第十五話 日本は伝統を大切にする文化です
試合が開始され敵からのキックオフ直後、ざっと周囲を視認した後でさらに鳥の目を使って脳裏のスクリーンでも確認する。
うん、相手が引き分け狙いだろうって言っていた監督の言葉に嘘はないようだ。敵のヨルダンチームは形式的には三・六・一のフォーメーションだが、実質はサイドMFが最終ラインまで下がっている五・四・一というDFを五人にした守備偏重の陣形である。
これならよっぽどの事がないかぎり俺達日本代表のゴールは割られないだろうが、がちがちに人数をかけて守られた相手のゴールを奪うのもまた容易ではないな。
オフサイドを取ろうとも思っていないのだろうか、敵のDFラインは下がりきっている。さらにMFも上がる様子がないためにハーフウェイラインより向こうは人口密度が随分と高くなっているぞ。
注意が必要な点としては相手は俺が初めて対戦する外国のチームなのがあげられる。これまでに外国人と戦った経験はブラジル人とのハーフであるカルロスだけだった。いくらなんでも今日の相手にはあんな化け物はいないだろうが、それでも違和感からくる警戒は隠せない。
外国人選手というだけで気後れするつもりもないが、それでも試合前に並ぶと日本人より成長期が早いのか平均身長でうちのチームを上回っていたようだった。まあ、日本のイレブンの中では俺と島津がちょっとその平均を下げているのだが。
おそらく身体能力も比例して高いはずだから、イメージの中では敵を高校生レベルと設定しておくべきだろう。つまりは今年度の初めに俺が旧代表チームと戦った場合をスケールアップさせて考えるべきだ。
向こうの最終ライン近くで回されていたボールがいきなり前線へと蹴り出され、そのロングボールをヨルダン唯一のFWが拾いに行く。おお、あいつ結構速いな。だがこっちの守備陣も数年前とはいえカルロスのようなスピードスターと戦った経験があるのだ。少し速いだけならたった一人に簡単に負けるわけがない。
一人のDFがFWをマークして走るコースを制限し、他の二人がボール確保とそのフォローと役割を分担してきっちりディフェンスをする。
この敵のFWは背番号が二十番で明智が予想したスタメンには入っていなかった。本来のFWは怪我でもしたのだろうか?
よし、キャプテンのロドリゲスがボールをキープして前を向いた。相手チームのヨルダンはその孤軍奮闘しているFW以外は前線へプレッシャーをかけにはこなかった。結構このFWは足が速いために少しは注意しておくべきかもしれない。だが明智の予想したFWは向こうの国内リーグでの得点王だったそうだから、この代わりのFWがそれ以上の選手とは考えにくい。あまり警戒しすぎてこちらの攻撃力が下がるのもいただけないな。
この一連の攻撃からするとヨルダンチームの総意としてはやはり守備を第一に考えて、引き分け狙いであるのは確かであるらしい。
向こうの邪魔がほとんどないので、中盤の真ん中にいる俺までスムーズにボールが回ってきた。さてどうするか。
すでにこっちのチームは攻撃的にサイドの二人が上がって四・三・三のFW三人体制へとフォーメーションを変化させている。
さらに、同じゲームメイカーである明智は相手の攻め気の無さを見切ったのかいつもより前目のポジションへ移っている。ここまで敵からのプレッシャーが緩いと普段より攻撃的に行くつもりのようだ。
ではお手並み拝見と明智へとパスを送る。
さすがにこれ以上ボールを持ったまま侵入させる訳にはいかないと思ったのか、敵のボランチがその明智にすっと寄ってくる。
敵が寄せきる前に俺へとボールが返された。明智が数歩下がるとそれに応じて相手もまた後ずさり、自分のポジションに戻る。ふむハーフウェイラインを超えて少し進むと、敵の守備陣がアクティブになる――つまりマークがつくようだな。
最前線にいる上杉などはDFに完全に囲まれているようで、パスを通すのさえ難しそうだ。上杉ほどではなくても山下先輩や左のウイングにもきっちりとマークが張り付いている。
スリートップが完全にマークされているのだ、普通ならば攻め手に詰まりここでどうするか考えるだろう。だがうちのチームにはもう一人FW以上に攻撃的な選手がいるのだ。
「行け! 島津さん!」
俺の声に応えるようにサイドから駆け上がる小柄な影が。その前のスペースにボールを通す。
