(3)
フランは奴隷である。
元々はうら寂れた山村に生まれた、何の面白みもない田舎娘であった。
それが変わったきっかけは、村が寒波に襲われたことだった。
フランは、村の嫌われ者だった。
全員が全員お互いに昨日何をしていたのかを知っている、狭っ苦しい共同体。その小さな輪を構成する全ての者から厭われていた。
村人だけではなく、家族からも。
だから、寒波の影響で細々と作っていた作物が不作になり、お役人に税金が払えなくなったとき。
家族の内から売られていくなら、自分だと分かっていた。
だからそのことは別にいい。
本当は、家族皆が少し日々の食事を減らせば捻出できる程度のものだと賢いフランは理解していたが、彼女は同時に、村のどこにも自分の居場所がないことを理解していた。
そうして諦め、売られた先の奴隷商は、それまでと比べて驚くほどに良い環境だった。
村で直接フランを買い付けた男たちは、その奴隷商の直営買付け業者だという話で、フランがお高い“商品”であることを十分にわきまえ、道中も丁重に扱ってくれた。フランの顔を見れば渋面を作り、その存在を知らぬふりで声高に罵る村の男たちとは大違いだった。
フランが身を預けることになった奴隷商は、“奴隷都市”マルサグロの高級店。主はにこにことした恰幅のいい男性だった。
店には、店主の他に“お姉さま”と呼ばれる先輩奴隷がいて、彼女たちはフランに様々なことを教えてくれた。
驚くべきことに、彼女らは“新人奴隷教育用”の奴隷なのだという。
彼女たちは美しく、優しかった。
実の母からも苦虫を噛み潰したような顔を向けられ、村の女たちはフランの姿を見かければ集まってこそこそと陰口を叩く。
常にそのような環境に晒されていたフランは、年上の女性に苦手意識を持っていたが、“お姉さま”たちと接する内にそれも消えていった。
フランは、“お姉さま”たちから与えられる知識を懸命に吸収した。
田舎の村娘だったフランが“ご主人様”に迷惑をかけないよう、一般的な常識やマルサグロでの振る舞い方を学ぶのはとても大切なことだった。それから、ご主人様のお役に立つよう、金銭の計算方法や、少しだが字も教わった。時には店主自らが教えてくれることもあった。
毎日身を清められ、お腹いっぱい美味しいごはんを食べることが出来て、色んなことを教えてもらえる。
ここでは、何か分からないこと、気になったことを聞いても「うるさい!」と怒鳴られることもない。
フランは初めて“神様”というものに感謝した。
だから、家族に売られて奴隷になったことは、フランにとっては困るようなことではなかった。
売られた奴隷商も、そこにいた先輩奴隷たちも、そして、フランのことを買ってくれた“ご主人様”も良い人で、何の問題もない筈だった。
まさか、買われた“後”になってこんな困ったことになるなんて。
フランは、予想もしていなかったのだ。
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奴隷都市マルサグロの大通りを、痩身に緊張をみなぎらせ歩く少女がいた。
フランだ。
その余りに必死な様子に、顔見知りは彼女に気付いても声を掛けることが出来ない。
少女は、出来る限り早急に、かつ限りなく人とぶつからないよう――衣服が汚れないように――ひと足ひと足慎重に歩みを進めていた。
その手にはぎゅっと固く何かを握りしめていた。憎い仇を縊り殺そうとでもするような強さで握っているのは、主人から託された財布である。
――――彼女はおつかいの途中だった。
「おやおや、これはフランさんではありませんかな?」
どこか侮りがたいような、しかし不思議と温かみのある声。
フランはパッと顔を上げた。目の前に見知った相手を認め、破顔する。
「イギスタスさん! こんにちは」
「はい、こんにちは。どうしたのですかな、そのように恐い顔をして」
「ご主人さ……リオ様におつかいを頼まれたんです。お夕食の材料です。
今日はリオ様があたしにお料理を教えて下さるんだそうです。とっても楽しみです!
