第六十話 気にするな、不運な事故が起こるだけっす
同点に追いついた喜びに湧く矢張のメンバーだが、その傍で俺は中途半端に固まっていた。
それでも仲間の明るさに救われて、明智のどんよりとした視線の呪縛からようやく再起動ができたのだ。気を取り直して俺も山下先輩の祝福と言う名の張り手合戦に参加していると、そこで審判が吹いた後半終了の笛の音が響く。
ふう、ぎりぎりでなんとか間に合ったな。得点するのが後ワンプレイ遅れていたら、タイムアップの方が先に来て俺達は敗退していたぞ。
もしかしたら審判も鎧谷のファールによって得たフリーキックだから、少々は時間が超過しても目を瞑って最後までプレイさせてくれたのかもしれない。
とりあえず終了間際に同点に追いついた俺達のテンションは高い。
ベンチに戻ってからも、皆が「よくやった」と声をかけてきてはハイタッチを交わしている。特に山下先輩はピッチ上にいるメンバーから紅葉をつけられ終わったと思ったら、ベンチメンバーからお代わりだとバシバシ背中を叩かれている。山下先輩の瞳には得点した直後の興奮はすでになく、今は何か悟ったような達観の色があった。
そんな中、下尾監督が大きく手を叩いた。
「よーし、みんな頑張ったなー! お前たちの諦めない心が最後で追いつかせたんだ。でも時間がないから飴はこのぐらいで、さっさとミーティングを進めるぞー。延長は今から五分休んでから前後半十分ずつだ。ハーフの休憩も五分だけになる。体力的にきついのは判っているが、それは向こうも同じだから仕方ないな。とにかく水分はどんどん取って脱水症状にならないように気をつけろよー」
「はい!」
監督の言葉に全員で返事をする。ほんの二・三分前のリードされていた時は疲れきった表情をしていたのに、追いついたばかりなせいか皆の顔が生き生きと輝いている。こうしてみるとやっぱりメンタルの影響って凄いんだなぁと実感させられるな。
と、そんな事を考えていたのは俺のスタミナの残量が危険値になったからである。最後のフリーキックのプレイも俺の足の調子が万全であれば、直接狙わせてもらっていた。だがこの乳酸の溜まった足ではパワーの必要なブレ球などは撃てないので、コンビネーションを使ったトリックプレイを使用したのだ。
「アシカは大丈夫か?」
「もちろんです!」
だが監督の心配げな質問に、つい脊髄反射で胸を叩いて請け合ってしまった。
このつい見栄を張ってしまう心理は、おそらくスポーツをやった人間なら誰でも判ってくれるだろう。よっぽどの状態ではないと試合中に「無理です」なんて弱音は口を突いて出ない。とにかく選手は試合には出たいものなのだから。
なおも疑いの眼差しを向ける下尾監督に「まだまだ走れますよ」と、内心考えている「今百メートル走したら、タイムが悪いどころか途中棄権だな」などの弱腰な台詞とは裏腹な強気な言葉で答える。
俺の演技が上手くなったのか、監督もやや曖昧な表情だが頷いて納得してくれたようだ。
「それじゃ、延長戦はアシカを入れた後にやっていたプレイ内容と同じで問題ないな。皆も怪我しないように精一杯楽しんでこい!」
監督の言葉で短すぎる休憩を終えた俺達は、またピッチへと戻っていく。
全く、明智が俺を狙っているようだとは言い出せない雰囲気だったな。俺はそう心の中で愚痴る。そんな事言ったら、もう交代枠は使い切っているのに俺を引っ込めかねないからな、あの監督は。
でも後で文句言われるのも、俺が怪我するのもどっちも御免だ。明智のラフプレイの対策は取っておくべきだろうな、うん。その為の備えを終えて、いつもより一回り膨らんだソックスを上げると、若干重くなった足取りで俺もピッチへと向かった。
◇ ◇ ◇
「いやー、思ったよりも矢張SCって強かったみたいっすねー」
意図的に軽い口調で煮えたぎる腹の内を覆い隠す。俺の計算では試合終了まで逃げきれる予定だったのが、一人の三年生の途中出場のせいで勝利のシナリオが狂ってしまった。
鎧谷は元々が先行逃げきりをスタイルとしたチームだから、攻撃で第二・第三といった次の手がないのが痛い。相手の体力を消耗させるよりメンタルを削って足を止める戦術も、足利の登場によって上手く機能しなくなってしまった。
もちろんプレイスタイルの差で俺達の方がスタミナは残っているだろうが、このままやれば敵の体力が尽きる前に向こうに点を取られてしまう可能性の方が高いと客観的に判断ができてしまう。
どうするべきか頭の中で幾つかの作戦を考えるが、この状況を打開できるクリーンな手は思いつかない。
こういう時に自分を含めた鎧谷の選手層の薄さと個人能力の低さを痛感する。カルロスレベルとまで贅沢は言わないが、せめて山下クラスの突破力を持つ選手がいれば選択肢も広がるのだが。
――仕方ないっすね。俺は目を瞑り、自分の中にいるもう一人の客観的で冷徹な自分と会話をする。
俺はクリーンな手段で勝利を得るのは諦めた。そして多少後ろ暗いプレイをしなければ矢張に勝つのは無理だと判断したのだ。
だったら何を躊躇っているんだ?
