(3)
「はあ……」
街の東を流れる川。そのほとりに、膝を抱えて座る一人の青年の姿があった。
彼の名はシクロ。アセラとハナコという、二人の女奴隷を持つ若き主人だ。
シクロは悩んでいた。――主に彼女たちについて。
どうしてこんなことになってしまったんだろう……。
しくしくと痛み始めた胃を抱え込むように背を丸め、もう一度ため息をつく。
シクロは元々この街の住人ではない。夢を抱き世界中から集まってくる人々と同じように、シクロもまた夢を――自分の店を持ちたい、という夢を持ってマルサグロを訪れた一人だった。
奴隷都市、という面に隠れがちだが、マルサグロは一人の商人が興し、数多の商人によって営まれ続ける、世界的にも珍しい商人の街だ。
つまり、世界で唯一、全く後ろ盾の無い人間が店を構えることの可能な街だ、と言い換えてもいい。
マルサグロ以外の都市で店を持とうとするならば、まずギルドに加入し、ギルドの認可を受けなければならない。
しかしそもそも後ろ盾の無い人間がギルドに加入することは出来ない。たいていが暖簾分けのような形で、既にギルドに加入している誰かが後見人や推薦人となることで、初めて加入が認められるのだ。
シクロは魔装具職人だった。
魔装具製作で有名な都市のそこそこ立派な工房に弟子入りし、十余年。遂に親方に暖簾分けを許されるまでになった。
しかし、いよいよ独り立ちという時に――暖簾分けの条件として、親方に“男同士の契り”を要求された。
――――そういう世界があることは知っていた。
魔装具とは、身に纏う魔道具の総称だ。誰にでも使えるわけではないし、扱いに魔力が必要だが、適性のある人間が使用した場合には、恐ろしい威力を発揮する。
その特性から、魔装具のほとんどは身を守るための、あるいは、敵を討つための武具である。
通常の武具と同じく、魔装具も製作に相当の膂力を要する。一見細身なシクロでさえも、衣服の下には鍛えられた筋肉を有していた。
鍛冶師同様、魔装具職人の世界もむくつけき野郎どもの世界であり、野郎の世界にはそういった趣味の人間が一定数存在するらしいことも、シクロは耳にしていた。
しかし、まさか自分の身近な人間が……自分の親方が……と、目の前が真っ白になったシクロを、更なる不幸が襲った。
新たな――シクロの貞操所望者の乱入である。
彼はシクロの同輩で、共に切磋琢磨し合ってきた友人で――そして親方の息子だった。
一万歩譲って、親方の場合は商売敵にならないようにとかそんな目論見もあっての何かそんなアレだと無理矢理納得もしよう。しかし息子の方は「ずっと狙ってた」とか言われても対処に困る――――――。
気が遠くなりかけたシクロの目の前で親子喧嘩を始めた二人が、「じゃあワシが前でお前が後ろな」等と不穏な妥協点を探り始めたところで、我に返ったシクロは遁走した。
もはや、その街のどこにも、シクロの居場所は無かった。
派手な親子喧嘩の顛末は近所中に知れ渡っており、シクロは何ひとつ悪くないのに、二代に渡り男を惑わせた毒夫などと噂された。
そのような醜聞を得た職人を雇う工房はどこにもなく、噂が一人歩きした結果、勘違いした野郎どもに追い掛け回された。更にそれを勘違いしたおかみさんや娘さんに、熱したハンマーやハンダゴテを振り回され奇声を上げられながら街中を追い回され、シクロはほとんど命からがら逃げ出してきたのである。
「ぼくは何を間違えたんだろう……」
組織の力は大きかった。そして魔装具職人の世界は狭かった。当初、近隣の街で再起を図ろうとしたシクロだったが、ギルドを通じて他の街の魔装具職人にも自分の噂が広まっていることを知り、諦めた。
こうしてシクロは、忌まわしき悪夢も遠き彼方、独力で店を持つことができる、このマルサグロにやって来た。
旅の道中で稼いだ全財産を携え、シクロが最初にしたことは、奴隷を購うことだった。
下心からではない。
この街では、“奴隷持ち”ということが、ある種の身分証明のような力を持つのだ。