それで、えっと、楽しみなん、です、けど……」
“人と出会った時は挨拶をすること”
教えをきちんと守っている元“商品”の少女に、奴隷商イギスタス商会の店主は、うむうむと満足気に頷いた。
「でも、途中で転んだり人にぶつかったりしてお洋服を汚したらどうしようって……。
あたし、恐ろしくて……」
途端に眉尻を下げ泣きそうになるフラン。
そう、彼女は困っていた。
“ご主人様”から買い与えられた服が、余りにも高価すぎることに。
貧しい寒村出身の少女には、一着が故郷での生活費◯ヶ月分にも及ぶ高級品は、日常的に袖を通すことなど恐ろしくて到底できず。恐れ多くも主人に泣きついて、それよりも安価な品を普段使い用に購入して貰ったのだった。
少女がいま着ているのは、そういった普段着用のエプロンドレスだ。
ただしこれも、フランの価値観からすれば十分に高価で、奴隷に与えるような品ではない。
縋るように握ったエプロンの滑らかな質感が、フランにプレッシャーを与えてくる。
決死の覚悟も露わな少女を放置して、男は「そうですか、そうですか」と頷いた。眦にたくさんの笑い皺を刻み、嬉しそうに何度も。
頷きながらも、イギスタスはさりげなくフランの着衣に目を走らせた。
エプロンドレスは黄緑色の格子模様。襟と袖口は白く、角を丸めた形。白い糸で果実をかたどった刺繍が入っており、一見して分からないが、それは防護の呪装である。
襟と襟の間でふわりと結ばれたリボンも黄緑色だが、詳しい人間ならそれが迷宮産の高価な原料で織られたものだと分かるだろう。
エプロンは某王室侍女に隠れた人気と最近噂のテーラーのものであるし、ストッキングや靴も堅実な手仕事で根強い支持者を持つ工房の作である。
エプロンを外せば、どこぞの良家の子女が街に遊びにおいでになった、という風情だった。
見れば衣服のしつらえもさることながら、フランは肌の色艶も良く、髪など何やら複雑な形の編みこみで整えられている。
金だけでなく、手もかけられているのがよく分かった。
例え自分の手元を離れた“商品”であろうとも、それが“主人”に大切にされ可愛がられているのを見るのは、イギスタスにとって比類なき喜びだ。男は好々爺然とした笑みを深める。
一方、少女に漂う悲壮感も深い。
「お洋服を汚さないように気をつけて歩いてたんですけど、
そうしたら市場にぜんぜんたどり着かなくて。
このままじゃリオ様が帰ってくる前におつかいが終わらない……どうしよう……」
最後は涙まじりになってしまった言葉へ、イギスタスは柔らかく相好を崩した。
「リオ様は大変優秀な冒険者でいらっしゃるようですな」
俯いていた小さな頭がぱっと上を向く。分かりやす過ぎる反応に、老獪な商人はこみ上げる笑いを堪えながら続けた。
「確か、『白花のリオ』または『百花のリオ』と呼ばれているそうです。
二つ名がつくとなると、これは相当のものですぞ」
キラキラと少女の瞳が輝いている。細い顎を何度も上下に振ってフランは強く同意を示した。
「そうなんです! リオ様ってばすごいんです!
この間もギルド長とおっしゃる方がわざわざ家までおいでなすって、リオ様に……」
「そんな方ですから、日々の雑務は煩わしいことでしょう」
長くなりそうな少女の話を強引に断ち切って男は語を継いだ。
「良いですか、フランさん。
貴女の使命は、冒険者としてのご活躍に忙しいリオ様に代わり、日常の雑事を片付けることです。
差し当たっては本日のおつかいを終わらせること。優れた冒険者は拙速を尊ぶと言います。
多少の瑕疵があったとしても結果良ければ全て良しというものです」
「で、でも……。せっかくごしゅ……リオ様に買って頂いたお洋服なのに、汚したりしたら申し訳が……」
イギスタスは、目に力を込めて言い放つ。
「フランさん、よくお聞きなさい。
リオ様は、衣服の汚れ一つで貴女を罰するような方ですか?」
「いいえ! いいえ! そんなことありません! あたしがただ勝手に気にして……っ」
「では、更に聞きましょう。
リオ様は、例え衣服が汚れてもおつかいを完遂させた貴女と、
衣服の汚れを気にしておつかいを終わらせることが出来なかった貴女、どちらを褒めてくれますかな?」
はっ、と少女の美しい水色の瞳が光を得る。
「い、イギスタスさん……。あたし、あたし……」
「さあ、お行きなさい。
これからは困ったら必ず“ご主人様”にお聞きすることです。
あの方ならきっと良いようにして下さるでしょう」
温かい掌に背を押され、フランは思わず駆け出した。
硬い石畳を蹴るつま先にどんどん力が入ってゆく。気づけばフランは、舞い上がる砂埃を気にもせず雑踏を駆け抜けていた。
ありがとうございます、イギスタスさん――。
今度会ったときにちゃんとお礼を言わなくちゃ、と胸に刻み、フランはまっすぐ市場を目指したのだった。
こうして目下少女の『困りごと』は解決したかのように見えた。
しかし、彼女にはもう一つ、誰にも言えない大きな『困りごと』があった。
それは――――
「あれ、フラン?」
それは少女が、市場での買い物を終え、帰路についた、その途中のことであった。
どんな偶然だろうか。彼女の“主人”と行きあったのだ。
「やっぱりフランだ。偶然だね、おつかいの帰り?」
主人――リオは、そう言って近づいて来る。
シャープな顎、その上の唇は笑うと白い歯が煌めいて、すっと通った鼻筋に、涼やかな目元。艶やかな黒髪は首の後で一つに結ばれており、それはサラサラと風になびいて――。
「重そうだね、半分持つよ」
そう言って少女が両手に抱えていた紙袋の一つを、実に優雅に無駄なく攫っていく。
「う゛っ!」
そしてその瞬間、フランは間近で直視してしまった。
自分より頭一つ分は背の高いリオの、とても素敵な顔を。
ちょうどよく雲間から日が差し、光に照らされてキラキラキラキラと輝くその笑顔を。
ふぅ――っと。
一瞬気が遠くなる。
「っと。どうしたの? 大丈夫?」
そうしてよろめいたフランを、リオはこれまたスマートさを体現するナニカそのような現象そのものの如く、肩に腕を回して抱きとめた。
――――ああ、ああ……っ。
ドクドクと、心臓が跳ねる。
“ご主人様”の腕の中で、陶然とその愁眉を見上げる少女奴隷。
――イギスタスさん。
彼女は思わず。
心の片隅で、先ほど自分に道を示してくれた相手へと、問いかけていた。
“ご主人様”が、かっこよすぎて困るのって、どうしたら良いですか――……っ?