エピローグ
「くー、なんか日本に帰って来てからの方が、イギリスで試合してるよりも疲れるな。凄ぇ肩が凝ってるぞ」
首を回した後に昇ったばかりのお日様へ向けて思い切り背伸びをすると、自分でも驚くほど背中と肩胛骨の間から関節の鳴る音が連続した。しかもいつも伸びをした時に出るような軽い音ではなく、どこか重量感のある鈍い響きである。
う、これはマズい。今朝はいつもより更に入念にストレッチをして体をケアしないと。相当筋肉と関節に疲労が溜まっているな。
「うわー、なんだかヒーローが最初に出てきた雑魚敵を倒す時に指をボキボキ鳴らすみたいな音がここまでしたよ。相当凝ってるねぇ」
なぜか日本に帰ってからは、ずっとと言ってもいいぐらいよく一緒にいる真が俺の背中から鳴る音に目を丸くする。
ただでさえこの幼馴染の瞳は大きめなのだ、今みたいに眼鏡のレンズ越しに見開くと本物の少女と言うよりもちょっとデフォルメされた精巧な人形が動いているような印象だな。
朝練にもドリンクの差し入れだけでなく、なぜか最初から付き沿うようになった彼女がぽんぽんと俺の背で嫌な音がした部分を赤ん坊をあやすように叩く。
子供扱いするなとも思うが、それでも小柄な真の細くて柔らかな手で労られるとちょっとは肩の凝りが楽になった気がするから、まあいいか。
今日は世界大会で優勝して日本へ帰ってから四日目で、時間はいつもの朝練をする日が昇り始めたばかりの早朝である。
ようやく昨日になってから朝も普段通りの練習を始められるぐらい余裕ができたのだ。
初日の時差ボケで起きれなかったのは仕方ないにしても、次の日は完全に予定外だったな。
ワイドショーに出演するのなんかVTRを除けば一分もなかったのに、いつも以上に早起きさせられたのだ。しかもそのうちの九十九%はずっと待機してるだけの時間だったもんなぁ。
その上俺はカメラに映されたほとんどがにこにこして笑顔を作っていただけだったし。
あれ、わざわざ録画じゃなくライブでやる必要なかっただろ。
俺への雑な扱いはともかくとして、試合以外でテレビに露出するようになった事からも判るように、U―十五の世界大会で優勝したのは結構話題になったらしい。次の日から俺やチームメイトの周辺は随分と騒がしくなってしまったのだ。
イギリスにいてもサッカー関係者や知り合いからお祝いのメッセージが頻繁に伝えられたのだが、帰国してからはそれまでの比ではないくらい周りが騒ぎ立てるのだからたまらない。
小学生時代に所属していた矢張SCの下尾監督やキャプテン、チームメイトまでは判るさ。俺だって彼らにお礼の電話やメールするのは楽しかったしな。
でも名前を言われても思い出せないような薄い知り合いやマスコミ関係者から、一斉に遊びのお誘いや取材要請をされても、その、困る。
特に「倒れた松永前監督に一言お願いします」なんてマイクを向けられても「松永さんお大事に。入院中はもう俺や日本代表の応援をしようだなんて無理はせずにゆっくり休んでください」としか答えられなかったぞ。
ただ「もう俺の応援はしないでくれ」ってのは真から日本での放送事情を聞いてから、心底から松永に対して頼みたくなった本音だ。松永がまた元気になるのは構わない。だがこれから先、もしも彼に「頑張れアシカ、怪我にだけは注意するんだ」なんて応援された未来を予想すると、ちょっとぞっとしてしまうからな。
ぶるぶると水に落ちた犬のように頭を激しく振って嫌な予感を追い出す。それだけで俺にとってはあまり愉快な人間でない松永前監督関係をすっぱり忘れることに成功した。
この切り替えができるかどうかは結構重要である。世界大会に出て少しは名が売れたが、周りの騒ぎから判るようにそれは良いことばかりではない。
ここまで来るとスルースキルや積極的に嫌な記憶を脳裏から消す技術は必須なのである。マスコミやネットにいい加減なことを書かれても気にしないようにしなければ、どんなタフな選手でも潰れてしまうからだ。幸い俺は二度目の人生を過ごしているだけにそう言った面での精神年齢は高い――はずだよな。最近どうも自信がなくなってきたが。
とにかくある程度は「有名税さ」と笑って済ませるだけの余裕がある。でも喧嘩っ早い代表のチームメイトの中にはそういった大人の対応ができるのかが心配な奴もいる。そう言えばあいつらは確か……。
