第八十一話 分の悪い賭ならばやめておこう
後半になり入れ替わったピッチの中央で大きく深呼吸をする。毎週のようにプレミアリーグの試合が行われている、この整備の行き届いた素晴らしいスタジアムで俺が戦えるのも後僅かな時間しかない。
少しだけ感傷に浸っていると、その隣へ焚き火が周りに熱を放射するように自然と存在感をまき散らしている少年がやってきた。
ただ歩み寄って来るだけなのにその姿に観客の目が引きつけられている。なんとも目立つ奴だなカルロスは。
「アシカはようやくお目覚めか」
「ええ、ちょっと寝起きが悪いもんで」
延長の前半はほとんど死んでいたのを皮肉られるがこっちも軽口で返す。一見余裕に満ちているようだが互いの目は笑ってはいない。
まだ後半は始まったばかりだが、この時点から気を張っていなければ知らない内に圧倒されて終わるだけだ。だから俺は強気に告げる。
「でも日本の強さに驚いたんじゃないですか? カルロスがいなくても世界大会の決勝まで来て、しかもここまでブラジルと互角の戦いですよ。たぶんカルロスがいた頃より強くなってますね」
「ああ、驚いたな」
意外と素直に頷くブラジル代表の十番。そしてにやりと唇をつり上げる、この少年の笑みは黒豹が獲物を発見したときに牙を剥くのと変わりない。
「日本もアシカも倒し甲斐があるようになったな」
「随分な自信ですが、もう日本は失点しませんよ。絶対にゴールは守りきってみせます……あの真田キャプテンが」
「え? あ、お、おう。まだあいつがキャプテンなんだったな」
迫力たっぷりのカルロスを、後方でディフェンスの指揮をしている真田キャプテンにぶん投げる。DF陣に指示を出していた彼も驚いたようだが、試合中に敵のエースとゆっくりと話をする暇はない。それに確か二人とも一緒に代表チームでやっていた時期もあったはずだし積もる話もあるだろう。
本来のカルロスのマーク役である明智が何か「えーと、一応マークについている俺のことは無視っすか」と言いたげな表情をしているが、徐々にヒートアップし始めたピッチではゆっくりお喋りをする贅沢はもうそろそろ終わりだ。
これからが決勝戦の――いや世界大会のクライマックスである。
後半は延長の前半とは様相を変え、両チームとも積極的に攻撃を仕掛けるようになった。
日本は後半からの方針が総攻撃なのだから当然だが、敵も更に前へ人数をかけて攻勢に出る。おそらくギャンブルの要素が強くなるPK戦になるよりは、ブラジルご自慢のアタッカー陣を活用して得点を奪い試合と優勝を決めてしまおうという目論見だな。
俺達日本代表だってゴールしようという意欲は一緒だ。ただブラジルと真っ向からぶつかり合うと俺達は少しだけ受け太刀になってしまうのも否めない。
個人個人の技術は相手の方に一日の長があるのに加えて、どうしても日本は敵にいるカルロスとエミリオの二枚看板を無視できないからだ。こいつらを無警戒で野放しにしてたら点の取り合いではなく一方的に蹂躙されてしまうだけになってしまう。
二人の化け物対策のためこいつらのマークだけは外さずに攻めているのだが、それが逆にいつもの日本のように極端に前掛かりにならずバランスのとれた攻撃になっているのが面白いものだ。
まあその影には俺が結構苦心してゲームメイクしているのもあるのだが。でも俺が延長の前半に休んでいる間はチームが一丸となってフォローしてくれたんだ、これぐらいお安い御用――とまではいかないが全力を尽くすだけの価値はある。
ボランチでいつもはゲームメイクを任せている明智がカルロスのマークに忙殺されているため、俺が両サイドを幅広く使おうと積極的にパスを回す。
これまではチームを滑らかに動かす組み立てが明智の仕事で、どちらかというと俺は決定的なラストパスを狙うような感じが多かった。今は俺がその両方の責務を担っているのだから、大変ではあるがやり甲斐も十分だ。
自分を囮にしてタメを作る事で中央を固めさせ、そこからサイドへ展開する。数度そのパターンを続けてブラジルの守備が十分にサイドへ広がったら、今度は真ん中を自らのドリブルや壁パスなどを使って突破を試みる。
この時ワンツーの相手役になるのは山下先輩が多い。やはり長くコンビを組んでいるだけあって、俺とは呼吸を合わせる必要もないぐらいにぴたりとタイミングが一致するのだ。
しかし、いくら息のあったコンビネーションでも最後のなかなか得点に至る扉は開けない。
ブラジルゴール前の決定的なエリアだけはカバーが充実しているせいである。その中でも上杉は「サンパウロの壁」であるクラウディオがぴったりと張り付いているVIP待遇だ。
でも優秀なDFが一人付いただけで、数々の激戦を征してきた日本のホットラインを止められると思うなよ。
俺は狙撃手がチャンスを待つように慎重に攻撃のスイッチを入れるタイミングを測る。
