第三十九話 ピンチをチャンスと思いこもう
尻餅をついたままゴールに入ったボールを見つめ口を開けていると、俺の肩をキャプテンに強めに叩かれた。
「何をぼけっとしているんだ。すぐに試合が再開されるぞ、気合を入れなおせ!」
「え、あ、はい」
いつになくきついキャプテンの語調にも生返事をしてしまう。ショックのせいかまだあまり頭が働いてくれていない。とりあえず起き上がろうとすると、足がふらついてもう一度尻餅をついてしまった。
しっかりしろと自分の足を叱咤する。交代したばかりでまだ疲労が溜まっているはずもないのに、がくがくと笑っている膝でなんとか立ち上がってはみたものの、これからどうすればいいのか判らない。
あれだけ簡単に抜かれてしまったんだ、俺がカルロスを止めるだなんて不可能に近いのではないだろうか。無謀な挑戦だったのではないかと、心の奥からまたどうしようもなく不快に軋む音が問いかけてくる。
次にカルロスがまたドリブルしてきたらどうするんだ? 止められないのが判っていながら止めようと形だけでも努力している振りでもするのか?
それとも応援を頼むのか? いやキャプテンと二人がかりで止ようとするダブルチームでも、普通にやったら一回戦の相手がそのディフェンスをカルロスにまとめてかわされたように時間稼ぎにもならないかもしれない。ましてや中盤に空く穴については隠しようもなくなる。だったら俺はどうすればいいんだ? 頭の中をネガティブな思考がぐるぐると回っている。
「速輝! 頑張りなさい!」
空転する思考が不意に鋭い声によって止められた。甲高いのだが耳障りではない、むしろ慣れ親しんだ声である。
――母さん来てたんだな。声の発生源を眺めると、スタンドの席で胸の前に手を組んで心配気な顔をして俺だけを見つめている。
大会に来るとは聞いてなかったから、こっそりとクラブの他の親達と示し合わせてやってきたのだろう。別に応援に来る必要はないと一応は断ったのだけど、それでもわざわざ時間をかけてきてくれたのだ。
――前世では親孝行は何一つできなかったんだよなぁ。だったら今度は息子がこのままうずくまっているような格好悪い姿は見せられない。
何とか自慢できるようなプレイを見せないと、母さんも俺自身も納得できない。って俺ってこんなにマザコンだったかなと苦笑する。そこで苦笑いとはいえ自分がまだ笑えるだけの余裕があるのに気が付いた。
スタンドの母さんの席から空に視線を移し、大きく息を吐く。なんとかマイナスの精神的スパイラルからは脱出できたが、これからどうすればいいのか指針がない。
そこに今度は矢張SCのベンチから野太い声が届いた。
「アシカ! あいつにはスピードじゃかなわない、お前の持っている技術でドリブルする前に何とかしろ! カルロスに合わせるんじゃなくて、自分のストロングポイントで勝負するんだ!」
随分とまあアバウトな指示だ。言うは易しで相手より優れている分野で勝負しろというのは基本的だが、カルロス相手にもそう上手くいくのだろうか。
俺が普通の小学生やカルロスなんかよりも有利な点は逆行したことによる経験ぐらいだが、ここまで絶望を覚えた経験なんて……あったな。
俺が「二度とサッカーをプレイする事はできない」と宣告された時に比べれば、この程度の困難なんか大した絶望とは思えない。
怪我をした時はサッカー選手に復帰するのは「不可能」だった。今は俺がカルロスを止めるのは「非常に困難」でしかない。なんだよ随分とハードルが下がっているじゃないか。
それにここでカルロスを止められないと選手生命が断たれるのか? そんな馬鹿な話はない。これからもサッカーを続けられるならこれもまた貴重な経験となる。
そうだ俺はいったい何を勘違いしていたのだろう。これがピンチなどであるものか。
この小学三年という時点で日本一、いやサッカー選手というカテゴリーならば世界でもトップクラスのスピードを持った選手と戦える機会なんてめったにないぞ。これほどの選手をこんなに早い段階で経験できるなんて願ってもいないチャンスじゃないか! こんな貴重なチャンスの最中に俺は何を立ち竦んでいるんだ?
