第八十四話 画面越しの敵も倒そう
「ああ、またブラジルが強引に攻め込んで来たぞ! 危ない、ここは何とかして守ってくれ! よし、真田が体で止めたぞ、ナイスブロックだ! ……こほん、えーと残り時間は僅かです、ぜひ最後まで頑張ってリードを保持して欲しい日本。世界の頂点を目指してピッチにいる全員が魂のディフェンスを見せています!」
「ええ、ここからが本当の実力が試される場面ですよ。あれだけ私も目をかけていたのですから何とかこのぎりぎりの時間帯に真価を見せてもらわねばなりません! それにロスタイムはまだまだ残っていますからね。ここで焦らずにじっくり行くのが肝心ですよ」
ロスタイムに入ろうとする時間帯、我を忘れかけた絶叫調のアナウンサーに比べて解説の松永は冷静だ。
あるいはそう装っているのか、表情筋は動かさないようにしているが画面に映らない彼の背中からは紺のスーツが黒く染まったように見えるほど汗をかいている。
そして、どうにも松永の言葉は素直に日本代表を応援しているアナウンサーのそれとは微妙にズレている印象が付きまとっている。
そんなぎこちない解説を続ける松永の血色の悪い顔をちらりと眺めて、アナウンサーは残り時間が少なくなって煮詰まりだした試合の実況を続ける。
「ああ、コーナーキックからのこぼれ球を拾ったエミリオのループシュートが……いや! 防いだ! 防ぎました。敵のゴール前以外では働いたら負けかなとインタビューで答えていた上杉が、驚いたことに日本陣内でキーパーの後ろという背後霊のようなポジションで守ってクリアしました!」
「なら上杉は負けですよ。私は言ったことを守らない奴は嫌いですね」
「そんな意地悪を言わないでも、松永さんだって結構……っといけない! そのこぼれ球にカルロスが!」
「来たー!」
緊張感溢れる早口の実況をするアナウンサーと、ちょっとずれたタイミングで日本のピンチなのになぜか喜色を滲ませてハートマークが付きそうな声を張り上げる解説者。
「いや、ここで足利だー! 小柄なゲームメイカーがコースに割り込んでブラジルの宝石より先にボールに触れてクリアしました!」
「あ、足利ぁ……あいつはやってくれますねぇ」
「ええ、この日本代表で最年少の指令塔はやります。彼は大会を通じて完全にブレイクしましたね。今日もアシストに得点にそして今みたいにディフェンスにと大活躍です!」
興奮してしだいに紅潮するアナウンサーに比べどんどん松永の顔色は悪くなっていく。日本が有利な状況にも関わらずどこか苛立ちを隠しきれない雰囲気だ。
そしてリードしているとはいえ一方的にブラジルに攻められっぱなしの、鉄板の上で焼かれているようなじりじりする時間が過ぎていき、ようやく実況室でもおそらく一人を除いた日本陣スタッフの全員が待ち望んでいた試合終了のホイッスルが鳴り響いた。
「ここで試合終了です! ついに若き日本代表が世界の頂点に立ちました!」
「そんな……信じられない……」
アナウンサーの歓喜の叫びと解説役の呻き声は好対照だ。
終了の笛で雷に撃たれたかのように体を硬直させた松永の口からは掠れ声が漏れ、目は潤んでいるというより充血している。
「いつもは厳しい松永さんまでもが信じられないと泣いています。一時は苦楽を共にした教え子達の晴れ姿に感無量なのでしょう」
「まさか……いや、きっとこれは夢に違いない」
「いいえ現実ですよ! 日本が夢にまで見た優勝です!」
テンションが上がりっぱなしなアナウンサーと正反対な様子の松永解説者である。そしてアナウンサーに現実だと念押しされた松永の目が、ふっと焦点を失ったように虚ろになるとぐらりと上体が揺れた。
「う……」
喉の奥から絞り出したような呻きを残すと、上半身だけが映るように撮影されていた松永は画面の下へ消えていく。
どうやら椅子からずり落ちたらしい。しかし、ただバランスを崩して落ちたにしては直前の彼の態度がおかしかった。
まさか何かの発作でも起こしたのだろうか? 周囲の関係者の頭には嫌な予想が駆け巡った。
松永が今ピッチで優勝カップを受け取ろうとしている代表チームから身を引いた表向きの理由は健康上の問題だったのだから。
実況席でもさっきまで解説をしていた人間が倒れたのに混乱しているのか、画面が上下に揺れて動きが定まらない。
映像が映っていない角度の場所からは「どうした?」「大丈夫か?」と心配そうな声と「いかん、頭を動かすな!」「衛生兵、衛生兵!」「いや、衛生兵はいないから救急車を呼べ!」といった実務的な叫びが交差している。
しばらくしてようやく中継をしているのに気付いたかのように画面は騒然とする実況室から、決勝のピッチ上で行われている表彰式へと切り替わった。