少し前まではずっと一緒にいた代表のチームメイトの事を考えていると、現在隣に並んで公園までゆったりとしたランニングを共にしている少女が「私を無視するな」とばかり袖をくいくいと引っ張ってアピールしてくる。
真は軽やかな足取りで俺の正面へ回り込むと、後ろ手を組み上半身を少し折り曲げた。そして俺からすればたったこれだけの距離を走っただけなのに息遣いを荒くしながらも上目遣いで尋ねる。
「それで、アシカは、どこで、プレイするか、決めたの?」
「うーん、結構誘いはあるんだけど少し迷ってる。ユースの監督なんかできればまだ残って欲しいって言ってるけど、海外へ挑戦するなら要求した条件を満たしているオファーを出したクラブだったらオーケーだって。
俺からしたらやっぱり若い内に海外で経験を積みたいんだ。で、せっかく英会話の勉強をしていたからその意味ではイギリスのプレミアリーグがいいんだけど、あそこはEU以外の選手はビザを取るのが難しいらしいし」
「んー、色々、あるんだ、ね」
まだアップの一環としてのゆったりとしたジョギングで体を暖めているていどだが、それでもぜいぜいと言っている真に合わせるためスピードを更に落とす。これではほとんど速歩きと変わらないぐらいだ。
もしこのスピードにもついてこれないなら、インドア派とはいえ真は運動不足にもほどがあるな。明日からは最初のアップからではなく途中参加にしてもらおうか。
少しずつ息が整ってきた彼女をちらっと観察しながら、そりゃヨーロッパの事情は複雑怪奇だと解説しながら肩をすくめる。
でもそういった事情を飛び越えてさっさと決めた奴らもいるんだよな。
「まあ、代表で一緒だった中には海外のユースへ行くって決めた奴もいるみたいだが」
「あ、もう決めちゃった人がいるんだ。決断早いね」
どこか焦った風な真の様子に首を傾げながら、明智経由で回ってきた情報を教える。
「ああ一番早かったのは上杉だったそうだ。なんだか知らないけれど「格闘技の本場から誘われたら、背を向けられへんやろ」ってオランダのクラブへ行くそうだ。「ワイより強い奴に会いに行くんや」って言ってたそうだけど、あいつ大丈夫かな? ま、理由はともかく確かにオランダって伝統的に攻撃が強いイメージはあるし、ラフプレイにも寛容な感じであいつには似合ってると思うけど」
「へ、へぇ。えっと上杉君は本当にサッカーをしに行くんだよね?」
相変わらず理解不能だったエースストライカーの行動に、眉を寄せている困惑しているらしい真。そうだろうな、俺にもあいつの行動原理はよく判らん。
一応昨夜の内に電話で確認はしたんだが「安心しろ、ワイはもっと凄いストライカーになってチャンピオンとして帰ってくるで」と答えていた。
……ストライカーってサッカー用語以外ではパンチやキックを撃つ打撃系格闘家を指す事もあるがきっと考えすぎだよな。チャンピオンってチャンピオンズリーグの事だよな? あいつの後ろでゴングが鳴る音やサンドバッグを叩いているような音もしたが、いったいあいつはどこでトレーニングしているんだろうか。
数々の疑問が浮かんだが全てスルーした。うん、きっと大丈夫だ。根拠もないがそう思う。
まあ、あいつのことだからどこに行っても元気にシュートを撃ちまくるのは変わらないだろうし、俺が心配をする必要はない。
次に上杉に対面する際にも彼がまだフットボーラーであることを祈りつつ、もう一人海外へ行くのを決めた奴を話題に出す。
「ええっと、次に島津だがスペインのクラブへ行くらしいぞ。でも最初はそのクラブの幹部から「あの島津って右ウイングが欲しい」「島津はサイドバックですが……」「あ、失礼選手名を間違えたようだ。また確認してかけなおす」って会話を何度か繰り返して話が進まなかったらしいぞ。背番号と名前を何度も確認してようやくあいつのポジションがサイドバックだったと納得してもらったらしい。それから後はスムーズに話は進んだみたいだけどな。あの二人の決断力もあるが、やっぱりクラブに所属してないと交渉は選手の意志だけで決まるから早い」
そういった意味では学校の部活に所属している奴らはフットワークが軽い。ある意味外国への転校と同じような形であっさり海外へ行けるからだ。でも俺のようにユースに入っていると選手個人だけでない利害関係が絡んでくるからちょっと交渉が面倒になるのだ。
