第五十七話 観客もこれで決まったと思ってるっす
「山下先輩、冷静に頼みますよ! もしゴールじゃなく壁の誰かに向けて蹴ったりしたら、次からは俺がずっとフリーキッカーですからね!」
直接ゴールを狙える位置からのフリーキックを、審判から指示された場所にボールを置いて準備している先輩の耳に届くように大声で叫ぶ。
見間違えでなければ今ビクッと山下先輩の肩が揺れたような気がするが。あ、俺の叫びを聞いて僅かにボールの位置を変えやがった。……誰かは判らないが、ゴールではなくそいつを狙ってたな。たぶん先輩の狙撃のターゲットになっていたのは、ファールして倒した相手ではなくそれを指示したと思われる人物だ。
その黒幕と思われるのは向こうの十番で確か――明智というボランチはさっきまで笑い合っていたDFではなく、その後にキーパーの耳元でなにか囁くと急いで自分も壁に入っている。いかん、どうも先入観のせいか明智のやる事が全て怪しく見えて仕方がない。
山下先輩もそう感じたからボールをぶつけたくなったんだろう。
ま、まあこれで冷静さを取り戻してくれればそれでいい。得点を決めてくれればもっといい。
俺の出番がこの試合はなくなるだろうが、それでも矢張の勝利の可能性がぐっと上昇する。
俺だけでなく試合会場の全員の注目を浴びて先輩がフリーキックを撃つ。軽やかな助走からの力強いキックは、さっきファールを受けて倒された影響など微塵も感じさせない物だった。
俺の撃つ無回転のブレ球とは違って、鋭いスピンがかかったキレのあるシュートが壁をかすめゴールの右上隅を襲う。山下先輩のお得意のコースとシュートだ。
ナイスシュート! そう声が出そうになるほどいいキックだった。そう、出そうになるって事は実際には口から出なかったのだ。
山下先輩のフリーキックはキーパーの手によってキャッチされていた。
――あれだけのいいコースのシュートを止めるどころかキャッチするなんて、もしかして読まれていたのか?
まさか、それはないはずだ。俺は頭の中でその疑いを却下した。
俺達矢張SCがここまで上がってくるとは、誰も予想していなかったはずだ。二回戦で戦った剣ヶ峰とカルロスに対するかませ犬という認識だったはずなのだ。そんな俺達の詳細なデータをすでに鎧谷が持っているとは思えない。そう考えると、先輩の癖などを読まれたというよりもおそらくはあのキーパーが優秀なのだと判断した方が妥当だろう。
だとすればそんなに良いキーパーから得点するのはかなり大変そうだな。
山下先輩はなおも諦めきれないのか悔しげな瞳でキーパーを見つめていたが、近付いてきたキャプテンに肩を叩かれて何かささやかれると、深く息を吐いた後で頭を振って未練を断ち切ったようだ。
性格的にはうちで一番点取り屋に向いているだろう山下先輩でも、この年齢ではすぐに気持ちを切り替えるのは難しいようだな。
それでもまだ矢張が有利な流れのはずだから、気落ちせず頑張って攻撃して欲しい物なのだが。
◇ ◇ ◇
危なかったな。
フリーキックを止めたキーパーに「ナイスキャッチっす!」と称賛しながらも背中からは冷や汗が噴き出している。急遽大会初日の矢張の一回戦をチェックして山下のフリーキックを確認しておかなければ、あそこのコースに来るとは予想がつかなかったぞ。剣ヶ峰戦を観戦していたからあの三十九番のアシカが正規のフリーキッカーだと思っていたが、山下もそう引けは取っていない威力のシュートだった。
一回戦のフリーキックの位置とほぼ同じだったから、壁の配置まで似せて同様のコースに撃つようさりげなく誘導しキーパーに助言したのだが、そのヤマが外れていたら失点していても何の不思議もなかった。
頭の中で山下の脅威度をさらに一つ上げる。こいつをいい気分でプレイさせる訳にはいかないな。さっきのファールでおとなしくなっていてくれればよかったんだが……。
いやまずは、この反撃の後で考えようか。俺だって相手が怪我するかもしれないような事故は起こしたくないし、仲間にやらせたくもない。
だが先に点を取られると、逆転する術がほとんどない俺達鎧谷は、先手先手で動くしかないのだ。
先に俺達が得点できれば良し。そうでなければ……。
ぶるっと川へ落ちた犬が身震いして水を払い落とそうとするが如く、俺も体を一回振って嫌な考えを払い落す。
このカウンターで点を取ればいいんだ。そうすればこの試合は勝てる。
勝たなきゃ俺はサッカーを続けられないんだよ。俺の邪魔をするんじゃない!
「みんな、相手が前へ出ている今がチャンスっす! このフリーキックを外してがっくりきている相手を、ここら辺でとどめを刺して楽にしてやるっすよー!」
「おおー!」
チーム全員が俺の檄に応えてくれる。こいつらのためにもここで負けてやるわけにはいかないんだ!
