第五十九話 ベストポジションはいただきました
ゲームは拮抗状態――いや俺の欲目かもしれないが僅かに天秤は矢張SCに傾いている。これは俺が入ったことで自陣の深い所からのゲームメイクが可能になったからである。敵の鎧谷では明智が担当しているチームをスムーズに動かす潤滑油の役割だ。
向こうは組織力と経験でその明智のゲームメイカーとしての能力を生かしているが、そこまでしっかりと戦術として整備されてはいないこっちもメンバーはきっちりと俺の指揮に従ってくれている。そして矢張には個人で突破できる能力を持つ自称「矢張のエース」がいる分こちらが有利になっているのだ。
俺と明智はお互いの作戦を読みあって、細かいポジションチェンジと長短のパスで相手のバランスを崩そうとしている。そんな頭脳戦を展開している場面でも山下先輩は一人で勝手なプレイをするのだが、それが結果的に敵陣を切り裂く事になり何度も決定的なチャンスを作っているので俺や監督を含め誰も文句が言えない。
山下先輩の多少は強引なプレイがいいアクセントとなり、俺がこの試合で比較的堅実に構築しているバランスに配慮したパス回しと相まって鎧谷のディフェンスが対応しきれていない。
俺や明智のチェスや将棋のようにピッチを上空から盤上のように捉えてゲームを組み立てるやり方は、全体に目が行き届きやすい反面で突発的な対処に遅れるデメリットもある。相手がどう動くかを考えすぎて敵に主導権を渡してしまうのだ。
だが山下先輩は良い意味で空気を読まずに、自分からガンガン前へ攻撃をかけてくれる。その分鎧谷が応急処置せざるを得なくなり、その猶予を使って俺が別のルートで攻撃する指示が出せるなどうちの攻勢が多く、しかも連続した攻撃ができるようになってきたのだ。
しかし流れは矢張に向いて来たとはいえ、未だに一点差で負けている事には変わりはない。なんどか惜しい場面まではいくのだが、最後のシュートが決まってくれないのだ。山下先輩のフリーキックを止めた時から感じてはいたが、相手のキーパーはかなり優秀だな。他のDF陣にしても崩れそうでなかなか崩れないし、上手いというよりも自分達のゴールを一生懸命守っているという印象だ。
それはまあ仕方がないのだが、相手のディフェンスの所々にラフプレイが見られるのが気に障る。はっきりイエローカードをもらうようなあからさまな物ではないが、ファールが嫌いな俺は特に腹が立つ。
残り時間はロスタイムを加えてもほんの僅かでしかない。そんな状況でリズムを崩され、時間を消費させられるファールを受けるとどうしても苛立ちを隠せない。
ああ、また山下先輩が倒された。先輩はドリブルで突っ込むから、他の選手よりもずっと敵からのファールを受けやすいのだ。今度のファールも突破しようとした先輩に敵のマークの足がぶつかったようだった。俺からしたらわざとにしか見えないが、狭いスペースでの接触プレイだと明らかに狙ってやった故意の反則だとは審判も判定しづらいのかもしれない。
くそ、そっちがファールででも止めてくるならば、こっちはそれを利用させてもらうぞ。
うずくまって「痛てて……」と太ももを押さえる山下先輩に近づき、耳元で作戦を囁く。
ファールされた者がフリーキックを蹴るのがうちの流儀であるから、このキックを蹴る権利を持っているのは当然ながら山下先輩である。だからトリッキーなプレイをするためには真っ先に相談しなければならないのだ。でないとこの人へそを曲げちゃうしね。
足をさすりながら俺の作戦を聞いていた先輩は「オッケー、それでいこう」とあっさり承諾した。正直もう少しゴネるかと予想していたので、その聞き分けの良さにちょっと驚く。
まじまじと見つめる俺の前で「ふっふっふ、俺の足を蹴りやがった借りはゴールで返してやる。山下様、ファールしてすいませんと土下座して謝りたくなるような得点を決めてやろう」と唇を歪めた低い笑いをもらす。「う、うん、そうだね」とちょっぴり退きながら俺も頷く。何だかこのフリーキックが失敗したら俺が山下先輩に逆恨みされそうな勢いだが、それでも多分これが一番得点できる確率の高い方法だと信じて実行するだけだ。
審判に指示された地点に、俺が静かにボールをセットする。隣にはファールされた痛みから回復した山下先輩、後ろには頼りになる我らがキャプテン、前にはゴールとそれを守るように築かれた長い人の壁があった。
俺が剣ヶ峰戦で決めたブレ球のフリーキックを警戒しているのか、キーパーの正面でさえもボールを確認する必要最小限の隙間しか空けていない大人数の壁だ。
明らかに直接ゴールを狙わせないという執念がにじみ出ている布陣だな。