中央へ寄った山下先輩に釣られ、右サイドは少しだけ手薄になっている。もちろんそれでも普通の陣形よりは堅いが、それでもDFというよりサイドアタッカーと呼ぶのがふさわしい島津なら突破できるはずだ。
ヨルダンのDFの一人が中央から島津を止めようとしてサイドに開いた。だが島津は逆にその隙を逃さずにスピードを殺さずに最終ラインの中央へとカットインする。
島津へパスが渡った瞬間にゴール前に集まってきた味方のFWを一顧だにせずそのままシュート体勢に入る。その躊躇いのなさにヨルダンディフェンスはついていけない。前線の日本のFWに張り付けたままのDFを無駄駒にして、島津を捉えきれずにシュートを撃たせてしまう。
確率が低い場所からでも気にせず強引にゴールを狙える積極性が島津の長所であり短所でもある。
この時も島津の撃ったシュートはゴールの枠を捉えていた。だが、少しだけゴール前に敵の人数が多すぎた。そして運もあちらにあったようだ。
シュートは相手の長身DFにぶつかり、あえなく勢いを失ったボールはキーパーの手に収まってしまう。
その瞬間になぜか強烈な寒気が背筋を走り、俺は考えるより早く後方へとダッシュする。その反射行動の理由は鳥の目が教えてくれた。
俺の嫌な予感を裏付けるように、相手キーパーが思い切りパントキックで日本チームの奥深くまで蹴り込んだのだ。
ハーフウェイラインでワンバウンドしたボールは俺達の陣地の右サイドへと転がっていく。攻めに出たせいで日本の守備の枚数は少ないが、それ以上に敵の攻撃人数は少ない。だがキーパーは迷わずに決まっていた事のように蹴った、ほぼワントップであるFWしか前線へ走ってこないにもかかわらず、である。
だが、そのただ一人のFWが並ではなかった。キーパーがキックした途端にアクセルを全開にした勢いで走り出したのだ。おそらく練習を何度も繰り返し、試合前から入念に打ち合わせてあった奇襲なのだろう、キーパーからのボールが蹴られるコースを事前に察知しているからこその反応の早さだ。
そしてスタートの早さだけでなく、追いつこうとするDFを振り切るだけの加速も備えている。
――こいつさっきのカウンターでは三味線弾いてやがったな!
前回の攻撃から想定されるスピードより今度の方が格段に速い。こんな奇襲は日本がヨルダンの攻撃に油断した後、そしてDFによってFWの能力が見抜かれる前という微妙なタイミングでしか成立しない。そのほんの僅かな隙を突かれてしまった。
慌てたDF達がボールを奪おうとするよりゴールまでのルートを遮ろうとするが、それより一拍だけ遅れて相手FWがミドルシュートを放つ。
結果は日本にとって最悪な物となった。島津のシュートの時からずっと運はヨルダンへと味方しているな。
ブロックしようとしたロドリゲスの足に当たったシュートは角度を変え、キーパーの逆をつくコースへとなってころころとゴールの内側へと吸い込まれたのだ。
え? 本当に?
呆然と立ち尽くす俺達日本チームを尻目にヨルダンのイレブンが喜びを爆発させている。いや、ピッチの外に出て監督やリザーブメンバーとまで抱き合って叫び声を上げてやがる。
この試合会場のほんの僅かな一角、ヨルダンのチームカラーである白く染まった観客席から叫び声とさっき歌っていた国歌が歌われている。中には涙を流してヨルダンの国旗を振っている人間までいるようだ。
――ああそうか、こんなに期待されてたらそりゃ必死になるか。
奥歯が軋むほど噛みしめた。なにが普通にやれば勝てるはずだ。俺は何遍同じ失敗をやれば気が済むんだよ。
向こうが全力でやっているのにこっちだけが余裕持ってやっている場合じゃないだろうが。俺は決して油断していたつもりはない。だが、相手を格下だと思っていたのは事実だ。
敵の戦術とメンバーチェンジそれに覚悟を軽視しすぎていた。たぶんあの二十番のFWはヨルダンで一番決定力があるFWではなく、一番足が速いFWだ。攻撃はカウンターしかないと割り切って、その数少ないチャンスを成功させるために賭になるのは承知で選手を入れ替えたんだ。
これから先おそらく向こうは必死で守ってくるだろう。こちらはあの鋭いカウンターを喰らうリスクを背負って最低二点は取らなければならない。
