クローバーとシロツメクサ
プロローグ
キラリ。輝くものが湖に投げ込まれた。囲む白樺の枝が風に揺れ水音をかき消していく。
だがそれが水面に飲み込まれた事実は広がる波紋として残った。
一人の少年が波立つ水面を眺めている。右手には一個の時計が握られていた。
生暖かい風にふかれ仰ぎ見た空から、真夏の太陽が少年を嘲笑うかのように熱気を浴びせていた。
少年の額に汗が滲んでいく。
背中に張り付いた白いカッターシャツ。そこにまだ幼さが残る肩甲骨が浮かび上がっていた。
少年の名は岩渡耕太。目を細めながら手にした青いベルトの腕時計を見続けている。
「サツキ……」
耕太はくるりと水面に背を向ける。
「約束は違えるためのものじゃない。守られるものだ」
少年の呟きが再び葉音にかき消されていった。
白樺の林を抜け、一歩ずつ進む力強い歩調は、一直線に目的地へ向かっていく。
1
岩渡耕太と長峰皐月は、どこにでも居そうな高校生カップルだ。中学が一緒、高校は皐月が女子高へ進学し別々になった。高校一年の二月、耕太が断ち切れない想いを持て余し、誰でもしそうな告白をし付き合いだした。皐月はショートカットと紺のブレザーが似合う少女で、笑うと周りの空気が震えそうな涼しい声音を響かせる。
改札で待ち合わせ抹茶パフェの食べ比べと称し、毎回違った店で他愛のない話をする。特別なイベントはないが、耕太にとって特別な日々だった。
やがて二人は互いの友人公認のカップルになっていく。休日に数人と連れ立ってボーリングやゲームセンターで遊ぶ。耕太と皐月は友人達と普通の高校生らしい時間を過ごしていた。
冬という季節を通りぬけ、二年生になった四月七日、皐月の誕生日。二人は大きなショッピングモールを訪れていた。
二人はその日、記念品を探していた。
「プレゼントじゃなくて?」
昨日、一緒に記念品を買いに行こう。という皐月の言葉に耕太は問いかけた。
「コウタと付き合って初めての誕生日だから記念品。これから毎年誕生日プレゼントは貰えるでしょ? 初めては今回だけなのよ?」
――これが女子の発想なのか。
耕太には記念品にこだわる皐月の心理が理解できない。だが、嬉々として目を輝かせる皐月の言葉――これからも毎年二人で迎えるという言葉が嬉しくて頷いていた。
二人でショッピングモールに入ると、皐月は、あっ可愛い! あっちがいいかな! と目敏く流行のグッズが立ち並ぶショーウインドウに、何かを見つけてはかけ寄っていく。だが、これ! という物が見つからないらしい。次から次へと走りまわる皐月の姿が、耕太にはゲージの中でクルクル気忙しく動く、愛らしい子リスのように映った。
「わっ浮かんでる」
左腕にはめた腕時計を覗き込み皐月は嬉しそうに声を上げた。
モールを出た路地で見つけた小さな時計店。硝子ケースの中に〈限定品〉と手書きで表示されたペアウォッチに、皐月の目が釘付けになった。サイドボタンを押すと、表面にライトと一緒に図柄が浮かび上がる。
「今だけの個数限定商品ですよ。これが最後の一組です」
ひょろりと背が高い銀縁メガネの店主が、笑顔を浮かべて述べた口上に、二人は即座に決めたのだった。
二人のペアウォッチは皐月の時計にクローバー模様。耕太の時計は翼を閉じた鷲が浮かび上がった。ラバー素材の柔らかさでベルトも腕に馴染む。
地味色の包装紙に箱が包まれていく。店主の指先を耕太は眺めていた。
――体型と同じに指まで細長い人だな。
皐月も店主の器用に動く手先を、マジックに魅入る子どものように瞳を輝かせみつめていた。
「これにはカップルに幸運を招くようにという、製作者の願いが込められています。購入されたのは幸いです。きっとお役に立つはずです」
手渡される時に添えられた店主の言葉としたり顔が、妙に印象深く耕太の脳裏に焼きついた。
皐月の家では誕生日を家族で過ごすのが恒例だという。まだそこに踏み込むつもりがない耕太は、ズボンのポケットから小さな箱を取り出した。
「はい、プレゼント」
記念品を買うから今年はプレゼントはなしで。皐月とはそう約束していたが、時計が限定割安価格で予算が残った耕太は、皐月が普段から好んでいたキャラクターのストラップを内緒で買っていた。
皐月の視線と顔が差し出された小箱と耕太を何度も往復している。受け取る手がなかなか伸びてこない。
――やっぱりコイツはリスだ。
「プレゼントもあげたいって思ったんだけど」
「うん……ありがと」
皐月は遠慮がちに小箱を受け取った。それをじっと眺め、何やら考え込んでいる。
「ねえ、コウタの誕生日は夏休みよね。毎年行く避暑旅行に一緒に行かない? 私のプレゼントにする」
約束破りを怒られるのではと、僅かな不安もあった耕太。旅行に誘われた意味を内心ドギマギしながら想像してしまう。
隣り合わせに歩いていても、まだ握ったことのない皐月の手。送った家の前で、見送る皐月が振りまわす手を見て、耕太は次に会う時はあの手をつなごうと考えていた。
一週間ぶりに皐月と二人で会えると思うと、頭が冴えて眠れなかった耕太は、朝食を食べ終えると、そそくさと家を出た。
ペアウォッチの片割れを弄りまわし、心なしか歩調が早足になっていく。
皐月の家に着き、チャイムの前で大きな深呼吸を一つ。
――家族が……親とかが出たらどうしようか?