まずは俺がセットされたボールに向かって走り出す。その後一歩だけ遅れて山下先輩が続く、その少し後ろからキャプテンが俺達をフォローするように従っている。
最初に踏み込んだ俺がキックすることなくボールの脇を通過していくと「やっぱり」という空気が流れ、次に山下先輩のキックモーションに壁を作っているDFの体が緊張で強ばった。ほとんど全員が俺はカモフラージュで、ボールをセットしたのはフェイントであり二人目の山下先輩が本命だと読んでいたらしい。
その山下先輩までもがシュートすることなくボールをちょこんと後ろに軽く動かすだけだった。壁を作っていた鎧谷DF達も中途半端にジャンプしたり、飛び出しかけてストップをしていたりと一瞬混乱する。
そこに後ろで出番を待っていたキャプテンがバックパスされて渡されたボールを蹴った――ゴールではなくサイドへ流れている俺の方へと。
もちろんノーマークだった俺はキャプテンからのパスを、丁寧にダイレクトで壁の向こうにふわりと浮かせて送り出す。
そこに走り込んだのは山下先輩だ。フリーキックの場面でキッカーのポジションにいれば敵のマークは張り付けない。俺と先輩はそれを利用して完全にノーマークの状態になっていたのだ。
しかも直接ゴールを狙ってくると思っていたのか、ゴール前の壁は乱れていてDFの足は止まっている。そこにフリーキックを撃つふりの勢いそのままに、加速度をつけた山下先輩がゴール前に突っ込んできたのだ。後は俺がオフサイドにならないタイミングで壁の向こうにパスを届ければもう結果は判っている。
ほら、観客席からの大歓声と審判の得点を告げる笛に先輩達の歓喜の雄叫び。ゴールネットが揺れるのを確認してから目を瞑っても、耳から嵐のように大騒ぎが伝わってくる。
歓喜の声の余韻に浸りながら目を開けると、山下先輩が走り寄ってきたチームの皆から祝福という名の平手打ちの連打をくらっている所だった。どうみても俺からは襲撃されているとしか思えないのだが、これもうちの伝統なのだろう。……俺の代になったら廃止したい伝統だな。
まあ今は自分がやられるんじゃなきゃいいか。俺も記念手形を山下先輩につけておこう。
いつもより疲労で少し重く感じられる足を動かして、祝福の輪に入ろうとする俺は、周囲を見渡す鳥の目にちょっとした違和感を覚えた。
なんだろうか?
違和感の発生源は敵チームの明智からの視線だった。俺はここまで勝ち上がってくるのに結構活躍したから、妬みや敵意を感じた事はある。だが、明智から放たれているものは敵意とかそういうレベルではない。俺もこれまでに浴びた経験がないので自信を持って断言はできないが、おそらくは「殺気」と呼ばれる類の物だった。
カルロスに感じたような太陽から熱風が吹き付けてくるような感覚ではない。むしろブラックホールに吸い込まれるように、明智の持つ冷たく暗い瞳に吸い寄せられそうだった。
カルロスを怒らせた時はこう思った――虎の尾を踏んでしまったな、と。今回の明智に睨まれて思ったのは――今度は毒蛇の尾を踏んだようだ、だった。
あれ? どっちとも死亡フラグじゃないか? サッカーの試合中に似つかわしくない形容がさっきから頻出しているな。まあ、でも脅威を感じたんだ、多少表現が大げさになるのは勘弁してほしい。
明智のあの目を見ているとチームメイトの祝福騒ぎで高揚したテンションが下がり、背筋に冷たい物が走る。
別に得点直後に反撃されそうで脅威に感じているのではない。それよりももっと質が悪い雰囲気である。
ああ、そうだべつにビビっているわけではないが、俺や山下先輩の身辺の警戒を厳重にしなければならないな。個人的な「嫌な予感」だけではない。何しろ監督にも命令されているし二度と繰り返したくない嫌な思い出もある。だから絶対に怪我だけはしないように注意するべきなのだ。
一人で戦慄していると祝福の輪が俺の場所まで広がってきた。
「おい、アシカどうかしたか? お前もナイスアシストだったんだからもっと喜べよ。今回は特別にお前の為に背中の一番いい位置を空けておいたから、ここに一発でっかい紅葉を」
「アシカ! てめぇ先輩に向かって張り手をかますのは許さんぞ!」
「うんうん、足利も山下も仲がいいねぇ。あ、ちなみに足利が辞退したらその背中の真ん中のベストポジションはキャプテンの権限で僕がもらうから」
「キャプテンはさっきもやったでしょうが! それに俺の背中は俺の物だから、勝手にやりとりしないでください!」
……うん、なんだかこのメンバーと一緒だとシリアスになっているのが馬鹿みたいに思えて来たな。まあとにかく、今のほんの僅かな時間だけは皆と喜ぶか。




