外伝 二回目になるファースト・コンタクト
春休みも終わりに近い日の事だった。
ジャージを汗でびっしょりにして、手にはボールを入れたネットとスポーツバッグをぶら下げて朝練から帰宅する。春休みなんだからといつもより遅くまでみっちりとトレーニングをしてきたのだ。
どうもキャプテンが卒業してからは、朝練が山下先輩と二人っきりになってしまって間が持たない。
全国大会の後から増やしたPK練習を除くと変わらないメニューなのだが、俺達が成長したのか徐々にトレーニングメニューが早く終了するようになってきた。そうなると余った時間は仕方ないからと、ぶっ続けで攻守を代えてのワンオンワン合戦でお互いが個人技を磨くことになってしまう。俺達は二人とも負けず嫌いなものだから、終わりの時間を決めておかないと延々と勝負が続いてしまうのだ。
居なくなってみて初めて、キャプテンが練習しやすい環境を作っていてくれていたんだなぁと気が付く。このまま二人だけでは朝練が個人技の練習だけになってしまう。
もっとゲーム勘を磨く練習を取り入れなければいけないな。だとすればもう少し人数を増やすべきか……。しかし、安易に増やすと練習のレベルが下がってしまいかねない。でも来年には山下先輩も卒業してしまうしなぁ。
今後の練習計画について考えながらクールダウンを兼ねた軽いジョグで帰ってくると、空き家だったはずの隣家に引っ越しの荷物を載せているトラックが止まっていた。
……そういえばあいつが隣にきたのは小学校四年生の頭からだから、ちょうど今頃だったか。
高校を卒業してからは随分と会っていない、いや違うな。今回の人生では初顔合わせになる幼馴染の顔を思い出す。あれ、思い出そうとするのだが、あいつは――そういえばどんな顔だったっけ? 割と長い付き合いのはずなのに朧気にしか浮かんでこない。確かちっこかったのと髪が長かったのだけは記憶しているんだが。
いかん、前世の知識なんかが最近の記憶に圧迫されて段々思い出せなくなっていくような気がするぞ。しかもそれはサッカー以外に関してだけで、サッカー関連はばっちり覚えているのは我ながらどうかしている気がするが。
頭を振って自分が不人情だという思考は忘れようとする。朝からネガティブになっても仕方がない。
そんな風にトラックから視線を引きはがすと、ひょこって感じでその陰から出て来る子供の姿を見つけた。小さな体に不似合いな大きな段ボールを抱き抱えるようにして隣家へ運ぼうとしているようだ。
その姿を見た瞬間――まだ顔は段ボールに隠れて足と長い黒髪しか窺えないのだが、ピッチの外では数少ない俺の天敵だった幼馴染の少女を思い出していた。
「――納豆娘!」
俺の恐怖に満ちた声に気がついたのか「ん?」と疑問符を洩らすと、抱えていた段ボールを地面に置いてその少女はこちらへ振り向いた。乱れた黒髪を手で押さえている幼く愛嬌のある容貌は、ようやく記憶の中から浮上した前世での俺の幼馴染の面影を残している。ああ。こいつだったな間違いない。
「よいしょっと。あ、初めまして、おはようございます」
「あ、お、おはよう」
丁寧な挨拶をしたにも関わらず後ずさって、さらにやや腰の引けた対応をする俺に、またも「ん?」と首をかしげる少女だったが気を取り直したように微笑みかける。
「お隣さんですか? わたしは北条 真小学四年生です。よろしくお願いします」
「……足利 速輝同じく小四だ。こちらこそよろしく」
挨拶が硬くなってしまうのは仕方がないだろう。俺はこの真に対して明らかに苦手意識を持っているのだ。別にこの子が悪いっていう訳ではない、むしろ性格は素直で優しい子だと思う。
唯一俺が許容できない欠点というか悪癖に近いのが、こいつの自分の好物を広めようとするその姿勢だ。
「それとあたしの事、納豆娘って呼ばなかった?」
「滅相もない」
首を振って断固とした態度で嘘をつく。このぐらいの嘘は人間関係を円滑にする為に勘弁してほしい。ここできっちりさっきの失言とこいつとの距離を保っておかないと今後何があるか判らない。
真は「んー?」と不服気にぷくぷくとした頬をさらに膨らませて首を捻っていたが、表情をすぐに笑顔に変えた。
「じゃあ空耳かな? あたしから溢れる納豆愛がそう聞こえさせたのかもね。もし足利君があたしを納豆娘って呼んだんなら、お返しにお腹一杯になるぐらいどんぶりに大盛りでサービスしてあげたのに」
「……謹んで辞退する」
良かった、しらを切って本当に良かった。苦手な納豆を頭からかけられるのなんて、想像しただけで血の気が引いてしまうぞ。
やはり真は苦手だ。というか彼女が大好物の納豆が苦手なのだ。そして事あるごとに俺へと納豆を勧めてくる時のこいつは、俺にとっては地獄からの使者にしか見えない。もしかしたらそのせいで、今まで真の事を俺の脳内メモリーから消去していたのかもしれないな。
「……そう? 美味しいのに」
「味はさておき、少なくともどんぶりで食べる物じゃないよな」
「うん、そんな事して残したりなんかしたらもったいないお化け納豆バージョンが、糸を引いて足利君を追いかけてくるね」
「被害者の俺を追っかけては来ねーよ。百歩譲ってもったいないお化けがいたとしても、そんなに腐ってねーよ!」
思わず突っ込んでしまった。まずい、初対面なのだからできるだけ当たり障りのない関係を構築しようと考えていたのだが……。真と仲が良くなると必然的に彼女の好物とも長い付き合いになる事を意味する。
ただのお隣さん以上の関係になるつもりは毛頭ないのだ。早くこの場から立ち去ろう。
「じゃ、引っ越し頑張ってね。俺はもう帰るから」
と家に逃げ込もうとしたら、その脱出口のはずのうちの家の扉が開かれた。中から出てきたのは、うちの母ともう一人は母と同年齢の小柄な女性だ。
どちらも玄関のドアを開けるとすぐ前に俺達がいたのに驚いたのか、少し目を見開いている。
「あら速輝、お帰りなさい。ちょうど今、隣に越してきた北条さんがご挨拶に来てくれていたのよ」
「真もお隣の速輝君ともう友達になったの? 初めまして速輝君、うちの子はちょっとそそっかしい娘だけど仲良くしてあげてね」
「は、はあ、こちらこそよろしくお願いします」
と俺や大人達の間で挨拶が交わされる。俺の態度について「大人っぽいわね」とか「そちらの真ちゃんこそ」といった社交辞令が飛び交っているが、真の大きな目はいつの間にか俺がぶら下げているサッカーボールに注がれていた。
「足利君はサッカーするの?」
「うん」
すると好奇心で一杯の視線はボールから俺へと移された。
「ふーん、上手いの?」
その質問を真から受けるのは二度目である。前回の人生では確か会って間もないこともあり「うん、まあ」と曖昧な言葉を返したはずだ。
でも、今回は子供っぽい軽い気持ちでの質問であっても、この分野に関してだけは妥協はできない。素直に「うん」と答えて頷いておけば問題ないと判ってはいても、秘めた自信がそれだけでは許してくれないのだ。
胸を張って彼女の視線を跳ね返すように強く見返し、しっかりと頷いた後にプライドを込めて前回よりも少しだけ言葉を続ける。
「うん、将来世界一になるぐらいには」
と。
 