カルロスが三回戦に勝ち上がってきた場合はどうせダーティな手段を取らねばならないのは覚悟していたはずだろう?
カルロスを退場させるのは良くて、矢張の選手を退場させるのは駄目なのか? そんな訳ないよな、俺はどんな事をしても優勝するって決心していたはずなのだから。
自分の中にあった躊躇いに決着をつけて目を開けると、チームの皆が口を閉ざして俺の様子を伺っている。
「どうかしましたっすか?」
「いや、明智が急に黙り込んだから何かあったのかと思ってな。それに後半の指示もまだ受けてないし……」
「いや、指示は監督が言うべきっすよ」
俺が突っ込むと監督も「それもそうだな」と一つ頷いた。
「うん、じゃあ後半の指示をしておこうか。明智の言う作戦通りにしろ、以上」
「……次の試合からは監督じゃなくぬいぐるみでもベンチに置いておくっす」
あまり頼りにはならないが、俺への全幅の信頼を示す監督に減らず口を叩いておく。こういう接し方をされるとどうしていいか判らないんだよな。
いや、今は俺の作戦を止められないことを喜ぼう。
「それじゃ、延長戦の作戦を立てるっすよー。基本的には今までと同じ戦い方でオッケーっす。時間が長くなればなるほど相手に体力を使わせるサッカーをしている俺達が有利になるっす。
でも一つ注意してほしいのは山下のドリブル突破っす。強引だからマンマーカーが頑張れば止められるはずっすけど、念のため他のDFもフォローする用意をお願いしまっす」
簡単にまとめた俺のプランにどこか訝しげな質問がかかる。
「ああ山下のフォローをするのはいいが、もう一人の攻撃の軸の足利は注意しなくていいのか? 後半の最後もあいつからのパスでやられたようなもんだし」
「ああ、足利は問題ないっすよ」
俺は素っ気なく答える。あまりこの話題には触れたくない。
「そ、そうか、問題がないならいいんだが……」
まだ納得できないようなチームメイトの瞳をしっかりと見つめ、笑顔でこう宣言する。
「ええ、俺が問題なく処理するっす」
うん、俺はいつも通りに笑えているだろうか。
◇ ◇ ◇
試合終了直前にゴールが決まり、延長が始まろうとする中でスタンドはざわついていた。これまでの試合展開の感想や今の内にトイレに行っておこうとする観客が一斉に行動しだすからだ。
そんな観客席の一角に、ジャージ姿の少年が二人で席を並べていた。
「おお、お前の言ったとおりだな矢張が追いつきやがったぞ」
「そうだな、まあ三十九番を入れるのがあそこの最後手段だったんだろう。まがりなりにでもカルロスと渡り合った選手だ、疲れてはいてもあれぐらいはやるだろう」
「ふーん、そっかぁ。俺なんかはパスばっかの三十九番より十番のトップ下の奴の方が良く見えたけどなぁ」
「まあドリブラーは見栄えがするからな。ゲームメイカーよりは素人でも上手さが判りやすい……ってお前はサッカー選手だろうが、しかも年代別とはいえ日本代表の。素人と同じ感想を持つなよ」
どこか呆れたような視線で隣の少年を眺めるが、その態度には気安さがある。おそらくは本気で相手を馬鹿にしてはいないのだろう。
視線を向けられた少年もそれを承知しているのか、何のわだかまりもなく言われた言葉を受け止める。
「まあ俺は直感的なFWだからな。面倒な分析は司令塔のお前に全部まかせるよ」
「丸投げかよ、まあ、今までもそうだったから仕方ないか。で、直感の鋭いストライカー様はどっちが勝つと思う?」
「うーんと鎧谷かな」
「へえ理由は?」
「……勘だ。でも俺の勘は外れた事はないからな」
「そうか」
こいつの野生的な勘は侮れないからなと納得しかけて彼は気が付いた。
「お前、二回戦の時も勘だけどカルロスのいる剣ヶ峰が勝つって言ってなかったか?」
「……お! 延長戦の開始だ、両方とも頑張れー!」
「いや聞こえないふりはやめろよ」




