(1)
リオは冒険者である。
元々は日本でOLをやっていた、どこにでもいるありふれた女であった。
それが変わったのは、退社後、帰宅を急ぎ小走りで四辻を曲がった時のこと。次の瞬間には、そこはもう異世界の森の中だった。
魔法もある、モンスターもいる。まるで物語のような世界に流されてきて、リオは冒険者をやっている。
この世界では、リオのような――彷徨人と呼ぶらしい――日本から迷い込んだ人間が少なくなく、彼らは総じて不思議な能力を持っているという。そしてリオが授かったのは、闘う為の能力だった。それは決して喜ばしいことではなかったが――少なくとも、そのおかげでリオは、この悪い冗談のような世界でも、何とか一人、生きていけている。
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その日、奴隷都市マルサグロに一人の冒険者がやって来た。
街門が閉じる寸前、すべりこむように入街を果たしたのは、リオであった。遠方よりの長旅を匂わせる、旅装の冒険者の姿はこの街では珍しいものではない。何せ、他の街からはかなり離れた場所にあるにも関わらず、“奴隷都市”その響きに夢を見て訪れる人間は多いからだ。
しかし、リオの目的は奴隷ではない。
迷宮だ。
この街の東には小さいが迷宮があり、迷宮専門の冒険者――迷宮探索者であるリオは、それを目的に訪れたのだった。
リオと同じくぎりぎりで街に滑り込めた旅人たちは、日が落ちる前に安全な場所に入れた安堵で頬を緩めている。しかしリオの表情は浮かなかった。
――この街にはいつまで居られるだろうか。
リオはその能力から少しばかり名が売れている。そして有名になるということはそれだけ厄介事も増えるということだ。リオは今まで、面倒事に巻き込まれそうになった時には逃げてきた。この街にも、そうして今まで暮らしていた街を捨ててやって来たのだった。
リオはふと、斜陽に照らされて橙に染まる往来に立ち止まり、自分の手を見た。
節くれ立ち、潰れた豆と剣ダコで硬くなりごつごつとした自分の――剣を握るそれに相応しくなってしまった掌を。
日本にいた時、リオは自分の身を手入れするのが好きだった。特別に目を引くような美人ではなかったが、容姿は悪い方ではなかったし、手をかければかけるほど磨かれていくのが楽しかった。
エステ、ヘアパック、アロママッサージにネイルアート。
お世辞にも白魚のように、とは言えなかった。それでも、長く細く、仕事に邪魔にならない程度に上品なフレンチネイルと華美でないささやかなラインストーンによって彩られた爪は、充分に指輪が似合う指だった。
――今は。
一般的な女性用の指輪など、到底通らない。それほどまでに太くなってしまった。
指だけではない。剣を振るう腕も、それを支える肩も、首も。がっしりと鍛えられ、戦う者の証左のように数多の傷がついている。死と隣合わせの日々を送っているせいか、眼光は鋭く、口元は油断無く引き締められ、顔からは女性らしい丸みなど削ぎ落ちた。
「……私はいったい、いつまでこんなことを続けていくのかな」
ぽつりと、零した言葉は、思いがけず絶望の暗さに彩られていた。ぎくりとしてリオは歩き出した。自分が残した言葉から逃げるように。伸びる外壁の影に飲み込まれまいとでもするように。
――そうして、逃げ出したはいいものの。リオの心の奥底の重石は一向に浮き上がってはこなかった。いつしか足取りも引きずるようにリオはあてもなく街を彷徨いていた。
(そろそろ日も落ちる。いいかげん今日の宿を探さないと……)
そう思い、顔を上げたリオの視線が一点に吸い寄せられる。それは、ショーウィンドウだった。
こちらの世界では珍しい一面ガラス張りの店で、ガラスの向こうには、商品――美しい人形が展示されていた。
(……きれい)
ふらふらとショーウィンドウに近づき、その人形を見上げる。等身大の、少女の人形だった。
薄い金の髪はシルク製だろうか。瞳は水色。白磁の肌に、長いまつげに縁取られた大きな目と美しい形の鼻と、小さな桃色の唇が乗っている。
(不思議の国のアリスみたい……。水色のエプロンドレスとか、きっと似合うだろうなあ。こんなに可愛いのに、なんでこんな地味な服……)
「えっ!?」
まるで夢みるように、陶然と人形を見上げていたリオが思わず声を上げてしまったのは、その人形が、瞬きしたように見えたからだった。驚いて、一歩後退り――その絶妙のタイミングで、声をかける者がいた。
「お気に召して頂けましたかな?」
振り返ると、恰幅の良い男がニコニコと愛想良く笑みを浮かべている。
「宜しければ店内でもっとよくご覧になりませんか?」
「え、いえ、でも……」
「勿論ご覧頂くだけで結構ですよ。今日はお客様も少なく、奴隷たちも退屈しております。お客様さえ宜しければ話し相手になってやって下さいませんか?」
「えっ奴隷!?」
「ええ、ええ。安心安全明朗会計、イギスタス商会へようこそおいで下さいました。ささ、どうぞどうぞ」
動揺している内に、リオは気付けば店の中に足を踏み入れていた。明るい店内は、上品かつ高級感のある内装で、リオはこれもひと目で上等な品と分かるベルベット張りのソファを勧められ、頭が働かぬままに尻を沈めていた。
店主――先ほどの男がそうだったらしい――が差し出したティーカップを礼を言って受け取り、口をつける。その僅かに甘い匂いがする温かいお茶はリオの心を落ち着けてくれた。そこでまたタイミングを図ったように店主が奴隷を呼ばわる。
(奴隷……奴隷って……本当に?)