いくら休んで体力が回復したとはいっても簡単に燃料は満タンにはならない。俺が全力でプレイできる回数は限られている。とてもじゃないが無駄撃ちはできないからだ。
またもや日本の守備陣から回ってきたボールをがっちりと保持すると、背中にくっつくブラジルDFを押し込むようにしてじりじりとバックのまま敵陣を進む。まるでバスケットボールのドリブルだな。
俺が常に顔を左右に振ってキープしているために、ここが勝負所だと押し上げてくる日本のサイドを警戒して包囲をかけようとする敵はおらずに一対一をさせてくれるようだ。
相手は小柄な俺を倒してファールを取られないようにと気を使っていたようだが、次第に苛立ってきたのか「いいかげんにしろ」とばかり肘を背骨に当てて押し返す。
背中の中心を肘みたいなとがった部分でぐりぐりされると痛いんだよな。だが腹が立つのを我慢して、相手の集中が乱れてきたなと自分に言い聞かせまたもや背中で押す。
相手DFもムキになったのかさっき以上の力を込めて肘を突き立てようとする。
その瞬間に俺が行動すべきイメージが脳裏に描かれ、マークが押し返そうとした肘打ちに合わせて体を引く。重心が崩れて体が泳いだマークを回るようにしていなし、半回転だけの旋回を鋭く決めた。
マークを外したと言ってもほんの一歩だけで、ゴール前へのパスを出せる空いたコースの幅も狭い。まるで地雷原を突破しなければいけないようだが、山下先輩とだけでなく俺から上杉へのコンビネーションもここまで勝ち上がるのに何度も似たような修羅場をくぐり抜けている。
今回もまた、俺がターンするより早くあいつはオフサイドラインを破る準備を終えていた。さすが上杉はゴールする機会に対してだけは恐ろしく鼻が利くゴールハンターだ。
足元からすっと彼へ伸びるパスルートが脳裏に浮かび、そのピッチに敷かれたレールにボールを乗せるようにして丁寧だが力強くキックする。
狙いは誤らず、ボールは絶妙のタイミングでオフサイドラインを超えたうちのエースストライカーの下へ。
彼の前にいるのは飛び出しそこねた敵キーパーだけという決定的な状況だ。
絶好のチャンスに蹴られたそのボールは力無く転がり、キーパーのキックによってクリアされた。
しかしこれは上杉のシュートミスではない。
彼がミートする直前にボールを奪われたのである。
上杉はキックオフの止まったボールを蹴り損ねることはあっても、ゴール前でシュートミスする事はまずない。そのぐらいシュートするキックは正確なのだ。
では誰が蹴ったのか?
後ろからクラウディオがボールに触れてキーパーへ押し出したのだ。ペナルティエリア内で後方からのスライディングタックルでありながら、上杉にはかすりもせずボールだけにしか触らなかったという神業のようなディフェンス技術である。
普通のDFならば完全にPKものだが、上杉でさえシュートしようとした右足を空振りした後で「今のなんだ」とスライディングしてきたクラウディオを振り返っている。「何でそこにおるんや? 振り切ったはずやん」と目を見開いている。
だがここで感心ばかりはしていられない身の毛がよだつ事態が。
キーパーによってクリアされたボールはそのままラインを割らず、ブラジルのDFによって拾われてしまったのだ。
日本が攻撃のスイッチを入れたのは僅かな時間だが、その間は前掛かりになっていた。つまりは後ろにスペースを与えてしまったって事だ。
後ろにスペースを空けたカウンターの撃ち合いになるとスピードのある方が有利となる。つまり両チームのどちらに分があるかと言えば勿論ブラジルだ。
そして間違いなくスピードで言えば今大会でもナンバーワンの少年が手を上げ大声を上げた。
ブラジルで使われているポルトガル語の判る人間は日本代表では明智ぐらいしかいない。だが彼が何を要求しているのかだけは日本代表の誰もが理解できた。
あいつはボールをくれと叫んでいるに違いないぞ。だから日本代表の全員が一斉に叫んだ。
「カルロスにだけは突破させるな!」
「判ってるっす!」
怒鳴り返すカルロスのマーカーである明智の声にもいつものような余裕はない。今忙しくあいつの頭の中では、どうすればこのカウンターを止められる可能性が高いかのシミュレーションが行われているのだろう。
そして苦渋に満ちた顔付きをするとカルロスの背中に張り付く。
その理由も判る。おそらく「カルロスにパスが渡る前にカットする」というボールとカルロスを遮断するこれまでの作戦は、背後にスペースが空いている現状では通じないと考えたのだ。
簡単にぽんと空いたサイドのスペースにボールを放り込まれると、技術での勝負はできずにただカルロスと駆けっこになってしまう。
何しろうちには自分の後方に残した広大なスペースを無視して上がる島津がいて、今もまたブラジルゴールへお出かけしていて留守にしているからだ。
