外伝 異国の地にて
これがスペインのスタジアムか。
伝統である真っ白な名門チームのユニフォームに身を包み、カルロスは満足げに唇をつり上げた。
そしてピッチの真ん中に立っていても耳鳴りがしそうなぐらい反響する歓声に、スタジアムの盛り上がりは上々だなと頷く。何しろブラジルの宝石とまで謳われる彼の満を持してのリーガデビュー戦である。
成年になるまで代表ではともかくクラブレベルではブラジル国内に秘蔵されていたカルロスについては、欧州では見る機会が少ないだけにどんどんサッカーファンの期待と飢餓感を煽り移籍金は高騰していた。
ようやく争奪戦に決着が付いた今季、彼が入団すると決まるとシーズンチケットとユニフォームの売上は記録的になったそうである。まだプレイをしていないにも関わらず、移籍金をペイしてしまいそうな勢いだ。
この満員になった観客にしても何割かはカルロスが出場すると聞いたためにチケットを購入したのだろう。
――ならたっぷりオレ様の妙技を見せてやらなきゃいけないな。
自信満々に俺様なアメリカンプロレスラーのような事を考えるカルロスの頭の中に緊張の文字はない。彼はこれまでブラジルでも同じようなスターとして注目を集める扱いを受けていたからだ。今更これぐらいのプレッシャーで萎縮するような柔なメンタルでは、ブラジル代表の十番を背負えるはずがない。
カルロスはこれまで慣れ親しんだ南米の芝よりも微妙に乾燥しているようなピッチの感触を確かめながら、ボールを使って足慣らしをする。
そのアップ中に遊び半分で彼が軽くリフティングするだけで観客席からどよめきが湧くのをどこかくすぐったく感じていた。
試合になればもっとプレイで湧かせてやるから、もうちょっとだけ待っていろよ。カルロスはそう考えながらピッチ全体を見渡すように首を巡らす。
すると今日対戦するチームに同年代の見知った相手を発見し、彼は獲物を見つけた時限定の牙を覗かせる獰猛な表情を作る。
これまでの楽しげな雰囲気からいきなり飢えた虎のようになったカルロスの存在感は、観客や敵だけでなく味方からの目まで集めてしまった。
「どうした、お前でもデビュー戦では緊張するのかカルロス?」
「いや、ちょっとテンションが上がってるだけですよ」
カルロスの放つ気配の変化に気が付いた年長のチームメイトから声をかけられると、彼には獲物から目を離して丁寧に返事をする。何しろ各国代表をずらりと揃えたこのチームのスタメンではカルロスが最年少なのだ、移籍早々にあまりでかい態度はとれない。
――まあ、これまでどのチームに行ってもそうなったように二・三試合もすれば勝手に周囲が「王様」扱いしてくれるだろうけどな。
これまでもチームに馴染むというより無理やりそのチームの王冠を簒奪してきた、強者である彼なりの思考法だ。
それにしてもほとんどのチームメイトと言葉の壁がないのは助かる。カルロスはその点についてだけは安堵していた。
スペインはブラジルの公用語であるポルトガル語とある程度の互換性があるので、会話に関しては問題がないのが嬉しい。彼が話せるのはポルトガル語と日本語の二ヶ国語だが、残念ながらサッカー界においては日本語はあまり重要視されていない。
だがブラジル人選手は世界中のリーグに広がっているので、とりあえずポルトガル語が喋れればサッカーをやるには問題がない場合が多いのだ。
そうして彼が周囲から一身に注目と期待を集めながら肉体と精神的に準備を整えている内にも時計の針は進み、試合開始の笛が鳴る。
この音は世界中のどこで聞いても同じの、カルロスにとっては仕事ではなく楽しい遊びが始まる合図だ。
――さて、プレイする場所が変わっても相手がジョアンばかりなのは変わらない。今日もオレのダンスパートナーを努めてもらおうか。
カルロスはもともと対戦相手についてあまり研究をするタイプではない。自身のコンディションとパフォーマンスを高めればそれだけでゴールという結果が出せているからだ。その為に敵は特に気になる相手以外は全員が「ジョアン」でしかない。
あと少しだけ注意しているのは、最初ぐらいは一応監督の指示に従っているように見せる振りはしなければならない事である。監督の不興を被ったら試合に出してもらえない可能性があるからだ。
でもこのデビュー戦で引っ込められる前に実力を示してしまえばその心配はなくなる。例え嫌っていようともゴールとアシストを連発する選手をベンチに置いておくような監督はいない。次第にカルロスの特性に合わせたチームにしていくしかないのだから。
そんな風にあまり敵や味方に関しても興味の薄いカルロスである。ただ、彼が気にしていたどこかで見た日本人選手は記憶違いでなくちゃんと敵チームのスタメンにいたのだ。
試合開始早々彼の目の前にやってきたこの少年である。
カルロスは目の前の自分より頭一つ小さい相手を好戦的なきつい視線で刺す。
おそらく見上げている日本人の彼も身長が伸びたのだろうが、それ以上にカルロスが大きくなったせいで却って元々あった身長差は広がったようである。
彼と直接言葉を交わした回数は少ないが、カルロスにとっては母国の片割れである日本の代表選手だった。
こいつもこのスペインのリーガ・エスパニョーラへ来るとはな。カルロスにとっては意外だったが、確かにこの少年の個性的で攻撃的なプレイスタイルはこのリーグ向きかもしれない。
そう言えばこいつはUー十五の大会ではかなりゴールも決めたんだっけ。もしかしたらそれが評価されてスペインのクラブに獲得されたのかもしれないな。そう思い出すとカルロスの気合いも入るってものだ。
――久しぶりの顔合わせだな、楽しませてもらおうか島津!
