第四十九話 キャプテン後はお願いします
監督の大きく腕をぐるぐる回す「上がれ」との合図に、DFは全員が顔を引きつらせながらラインを上げていく。
じりじりと上がっていくラインがついにカルロスと同じ横一線になった時、ついに耐え切れなくなったようにこの試合はサイドDFになっていた先輩が、監督とキャプテンを睨むような決意の籠った眼差しで一瞥すると猛ダッシュでサイドを駆け上がる。このままゆっくりラインを上げるよりは、思い切って攻撃的に行動して特攻の時間を少しでも減らそうと考えたのだろう。
何しろ今はキーパーチャージによって得たフリーキックからの再開だが、蹴るキーパー以外の矢張のメンバーのほとんどが敵陣内かその付近まで上がってしまっている。
全員が相手陣内に入ってしまうと確かオフサイドのルールが適用されないはずだったから、DFのラインはハーフウェイラインと重なりそうなほど上げっぱなしの所にしてあるのだ。
そしてオフサイドのルールのせいで、そのラインぎりぎりにまで下がってくるしかなかったカルロスや他の敵FWが窮屈そうに勢揃いしている。合図があればすぐにでもラインの裏へ飛び出そうとしているその姿は、まるで運動会の短距離走のスタート前のようだ。
傍目には微笑ましい光景かもしれないが、俺達にとってはかなり冷や汗物の状態である。カルロスはもちろん、他のFWにしても充分にスピードスターと呼ばれるだけの快足を持っている。もし、俺達の陣にボールがこぼれてしまえばすぐに拾われ、DFは追いつくのに苦労するだろう。――それはつまり失点する事を、いやこの試合に敗北する事を意味している。
これは以前に練習でやった馬鹿試合を思い出させる指示だ。「肉を切らせて肉を切る。最後にはタフな俺達の方が立っているはずだ」とか監督は言っていたが、確かに精神的にタフでなければこんな無茶なタイトロープディフェンスはやろうともしないだろうよ。
これはもう監督からの「失点は恐れずに得点しに行け」という意思表示に他ならない。
他にはあの無茶苦茶な監督は何を言ってたっけ。そうだ「怪我するな」と……「楽しんでこい」だったな。
空を仰いで息を吐く。
そうだ、楽しまなくちゃいけないよな。これは監督命令なんだから、俺のわがままって訳じゃない。仕方ないことなんだよな、うん。
そんな風にいつもの如く自己正当化を終了すると、一番近くにいたキャプテンに声をかける。
「ほら、キャプテンもそんな厳しい顔をしていないで、もっとこの試合を楽しみましょう」
「そうは言っても、この状況で攻めるのはかなりリスキーだよ」
「大丈夫です!」
「……どうしてだい?」
俺が余りにも強く太鼓判を押すので、キャプテンも理由を尋ねてきた。もちろん俺が自信満々なのにはれっきとした理由が存在している。
「何かあったら、キャプテンが全部フォローしてくれるからです!」
目を丸くして俺の責任転嫁を耳にしたキャプテンは、腹を抑え「くくく」と笑いともうめき声ともつかない音を漏らす。やがて上げた瞳に少しだけ浮かぶ涙を拭って「仕方ないね」と了承してくれた。
「後輩と監督の両方の要望にはキャプテンとして反対できないよ。後のフォローは全部僕に任せてアシカは点を取って来てくれ」
「はい」
元気よく返事をすると、びしっと敬礼の真似事をして前へ歩を進める。
さあ特攻と行こうか。そんな覚悟を決めてはいるのだが、俺の足取りは軽い。何しろ「楽しめ」って命令だし、後ろのフォローは全部キャプテンに任せているんだ。好き放題にやれる条件は揃っている。
全国大会で優勝候補相手に総攻撃だ、これで燃えなければ嘘だよな。
キーパーのキックでリスタートした俺達は、すぐにでもゴール前に持っていこうとする。こんな前がかりな総員突撃態勢なんて長く続けていられるはずがない。一刻も早くシュートに結び付けなければ失点の危険性は加速度を上げて上昇していく。
