フライトが、アフターバーナーからオレンジ色の炎を噴き出し、機首を大きく東へ回頭させる。
朝焼けの空で、くろがねの猛禽同士の命を賭けたゲームが始まった。
「五二六飛行隊、コースクリア。会敵予想時刻〇六三〇です」
要撃コンピューターが会敵までの最短コースを演算し、パネル上に予想航跡を描き出す。
「敵は四機、こちらも四機か」
「爆撃を終えて帰投途中の機を背後から狙い撃つのです、七面鳥の首をひねるよりもたやすいかと」
SDは自信満々で答えた。航空司令は顔をしかめる。
「背後から、か……騎士道精神にもとると後で世論から叩かれんかね」
「いいえ閣下。協定を破ってムスリムの基地を爆撃するセルビアのこそドロ行為こそ許すべからざるものです。騎士道精神は、常に我が合衆国海軍と共にあります」
「……念のため、事前に無線で警告させろ。正当な手続きを踏んだと後で証明するためにもな」
「了解しました」
司令とSDが見上げるパネルの上で、南下する四つの赤いシンボルとアドリア海から割ってはいる同じく四つの緑色のシンボルが刻むように移動しながら急速に接近しつつあった。
「フォックス、レーダーコンタクト!」
F‐16の機上レーダーがセルビア機を捕捉したという報告。
「オープンチャンネルで警告を」
SDが管制官に指示する。
「応答せず。警告を無視しています!」
「フォックスより通信、ターゲットを目視! ターゲット推定、G‐4スーパーガレブ。セルビアです!」
決断の時だった。
SDは司令の顔を伺い見る。
司令は鼻を鳴らすと、頷いた。
正面に視線を戻し、SDが短く命じる。
「撃墜命令を出せ」
「イエスサー。フォックス、クリアファイア(武器の使用を許可する)。キルボギー(目標を撃墜しろ)」
〈ラジャー、キルボギー〉
四機のF‐16が、装備するAMRAAM空対空ミサイルの発射態勢に入った。
セオドア・ルーズヴェルト航空指令所では、パネル上のセルビア軍爆撃機の編隊がロックされたことを示して明滅する。
その時、不意にF‐16各機でロックオン警報が鳴る。
セオドア・ルーズヴェルトでも、パネル上に突然浮かび上がった複数の赤いシンボルが、F‐16のシンボルを取り囲んだ。
「地上よりSAM(地対空ミサイル)らしき熱源反応多数! ロックされています!」
管制官の報告に、余裕の表情だったSDから血の気が失せた。
「地上からだと? 非武装緩衝地帯のはずだぞ!」
「フォックス、ブレイク(散開しろ)! ブレイク!」
指令所はたちまち騒然となる。
世界最強を誇る米軍の最新鋭戦闘機が、撃墜の危機に瀕しているのだ。
ハンターと獲物の関係は、一瞬で逆転した。
「地上に伏兵を配置していたのか……!」
司令が苦しげに呻く。
誰もが最悪の結果を覚悟した、その時だった。
異変が起きた。
パネル上で、必死の回避行動をとるF‐16の喉笛に今にも食らいつこうとしていたミサイルの一発が、何の前触れもなく突然ロストしたのだ。
「……え?」
SDが、あっけに取られて思わず間の抜けた声を出す。
「SAM、ロスト!」
直後、他のミサイルも立て続けにロストしていく。
「どういうことだ? 何が起こっている!」
航空司令が大声で管制官達に詰問する。
誰も答えられない。
司令は顔をしかめて唸った。
敵ミサイルの故障か?
否、十数発のミサイルが全て、それも一斉に故障するなどありえない。
セルビア軍が途中で故意に自爆させた?
否、セルビア軍にここで獲物を放棄する理由などない。
アメリカが一切の脅しの通用する相手ではないことを、セルビアは十分にわかっているはずだ。
それほどにアメリカの政策は一貫してセルビアと敵対してきたし、国連軍ですら敵と見なして平然と先制攻撃を加えてくるセルビア人勢力が、この局面で米軍機に手加減する合理的必然性がどこにある。
むしろセルビアとしてはここでF‐16を撃墜した方がプラスに働く。
一日に百人単位で米兵が戦死しても当たり前だったヴェトナム戦争時代とは違う。今は一人の人命でも世論が大騒ぎになる時代だ。
もし高価なF‐16を四機も失いパイロットが犠牲になれば、元より海外紛争への介入に消極的な米本国の世論は、撤退へと大きく傾くだろう。
考えるまでも無い。
では、何故セルビア軍は?