どこかで「え? 俺じゃないの?」と驚いた声がしたような気がする。試合中にここにはいない生意気なもう一人の日本人の幻聴がするとは、自覚していないがカルロスもデビュー戦に高ぶっているのかもしれない。そんな彼の至近距離まで島津がやってきた。
「おいおい、お前のポジションはここじゃないだろ。それともお前がこのオレを試合マークするのか?」
しばらく使わなかったせいで硬くなった口調の日本語で島津に喋りかける。しかし、島津は自分に守備を要求するとは戯れ言だなと切って捨てた。
「カルロスへ果たし状を差し出そうと思ってな」
「……なんだやっぱりお前がマークするのか。俺を止められるつもりなら随分と思い上がってるじゃないか」
まあ他の知らないジョアンを相手にするよりはいいか。そう思いかけたカルロスを島津が制止する。
「いや心得違いをするな」
「は?」
「この試合、俺の方がお前より点を取ると言ってるんだ」
――ははっ、ディフェンスのサイドバックが攻撃的ポジションのトップ下にいるオレ以上にゴールするつもりなのかよ!
カルロスの知っていた真田や石田みたいな真面目が取り柄だった奴らとジョアンだけしかいなかった日本代表はもう存在していないみたいだ。
もう国籍が日本ではなくなってしまった天才は僅かに寂しさを感じる。
こいつに上杉やアシカといった個性の強いオレでも名前を覚えるぐらいの奴らが昔の代表にいれば、オレの日本での生活ももっと楽しかったのにな、と。
◇ ◇ ◇
ハクション、俺は手で押さえる間もなく大きなくしゃみを一つする。続けざまにもう一発。
むう、これから試合が始まるのに縁起が悪い。誰か俺の噂でもしているのだろうか。
「どうしたアシカ? 風邪か?」
「ああ、いやなんでもない」
ドイツ語でかけられた声に俺は勉強中のまだぎこちない発音で答える。できるだけ正確に話そうとするせいで、喋りはかなり遅くなるが勘弁してもらおう。
それにしても異国へ来ても呼びかけられるあだ名はアシカのままなのがちょっと残念である。
でも「アシカ」という俺のあだ名は数年前のU―十五の世界大会以降サッカー界では広まってしまって、今更変更するのは難しい。
ま、日本ではもうクラスメイトや仲間だけでなく、マスコミに出る場合でも皆が俺の事をあだ名で呼んでるから諦めるしかない。無名よりはマシだと割り切ろう。
さてくしゃみの後ちょっと鼻をすするが、鼻水や熱と言った風邪の兆候はないな。
「二回くしゃみをすると悪い噂だそうだから、また顔見知りの元監督なんかが俺の事をけなしているのかもしれないな。ちょっと気を付けておかないと」
「そうなのか? うちでレギュラーにまでなったアシカに文句をつけるとは、また厄介な知り合いがいるもんだな。でも普段通りのお前のプレイを見せれば悪く言ってもそれに乗せられる奴はそれほどいないだろうから、気にする必要はないだろう。しかし、さっきお前が言うように日本では二回のくしゃみは悪い噂なのか。こっちではくしゃみを二回続けたら何かプレゼントが貰える予兆って話だがな」
「へえ、国によって随分違うもんだな」
俺が感心したように頷くと、皇太子もドイツと日本は気質は似てるんだがさすがに迷信までは似てないなと苦笑する。
このチームに所属してから知ったのだが、彼は俺が勝手にイメージしていた頑固なゲルマン民族の典型というものもよりずっと明るい性格だったようだ。
だが、他のチームメイトからは「皇太子はアシカと同じチームに居て能天気に染まってしまった」という意見が圧倒的である。どうやら俺がチームに参加するまで彼はもっと王道のDFであって、リベロとしても攻め上がるのもずっと控え目だったそうだ。
しかし俺が参加してから明らかに皇太子の持ち前の得点力に磨きがかかっている。
加えて世界大会でベストイレブンに選出されるレベルだった守備力までもがぐんぐん上がり、一対一で抜かれるような場面はほとんどなくなっていた。勿論それは対戦相手がプロでも、という条件でだ。
結果的に皇太子はDFでありながら守備が評価されるだけでなく一層攻め上がる機会とゴール数が増しているのだから彼が最近機嫌が良いのも当然だろう。
