第二十六話 へろへろでもボールを追いかけよう
「おーいアシカ。どうも計画通りにはいってないけれど、まだ大丈夫かー?」
こんなどこかとぼけた声で俺のスタミナ残量を尋ねてくるのは、もちろんうちの下尾監督しかいない。
「ええ、当然ですよ。これからマラソンにも出られるぐらいピンピンしています」
「おー、元気はいいなぁ。それで横になってぜえぜえ息してなければ信じられるんだけどな」
と言われるとおり俺はベンチの横で荒い息を吐いて横になっていた。芝の冷たい感触が背中から伝わり熱くなった体の熱を僅かとはいえ吸い取ってくれる。これで後頭部にちくちく刺さらなければ最高なのだが。寝そべるのはいくらハーフタイムだとはいえ少しみっともないかもしれない。だが、見栄えよりもまず体力を回復する方が先決だろう。
覗き込む監督もいつものとぼけた顔ではなくどこか心配げな表情をしているのだから、結構疲れて見えるのかもしれない。だが午前の準決勝でフル出場した先輩も決勝のスタメンには何人かいるのだ、俺一人が「もう無理っす」と根をあげる訳にもいかない。ましてや監督の予定と違って前半を終えているのに、まだ両チーム共に点がとれていないのだ。せめて先に一点とるまではピッチにいたい。
なぜ先取点にこだわっているかというと、我が矢張SCはどちらかというと攻撃よりも防御の駒が揃ったチームだからだ。そうでもなければ三年の俺を抜擢して攻撃のジョーカーにするはずがない。だから俺がいるうちに勝ち越しさえしておけば、後は逃げきる為に守備的能力に優れた先輩方と安心してバトンタッチできるって寸法だ。
でも決勝の相手チームも守備が堅いんだよなぁ。
決勝で戦っているのは以前にうちと対外試合をしたチームだった。そうお互いがどんなチームか良く知っているチームなのである。相手のチームの主力は代表候補にも名を連ねているキーパーで、彼を中心にDFがよくまとまっているんだよな。
今回も決勝まで上がってくるのに一失点しかしていないという鉄壁ぶりだった。反面攻撃力はさほど脅威ではない。それなのにフォーメーションからしてわざわざ決勝仕様でしかも俺達のチーム対策なのか、四・五・一のトリプルボランチといった前回の対戦よりさらに守備的かつカウンターよりにシフトしているのだ。イメージとしてはイタリアのカテナチオに近いだろう、もちろんあそこまでの完成度はないが。しかし、ここまで負けない事に徹したサッカーをやられたら、たった一点とはいえ取る苦労は半端ではない。
中盤の潰し屋が三人もいるおかげでプレッシャーはきつく、最終ラインもキーパーによって完璧に統率されている為に攻め手に困っているのが現状だ。まあ相手も守備に偏重しすぎていてカウンターも俺達にほぼ封殺されているんだが。
もしかしたら俺達が優勝候補を破った試合を見て、点の取り合いは分が悪いと割り切って引き分け狙いに近いこのフォーメーションにしたのかもしれない。
「後十分でいいからチャンスをください。相手を崩すアイデアがやっと出てきたんです」
「うーん、信用したいけどその様を見るとなぁ……。でもアシカと交代しても攻撃陣を活性化させられるタレントはうちにはいないしなぁ。仕方ない、最大限で後十分だ。でも無理だと感じたらすぐにピッチから下げるからな」
「了解です」
監督がしぶしぶ言い渡した返答に、ほっとため息をつく。正直な話まだ作戦はまとまっていない。だが、傲慢に聞こえるだろうが誰が俺と交代したとしてもあの相手から得点を上げられるとは思えない。それならば、俺の方がまだ可能性があると信じられるのだ。そのためにも空になった燃料タンクを少しでも補充しておくべきだろう。
目に入った汗をユニフォームの袖で拭くが、すでにぐっしょりと湿っていて拭いてもちっとも視界が晴れた気もさっぱりとした感じもしない。
霞む目でスコアボートにある時計を見ると後半はまだ始まってたったの七分という表示とアウト三十九番・イン六番という交代の札があった。……三十九番って俺じゃん! まずいぞ、とうとう俺を見限りやがったなあの監督! いや、確かにこの試合のプレイの出来では交代させられても仕方がないかもしれないが……。全力でのプレイには体力が心許ないからと抑え目にしていてこの様とは。
そこまで思考を進めて俺はまた背筋に氷片をあてられたように硬直した。仕方がない? 途中で引っ込められるのを仕方がないで済ませるのか? 何度同じ後悔を繰り返すつもりだよ。怪我で動けないとかならともかく、サッカーがプレイできるのに力を余らせた状態でピッチを後にするなんて恥ずかしい事はできないだろうが。
スタミナを使い果たした俺が交代させられるのも納得しよう、だがスコアレスドローの状態で引っ込むのは我慢できない。
残った体力を全てつぎ込んででも最後のワンプレイに賭けるんだ。
カウンター狙いの敵のロングキックを蹴る目の前でキャプテンがスライディングで防ぎ、大きくボールが相手陣内へ飛んでいく。DFラインの後ろにまで弾かれたボールを取りに行くのは誰一人としていなかった。俺以外には。
ボールがピッチから出ればその時点で俺はもう交代されてしまう。だから「届かないかも」と心のどこかで思いつつも転々とゴールラインへ転がっていくボールを追いかける。ここでちょっとした幸運があったとすれば、蹴られたボールがキャプテンの足に当たって上に大きく弾んだという事で角度的に下からすくったようなスピンがかかる――つまりバックスピンが弱いながらもかかるという事だ。
ゴールラインまでもう少しという所でバックスピンにより玉足が弱くなる。だが、俺以外の皆が「アウトだ」と判断したボールである、今にもピッチから出てしまいそうだ。
全力でダッシュする俺を追いかけるのは敵味方の呆れたような視線だけだった。「追いつける訳ないじゃないか」そう誰もが無言の内に態度で示している。彼らにとっては俺の必死の走りも交代前の「こんなに頑張りましたよ」というアピールにしか見えなかったのかもしれない。ボールが弾かれた瞬間に鳥の目で「計算上は届く可能性がある」との答えを出した俺一人の他は皆が足を止めていた。
だが計算上は届くとはいえ、俺の持つ最高速でかつ最短距離を走れば追いつける可能性があるというだけである。ガス欠の体に更なる負荷をかけたためにその代償は大きかった。
足に鉛が貼り付いたように重い。問題ない、動かなくなった訳じゃない。
肺が酸素を求めて焼けるようだ。大丈夫だ、呼吸が止まった訳じゃない。
未完成の体のあちこちからオーバーヒートの警報が鳴り響くが俺はそれに注意を払わない。足が本当に動かない状態を覚えているから、呼吸ができない状態を体験しているから。前世の俺を襲った理不尽な苦難は、今確実に俺を強くしていた。
ゴールライン三十センチ前でボールに届いた。その時になってようやく他のプレイヤーが慌てて動き出しやがった。
遅いよ。鳥の目で確認してもうちのチームは誰もゴール前まで上がっていない。クロスが上げられないじゃないか!