だからこそ、リスクの高いプレイはできない。そして安全なプレイでは前へは進めない。
相反する事情によって焦るほどに秒針は回り、じりじりと矢張のDFラインは下がっていく。これは責められない。カウンターを狙うスピードスターを相手にしてラインを上げ続けろというのは、殴られても顔をそむけるなと言うのに等しい難題だからだ。
判ってはいるが、時間の経過が俺達の敵だ。その敵を倒すためには多少の無茶は許容されるだろう。ギャンブルを打つと決めた俺は、大きく手を上げるとボールを要求する。
そしてボールを受け取ると、すぐさま俺は「味方のゴールに向かってドリブルをしながら下がって行った」のだ。
一瞬敵味方の区別なくぽかんとした阿呆面と固まった体をしていたが、その硬直が解けると怒涛のように舞台は動き出した。今、俺からボールを奪えばオフサイドにはならないと皆が気づいたのだ。
まず、敵FWが凄い勢いで食いついてきた。その中にカルロスも含んでいるスピード自慢ばかりだ。残念ながらうちのDFは隙を突かれたのか、スタートダッシュで置いて行かれ二番手グループだ。
そこまで見届けるとボールをキーパーにバックパスして託し、俺は踵を返してまた駆け戻る。このパスは当然ながらキーパーが手を使う訳にはいかないボールである、従ってキーパーも足技で何とかするしかない。それに加えてこの状況であればオフサイドの心配もないので、敵のFW――特にカルロスなどはもうすでにキーパーを射程圏内に捉えようとしている。
だが舐めるなよ、うちのキーパーを。あのキーパーレスの馬鹿練習試合で二得点もした、キャッチよりシュートが得意なんじゃないかと首を傾げる少年だぞ。敵に詰め寄られたとしても前線へロングパスを通すことなど造作ない……はずだ。もしミスしても俺のせいじゃないからね! そう責任をキーパーに押しつけて、俺は前へ――点を取りに行く。
俺がセオリー度外視したプレイをしたせいで相手のフォーメーションが混乱している。まあ、味方も混乱しているんだが、それでもうちはチーム全員が「攻める」という意思統一はできているので収まるのも早い。
ゴールキーパーが俺からの無茶ぶりに応えて前線へと蹴ったボールを、キャプテンが確保し素早く山下先輩へ送っている。俺が無意味に思える後退で敵FWを釣りだしたおかげで中盤は穴が多い。普通ならば敵のMFが埋めているべきスペースも、さっきまではオフサイドラインに押し下げられていた敵FWが占めていたせいである。そこで一気にFWが敵陣へ飛び出していった物だから修正が間に合っていないのだ。
このチャンスを逃すわけにはいかない。山下先輩がボールをキープしたまま敵DFと対峙しているのに叫ぶ。
「山下先輩、強引にでも突破してください! ファールで止められてもフリーキックで俺が決めますから!」
この俺の叫びには山下先輩に指示する以外にも幾つかの意味がある。
まず理由その一は、声によって俺がここまで攻めに戻って来たことを先輩に伝える為だ。そしたら、ほら、山下先輩が俺にボールをパスしてくれた。
ここで俺が叫んだ第二の利点が顔を出す。それは強調された内容によって俺達への当たりが微妙に軽くなっているのだ。これまでの試合で二点はセットプレイから失っている。俺の叫びがそれを意識させたことで、ファールを犯したくないとチェックに躊躇いが生まれているのだ。そうだよな、誰だって同点のフリーキックを与えた戦犯だって後ろ指は差されたくない。
だがそれがこっちの付け目だ。一瞬の迷いを逃さずにボールを受け取ると遅滞なく突進する。スピードに乗りペナルティエリアのすぐ前まで来ると、一旦FWへボールをはたきそのリターンパスをエリア内でシュートしようとする。
