第十二話 落ち着いて夕食を楽しもう
「ただいま」
「ん、おかえりー」
「あれ、真?」
三日間の代表合宿から帰宅した俺を最初に迎えたのは、母ではなくエプロンと三角巾を付けた幼馴染の姿だった。真の特徴である長い艶のある髪は後ろで簡単に括って背中に流している。そんな格好をしていると小柄な体も相まって、まるで小学生が家庭科の授業を受けているみたいだな。
でもお前が俺の自宅になんでいるんだ? と疑問を浮かべる間もなくこちらもエプロンをした母がパタパタと玄関にやってきて俺と「ただいま」「はい、お帰りなさい。合宿お疲れ様」の挨拶を交わす。
とにかくまずは確かめておかなければならない事がある。
「なんで真がうちにいるの?」
「ああ北条さんのお宅がご夫婦で出かけるから、今日と明日は真ちゃんが一人でお留守番だったのよ。だから私がうちにご招待したの。ご飯なら一人分ぐらい増えても手間は変わらないどころか、真ちゃんが手伝ってくれて楽ができたわ」
「えへへ、いつもお世話になってますから」
ああ、なるほどそういう訳ね。だがもう一つ確認しておくべき事がある。
「夕食に納豆料理はないよね?」
「……ん? アシカは私の事信用してないの? がっかりだよ」
返答の前の一瞬の間が凄く気になる俺だったが、隣で母が苦笑しながら「大丈夫よ」と太鼓判を押してくれたのに胸を撫で下ろす。それがどうにも不服だったらしく真は口を尖らせている。眼鏡越しの大きな瞳が「このマザコンめ」と責めているようだ。いや、でも料理に関しては真よりも母の方がどうしても信頼度は高いのは仕方ないだろう。
「それじゃ、疲れているから悪いけど俺から先に風呂に入らせてもらうよ」
玄関から自分の部屋へ向かいながらそう宣言しておく。一応は真も女の子だ、風呂場でばったりとか現実に起こったら洒落にならないからな。忙しい今はラブコメをやっている暇はない。
「はいはい、沸かしてあるからさっさと入ってきなさい」
との言葉にありがたく従って風呂から入っておこうか。
「んー、家に招いてくれたお礼に背中流してあげようか?」
目を細めてどこか子猫じみたにんまりした表情で真が提案する。こいつ俺をからかうのが趣味みたいになりかけてるなぁ。ここで一回乗り突っ込みで釘を刺しておこう。
「ああ、じゃあ頼もうか」
「ん? え?」
真は自ら持ちかけてきたのに急に顔を赤らめ、意味もなく手足をせわしなく動かすと「ポ、ポイントとかフラグがまだ足りてないからまた今度!」と足早にリビングへ退却していった。
ふっ、勝ったな。しかし、ポイントって何のポイントでどうすれば手にはいるんだよ。フラグってどうやればイベントが進むんだよ。
最近サッカーゲームだけでなく、いわゆる乙女ゲームとやらに手を出し始めたという幼馴染に対し「大丈夫かなあいつ」とちょっぴり不安を覚えた。
まあとにかく今は風呂へ急ごうか。
すっかり入浴する気になっている俺の袖をいつの間にか母が掴んでいた。
「速輝、あんまりからかっちゃ駄目よ」
「は、はい」
なぜか判らないが、静かな母の笑顔と注意が凄く怖かった。
◇ ◇ ◇
風呂に入って疲れも汚れも綺麗さっぱり洗い流すと、リビングに入り夕食だ。入浴している間に女性陣の微妙な空気はすっかりほぐれて、いつも通りの落ち着いた雰囲気になっている。
食卓には俺の好物の唐揚げが小山を作り、お刺身にサラダや味噌汁に煮物までが周りを彩っている。
「うわ、美味しそう。今日はご馳走だね」
「ええ、速輝が帰ってくるし真ちゃんも手伝ってくれるからちょっと力を入れて作っちゃった」
「えへへ私が手伝ったのはサラダとか簡単な所だけだけどね」
「うん、ありがとう。お腹が減ってよだれが垂れそうだからもう食べようよ」
そう感謝の言葉を述べながらさりげなく食卓をチェックする。あいつがサラダ担当ならドレッシング当りが怪しいが、香りからはあの物体が混入されてはないな。どうやら今回は余計な真似はしていないようだ。母の裏付けがあったとしても、真と食事をすると必ず毒殺を警戒するスパイのようなテンションになる。ま、その分会話は弾んで気分は浮き立つから収支としてはプラスなのだが。
全員で手を合わせ「いただきます」と唱和した後で唐揚げに口をつける。うん、タレが染み込んでジューシーだな。相変わらず母の作った料理は旨い。このまま唐揚げを食べ続けたい所だが、横からじっと注がれている緊張した視線の圧力に逆らいきれず、恐る恐るサラダを一口頬張った。あ、ちょっと意外だ。
「美味しいなこのサラダ。さっぱりとしていて和風ドレッシングにも合っているぞ」
「そ、そうだよね。私も割と自信があったんだ」
途端にほっとしたように真から緊張が抜けて行ったようだ。こいつが硬くなっているとどうにも調子が狂うから結構な事だ。気がつくと俺達二人の様子を微笑ましそうに眺めている母にも困る。とりあえずここは話を変えようか。
俺は土日と振り替え休日の月曜の三日間代表の合宿に行っていて、その間はずっとサッカー漬けだ。その間にうちではニュースとか何もなかったのかな。
「合宿に行ってる間にこっちは何も変化なかった?」