大事に胸に抱えていたボールを、キーパーが俺に向かって投げてくる。基本的にうちはキーパーはキックを使わない。そりゃもちろんゴールキックなどの場合やバックパスを処理する場合は別だが、より正確なパスができるという理由、いや監督のこだわりでキーパーは投げるように決めてあるのだ。
その正確なボールを胸で受けると、すぐに駆け寄ってきた山下から逃げるように右へはたく。それをノーマークでトラップしたサイドDFはピッチを確認した後で、大きく左へとサイドチェンジした。
この時には壁を作っていたうちの選手達も、すでにいつもの攻撃時のポジションに戻っている。サイドにボールが渡ると相手のディフェンスはどうしてもその方向へ寄っていくので、逆サイドがサイドライン沿いに向かえばかなりの確率でフリー、あるいはマークの緩い状態になれるのだ。
このときサイドチェンジのロングパスを受け取った左サイドのMFもマークが付いていなかった。
よし、敵ディフェンスの出足が遅い。自分達が攻められる番になってようやく疲れていた事を思い出したのかもしれない。ならば忘れっぽい相手に、その疲労を忘れられないように刻み込ませてやらねばならないな。
ノーマークであるにも関わらず、サイドMFはいそいでドリブルで縦に突破しようとはしなかった。周りを見ながらゆっくりとした速度でサイドラインを背に横走りのような格好で上がって行く。
ようやく、といったタイミングで集まってきた敵DFに対し「お疲れ様でした」とでもいう態度で、あっさりと中央まで上がってきた俺へとボールを回す。
プレスが緩いなと油断していると、一人の選手が猛然と俺に向かってダッシュしてきた。またもや猛ダッシュしてきたのは山下だった。フリーキックの時も険しい顔で俺を目標にする寸前だったし、どうも狙う相手に選ばれてしまったようだ。まあいいだろう。他のチームメイトを的にされるよりは対処しやすい。
俺も山下相手に一対一を仕掛けようとはせずに、今度は右へとまたロングパスでサイドを変える。左へと重心をかけようとした矢張のディフェンスは、舌打ちしながらまたフォーメーションを右へとずらそうとする。山下も「逃げるのか」と言いたげな表情で俺を睨むと、右サイドへのヘルプに走る。
うん、いい具合に矢張のディフェンスはくたびれてくれたようだな。左右に振りまくっていると相手の守備陣が位置を移す度に、首を捻ったり、汗を拭ったり、小さく「ちくしょう」と罵倒したり走るのを嫌がっているのがはっきり見える。
疲れれば集中力もそりゃ無くなるよな。
ここで敵陣に隙ができた。相手のディフェンスの中で唯一激しく動いている山下の埋めるべきスペースが空いているのだ。本来であればサイドの守備のフォローの場合は山下が動くべきではないが、あまりに緩慢な味方のプレイぶりに我慢できなくなったのだろう。
でもそんな行動ができるのは、後半から入ってきてまだスタミナに問題のない君だけだよ山下君。他のチームメイトは山下のプレイに応じた行動がすぐにはできない。矢張ディフェンスに付け入るべきギャップが生じていた。
俺はするすると山下の空けたスペースへと侵入していく。トップ下である山下が担当するべきエリアだから、ゴールまで距離はあるが位置は真っ正面のポジションだ。
誰もマークがついていない俺を発見した右サイドが俺へとパスを通す。慎重にトラップするが、この時点においてもまだプレッシャーがかかっていない。山下や敵のキャプテンが駆け寄っては来るようだが、それでは遅すぎるよ。
俺は余裕を持って、周りに敵のいないフリーキックのようなイメージでロングシュートを撃った。
振りぬいた足にいい感触を残したボールは足取りの重いDFの間をすり抜けて、虚を突かれた表情のキーパーが飛びつく指先のほんの少し先を通り過ぎゴールネットに突き刺さった。
審判の笛の響く中、ぐっと拳を握って突き上げる。あ、いかん。クールに振る舞わなくっちゃいけないな。
「スゲーよ、明智! あんなロングシュート撃てたんだな」
「ええ、まあ。ドリブル練習の副産物っすよ」
興奮して駆け寄ってきたメンバーに対して俺はそう謙遜する。あれ? 皆が何か不思議そうな顔になっている。ああそうか、話が少し飛んでいるか。
「うちの監督にドリブルの上達方法を尋ねたら、ロングシュートが撃てればディフェンスは迷うからドリブルで抜きやすくなるって助言をくれたっす。それでロングシュートの練習をしたら、なんかどんどんゴールに入るんで、もうドリブルするよりこっちの方が手っ取り早いっすかねーって思って。全国ではドリブルは止めてロングシュートを撃つことに決めたっすよ」
「な、なるほど。あいかわらずうちの監督のアドバイスは役に立つんだか、立たないんだか良く判らんな~。ドリブルを上達させようとして、ロングシュートが撃てるようになったとはなぁ」
「まあ結果オーライっすよ。とにかくこれでこの試合は俺達の勝ちに決まりっす!」
◇ ◇ ◇
「うーんこれで決まりかぁ。あんまり面白くない試合だったなぁ」
「おいもう終わりだって決めつけるなよ」
「だってもう矢張はダメだろ? 足も勢いも完全に止まっちゃってる。あーあ、カルロスに勝ったのがあんな奴らかよ」
「そう言うなって、まだ矢張は諦めてないし、打つ手はあったようだぞ」
そう言ってジャージの少年が指差す先には、矢張SCのユニフォームに三十九番を背負った小柄な少年がピッチの外でアップする姿があった。