テレビ局側としてもこれ以上混乱した実況室を映すより、例え解説や実況がなくても日本の選手達が表彰されている場面をお茶の間に流した方がいいだろうという判断だ。
画面の中で起こっている大騒ぎにちょっとテンションが下がったのは足利邸の女性陣二人である。
なにしろ足利が延長後半にゴールを決めてからは、真と足利の母はずっと立ち上がったままだったのだからその興奮度合いが判るだろう。しかもその後のブラジルに攻め込まれたシーンでも、二人で手を握りあって声を枯らしそうなほど絶叫していた。
心臓に悪いロスタイムの間はピッチで駆けているいる選手達と変わらないぐらい息を切らし、逃げきった時には抱き合って喜んだものだ。
そのおかげでついさっきまでは自慢の息子と幼馴染は世界一だとはしゃいでいたのに、松永が倒れた事でその喜びに何か水を差されてしまった。つくづく今回の解説者とは相性が悪い二人である。
「あ、あれ松永が倒れちゃったみたいだけど……」
「速輝の事を悪く言うからあの人は嫌いだったけれど、こうなるとお気の毒ね」
「でもタイミング悪いよー。盛り上がってたのが一気に冷めちゃったもん」
瑞々しいぷっくりした唇を尖らせて真が愚痴をこぼす。
その湯気を立てそうな頭から流れる黒髪は、足利の母によって優しく撫でられた。
「でも速輝達はピッチにいて、こんな時まで前監督がらみのドタバタに巻き込まれないで良かったわね」
「うんうん、せっかく一生の記念になる場面なのに、さんざんアシカの邪魔した松永にまたここまで体を張った妨害されるとは思わなかったよ。本当にアシカや優勝した日本代表のチームメイトがこっちの騒ぎと関係ない場所で表彰されていて良かったよ」
倒れた松永には冷たい二人である。これまで何度も公共の電波を使って足利が非難されていたので、具合を悪くしたとはいえ松永にかける情けはほとんどないようだ。
そしてテレビ局もこのまま実況室の様子を垂れ流すのはマズいと思ったのか、今画面に映し出されている映像はあれからずっと日本代表の物だけであった。
揺れていた画面はロングで撮影している表彰式の様子だけになり、実況室のてんやわんやはもう流れていない。実況や解説の声が全くない事以外は何一つおかしな事はない放送だ。
画面に流れる優勝のセレモニーは世界大会とはいえ簡素なものですぐに終了した。
おそらくは試合で疲労した選手達――しかもまだ子供達だ――に負担をかけないように気を使われているのだろう。大らかというか日本での大会ではありえない無造作さとシンプルさだ。
優勝カップが日本のキャプテンである真田に手渡されると、それを掲げて写真撮影された後はもう両チームの選手達が思い思いに散らばっている。
日本代表選手のほとんどはサポーターが陣取っている席前まで行って、これまでの応援に応えて各々が挨拶をしている。
手を振り返したり頭を下げたりと、やることは違えど自分達を支えてくれたサポーターに対する感謝の意は同じようだ。
足利もその小さな体をチームメイトにもみくちゃにされながらもそこへやって来た。
彼は周りの仲間より頭半分ぐらい低いのでいじられやすい。そのせいか髪をくしゃくしゃされているし、汗と土にまみれているのだが内側から喜びで輝くような笑顔には一点の曇りもない。
そして選手達だけでなく山形監督がサポーター席前につくと、ピッチを包む歓声は更に大きくなる。
サポーターからの大音響の歓声でピッチの声はかき消されて聞こえないが、なにか足利が真田に耳打ちしていた。
身長差のせいか足利が真田にちょっと背伸びして耳元へささやいているようなのが、これまでの激戦を戦った戦士に似つかわしくなくどこか可愛らしい。
足利の進言に真田も同意したのか大きく頷くと周りのチームメイトに声をかけた。
すぐに仲間がキャプテンである真田の声に従って動き出したのは彼の人徳やリーダーシップという奴だろう。足利もそれが判っているから先に真田へ話を通したのだ。
足利が仲間に声をかけると、チームメイトは指示を理解する前に「またなんかやるのかこいつ」と反射的に腰が引け気味になってしまうのだから。
指示するだけでなく真田キャプテンも率先して動き、サポーター達の前で代表監督である山形の胴上げが始まった。
今世界一の称号を得て宙に舞っている山形の前任者である松永の情報が入ったのはその時だった。見事なまでに現監督と前監督にはくっきりと明暗が分かれてしまった。
優勝監督を胴上げしている映像が画面の左上に四分の一に縮小されて、これまでの放送で解説者の松永とコンビを組んでいたアナウンサーがやや硬い表情でメモに目を通しながら読み上げる。