そして、セルビア軍の故意でないのなら、一体何が?
「フォックス無事か? フォックス01! 応答せよ!」
パイロットを呼び出す通信士官の声で、思考の迷宮に入っていた航空司令は我に返った。
「パイロットだ、パイロットに確認しろ!」
「はっ! フォックス01、何があった? 状況を報告せよ!」
詰問する通信士のヘッドセットに、激しいノイズと共にF‐16の編隊長の声が流れ込んできた。
〈羽根が……〉
「……何?」
通信士が思わず首を傾げて聞き返す。だが編隊長は、どこか上擦った声で同じ言葉を繰り返した。
〈羽根だ……羽根が……ミサイルを次々と……〉
「羽根? 羽根と言ったのか? それはどういう意味だ」
〈く……黒い……羽根が……黒い羽根が……〉
通信士がお手上げだといった表情で指揮台を見上げる。
SDが自らマイクを掴んで編隊長に問い質した。
「わかるように報告しろ! 黒い羽根とは一体なんだ?」
〈わからない……こんなものは初めてだ! 無数の黒い羽根が……空を乱舞している!〉
怒鳴り返すパイロットの悲鳴にも近い声が、指令所に響き渡った。
「パイロットは幻覚でも見ているのかね?」
航空司令がSDに小声で訊ねる。
「いえ……フォックス・フライトの編隊長は湾岸戦争でも危険なミッションをいくつも成功させているベテラン、目は確かなはずです」
「では一体、黒い羽根とは……」
途方に暮れる二人の指揮官をおいて、状況は急激に推移していく。
「エリアG3に、新たなIFFコンタクト!」
戦況パネルに突然、異常なスピードで移動する新たな緑のシンボルが出現し、管制官達が思わず立ち上がる。
「当該空域に急速に接近する友軍機の反応を捉えました! 方位一七八、アルチチュード三三、速度は……」
表示された速度に、管制官が息を呑んだ。
「マッハ九を超えています!」
「マッハ九だとお?」
航空司令は自分の耳を疑った。
「落ち着いて再確認しろ! 友軍機というが一体どこの所属だ? 何故これまで確認できていなかった?」
「レーダーコンタクト無し、IFFで探知できるのみで……ステルス機ではないかと」
「馬鹿な!」
管制官の憶測をSDが打ち消した。
「友軍のナイトホークは、最高速度マッハ〇・八五程度だぞ!」
管制官もSDも動揺を隠せない。
無理もない。米軍が誇る当代最高速の戦略偵察機、SR‐71でも、マッハ三が限界だ。
NASAの構想で、最高速度マッハ六・八で飛行可能な無人の極超音速機のプランがあるが、それとてまだ机上のもので、実用化には少なくとも十年はかかるといわれている。
ましてやマッハ九で飛行する航空機など、現時点では米軍も、NATOに加盟するどこの国も保有していない。
「当該機のセルビア機との会敵予想時刻、〇六一五…修正、さらに加速! 会敵予想時刻、ネクスト四五!」
「IFFを共同司令部のライブラリに照合中……出ました! 当該機、第一三特殊作戦部隊群所属機、コールサイン、エンジェル・アルファ!」
「第一三特殊作戦部隊群?」
聞いたことのない部隊名に、司令が首をひねる。
IFFと呼ばれる敵味方識別信号は軍の最高機密であり、識別コードは毎日ランダムに変更されて使用されている。偽装はありえないはずなのだが。
「なんだそれは、空軍か海兵隊の部隊か?」
「……いえ、恐らく違います」
横に立つSDが、何かを思い出したような顔をして、首を振った。
「あれは確か、CIA作戦本部の実行部隊で、対外軍事工作のために非公式に編成されたものです」
「CIAだと? スパイどもがこんな化け物のような機体を持っているというのか! 映画の007じゃないんだぞ」
「はい、実は……まさかとは思いますが……」
まさか。
SDがその続きを言おうとした時、信じがたいことが起きた。
セルビア軍のスーパーガレブ四機のシンボルが突然、一瞬激しく点滅した後、掻き消えるようにパネルから消えたのだ。
「セルビア機、全てロスト! エンジェル・アルファに撃墜された模様!」
「なんだって!」
司令が驚愕に目を剥いた。
「一体どうやってだ! ミサイルも発射せずにか?」
「不明です!」
「四機の敵を、一瞬で……」
「エンジェル・アルファ、変針します! 方位二五〇で降下中!」
謎の方法でスーパーガレブを全滅させたエンジェル・アルファが、その進路をわずかに西に向ける。
そして、その先には。