奴隷を持つということは、この街に定住するという意思表示でもあるし、奴隷を購入し持ち続けるだけの財力があるという証でもある。
決して下心からではない。
身分証明だけなら適当に家事奴隷を探せば良かったのだが、シクロは、奴隷に自分が作った魔装具のテストをさせたいと考えていた。
そこで探したのが見目の良い奴隷だ。
何故かは分からないが、容姿の整った者は魔導適正が高いことが多い。魔装具のポテンシャルを最大限引き出すために、シクロは容姿端麗な奴隷を求めたのだ。
間違っても下心からではない。
そうして購入したのがアセラだった。
忘れもしない、『クロミネ屋』という名の奴隷商だった。
街について初めて入った店が、その筋では有名な悪徳奴隷商だとは、まさか思いもしなかった。シクロが、大した情報も持たないまま奴隷を求めてしまったが故に。
夢への一步を踏み出した高揚感からか、辛い放浪の旅が終わったのだという気の緩みからか……下心で気が急いたからでは決してない。
知らなかったのだ。隷属の首輪を嵌めた奴隷は、主人に対して思ったままの事を口にしてしまうだなんて。
だから、まともな奴隷商は商談の際、隷属の首輪を嵌めたまま奴隷と客とを対面させる。客は奴隷に対しあれこれと質問や会話をして奴隷の性格や相性を見極めてから購入するのが、この街の“常識”だった。
店の中では殊勝な態度で俯きがちだったアセラが、購入契約を済ませ、隷属の首輪を嵌めた途端言い放った言葉の衝撃を、未だシクロは覚えている。
『――――臭ぇんだけど。喋んじゃねえよ変態◯◯◯野郎』
それからの、決して長くはないアセラとの二人暮らしは、地獄のようだった。
話しかけただけで散々に罵られ、蔑まれる。少女奴隷が自分を見る目は、道端の吐瀉物を見るそれだった。思い返すと今でもちょっと震える。その時のことはシクロの心に大層な傷跡を残した。
当然、魔装具のテストなど頼める筈もない。相手は自分との会話すら――いや、自分の存在すら唾棄すべき汚物だと思っているのに。
もう無理だ、このままでは(自分が)壊れてしまう――。
『クロミネ屋』に返品を申し出たシクロを、更なる絶望が襲った。絶望は、店主のこのような言葉でやって来た。
“ええ? 返品ですかい? そりゃあちょっと無理ですねぇ。
ほら見て下さいよ、契約書のここんところ。『返品不可』って書いてあるでしょう。
この街で『契約』を破ったらどうなるか、……旦那もお分かりなんじゃありませんか”
真っ白になったシクロへ、悪魔は続けた。
“しかしあっしも鬼じゃあございせん。
お客様が苦しんでらっしゃるのを捨て置くなんぞ出来ませんとも、ええ。
あっしに妙案がございます。
どうでしょう、旦那。もう一人、今度は当たりがやぁらかいのをお求めになっては?
あっしが見るに、二人きりだから良くないんでさ。
もっと娘っこい奴隷なら癒されるし、もう一人の方も旦那様への態度を改めるってもんですよ。
旦那は本当に運が良い。
ちょうど知り合いの業者から、良いのが入ったって連絡がありましてね……”
店主はニタニタとどこか癇に障る笑顔でいかにもわざとらしく述べたが、心ぼろきれ状態だったシクロがそれに気付ことは出来なかった。
そして紹介された奴隷商で出会ったのが、現在シクロが所有するもう一人の奴隷、ハナコである。
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川岸に座り、追想に耽っていたシクロの意識を呼び戻したのは、小さな水音だった。
青年はなんの気なしに水面へ視線を向ける。
こぽり、という細やかな音と共に川面で泡が弾ける。
そして。
ごぼごぼごぼごぼごぼ。
それは見る間に、沸騰する魔女の大鍋の如き不穏さを露わにした。
次の瞬間、ざっぱーーーん!! と、盛大な水飛沫を跳ね上げて空中に踊り出たのは、巨大な魚である。
「怪魚だ! モンスターが出たぞおーー!!」
意識が途切れる前、シクロが聞いたのは、そんな誰かの叫び声だった。