些細な気がかりが頭を過ぎていく。
僅かに震える人差し指で黒いボタンに触れた。一瞬目を閉じて指先に力をこめた。何秒かの間があってドアが開くと、真綿のような白いパーカー姿の皐月が出てきた。
「おはよう、コウタ」
小さなポシェットを押さえる左腕に揃いの青いベルトが巻きついていた。
二人が向かったのは結構賑わう屋外イベント会場だった。引けをきらない人混みを前に耕太が皐月を見る。
「えっと……はぐれな――」
言い終わる前に皐月が耕太の上着端っこを捕む。
――そっちか……。
「手」
「え?」
「ほら、手……」
犬にお手! を言い渡すような調子で……ぶっきら棒に耕太は皐月に向かって右手を差し出した。
列に並んでいる間ずっとつながれたままの右手と左手。お揃いの青が春の陽を浴びていた。二人の足はお目当てのグッズが並ぶ場所へ向かう。「いい香り」と手にした手作り石鹸に鼻を近づける皐月。
「あ、そうだ。見て? 五月になったら葉っぱの数が変ったの!」
皐月は時計のボタンを押した。浮かんだクローバーは四葉から三つ葉になっている。
「へえ~月が替わると絵も変わる仕掛け?」
思わず耕太は自分もライトをつけてみた。鷲の姿に変化はない。
「仕掛けがあるのはそっちだけ?」
耕太が不満そうな声を上げると、皐月は得意げな顔で笑いかけ言った。
「あ、電話しなきゃ」
一人っ子の皐月は一緒に出かけても一、二回は家に連絡を入れる。
――箱入り娘ってこういうもんなのかあ。
兄弟で育った耕太は多少破目を外しても心配された経験があまりない。
葉の数が一枚だけになった七月。穏やかな初夏の始まりを耕太は疑わなかった。
デートで家へ迎えに行く都度、皐月の両親と顔を合わせ挨拶を交わすようになっていた。父親は多少ぶっきら棒でつっけんどんだったが、母親は笑顔で耕太を受け入れているようだった。
皐月のクローバーは月が替わる毎に一枚ずつ減っていき、二人ともそういう仕様だと疑わなかった。
この頃、二人の話題は二つだった。
一つは夏休み、皐月が旅行に耕太を誘いたいと話し母親が了承したこと。
そしてクローバーの図柄が八月はどうなるのか。皐月は四葉に戻る。耕太は一枚ずつ増えていく。そう予想し当たった方がお昼を奢ろうと約束しあい、二人は夏休みを迎えた。
2
八月一日。
皐月へ送ったメールに返信が来ない、通話応答が『現在この電話は――』となる。
――何してんだ、電源入れてないのか? サツキは予想が外れ拗ねているのかもしれない。そのうちあっちから連絡が来るさ。
と、耕太は家でゴロゴロしていた。
「耕太、長峰さんという方から電話よー」
昼を過ぎた頃、母親に自室の外から声をかけられる。
――なぜ、家に?
