2 ある御貴族様方との出会いについて
「理不尽!! 嘘つき!! がんばれって言った癖に!」
「黙っていただろう!」
「言ったら反対するじゃない!」
「当たり前だ!!」
声を潜めて、それでいて極めて囂々と2人は言い合う。リリアの顔は真っ赤で、しかし対するジルはかぎりなく青ざめていた。
リリアは恋にがんばると決めたようだ。その相手もジルが危惧したようなことはなく、リリアのことを大切に思ってくれているようである。そこまではいい。だが、駄目だ。ジルが予想もしていなかった意味で、完全にアウトだ。そして完全にアウトなことをどうやらリリアもわかっていて、その上でジルに黙っていたのがもっと問題だ。
昨夜やたらとジルの反応を気にしていた理由がようやくわかった。一度上った血が一気に下がるのを感じて、情けなくも若干目の前がくらりとする。
「がんばれって言った!」
「ああ、がんばりなさい。諦める方向にがんばりなさい」
「なんてこと言うの!? ジルひどい! あんまりよ!」
「あんまりなことを言ってるのは、お前だ! この馬鹿娘! あれを、あれを、誰だと思って……!!」
「――――ほう、誰だと?」
ああ、駄目だ。全然駄目だ。
ジルは歯噛みする。自分の力が萎えた、とは思わないし、思いたくない。だが、いつだって養い子が絡むと自分がてんで駄目になってしまうことは、嫌になるほど知っている。
リリアの丸くなった大きな瞳に、此方に片腕を突き出した男の姿が映り込んでいた。伸びた腕は握った剣に繋がっていて、その鋭い切っ先は的確にジルの首を捉えている。
つい先程までは間違いなくジルの背後には誰もいなかった。だからこれは魔法による顕現だ。しかし予兆はあったはずで、それを微塵も察知できずに背後を取られたことは完全なるジルの落ち度である。
それに落ち度というなら、そもそもリリアに声を掛けたことからして間違っていた。リリアの恋のお相手がジルの思う通りの人物だとすれば、真実一人きりで出歩くことなど決してあり得ない。リリアに不用意に接触するなど、あまりにも……あまりにも平和ボケしすぎていた。
「ライモンド様っ」
リリアの非難の声に彼女の瞳に映るライモンドと呼ばれた男が目を細めたような気がした。しかし首筋に押し当てられた刃は寸毫も動かない。だからジルも動かない。動かないまま、ぞっとしていた。刃が衣服を隔てて動脈に触れていることにではなく、リリアが既に知っているものとしてライモンドの名を呼んだことにだ。……リリアよ、お前、ライモンドとも知り合いなのか。
「質問に答えなさい。誰だと、言うのか」
「――背を向け、起立したままでの返答をお許しください」
非難を黙殺し平淡な声を重ねる男に、ジルは溜息を飲み込んで応対の覚悟を決めた。
「畏れ多くも、今し方、我が妹ときゃっきゃうふふしながら、あーんなどと往来のベンチで食べさせあいっこに興じていらっしゃったのは、オラソルド国第五皇子殿下、ニコラ=ヴァレンテ=オラソルド様かと存じます」
覚悟を決めすぎて、言わなくてもいいことを言った。混乱していたからかもしれないし、腹が立っていたからかもしれないが、結果は変わらない。
リリアが顔を更に真っ赤にして悲鳴をあげたが、ジルもライモンドも黙殺する。
「お前の言っているのは金の髪に、蒼の瞳の皇子殿下のことかな。色味がまるで違うが?」
「お顔はまるで一緒です。髪と瞳は、魔法かと思っておりました」
「まるで一緒とは、また自信のあることだ」
「……絵姿を、しばしば拝見しておりましたので。それに」
「それに?」
「ライモンド様、というお名前を持つ、魔術と剣術に長けた方が共にいらっしゃるというのであれば、やはりそれは……と」
剣が引かれた。完全に刀身が鞘に収まり、柄から手が離れるのをリリアの瞳で確認してから、ジルはすぐさま振り返り地面に膝をついて頭を垂れた。
「ご無礼を。もうしわけございません」
「じ、ジル……っ」
リリアはジルと共に膝をつくか迷っているようだった。恐らく、そのようなことはなしにしようというような会話が、既にリリアとニコラ達の間で交わされているのだろう。それならばそれでいいが、残念ながらその会話にジルは加わった記憶がない。
「いや、どうぞ顔をあげてくれ。ジル殿……と言うのかな。私の方こそ失礼をした。リリア殿ももうしわけない」
「いいえ、そんな……」
「何やら様子がおかしかったのでね。もしや、と思ったのだ」