俺へのマークがここまで甘いのは、これまでの意味不明な動きが役に立っているようだ。なにしろドリブルして最終ラインを越えて自陣へ戻り、そこからこの最前線まで駆け上がったりと捉えどころのない一見無駄な走りを繰り返している。その動きに相手のFWが釣られてしまったものだから、ディフェンスするには人数が足りないのだ。
もちろんその下敷きには下尾監督の「全員上がれ」という指示で、矢張SCがオフサイドラインをぎりぎりまで上げたせいで剣ヶ峰の防御戦術が混乱したことも関係している。
そこまでは上手くいっていたのだが、エリア内に侵入しようと一歩踏み入れた瞬間にキーパーが飛び出してきた。このままのタイミングでダイレクトシュートを撃てば例えループシュートでもキーパーの体にぶつかってしまう。
とっさにシュートしかけた足をずらし、踏みつけるようにしてボールを止める。そして素早く後方に引き付けると、突っ込んでくるキーパーに背を向けながらボールは体の回転に沿って回す。キーパーの目前でのルーレットだ。
ここはエリア内である。俺がゴールとキーパーに背を向けた状態で、しかもキーパーが指一本ボールに触れないまま俺に対して強くぶつかれば悪くてもPKはもらえる。
ここまでのシナリオは完璧だった。
ルーレットでターンしている俺の頬には笑みすら浮かんでいたかもしれない。その笑みが半ばまで回転した所で凍ってしまった。
なんでここにいるんだカルロス! お前はうちのゴール前にいたはずだろうが!
ゴールしようと集中したせいで、背後や鳥の目に隙があったとはいえ、どれだけのスピードでここまで戻ってきたんだこいつは。
とにかく今はルーレットをしている最中で、急に切り替えて他の行動なんてできない。カルロスが足を伸ばしてボールを奪おうとしても、ボールを引きずるように動かしている右足に力を込めて抵抗するぐらいしか道はなかった。
ボールを中心にした衝撃と鈍い衝突音が漏れ、二人のぶつかった右足の間からボールがぽろっと転がり出た。
まずい、このこぼれ玉を早く拾わないと。そう動きだそうとするが、もちろんカルロスも同時に反応している。
こいつと競争かよ! グチを吐き捨てても仕方がない。スタートしようとした足に軽いショックを受けて僅かにバランスを崩す。足下を見るとキーパーが止まれずにぶつかったのだが、これではPKを貰えるような当たりではない。このぐらいで倒れたら、俺の方がわざとPKを取ろうとしたとしてシミュレーションの反則になってしまう。それぐらい軽い当たりだったが、俺のスタートダッシュを遅らせるのには充分な効果を与える衝撃だった。
悔やむよりも一秒でも早くボールを……と見つめた時、すでにボールは新たな所有者によって全力で蹴られていた。
剣ヶ峰のゴールへと。
――キャプテン、ナイスシュートです。
「足利もカルロスも上がっているのに、僕がついていかない訳ないだろう。なにしろわがままな後輩にフォローを全部頼まれたんだから」
そう言って拳を握ると全力でここまで駆け上がったキャプテンは、肩を大きく上下に揺らしながら胸に拳を当てて観客席をちらっとだけ眺めた。
ゴールを決めたというのに、キャプテンはどこか恥ずかしそうなそんな控えめなガッツポーズしかとらなかった。
俺を含めて絶叫しながら集まってきたチームメイトが、祝福のために親のいる観客席前に連行しようと彼の腕を引っ張る。なぜかキャプテンが得点した場合にのみ、祝福の張り手による赤い紅葉が封印されるのは謎である。
そんな俺達に苦笑しながらも、抵抗せずに引っ張られていたが「あ、ちょっと待って」と一言告げて、キャプテンはカルロスとキーパーの前に立ち胸を張る。
「あんまり舐めないでほしかったな、僕はこれでも矢張SCのキャプテンなんだよ」