スピードに乗ったカルロスを相手にして開けた場所で競争すれば、また三歩で置いて行かれるのは火を見るより明らかである。
だから彼の好みではない「体で止める」選択をしたのだろう。
明智の中では自分の拘りよりもチームに貢献することの方が遥かに優先順位が上のようだった。
その明智の決意とポジショニングが効を奏したのか、ブラジルのDFからのパスはスペースにではなくカルロスの足下を狙った物だ。しかもそのボールは正確にはほど遠く、わざわざカルロスが中央へ受け取りに戻らねばならなかった。せっかく日本陣内へ向けて疾走する準備を整えていたにも関わらず、一旦バックするのが不満そうなカルロス。
くそ、今のパスがもう少しずれてくれてたら俺がカットできたのに。戻ってくるスピードまでここまで速いってカルロスは本当に不公平だよな。
しかし今のパスも蹴ったブラジルDFの単なるミスキックではない。パスを出そうとするブラジルDFにプレッシャーをかけて邪魔した島津が偉かったのだ。
うん、島津は延長前半にディフェンスをしていた事を恥じ入っていたけど、敵への体の寄せ方なんかは代表のDFとして厳しく見てもしっかりしている方じゃないか。守り方の基礎はきちんとできているんだよな、ただ普通のサイドバックに比べると守備位置が五十メートル前なだけで。
それでも彼が前からプレスをかけてくれたおかげで、パスが乱れこうやって日本ディフェンスが守備を整える時間と俺がカルロスに追いつく余裕を与えてくれた。
島津の前からのプレスもあって若干手こずったものの、母国の十番へボールが渡った途端一気に沸騰するブラジルサポーター。
煩せぇぞ。ボールを貰った位置もタイミングもそんなに良くはないだろ、無理に盛り上がるなよ。そう舌打ちしそうになった時、カルロスの口元がつり上がっているのに気がついた。
背筋を走る戦慄と共に確信した。
来る! 間違いなく今のこいつはパスなんて考えていないぞ。またこの化け物が自分の力で強引な突破をしてくる。
おそらく会場の中にいるほとんどの人間が、これからまたカルロスがドリブルを始めるのに疑問は持たなかっただろう。理屈ではなくそういう雰囲気を彼が放っていたのだ。
ただ日本にとって問題なのはどのコースでカルロスが仕掛けてくるのかである。
島津のおかげで一気にサイドを切り裂かれるのは防げたが、パスがずれてカルロスの位置が中央になった分だけ選択肢が増えている。
鳥の目を持っている俺でさえこいつがどう来るのかは判らない。俺からすればゴールへ至るどのルートも日本の誇る優秀なDFが通行止めをしているように思えるからだ。
ただカルロスが肉食獣の笑みを絶やさないという事は、それでも自分ならこのぐらいの守りは抜けると確信しているからだろう。
百三十キロしか球速のない投手は投げるコースに迷うが、百六十以上の剛速球があればコースなんか気にならないで好きな所に投げられるのかもしれない。それぐらい俺とカルロスとの間にはポテンシャルの差がありすぎてここからの彼の行動については予想ができないのだ。
読みが当たっていてさえもなかなか止められないスピードスターが、明智と日本ゴールに向けて一歩ドリブルで踏み出す。
この時点でカルロスがどう動くのか判った日本の選手はピッチ上に誰もいなかった。
いや、ドリブルで全員をぶち抜こうとしているのは判るが、まずは目の前でマークしている明智の右からかそれとも左から行くのかが問題だ。仲間が抜かれるのを前提にするのは嫌だが、一人じゃ止められないんだからせめて犠牲を無駄にしないようにしなければ。明智が抜かれるその一瞬がカルロスにチャージに行く最大のチャンスなのだから。
くそ、もし近くに松永前監督が居ればカルロスの突破方向を右か左かだけでも予想してもらい、その逆にヤマを張るものを!
俺達日本代表は鎖を解かれたカルロスがボールを持っただけで、失点の危機に冷や汗を流す。
このままカルロスのドリブルを碌な予測も準備もできないまま、好き放題にやらせてしまえば日本が負けてしまうと肌で感じたからだ。
真田キャプテンはDF全体に目を配るためカルロスだけを注視はできない。
おそらく代表で一番状況が読めて鳥の目を持ち、更に近くにいる俺が明智と共にボールを奪いにいくしかないのだ。そして多分、俺と明智のファーストアタックが抜かれた時点でカルロスの奴はスピードに乗る。そうなれば失点は覚悟するべきだろう。
読みが当たっていても止められないかもしれないような化け物を相手にする場合は賭けに出るしかないよな。それで外れても仕方ないじゃないか。
重心の位置とボールの場所、足の爪先の向きといったカルロスの挙動からこいつは明智を右から抜こうとする! 俺はそう判断した。
……結果的に言えば俺の読みは完全に間違っていたのだが、まあ、その、仕方ないよな?