ただこれには裏話があり、俺が前でしっかりとボールキープとタメを作れるから安心して自分もオーバーラップできるんだと皇太子は言っていた。
ここでちょっと嫌なことを思い出す。
もしかして島津なんかが頻繁に敵ゴール前に上がっていたのには、俺のプレイスタイルも影響していたのだろうかと。
以前に頭を痛めていた日本代表が変態的なまで攻撃に傾いたチームになった責任の一端はどうやら俺にもあったようだ。うう、俺はあのチームではアンカーだった石田と並ぶ常識的な人間だったつもりなのに。
「体調管理はしっかりと頼むぜ、今度のオリンピックではお前達日本代表とまた戦うのを楽しみにしているんだからな」
「ああ、俺も楽しみだよ。でも心配せずともドイツが勝ち上がっていけばいつかは当たるよ」
「……そりゃ楽しみだ」
言外に含ませた日本が途中で負けるはずがない、ドイツの方こそ大丈夫なのか? という問いに皇太子は唇の端を緩める。
代表で彼の相方とされるドイツの新型爆撃機もすでに若手ながらトップリーグで得点王候補に挙げられるほど成長を遂げている。この誇り高い青年は、今再戦すれば間違いなくリベンジが達成できると考えているのだろう。
やれやれ、世界ってのは広い。
U―十五でやっと世界の頂点に立ったかと思ったのだが、どうやらあれは単なる上のステージへのパスポートでしかなかったようだ。
俺が戦っているドイツのブンデスリーグの若手だけ考えても皇太子や新型爆撃機の他に、爆発的なキック力を保つ「戦車砲」という異名のシューターや、一人で広大なスペースをケアして入り込んだ相手の足を吹き飛ばす「地雷原」といった敵だけでなく味方にまで被害を及ぼしそうなおっかないアダ名の奴らが顔を揃えている。
……ところでなんでドイツは軍事系の異名が多いんだろうな。
オリンピックに出場を決めている国の中では、俺達の代ではやたら日本と縁があるブラジルは勿論相変わらずタレントの宝庫である。
他にも以前戦ったイタリア代表などは、伝統の守備はカテナチオの守護神の後継として赤信号がますます威圧感を増した以外にも攻撃のキーマンが生まれているそうだ。最後のファンタジスタとして美しいパス技術を喧伝されているトップ下の「ピッチに描く印象派」という画家のような異名のセリエAで話題になっているらしい。
スペインにしても支配率なら世界一と称される華麗なパスワークだけでなく、前線の核になる長身の「灯台」を名乗る大型FWが無敵艦隊の編むパスの目的地とフィニッシャーになってゴールを量産している。
各国が誇る名手達はほどよく中二病的に格好良く、名前を聞くだけで早く戦ってみたいと思うような面子ばかりだ。俺の「ピッチの道化師」や「アシカ」なんかももっとこう強そうな奴に変えられないだろうか。
そんな馬鹿な事を思うほどライバルは多い。うかうかしていると以前の同世代で世界一だったはずの俺達は置いていかれかねないな。
これからの俺の予定は代表ではオリンピック、そしてクラブではドイツ国内のリーグ戦とチャンピオンズリーグ。休む間もないほど戦う場は多い。
ドイツへ居場所を移そうともまだサッカーボールに触れると自然に洩れてしまう笑みを浮かべ、俺はまず自分の戦場であるピッチへ向かった。
この先にある大きな大会よりも目の前にある試合が楽しみで仕方ない所が、さんざん幼馴染に言われる子供っぽい部分なんだろうな。
でもこの幼く青臭いサッカー小僧である部分を失わないのが、技術や鳥の目以上の俺が持つ強みなんだと思う。
強敵と戦うってのにプレッシャーがかかるどころか、胸を躍らせているなんて我ながら相当にタフでポジティブな神経になったよな。ここまで成長できたのは心のどこかに子供のような楽しむ余裕があったからこそだ。
そしてこれからは、もっと厳しくもっとわくわくさせてくれる世界が俺を待っているはずである。
「そのために今日も楽しく激しく怪我しないように頑張りますかね」
小学生時代から変わらぬモットーを口に出し、まずはこれから自分が出場する試合に全力を尽くそうと決心するのだった。