状況は何一つ変化してはいない。三点差で負けていて、カルロスを止める手段はまだ見つかっていないままである。だが、この場から逃げ出したくなるようなピンチは、瞬きする間さえ惜しいチャンスの時間へと俺の心の中では大きく変化を遂げていた。
自分の心の持ちようで世界は変えられる、か。
さっきまでは薄暗く曇っていたかと思ったが、今日の雲一つない初夏のかんかん照りだ。どうも勝手に日差しまでビビっていた精神状態が陰らせていたようだ。しかし、大丈夫。今の空には一点の曇りさえ見つけられない。
センターサークルの向こう側にいるカルロスをじっと見つめる。さっきまでは俺に襲いかかる巨大な猛獣のようなイメージだったが、今はただちょっと背が高いだけの南国風の少年としか見えない。いやむしろ俺に多大な経験を積ませてくれる貴重なスパーリングパートナーのようなものだ。存分に彼の実力を味あわせてもらい、そして必ず越えてやる。
切り替えるまでは、微妙にふらついて心許なかった足にしっかりと力が入るようになった。カルロスから目を離すとキャプテンだけでなくチームメイト全員が――あの山下先輩でさえもが、俺を気遣うように眺めているのにようやく気が付いた。
どんだけショックを受けているんだよ、俺は視野の広さが自慢のはずだろうが。思わず苦笑して頭をかくと、ほっとしたような空気が流れる。いつもの仕草で俺が立ち直ったと安心してくれたらいいんだが、笑顔だけでは説得力が弱いかな。
そうだ、確か前の試合も気合入れる為にこれをやったよな。
ぱん、と乾いた破裂音が響いた。その発生源は俺の両頬である。思いきり両手で頬を張ることで気合を入れなおしたのだ。ただ、ちょっとだけ力を入れ過ぎたせいで若干涙目で頬は赤く紅葉が付いてしまったが、間違いなく喝は入った。
ピッチ上では聞くことのない音にチームメイト以外の周りからも注目が集まる。それらは無視して――あ、審判さんにだけはご苦労様ですと会釈をしておいた――心配をかけている人達に親指を立て、未だひりつく頬をつり上げてしっかりした視線を投げかける。
一般の観客からすれば訳が分からないだろう、為す術もなく抜かれて座り込んでいたMFが立ち上がるとサムズアップのポーズをとったのだ。だが判ってもらう必要もない。俺にとって理解してもらいたい人々は、ピッチとベンチとスタンドと居る場所に関わらず親指を立てるポーズを返してくれたのだから。
ここまで盛り上がってきたら、もう後はやるしかないよな。カルロスに対しても「かかってこい」とは上から目線過ぎたかもしれない。俺は何様のつもりだったんだろう。返ってここらで自惚れすぎないように、本物の才能と出会えて鼻っ柱をへし折られて良かったかもしれない。
俺はチャレンジャーなんだからこう言うべきだよな。試合再開のホイッスルと共にゆっくりと近づいてきたカルロスの正面に対峙すると、茶色い瞳を見上げて改めて宣言した。
「こちらからかかっていくぞ、カルロス」
と。
お前は確かに日本一速い小学生かもしれない。だが俺も日本一諦めが悪い小学生なんだ。そう、死んでもサッカーを諦めなかったほどにな。
◇ ◇ ◇
オレは三点差のついた試合に少し興味を失っていた。このゲームもまた昨日のように前半だけで交代だろう。こんなに簡単に得点できるのに、わざわざオレを呼ぶ必要あったのかな?
ま、日本で同年代となんかプレイをしてもどうせ誰もオレを止められないんだから、ちょっとぐらいは気分転換に遊んでみるのもいいけどね。
オレのマークについているチビを見下ろすが、こいつは本当に小さいな。横に並ぶとオレの方が頭一つは上に出ているぞ。でも体は小さいがガッツだけはあるみたいだな。
興味はないから相手のデータなんか知らないが、このチビの方がレギュラーだったのだろうか。
交代する前のジョアンは――ああ、ジョアンというのはブラジルで「太郎」のようなありふれた名前のことで、オレが尊敬している過去の名選手が、誰が対戦相手でも関係なくジョアン呼ばわりしていたのを見習ったのだ。まあどうせ名前を覚えるまでもないオレに抜かれるだけの存在なんだけれど、以前みたいに「やられ役」とか「石ころ」と呼ぶよりはマシだろう――オレがパスを受け取っただけでまた抜かれるのかと腰を引いて涙目になっていた。
だがこいつはあれだけ完璧に抜かれても「かかっていくぞカルロス」と目をぎらつかせて睨みつけてきやがる。うん、日本よりもどちらかというとブラジルにいた頃の近所にいたハングリーなガキと似た雰囲気のチビだ。
よし、喜びなチビ。このカルロス様がわざわざ遊んでやろうじゃないか。
ボランチから来たパスをしっかりとトラップする。リーチが違うためにチビの足が届かない所でゆっくりボールの操作ができるな。ボールを自分の得意な位置に置いて余裕を持って前を向く。
ふむ、さっきみたいにスピード勝負ならあっさり抜けてしまいそうで面白くないな。どうせならチビが監督に言われたようにテクニックで勝負してやるよ。
チビの頭越しにFWへ視線と顎をしゃくるだけで合図をする。
右へ抜くと思わせて、左へドリブルってこれもフェイントで、顔の向きと反対方向だったゴール前のFWへスルーパスだ。さんざんオレのドリブルに手を焼いていた相手には、突然のパスにカットどころか反応さえできないだろう。少なくとも日本国内ではオレのノールックパスは、パスミスとオレの意図を理解しなかったアホのFWのせいを除いて止められた事はない。
――だが、このチビは今までのジョアンとはちょっと違っていた。
日本人で初めて俺のノールックパスを止めたのはこのチビだったのだ。まるでオレが見ていない方向へパスを出すのが判っていたかのように、そして後ろにいて死角のはずだったFWの走るコースまで読み切ったような守備の仕方だった。
こーゆーオレのパスでさえカットされるようなサプライズが、たまにあるからサッカーは楽しいんだよな。
健気に抵抗するチビとこの試合に、ほんの少しだけ興味が湧いてきた。
確か「かかっていくぞ」とか可愛い事言っていたよなこいつ。
なら喜べ、オレのパスを止めたご褒美だ。
「遊んでやるよ、チビ」
 