脳裏に疑問符を浮かべながら廊下の子機を取ると、相手は皐月の母親だった。
『皐月は今日、耕太君と出かける予定じゃなかったの?』
「そのつもりで、連絡が来るのを待っていました」
『変ねえ、朝起きたらもう姿が見えなかったの。ずいぶん早く出かけたのねと思っていたけど、お昼になっても連絡がないでしょ? ちょっと気になったのよ』
夜になっても皐月からは家にも耕太にも、友人たちにも連絡がなかった。
翌日、耕太は息を切らしながら皐月の姿を探し街中を歩き回っていた。皐月が居そうな場所を思いつく限り訪れてみる。似た後姿を見かけては駆け寄り人違いに肩を落とす。
皐月が姿を消してから耕太は不思議な思考に囚われた。
耕太の時計には何の変化もない。変ったのは皐月の時計だけだった。一枚ずつ消えていったクローバーの葉。
――最後の一枚と一緒にサツキも消えたんじゃ……。
あり得ない予感にとり憑かれていった。
捜索願いをと、とリ乱す母親を、もう少し様子を見ようと宥める父親。二日、三日経つにつれ母親は半狂乱になり、手当たり次第に電話を掛け続けている。
誘拐や事故の可能性は次々と否定され、家出する理由はどこにも見当たらず、周囲が重苦しい雰囲気に包まれていった。
夕闇が迫りつつある路上を耕太は必死にかけていた。
皐月の母親に頼んで初めて踏み入った皐月の部屋。シンプルな勉強机の片隅に青いベルトの時計とストラップがついた携帯が残されていた。
ゆっくり時計を取り上げ、ボタンを押すと浮かび上がった図柄は――湖畔らしき風景だった。
「なんだよこれ……」
思わず自分の腕にある時計のライトボタンを押す。そこに鷲の絵が浮かび上がる。耕太の目は鷲に釘づけになった。両翼をとじていたはずの右翼だけが広げられていた。
食い入るように見続けていると、翼がゆっくりと動き出した。三角形の翼上辺が上下に動いていくのだ。まるで皐月の時計を指し示すかのように。
耕太の脳裏に時計店、店主の言葉がよみがえる。
『購入されたのは幸いです。きっとお役に立つはずです』
――どういう意味なんだよ、あれは……。
皐月の家を出た耕太はショッピングモールの端にある路地を目指す。時計店はあの時と変らないままにあった。他に客は一人もいない。
「この図柄になんの意味があるんだよ!」
飛び込むなり大声で叫んだ耕太を、長身の男は静かな笑顔で迎え入れた。
「いらっしゃいませ」と。
「お客様で二人目です。先日、同じペアウォッチをお求めになられた女性が、お客様のようにおいでになりました。やはりお相手と連絡が取れなくなったと言うのです。ですがクローバーが消えた後、表示された図柄はブランコでした。その女性は何やら考えておられましたが、お心当たりがあると言われまして。昨日の夕方お二人お揃いでお見えになりました。他愛のない喧嘩をされたらしいのですが、仲直りをしたご様子で、時計のおかげだとお礼を言われましたよ」
店主の話を信じるなら、図柄の場所に皐月がいる可能性が高いらしい。
――なら、サツキは……けど、この場所はどこなんだ!
再び訪れた耕太を憔悴しきった皐月の母が迎えた。
「君は自分の生活に戻りなさい。何かわかったら連絡するから。この時計やストラップは持っていっていいよ。しばらくそっとしておいてくれないか」
傍らで皐月の父は、ペアウォッチの片割れを渡して奥へ引っ込んでいく。
時計に浮かぶ湖畔の図柄を食い入るように見ながら、耕太は旅行先の場所を皐月の母に尋ねていた。
3
時計店の店主の話しは突拍子なさ過ぎて、皐月の両親に話すことが出来ず耕太は家へ戻った。
部屋に戻って取り出して見た皐月の時計は図柄が変っていた。それにはクローバーの中に咲き乱れる白い花が浮かび上がっていた。
それにどんな意味があるのかと、耕太はネットであれこれ検索してみた。夜更けになって一つの仮説が筋立てられた。
翌日、耕太は皐月の母から聞いた場所に向かって電車に揺られていた。皐月が夏休みに誘おうとしていたのは、白樺に囲まれた湖に近いコテージだった。
電車が目的地へ近づくにつれ鷲の両翼が徐々に動き出す。それを見ながら耕太は自分の判断が間違っていないと確信していた。
そのコテージは湖畔から十分ほど歩いた場所にポツリと建っていた。周辺はシロツメクサが群生している。腕時計の鷲は両翼を羽音が聞こえそうな勢いで羽ばたかせている。
――飛ぶのか! 飛びたいのか! ならサツキの所へ向かえ!