「退避中のフォックス01に接近! 距離二〇ノーチカルマイル! このままでは衝突します!」
一度退避して再度スーパーガレブと交戦しようとしていたF‐16編隊の隊長機に、エンジェル・アルファがじりじりと迫る。
その異様な高速の前には、最新鋭戦闘機であるF‐16でさえあまりにも遅々とした動きに感じられた。
「無線でそのエンジェル・アルファとやらに進路の変更を要求しろ! くそっ、狂ってるんじゃないのか向こうのパイロットは!」
あるいは中で意識を失っているか、だ。
速度は勿論、航空機の性能向上に限界があるのは何も技術的な問題だけではない。
人間であるパイロットを乗せている以上、Gをかけすぎればパイロットの気絶、下手をすれば死を招くのだ。
航空司令の目から見て、エンジェル・アルファの常軌を逸した高機動は中に乗っている人間に耐えられるものではない。
かといって、現用の無人機に複雑な戦闘機動ができるはずがない。
「コーション(警戒)! オールモスト・セイム・ポジション、セイム・アルチチュード! フォックス、コーション!」
パネル上の二つのシンボルは、ほとんど重なりかけていた。
〈機影なんて見えないぞ! 一体どうなってるんだ!〉
F‐16からは編隊長の悲鳴が伝わってくる。
「フォックス01! ブレイク! ブレイク!」
指令所でパネルを注視する全ての者が、F‐16にのしかかるように迫るエンジェル・アルファの姿を想像した。
こつこつ。
フォックス・フライトの編隊長が搭乗するF‐16で、編隊長は背後から、キャノピーをつつかれるような音を聞いた。
何事かと振り返る。
そして、編隊長は『彼女』を目撃した。
『彼女』は、マッハ二で飛行するF‐16の機体に腰を下ろすようにして、首を斜めにかしげ、編隊長の顔にいたずらっぽい眼差しを向けていた。
目と目が交わる――
数秒の交差の後、エンジェル・アルファのシンボルが、F‐16から遠ざかっていく。
「フォックス01! 応答しろ! 無事か!」
セオドア・ルーズヴェルト指令所。呼びかけを続ける管制官のヘッドセットに、ややあってフォックス・フライト編隊長の答えが返ってきた。
〈こちらフォックス01、返答が遅れてすまない。……エンジェル・アルファと接触した〉
編隊長の声は妙に落ち着いていて、管制官は違和感を覚えた。
「フォックス01、何があった?」
〈天使と……天使と出会った〉
「な……!」
管制官、指令所の全員が絶句する。
〈嘘ではない。誇張や比喩でもない。あれは……天使か、あるいは。いや、俺には、そうとしか説明できない〉
編隊長は淡々と告げる。
何か超常なるものを見てしまった人間の声だった。
〈繰り返す、私は天使を見た。……ラフライダー、指示を請う〉
「……帰投しろ、フォックス01」
管制官には、そうとしかいえなかった。
フォックスフライトが変針する。まるでそれを見届けたかのように、パネルに表示されたエンジェル・アルファのシンボルが、警戒空域の外へと消えていく。
指令所全体が安堵よりも、狐に包まれたような気分を味わっていた。
「……実は、以前この艦に配属される前に、エンジェル・アルファという名のフーファイター(幽霊戦闘機)の噂を耳にしたことがあります」
もはや言葉も無く椅子にもたれる航空司令に、SDが恐る恐る話し始めた。
「初めて目撃されたのは……信じられないことに、第二次世界大戦末期のヨーロッパ戦線です。その後、朝鮮戦争、ヴェトナム戦争、アフガン紛争など、世界中の戦場で目撃談があるそうです。いずれも、ただの戦場伝説として扱われていますが……」
SDの声は震えていた。
「そして今から数ヶ月前、同じ名前の実験機……らしきものを、CIAの特殊部隊が運用しているという噂を耳にしたんです。このボスニアに、投入されるかもしれない、と」
「……初めて聞く話だな」
司令は呟くように応じた。何か変な夢でも見ているような気分だったが、少なくとも自分の部下が冗談を言ってからかっているのではないことだけは確かだった。
「申し訳ありません、ただの噂でしたので。なんでもその実験機は、人間のような形状をしていて、あたかも生きているようで……それで、背中に、翼が生えているそうです」
荒唐無稽といえばあまりにも荒唐無稽なSDの説明を聞き終わった後。
「その翼は……」
年老いた航空司令は、静かに訊ねた。
「その翼は、黒いのか?」
「はい」
SDは頷いた。
「まるで、カラスの羽のように」