未だ信じがたい気持ちで、リオは人形――少女が自分の足で歩いてこちらにやって来るのを見て、少なくとも彼女が人形でないことは認めざるを得なかった。
間近で見れば、彼女の瞳は煌めいていて、けれどその中に僅かな緊張と不安が見て取れ、起伏する胸元なども、生きている人間の証拠だ。
(でも本当……綺麗な子だなあ。水色と……あと紺色も似合いそう。今つけてるチョーカーもいいけど、別の……ん?)
リオがチョーカーだと思ったのは首輪で、紫のような虹色のような不思議な色を湛えた宝石が嵌っている。リオが首輪に目を留めたのを察して、店主が口を挟む。
「失礼ですが、お客様はこの街は初めてで?」
頷いたリオに、店主は親切にも説明してくれた。“隷属の首輪”のことを。そしてまた、リオも問われるままにぽつぽつと今までのことを話していた。
疲れていたのも事実だろう。何せ歩きづめに歩いてきて先ほど街に入ったばかり、まだ休息もとっていない。けれど恐らくはこの店主が、リオの認識で言えば“こちらの商人らしくない”男で、つい口が軽くなってしまったのだ。
リオが今まで巡ってきたのは主に迷宮都市、迷宮からもたらされる恵みを拠り所に成り立つ街だ。住民は冒険者が多く、荒くれ者たちを相手にする商人もやはり剣呑な空気を纏っている。少しばかり元の世界を彷彿とさせる、そんな腰の低い商人に、リオはこちらに来てから初めて出会った。
「ご覧の通りこの子は器量も性格も良いのですが、いかんせん十六と若く、なかなか良い主様に巡り合えない次第でして」
ひょっとして売り込みをかけられているのだろうか、とリオは思った。しかし不思議と嫌な気にならない。
リオはぼんやりと少女を眺める。先ほどリオが地味なワンピースだと思ったのは、何というのか分からないがとても粗末な衣服だった。どうやらこの子が奴隷というのも本当らしい、とリオはやっと頭の片隅で理解する。
「……でも、こんなにかわいいのに」
その一言に、少女は見る間に頬を上気させた。林檎みたいだ、とリオは思った。次いで、
(何て言ったっけ、明るい黄緑色……芽を出したばかりの、林檎の新芽の色。あれも似合いそうだなあ)
と考える。
店主に促され、少女は口を開いた。白い両手はぎゅっと衣服を握っている。
「そんなことないです……」
桃色の花弁から零れ出た声を、
(震える小鳥みたいだ)
と、リオはぼんやり聞いていた。
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「買っちゃった……」
ずぅうん、と背中に暗い雲を背負い、リオは家で項垂れていた。そう、家である。あの後、気付けば少女を奴隷として購入し、二人で暮らすための家を借りる手続きまで済ませていた。
ソファに座り込んで果てしなく落ち込むリオへ、少女はただおろおろするばかりだ。
これが化粧品のコフレとか、ネイルセットとか、コートやアクセサリーの衝動買いだったら、リオはここまで落ち込んだりしない。
人ひとり、人ひとりである。
未だこの世界の価値観に染まりきらず、現代日本の甘っちょろい人権感覚を残すリオは、人間を物のように売買した、という事実と、ただでさえ足元の不確かな生活なのに自分以外の人生を背負い込んでしまった、という重責に打ちのめされ、顔を上げることが出来なくなっていた。
しかしやがて。
きゅるきゅる、と。やおら間の抜けた音が目の前から聞こえ、リオは両手の間からのろのろと面を上げる。果たしてそこには、顔を真っ赤に染め上げ腹を抱えた彼女の奴隷がいた。
「……ごめん、ご飯まだだったね。外に食べに行こうか。何が食べたい?」
そう言ってリオは、奴隷の少女にぎこちなく笑んでみせた。
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少女の名前は、フランといった。
遠く離れた寒村の出身で、凶作で税が払えなくなった家族のために奴隷になったのだという。
「偉いんだね、フランちゃん。いままで大変だったでしょう」
「そ、そんなことありません。ご主人様こそ、彷徨人だなんて……大変なご苦労をなすったんじゃありませんか?」
労りを含んだ言葉に、嘘偽り無く同じだけの感情が返される。それは、リオにとってこの世界に来てから初めてのことで、泣きたくなるほどの喜びだった。
この世界の人々は、彷徨人の来訪を歓迎しているわけではない。どんな場にしろ、特異な力を持った者達は既得者の漁場を荒らす。また、基本的に異能を持つ彷徨人は、こちらでは強者にあたる。そうでなければ食いつぶされるのが落ちだ。
だからこそ、“彷徨人”リオは、同情を求めることすら出来なかった。
彷徨人は分り易い。どうせ隠し通すことは無理だから、と事情を打ち明けたリオに、フランは驚いた表情を見せたものの、ただそれだけだった。そんなことでもリオは嬉しくなる。
「そ、それよりもご主人様……あたしのことはどうか呼び捨てでお願いします。奴隷にそんな、恐れ多いです……」
「ならフランちゃんも私のことは名前で呼んでよ。ご主人様って柄じゃないし」
たどたどしく、つっかえながらも、やがて、リオ様、と呼んだフランに思わず笑いかける。フランは赤くなって俯いてしまった。
(照れ屋さんだけど、本当に良い子だ。大変なことをしてしまったと思ったけど……これで良かったのかもしれない)
本当に久しぶりの温かな気持ちの交流を感じて目から何かが溢れそうになる。リオはそれを麺を啜って誤魔化した。
「美味しいよ。フランも食べな」
促すと、少女はおずおずと湯気を立てる器に手を出した。
「美味しいです! リオ様っ」
パッと花のような笑顔を見せるフランに、リオも笑う。
こうして、リオの“ご主人様”生活一日目は、思いがけない穏やかさに満たされて終わった。