念じながら空を見上げた時、一羽の鳥が頭上を過ぎって行った。コテージの屋根を掠めながら、急降下し裏手へと消えていく。耕太はその方向へ走りだした。
コテージのドアをノックすると少し項垂れた皐月が出てきた。その表情は耕太を見て一変した。
「コウタ! 良かった。一緒に来れたんだ!」
皐月は父親に予定より早くコテージが空きが出来、一足先に行ってほしいと頼まれたと話した。顔なじみの管理人に預けられ、先に待っているように言い含められたという。
「ごめんね、コウタ……」
泣きじゃくる皐月の頭に手を乗せて、「無事で何より」と耕太は呟く。「それよりこの間、何を考えていた?」とも。
「耕太も一緒じゃなかったら、パパのこと一生恨んでやると思っていたに決まっているじゃない!」
――やっぱりか。
昨夜、耕太は不可解な現象にばかり気を取られ、何か見落としているような、忘れ物を思い出せないような、苛立ちを感じたのだった。
――浮かんだ図柄はサツキの居場所を暗示しているだけで、サツキを消し去るようなものじゃない。
そう気づいた耕太は皐月の母と対照的な取り乱す事のない父親の態度に違和感を覚えた。
父親が何か知っているのではと。そして昨夜変った図柄は、皐月が抱いているだろう思いを暗示しているのではないかとも。
「小母さんが心配してる。一度家へ帰ろう」
事情を知らない皐月の母を安心させるのが先だろうと耕太は考えた。
耕太に伴われた皐月が家へ帰った時は夜になっていた。
母親は大泣きしながら皐月を抱きしめた。特定の男子と付き合うことを気に入らず、そうと言えなかったらしい父親は渋面を浮かべながら、妻と娘に責め立てられている。
蚊帳の外へ追いやられ状態の耕太。
――なんか……言わなきゃ――とタイミングを見計らう。皐月の父を責めるより、認めてもらう方が先だと思っていた。
「お、俺! サツキと……さんと離れませんから! でで、認めてもらうまで負けません!」
「コウタ……」
「お前も怒るよりお願いしろ!」
その時、耕太の腹がグーッと鳴った……思わす皐月と目が合う。二人は電車の中でパックのイチゴミルクを飲んだだけで、昼食も食べていなかった。
それに母親は泣き笑いを浮かべ、父親は渋面を呆れ顔に変えていく。
皐月は着替えてくる。と自室へ向かった。
「お腹が空いたでしょ? あり合わせだけど耕太君も一緒に食べていってね」
皐月の母は安堵しきったように台所へ消えていった。その後姿を眺めていた耕太に、父親がボソリと声を掛けてきた。
「ご自宅に連絡しておきなさい。夕食を済ませたら帰りは私が送って行こう」
どうやら父親は耕太と皐月の交際に、これ以上反対するつもりはないようだ。
「パパ、どういう事! ストラップがなくなっている!」
バタバタと階段を駆け降りてきた皐月が父親を睨みつける。父親は不意に耕太を振り返った。
「えっと……あれは、今日湖に置いてきた。俺が……」
「ええ! どうして?!」
ストラップから父親の嫉妬が始まった気がして――とは言えず……思わず耕太は両手を合わせ、片目を閉じていた。
「必ず二人であそこをへ行こうっていう……願いをこめて?」
「そっか! パパ、やっぱり耕太を旅行に招待は決定でいいわよね?」
父親は諦め顔で頷いた。
「今日君のご家族にその話もして来よう」
エピローグ
一年後、少女の時計は四葉から月が替わる毎に葉の数が減らしては、一枚になった翌月は四枚になる事を繰り返していた。一方、少年の時計に浮かびあがる鷲はずっと翼を閉じ変わらないまま。
「コウタ、知ってる? 四葉のクローバーは一枚一枚に意味があるんだって。誠実、希望、愛、幸運。そしてね、四枚揃うと真実になるんだって」
ペアウォッチを日に翳し、少女は少年を振り向きながら問いかける。
「へえ―」
少年はクスっと少女に微笑みかける。
――そんでもって、シロツメクサの花言葉は復讐なんだよなぁ。
好きな娘にそんな想いは抱かせたくない。そう願った少年の背中は、一回り大きくなっていた。