第八十話 一番得意な作戦を採用しよう
延長の後半になり敵味方の陣地を交換する。俺も疲労のせいで頭が回らずになぜか忘れてたが、そう言えば延長の場合はハーフタイムがなかったんだ。くそ、体力を回復するにはいい機会なのに。
日本の他のチームメイトもそう考えたのだろう、すぐにポジションににつかずサイドラインを沿いに置いてあるドリンクを飲むなどしてゆっくりとしている。
その俺達に監督が早口で声をかける。審判に遅延行為だと注意される前に指示を終わらせようと大慌てだな。
「よしよし、よくあのブラジルの攻撃をゼロに抑え込んだな。真田、大殊勲だぞ」
「ははっ、そりゃどうもありがとうございます」
今日だけでも随分と株を上げた真田キャプテンが笑顔で答える。確かに延長行きを決めたゴールを抜きにして守備面だけの貢献で考えても、ブラジルの強力な攻撃陣を敵にしてるんだから彼の指揮がなければ失点の数がもっと多かったはずだ。
「それと島津も最後の方はナイスディフェンスだったぞ」
「ああ、あれは助かったな。言っちゃなんだが島津らしくない献身的な守りだった」
山形監督と真田キャプテンというベンチとピッチ両方の中心から褒められたにも関わらず、当人である島津はあまり嬉しそうではなかった。却って褒められた途端に誰からも離れた場所に体育座りして俯き、ドリンクに口をつけながら羞恥に耳まで赤くしている。え? なにこの反応。
「いや……あれは、やむを得なかったからで非常手段でしかない。だから守備で俺をあまり頼りにされると、その困る」
「え? 島津はDFだろ?」
「うむ、だから恥を忍んで守備に回ったのだ。でもあのような真似は今回限りだ」
「いや、だから島津のポジションはDFだよな?」
なぜか守りに入ったのが島津の「超攻撃的サイドバック」としてのプライドを傷つけたらしい。カルロスを止めたシーン以外にも要所で守ってくれていたのだが、彼にとってはそれは必要悪でしかなかったようだ。
もう誰かこいつの妙なプライドを捨てさせろと思うが、この決勝戦の延長後半に突入しようとしている緊迫した場面で島津に対してカウンセリングなんてやっている場合でもない。
おそらくチーム全員がそう考えたのだろう、どこか困惑した苦笑を浮かべている。あ、一名だけ「そやな、点取り屋が守りをするなんてやーさんに喧嘩を売るより覚悟を決めなあかん。島津、プライドを捨ててよう頑張ったな」と共感して瞳を潤ませているストライカーがいるがそれは絶対的な少数派だ。というかセンターフォワードと価値観が同じサイドバックをレギュラーにしてよくここまで俺達勝ち上がってこれたもんだ。
だがそのディフェンスを指揮している真田キャプテンの充実した表情には、苦笑いだけでなく疲労の影が滲んでいる。そりゃそうだ、延長に入る前からあのカルロスやエミリオを相手取っているのだからな。あれだけ強力なアタッカー達から精神的なプレッシャーを相当受けていなければおかしい。
ましてや真田キャプテンはこれまでのほぼ全試合に出ずっぱりだ。そのぐらいチームにとって替えが利かない精神的な支柱なのである。今大会のこれまでの連戦における疲れもピークに差し掛かっているだろう。
それに山形監督も気が付いているのか、褒めている割にはどこか心配気な難しい顔をして腕組みをしている。
「……だが真田、あいつらを最後まで抑えきれるか?」
「きついですね、それは」
真田キャプテンの口から弱音にも聞こえる言葉が出てきたのは初めてだ。いや、弱音というより彼が下した客観的な評価に近いのかもしれない。
つまりこのままの引きこもってばかりの戦術ではブラジルに対して守りきってのPK戦にまで持ち込むのは難しいと。
山形監督もそれを理解したのだろう、俯いて溜め息を一つ吐く。だがその体勢から三秒後、再び上げた我らが指揮官の顔にはなぜか悩みが無くなりすっきりした表情になっていた。
「なら後半の作戦は決まりだな」
一人で勝手に納得して頷くとこっちへと振り向いて確認をとる。
「アシカ前半は休ませたんだ。……もう大丈夫だよな?」
「ええ、大丈夫です」
俺も延長に入る前のようにはぐらかすような返答ではなく、しっかりと監督の目を見て親指を立てる。
「そうか、なら延長の後半は俺達日本代表がこれまでにやってきた一番得意な作戦と指示で行くしかないな」
