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凪の海

作者: 糸川草一郎

 三保の松原で俳句結社の合同鍛錬会が行われることになり、私は俳句仲間と師匠の辻先生の車に乗せていただき、三保へ向かうことになった。

 秋の彼岸過ぎのある週末のことであって、朝の八時ちょっと過ぎだったせいか、市街地を抜けて行ったのにさほど道は混雑していなかった。一般道から国道バイパスに乗って道なりに海岸線を走ったが、海は驚くほどに凪いでおり、沖を行く漁船や貨物船もまるで海上に停泊しているかのように、動いている様子が感じられなかった。空は仲秋であるにもかかわらず、光の粉をまぶしたかのように輝いており、その光を受けて、海も鏡めいて輝いていたから、見えるともなく見えてしまう海だが、ひどい眩さであって、後部座席の左側、つまり助手席の真後ろに坐っていた私だったけれど、あんまり眩しいから海の方は見ないようにしていたのだが、左側の頬にあたる照り返しは尋常な光ではなかった。サングラスを持ってこなかったことをつくづく後悔したのはそのためだった。

 今日は昼前から曇りという予報が出ていたから、三保の松原の海岸に着いた頃には海側の空も富士山の方角も曇っていたので、いつもよりは心なしかしのぎやすいように感じたけれど、いかんせん、海は気味が悪いほどに凪いでおり、風もほとんど吹いていないので、車を降りてみると身体の内面から、にじみ出るような汗が額や首周りや、腋や背中にべたつくようであって、じっとしていてもいい気分とは言い難いから、私は句仲間の後をゆっくりついて歩きながら、時折単独行動をとったりして、松原沿岸を浜伝いに歩いた。

 しばらくすると心なしか雲が厚くなって来たようなので、松原から虫の声が聞こえてきてもよさそうなものだったが、虫の声らしきものはまったく聞こえないどころか、小鳥の声すらも聞こえず、鬱蒼とした松原は不気味なほどに静まりかえっていたけれど、静かなのは松原だけではなく海の方も同様であって、打ち寄せる波の音もほとんど聞こえず、海鳥の声はおろか、姿すらもなく、波打ち際の渚の石の辺りで、引き波のさらさらと音を立てているのが、かすかに聞こえるだけであった。


 沖合に目をやると、何故か海上自衛隊の護衛艦が彼方に認められたり、これから清水港へ入ろうとするのか、今出たところかわからないが、大型の豪華客船が確認できたりしたけれど、それらはさっき国道バイパスの海岸線で見た船影と同様、海上に停まっているかのようにのろのろと航行しているのだった。

 けれども波打ち際の人々はいつも通りと思われる様子であって、こどもたちが海へ向かって石を投げていたり、渚で貝殻や石を拾っている子がいたり、しばらく行くと釣り人が竿を竿立て(釣り用語に詳しくないから正式な名称は知らない)に立てて糸を垂らし、隣に立ちつくしていたりしていた。

 と、沖を進んでいた漁船が急に近づいてくる素振りであったので、ちょっと興味を惹かれたから注視していたが、その漁船は沖からこちらへ向かってくる様子なのに、船体はいつまでたっても近づいてくる感じがしない。釈然としない思いで見ていたけれど、その時師匠の辻先生に声をかけられた。

「杉野君、お昼なのでそこらの食堂で皆さんと食べませんか」

「はい」

 私は曖昧な気持ちのまま辻先生の後をついてゆき、車で付近の定食屋に連れて行っていただいて、昼食を摂った。が、三保の名物の海産物を何か食べたはずなのに、何を食べたのか判らなかったし、味もまるで感じられないのが残念にも思われたのだった。