勿論俺だってこれまでクラブ側から提供された充実したトレーニング施設や指導者なんかの恩恵を受けとっているから、こうした場面では今いるクラブにも配慮しなければならないのは当然ではあるが。
それでもやはり面倒だとの本音は押し殺せない。
もし自分だけの意見で決められるならどこがいいか想像してみる。
これから先の世界の趨勢を考えると、イギリスのプレミアリーグにスペインのリーガ、ドイツのブンデスなんかがいいだろうか。
しかしこうしてみると、意外に英語はサッカー界では世界共通言語ではないのに気づく。
むう、どうせ勉強しなくちゃいけないならスペイン語とも互換性の高いポルトガル語を習えば良かったかな、それならヨーロッパのスペイン語圏内だけでなくブラジルやアルゼンチンなんか南米の選手やチームとも話せたし。
いや、語学はどこ行くか決めてから改めて学べばいいだけか、別に英語が話せるようになっても損した訳じゃないしな。そう俺は気を取り直す。
他の諸条件は無視して、まずはサッカー関連で一番条件が良いところを選ぶべきだろう。
俺が百面相をしていると「どうしたの?」と説明を求める真。今日は追求が厳しいなぁ。
どうやら習う言語を間違えたらしいと話すと「そっかぁ」と頷いた。
そして立ち位置を俺の前から隣へと変えてそっぽを向くようにして顔を逸らして提案する。
「んー、だったら私がポルトガル語を習ってあげようか?」
さらりと真が口に出した台詞がなぜか俺の背中に冷たい物を走らせる。え? なんで真が勉強するんだ? そしてこの寒気をどうしてここで感じるんだ? これはピッチ上で時折感じる試合を左右する失点の危機を知らせる信号だぞ。
何となくマズい、それだけしか判らない。
肩を並べて話しているのに真っ正面を向いて不自然なほどこちらへ視線をよこさないようにしている真に対し、危険信号を感知した俺は不誠実な対応をすることにした。
「え? 今、真は何か言ったか?」
耳を真っ赤にしてしばらく明後日の方角を眺めたまま、固唾を呑んで待っていたらしい真は俺の返答で再起動する。
「べ、別に何も言ってないよ! ほ、本当に聞こえなかったのかな? ……んーと、あ、そうだ! アシカは外国のクラブに行くって決めてるみたいだけど大変じゃない?」
「う、うむ全然聞こえてないぞ! えーと、それに世界一のサッカー選手を目指しているんだからちょっとぐらいの大変さは覚悟してるよ。でも世界一高い山へ登るなら厳しくて当たり前だろ? むしろ簡単だったら拍子抜けして落胆するぞ」
真はしばらく声には動揺が混じっていたが、喋っていると最後には声も落ち着いていたな。俺の返答に少し呆れたように細い肩をすくめる。
ふむ、それに対する俺の態度も堂々として動じた素振りを欠片も見せていなかったしな。聞こえなかったという鈍感な振りという逃げが良かったのか、もういつもの快活な幼馴染の女の子に戻っている。
でもやっぱりそんな俺の態度に腹を据えかねたのか、薄く影のある笑みを浮かべて真はトゲのある言葉を口に出す。
「まったくアシカったら幾つになっても、初対面の時と同じ子供の頃とちっとも変わらないサッカー馬鹿だね」
「うん、そうだな」
自覚はあるだけに彼女の辛辣な意見に頷かざるをえない。
だが、たぶん答える俺の口元はボールを扱っている時と同じ笑みを浮かべていただろう。
ちょうど今、俺が見据えるその視線の先にいつもトレーニングに使っている公園の中に少年達の姿を発見したのだ。あそこでボールを使って遊んでいるのは間違いなく俺と同様のサッカー馬鹿達だよな。
先に公園にいるのは山下先輩と小学生の時所属していた矢張SCのキャプテンの二人である。最近は彼らとここで会うこともなくなっていたが、今日は久しぶりに朝練への参加を希望しているようだ。
ははっ、何だよ。俺だけでなくあいつらだって、いや他にも日本中――いや世界中にサッカー馬鹿はたくさんいるじゃないか。
それも仕方ないよな、サッカーってこんなに楽しいんだから。
胸を張って真に本音を告げる。
「たぶん俺は幾つになっても、いや何度人生をやり直したとしても、ずっとサッカー小僧のままだ。それだけは間違いないぞ」