「えー、番組の途中で体調を崩して降板し、視聴者の皆様にご心配をかけていました松永解説者ですが今入りました情報によると命に別状はないようです。
彼は心配されたような脳卒中や心筋梗塞といった重篤な病状ではありませんでした。どうやら肉体的なものではなく精神的なショックを受けた時に起こる、転換性ヒステリーといったお菓子を欲しがる子供や敵の奇襲に動揺したエリート参謀がよくなる症状だったようですね。とにかく命に関わらず状態が落ち着いたようで何よりでした」
大きく息をつくとまた別の紙を取り出す。
「あーそして大会の個人賞も発表されました。注目のMVPは――ブラジル代表のカルロスです。選考理由としては「個人能力では疑問の余地なくナンバーワン」や「決勝でもフル出場させていれば勝敗は判らなかった」などの意見が上がっています。
うーんMVPが優勝した日本代表から選ばれなかったのは残念ですが、最優秀監督には山形監督が選出されていますね。「個性的なメンバーをまとめ上手くチームをマネジメントしていた」や「戦力的には劣っているチームを優勝に導いた」というのが選ばれた理由だそうです。
そして更にベストイレブンの中にも日本人選手が入っています! 三・五・二のフォーメーションで構成された優秀選手のまずゴールキーパーは日本も対戦時にさんざん苦しめられたイタリアの赤信号ジョヴァンニです。
DFにはブラジルから「サンパウロの壁」クラウディオとドイツの皇太子ハインリッヒ、そして日本からはキャプテンの真田選手が入りました。
次にMFはボランチの位置にアルゼンチンの心臓でありダイナモのベルグラーノ、そして一列前には今大会で豊作だった攻撃的MFを四人ずらりと並べています。スペインの無敵艦隊からは酔いどれドン・ファンと船長フェルナンドの名コンビ、そしてブラジルからMVPを取った「ブラジルの宝石」カルロスも当然ここに入っていますね。そして日本からはこのイレブンの中でも最年少の「ピッチ上の道化師」足利選手が選ばれています。
FWには得点ランキングで上位のゴールハンター達が順当に選ばれていますよ。得点王であるブラジルのエミリオと二位の日本の上杉でした。いやーまさか日本代表からベストイレブンに三人も選ばれるとは思いませんでしたね。
それに日本と対戦した国ばかりから選ばれているようですが、反対側のブロックではブラジルが相手チームを圧倒していたせいで他のチームは印象が悪くなったそうです。その分接戦で激闘の多かった日本が戦った試合がクローズアップされて、視聴者にもお馴染みの名前が多く挙がったこの結果に繋がったようですね。……逆に言えばこれだけハードな道のりをよく乗り越えて世界一になったもんですよ日本代表は。誰からも組み合わせに恵まれたなどの陰口は出てこない見事な優勝です!」
アナウンサーの長広舌の発表に足利家のリビングも更に高揚した雰囲気になる。誰もスイッチには触れていないのにもう一段階照明が明るくなったようにぱっと華やいだのだ。
「うわぁ、アシカがベストイレブンに選ばれてるよ」
「あの速輝が……ちょっと前までは朝に泣いたり叫んだりぴょんぴょん片足立ちでジャンプしてた、あの子がねぇ」
目を丸くしている真とどこか遠く懐かしいものを見る眼差しの足利の母の会話は、どうにもその対象となる世界代表チームに選抜された少年には少し厳しいものだった。
たぶんまだ彼女達は足利という自分達に近しい人間が、世界の舞台で表彰されるのに適応していないのだろう。
「あ……」
真が小さな声を上げて自分の左手首を目の前に持ってくる。まるで腕時計で時間を確かめるような仕草だが、彼女の左手首に巻いていたのはそれだけではない。
「ああ、本当にアシカは世界一になったんだなぁ」
そこに巻いていたミサンガが床に落ちている。
そっと手に取ると、そう簡単には千切れたりしないはずの特別な素材で作られたミサンガがすっぱりと切断されていた。きっとかけていた願いが叶ったと判断すると空気を読んでひとりでに落葉するように手首から落ちたのだろう。
彼女の肌の中で細く日焼けしていない一条の筋がついさっきまでそこにミサンガがあった事を主張しているが、どうも彼女は長く付けすぎたのか何も巻いていない方が落ち着かないようだ。
「また新しくミサンガを付けなくちゃいけないか、今度は恋愛成就のために」
「真ちゃん何か言った?」
「ええ、次に付けるミサンガも早く切れるといいなって」
にんまりと笑う真の瞳は暖かかったが、どこか獲物を発見した猫科の肉食獸の光も伴っている。
「ちょ、ちょっと怖いわよ真ちゃん」
足利の帰還を待つ二人の女性達も、この世界大会を終えてどこか強くなったようだった。