それができるのか? 当たり前だ。少しだけ弱音が顔を出しそうになるが、無理やり胸中で押さえつける。このぐらいの窮地でテンパるほど俺は脆弱ではない。大丈夫だ、絶対に。そう自分に言い聞かせていると、傍らに誰かの立つ気配がした。
「油断大敵っちゅー事やな。ま、こんぐらいはワイのゴールショーで盛り上がる前座にはちょうどええか」
強気な口調の上杉だが、その声からは硬さが抜け切れていない。
「終わったのを悔やむより、さっさと同点にするぞ。パスをよこせよアシカ」
小学生時代と変わらず内弁慶だと分析していた山下先輩が足を震わせながら、俺の背中を叩く。
「今度は必ず得点してみせる。また先ほどのようなパスをお願いする」
カウンターの原因になったにもかかわらず、堂々とボールを要求する島津。その顔色はいつもより青白い。
「このチームでやってて一点取られたぐらいでへこんでもしょうがないっす。さっさと切り替えるっすよ」
手を叩いて周りを鼓舞する明智も声が上擦っている。
彼らも俺と同じで今日が代表デビュー戦だったはずだ。それでも空元気を張って弱みを見せようとせず、闘う姿勢を崩していない。
そして以前からの代表組は「よくあることだ」と苦笑いをしただけで自身が受けているショックは外見には映し出さない。俺は旧代表組を過小評価していたようだ。少なくとも国際試合においての経験値は俺みたいな代表ドロップアウトした人間よりよほど豊富なんだよな。
そうか。俺達はまだ強くなっている途中なのだ。そしてこんな試合を乗り越えればまた一つ強くなれるのだろう。
俺って実はチームメイトに恵まれているのかもな。言葉には絶対出せないクサい事を思い、チームメイトに負けずに胸を張って大声を上げる。
「せっかくヨルダンが俺達をヒーローにするために盛り上げてくれたんですから、今度は日本の観客にファンサービスする時間ですよね。ここから逆転するのが応援に来てくれたサポーターへの礼儀でしょう」
そこで改めて周りにいるメンバーに声をかける。特に外見はともかく一番ショックを受けているであろうサイドバックの島津に対してモチベーションを上げてやらねば。
「もう判っていると思いますが、敵はカウンターでロングボールしか放り込んできません。敵がボール取っても以前の攻撃的な陣形の四・三・三のままでいてください。そして、島津さん。あなたの守備の穴を突かれて失点したんですから、少なくとも一点取り返してくるまでディフェンスに戻ってこないでくださいよ」
「……承知した」
俺の言外の「今の失点は気にせず、これまで通りに攻め上がれ」という意味を理解したのだろう。ちょっぴりと硬さが解けた島津が微笑む。
「ハットトリックで借りを返そう」
……いや、誰もそこまでは要求してないんですが。
「それにロドリゲスもブロックしなければ良かったとか、入るタイミングとコースが悪かったとか、敵のFWのスピードを見誤っていたとか気にしないでいいですよ。今のは交通事故みたいな物です」
俺が親切に声をかけたにもかかわらず、渋い表情になる。むしろ声をかけられる前までの方がダメージがなかったようだ。
そんなロド……代表キャプテンが思い出したような顔つきで新加入メンバーを呼び寄せる。なんだろう、もうすぐ試合が再開されるから早く済ませてほしいんだが。
「日本代表に伝わる伝統でな、初代表でリードされた人間がいる場合には必ず伝えろと先代のキャプテンから言い含められているんだ」
深く息を吸ってしっかりとした声で喋りかける。DFを統率するだけにその声は張りがあって聞き取りやすい。
「リードされた時下を向くなスタンドを見ろ、そこには日の丸があるはずだ。失点して悔やむ時泣き言を聞くなスタンドに耳を傾けろ、そこからサポーターの祈りが聞こえてくるはずだ。厳しい状況かもしれないが、ここにたどりつけなかった多くのサッカー選手の希望を踏みにじるな。お前たちは日本で一番サッカーが上手い人間だから日本代表に選ばれたんだ、このプレッシャーを感じられるのは代表に選ばれたからこそだ。存分にその重圧を味わえ」
そう言うと今度は旧代表が全員で声を合わせた。
「日本代表へようこそ!」
その綺麗に揃った声に思わずぱちぱちと拍手をしてしまう。
……たしかに硬さはとれたが、こんなリードされた時用のパフォーマンスをやる伝統を守っている国って他にあるのかな?