ダイレクトでクロスを上げるのは無理と判断して、ボールを踏んずけるようにして止める。
ボールは何とかラインぎりぎりで停止したが、トップスピードにまでのっていた体は急には止まれない。ましてやボールを止めるために片足を使ったのだ、急ブレーキの反動で上半身が前につっこんでピッチの外にまで吹っ飛んでしまう。上手く受け身を取るために一回転までしてようやく停止ができた。
だが、低くなった視線の先には敵のDFが迫ってきている。そりゃ味方だけでなく敵も追いついてくるか。立ちあがってからキックする余裕はないと判断して、倒れたままの姿勢で手で尻の位置をずらしてスライディングキックの格好でゴール前へ上げる。
こんな状況でも俺が鳥の目で確認したフリーの選手の中で、最も信頼できる先輩の下へとボールをつなげる。
「山下先輩! 任せましたよ!」
◇ ◇ ◇
アシカが俺の名を呼ぶのを聞いて一瞬耳がおかしくなったかと思った。あいつが誰かの名前を出して「任せる」だなんて言った事は今までなかったはずだ。せいぜいが「先輩」とか「ゴール前に詰めろ」と年上を一括りにして誰でもいいからゴールに押し込んでくれって指示していたぐらいだ。
そのぐらい年下のくせに上から目線のチビなんだ。おそらく自分では気が付いていないだろうが、無意識に俺を含めたチームメイトを年下扱いしているに違いない。時々学校の先生が生徒を見るような「やれやれ、しょうがないな」って目でふざけている俺達を見ている事があるのだ、とても俺より二学年下とは思えない。
たぶんあいつが認めているのは俺やキャプテンぐらいじゃないのかな? 他は例えスタメンや同級生でさえ名前を憶えているのか判らんほど自然にアウトオブ眼中な行動をしている。それが、別に見下しているんじゃなくてサッカーだけしか目に入ってないのだと皆が気が付いているから問題になってないが、くそ生意気だと思っている上級生は俺だけじゃない。
そんな異常にプライドが高いアシカが俺を名指しで「任せました」だと?
「仕方ない任されてやるぜ!」
ほとんど寝ていた体勢からのパスのはずなのに走り込んで来た俺の足元にピタリと送られた。こういう所は新人離れどころか小学生離れしているよな。それはまあとにかく。
俺がエースだって証明の為にお前等DFとキーパーは引き立て役になってくれ! ダイレクトでボレーを放つ。ゴールラインぎりぎりからのマイナス方向への折り返しだったために自分に向かってくるようでシュートしやすくはある。さらにあれだけの深い位置からならばオフサイドになどなりようがない。
落ち着いて足で蹴るというよりは当てる感覚のシュートは、代表候補のキーパーでさえ動けない程鮮やかにゴールの中へ吸い込まれた。
ガッツポーズをとって、右手の人差し指をアシカに突きつける。
「見たか、これがエースの力だ!」
と一番俺の力を見せつけたい後輩に見得を切る。指さされた生意気な後輩はにやっと笑顔を見せると座ったままで拍手をする。うむ、俺の凄さを理解したようで大変よろしい。
満足して頷くが、そのまま立ち上がろうとしたアシカが顔をしかめて崩れ落ちた。げ、どうかしたのか?
祝福を口実に頭を叩こうと集まってくる悪魔のような軍団に向けて、指さしした格好のまま叫ぶ。
「アシカが倒れた!」
声が裏返ったのは別にアシカの心配をしたからじゃなくて、頭を叩かれるのを避けようと必死だったからだ。一番早くアシカの側までたどり着いたのも、集団から逃げだそうとしただけで深い意味はない。
別にこの生意気な後輩がいなくなったら全国は厳しいとか、一対一で戦える相手が壊れては困るとかそんな事は一切考えていない。本当だぞ。
だからアシカが慌てたように手を振って「なんともない」ってジェスチャーをして、むしろこっちにくんなと手で追い払うほど元気そうでも、その元気な姿にほっと安心したりして足がもつれたりはしない。これはちょっと疲れが出ただけだ。