「ん、学校やクラス関係では何もなし。というかあったら真っ先に喋ってるよ。それより、代表合宿ってどんなだった? やっぱり凄かったの? ジュニアユースとはどこか違ったの?」
逆に矢継ぎ早に真が質問してくるのを母は「あらあら」と言うだけで遮ろうとはしない。大方自分は後でゆっくり聞けばよいと思っているのだろう。
「そうだなぁ」
一息入れて何を喋るべきか思いを巡らせる。あの初日のエキサイティングな練習試合は存在その物がなかった事にされて口外を禁止されてしまったしな。愚痴ならば、まだ気の合わないメンバーもいる事や旧監督派とのしがらみもあるスタッフについていくらでも語れる。でもここで雰囲気が悪くなるような事を言っても仕方がない。新しくできたチームメイト――いや友達について話そうか。
「俺と一緒で初参加した面白い奴らとは仲良くなったな。まあみんなちょっと乱暴だったり守りを考えなかったり、サッカー選手としては癖が強いのばっかりだけど、悪い奴らじゃないと思う」
「んー、そうなんだぁ」
「乱暴な子って喧嘩なんかしないでしょうね、速輝も気をつけなさいよ」
ふむふむと頷いて真は眼鏡が曇ったのか外して「はーっ」と息を吐いてちり紙で拭う。そんなのんきな真と違って母は少し心配そうだ。
「大丈夫だって、実際に喧嘩は最初に一回だけあったけどすぐに治まったしね。それからは、みんなストレートに物が言えるようになってかえって仲が良くなったって」
憂い顔を晴らす為に少しだけ内情を暴露する。このぐらいなら問題ないだろう。
「喧嘩を始めた子なんか「あいつはワイの右ストレートを上段回し受けで捌きよった、なかなかのもんや。きっとあいつはビッグになるで」って本当にサッカー代表かよと突っ込みたくなるような事言っていたし、相手の奴とも最後には肩組むぐらい砕けていたな。あの喧嘩は何だったんだよってみんな文句言いたくなるぐらい意気投合してた。ま、どっちも脳筋だから気が合ったのかもな」
俺としても名前はぼかしているが、合宿最終日の上杉や相手の行動を話して安心させようと試みる。
だが、なぜか女性の二人はため息を吐いている。
「男の子ってまったく……」
「んー、本当にそうですよね」
となにやらお互いだけで判りあっている空気だ。一体なんだよ。
「それで速輝は新しくできたお友達が取られたみたいで寂しいんだ」
「んー、そうとしか思えないね。アシカって子供だなぁ」
「な、何でそうなる。俺はごつい男が二人で肩組んで鬱陶しいなあと……」
「ん、そう言えばアシカは身長何センチだっけ? 私ほどじゃないけどサッカー選手にしては小さいって愚痴ってたよね? おっきい二人の喧嘩なんかに混ざれなく悔しかったとか」
はぐらかされたような気もするが、ここで黙っているのも負けたみたいだしちゃんと答えるか。
「俺はこれでも一応クラスでは高い方だぞ。身体測定の時に真が「また縦にも横にも成長してない、ぐぎぎ」と歯軋りしてた時自慢しただろう? で、さっき言った二人は俺にプラスして十センチぐらいか。でもあいつらはそれ以上に体格がいいんだよ。格闘技していたせいか分厚い胸板していて、まともにぶつかると絶対パワー負けしちゃうもんなぁ」
俺の身長は中学に入った時点で明らかに前回よりも高くなっていて、百五十五センチだった。自分の努力が少しだけ報われたようで、身体測定の後で無意味にふんぞり返って真を見下したらぽこぽこ殴られた記憶がある。
それとは違い、なかなか改善の兆しが見えない自身の当たりの弱さに嘆く。一試合走りぬくスタミナをつけるのには成功したが、こっちの方には目途が立たない。ま、焦らずじっくり行くしかないか。
あ、弱点というので一つ思い出した。このまま合宿での話をしても俺がいじられるだけのようだし、ここで切り出しておくか。
「母さん、そういえば俺が英語を習いたいって言ってたの考えてくれた?」
「ん? アシカってそんなに英語悪かったかな? 成績はトップクラスじゃない」
「ああ、俺が習いたいのは英会話の方ね。語学のペーパーテストの方はとりあえず自分でなんとかなるけど、英会話は先生がいないと難しいからな。それに、ジュニアユースで時間取られるから少ない空き時間でも何とかなる都合のいい所ないかなーって」
母は少し眉根を寄せていたが「速輝のサッカー以外の頼みは珍しいし、勉強の事じゃ反対もできないわね」と納得してくれた。
「英会話教室を幾つか調べておくわ。ユースが休みの日だけでも通えるのか、費用は幾らぐらいかもね。でも、もし通う事になったら三日坊主は許しませんよ」
「サッカー始める時にもそう言われたけど、今でも続いてるでしょ。大丈夫だって」
親子の会話を黙って聞いていた真が不思議そうに首を傾げる。
「でもまたなんで忙しいのに、わざわざ英会話を習おうと思ったの?」
「……世界一のサッカー選手を目指すには必要なんだよ」
俺の答えに母と真が顔を見合わせてぷっと吹き出す。
「何だよ」
二人だけで判り合っちゃって。今日はそんなのが多いぞ。
「ごめんごめん。勉学に目覚めたかと思えば、やっぱりアシカはサッカー馬鹿なんだなーってね」
そう言うとまた二人で笑い出した。……自宅なのに俺が疎外感を感じるのはなんでだろう。