 昼食の後、二時が投句の締め切りなので、また海岸に戻った辻先生をはじめとする句仲間と私は、まだ一時間以上あるから、もう少し波打ち際を歩こうと、元いた場所へ戻り沖合へ視線を移すと、さっきと同じ辺りにはまだ護衛艦と大型客船があったのだけれど、その様子を特に注意を払って見ていたわけではないが、海は完全な凪の状態なのに、大型客船の喫水線が見えなくなり、ずいぶん船が低くなったなと思っていると、客船は波もないのにゆっくりとローリングを始めた。

 その間にも船はどんどん甲板の高さが低くなってきて、これは危ないなと思っていたら、次の瞬間、スローモーションのように大きくもんどりを打ったかと思うと、次第に船尾から沈みはじめ、またゆっくりと揺れを繰り返しながら持ち直したかと思う瞬間もあったけれど、それは気のせいだったらしく徐々に船尾が水没してゆき、船首を縦にして甲板は水平線に四五度くらいの角度から、ゆるゆると海に引きずり込まれるようにして、やがて完全な垂直になり、そのまま音を一つも立てず、滑るような緩やかさで、見ている間にしずしずと沈没していってしまったのだった。私は夢でも見ているのではないのかと思ったけれど、どういうことかさっぱり理解できないので、その沈没した辺りの沖合をずっと見ていたのだが、そのあいだも海はまったくの凪であった。

 波打ち際にいる人々はこの光景をどのように見たのだろうと辺りを見廻したが、それまでそこいらにいた釣り人やこどもたちの影は、いつの間にか消え失せていて、どこにも認められなかった。句仲間の姿も見えないので私は探そうと思ったが、そうしているうちに沖合で物々しい気配というか、不気味な通奏低音のようなものが聞こえだしたので何ごとだろうと沖に目をやると、動かぬままであった護衛艦が悲鳴のようなぎいいという軋む音を高鳴らせ、私のところから少し離れた沖合で、地獄の鐘の音を思わせるような地響きのする低く大きな音を立てたかと思うと、大型客船同様にゆっくりと左右に揺れはじめた。やがて艦体が大きく静かに左へ傾きはじめたかと思って見ていたら、護衛艦は空に向かって機関砲を乱射し始めた。私にはその砲声すら何のことなのか意味が判らなかったが、かの音は断続的に数分間も続いたであろうか、やがて艦はふたたび左右に大きく揺れた。沖の方から風が吹き出し、その中に石油を思わせる臭いが漂いはじめた。その臭いを嗅いで私はひどく理に合わない寒気のようなものを感じたけれど、自分の見ているものが目の錯覚かどうか確かめる間もなく、護衛艦はまるでサイレント映画の船舶事故の映像を思わせる姿を彷彿とさせる格好のまま、見る間に沈没していってしまったのだった。

 しかも驚いたことにはその間もまったく波風は立たず、不気味な凪だけがあった。私は自から身体が震えてくるのをどうすることもできずにいた。何年も止めていた煙草が急に吸いたくなって、近所の売店の自動販売機でケントを買うと、そこでライターを買うついでに、売店の女主人に、今海で何が起きたか見たかと尋ねてみたが、女主人は、何のことですかと首を傾げて苦笑いするだけであって、何を言ってもまったく話が通じない。とにかく私はケントに火をつけてまたたく間に二本吸った。目の前の出来事がどういうことか判らなかったから、とにかく落ちつこうと思ったのである。が、私の指さきは何かの中毒患者のように細かく震えて止まらなかった。

 売店から元の場所へ戻ると、その時、近くの広報無線のスピーカーからいきなり大音量のサイレンが鳴りはじめた。びっくりして振り向いたが、そこにあるのは無人の松原であった。辻先生はどうしているだろうと思い、携帯電話をかけてみたが、電波が遠いか電源が切られているため、繋がらないと言うアナウンスがあるばかりであった。他の句仲間の携帯も同様で、どういうことであろうかともう一度海を見やると、やはりそこにあるのは不気味なほどの凪であって、雲間から覗き出した陽光に照らされて、日おもてに置かれた巨大な鏡のように、海は異様なほどぎらぎらとした光を放ちはじめた。

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