もしや、なんだと思ったのかは、ジルもリリアも聞かずにおいた。不埒な知り合いに呼びつけられたリリアが路地裏でジルに襲われていると誤解されていたのなら上々だが、それ以外の不審ならいっそ知らずにいたい。
知らないことも気づかないことも愚かだが、知らないふりや気づかないふりは時に身を助けるのだと2人とも知っているので、ライモンドの瞳の奥の鋭さにはそろって見えないふりをした。
一瞬ぎこちない沈黙がおりるかと思われたが、その時絶妙なタイミングで会話に飛び込んで来た者がある。
「あっ、いた! リリア、急にいなくなるからびっくりしましたよ!」
ジルに言わせれば、そもそも全ての大元凶、ニコラ第五皇子殿下である。赤みがかった茶の髪と黒っぽい瞳というありふれた色彩で身を欺いているニコラは、リリアの後ろ姿を見つけて駆けてきたらしい。片手に店名のデザインロゴが入った紙袋を下げて路地に顔を覗かせたところで、きょとんと瞳を丸くした。情報が正しければ御歳17歳。来年成人の儀を迎えるはずだが、その表情はまだ青年よりも少年に近いように見える。
ニコラは振り返る驚いた顔のリリアを見、ライモンドを見、最後に地面に跪いたまま自分を仰ぎ見るジルを見て、ぎょっとしたようだ。
「ええっ、どうしたんですか、これ!」
「初めまして、ニコラ様。妹のリリアが大変お世話になっております」
ほとんど科白をかぶせるようにして、ジルはニコラに向き直り言った。他の2人よりも早く口を開きたかったからだ。間違いなく、ライモンドよりニコラの方が引き込みやすいはずだ。
案の定ニコラは、言葉の意味が頭に浸透する一拍の間の後、あからさまに慌てた。
「いも……いもうとっ!? え、妹!? おに、お兄様ですか! えっ、ええっ、なんでリリアのお兄様が地面に膝を!? あにぅ、ライ! なになさ、してるんですか!?」
身長だけ見れば、ジルと同じくらいか少し高いくらいの男が、目に見えてあわあわしているのは、どうなのだろう。リリアのように恋愛フィルターが目にかかっていないジルからすれば、残念にしか見えない。「あにぅ」とはいかなる掛け声か。「なになさしてる」とは一体、何をしていることなのか。
恋愛フィルターがあるとどうなるのだろうと思って、ジルはリリアを窺ってみる。するとリリアは眉間に皺を寄せて、少しムッとしたように唇を引き結んでいた。
「ジル殿は、リリア殿が心配で探しに来られたようだ。それで見つけてみたら、相手がお前だったので大変驚いたようでね。2人で話しているところを誤解して、私が驚かせてしまった。――さあ、ジル殿も、そろそろ体を起こしてくれないだろうか。リリア殿がとても怖い顔をしている」
「あっ、いえっ」
ライモンドの苦笑含みの声に、リリアは慌てて両手で顔の下半分を覆った。もうしわけありません、と掌の陰で小さく零している。
ジルもようやく立ち上がった。そろそろ固辞し続けるのも無礼にあたろうし、あともう少し遅ければ、立ち上がる手伝いにライモンドから手を差し出されそうだったのでそれをかわす意味もあった。
「無礼を、重ねてお許しください。まさか、妹と共におられるのが皇子殿下だとは思いもよらず……」
こればかりは偽りない気持ちをジルが素直に述べる。
ニコラが眉を下げて少し困ったように首を傾けた。
「殿下はやめてくれないでしょうか。これでもお忍びですから」
この国では往来ど真ん中でイチャコラしていても、お忍びが成り立つらしい。ジルの視線の色を正確に理解したのはリリアだけで、頬を紅くしたまま目をそらしている。
「それでは、ニコラ様。もうしわけございません。本日のところは、妹をこのまま連れ帰ることをお許しいただけないでしょうか。大変畏れ多いことで、わたくしも混乱しております」
額に片手をあててジルが言うと、ニコラも少し困惑した表情のままジルの背後へと顔を向けライモンドと視線を交わす。
やがてニコラは、一度唇を硬く引き結んだ後、まっすぐジルの目を見て頷いた。その瞳の色は、先の残念な男という印象を上書きするくらいには強いものだったが、今はジルの胸に苦いものを生む要因にしかならない。
「わかりました。ただ、ジルさん、これだけは知っておいてください。――僕は決して、冗談や酔狂なんかじゃない」
ジルの嫌な予感通り、一見優しいだけの男が不意に見せた真摯な男らしさに胸打ち抜かれた顔で、リリアはニコラを見上げていた。
ジルはニコラとライモンドに丁寧に礼を辞すと、名残惜しそうなリリアの手を引き急いで家へと帰った。