「何っすかその作戦と指示は?」
理論派だけに早く作戦を確認しておきたいのか明智が突っ込む。そろそろ審判が怒りだして監督にカードを出しそうな頃合だから、回りくどい返答は求めていないのだ。
そのせいか山形監督の答えは実に短くシンプルで俺好み――いやこの日本代表の好みに沿ったものだった。
「作戦は「総攻撃」で指示は「勝て」だ」
◇ ◇ ◇
足利宅のリビングにあるテレビ画面の中では二人の男が深刻そうに話し合っている。解説役の予想からはまったく正反対の状況だからだ。しかも、陣地を替えるだけの短い間に延長前半の総括をしなければならない。
スタミナの面に不安があるような日本側は、一番移動距離のあるキーパーがゆっくりと歩いて時間稼ぎをしているようだが与えられている時間は僅かだ。
「松永さんの延長に入れば日本が有利ではないかという予想に反し、日本代表は前半は攻められっ放しの苦しい展開となりました。キャプテンである真田選手の奮闘とFWの島津のディフェンスもあり……あ、失礼しました。島津はDFとして登録されてましたね。こほん、それでなんとか失点だけは免れましたが、この状況を松永さんはどう分析しているんでしょうか?」
「そうですね……」
ちくりと言葉の棘に刺された内心の動揺を鎮めるためか、話を振られた彼は水を一口飲んで一拍置く。
「どうやらブラジルの看板選手達はベストコンディションだったようですね。ならばどうしてカルロスやエミリオといったスター選手達を先発出場させなかったのか非常に疑問は残りますが、まあ今考えるべき問題ではないでしょう。ただ彼らが体調の面で問題がないのなら日本は確実に不利です」
「ほう! やはりそうですか?」
質問するアナウンサーは嬉しそうだ。そしてそれよりも嬉しそうなのが同じ室内にいる番組のスタッフ達だ。祖国の代表が不利だと分析されたにも関わらず「うんうん」と頭を激しく上下に動かして「もっともっと」と松永の解説を煽っている。
「逆に日本代表の方が体力面に不安があるからですよ。ここまで日本は三人の交代カードを使いきっていますが、二人は怪我によるもので一人は戦術上の理由で交代しています。純粋に疲労した選手からフレッシュな選手への切り替えという意味では交代枠を使ってないのです。選手の体力をカバーするようなローテーションは組めていません。まあ怪我人が複数出てしまったのは計算外とはいえ、ここで山形監督の若さがでてしましたね。私ならば延長に入ってからぴたりと足の止まってしまった足利を代えるために一枚はカードを残しておきますよ。もともと最年少の足利は体力がないのが判っていたんですから、スタートから出場させるなら何らかの配慮をするべきでしたね」
「はあ……」
山形監督や足利といった他人の欠点をあげつらう場合には急に饒舌になる松永に、アナウンサーはちょっと腰が引け椅子ごと後ろに退いてしまう。
それに気が付いたのか、松永はこほんと咳払いをしてこの場の気まずさを取り繕おうとする。
「と、とにかく延長後半では私が抜擢した真田を中心とした守備を徹底し、PK戦にまで持ち込むのが最善の策でしょう。PK戦であれば日本が勝利する可能性も十分にありますからね」
「なるほどいかにも松永さんが監督時代によくやっていたと聞く、手堅い守備的な作戦ですね。確か監督をされていた期間も、カルロス選手が出場していなかった場合は相手が格上格下に関係なく引き分けが多かったとか。そのおかげでPK戦の経験も豊富だったそうですね。しかし、今の代表はPK戦の経験がほとんどありません。さてそれでも日本代表も松永さんが予想したような守備重視のPK戦を視野に入れた作戦で延長の後半を戦うのでしょうか? もうすぐ世界最強のチームを決める最後の十分間が始まります。日本代表の健闘を期待しましょう」
日本でこの実況を眺めている女性二人の心境は穏やかではない。
特に足利の母は「えーとこのテレビ局の番号は何番だったかしら」と松永のコメントに対する抗議の電話を入れる気満々だった。ところが同様に憤慨していたはずの真が彼女の携帯を持つ手を抑えて制止する。
「それは止めておきましょう」
「あら、真ちゃんはまさか松永の意見に賛成なの?」
「んー、それこそまさかですね」
長い髪が乱れるぐらい首を横に振る。そのいつもより少し荒い仕草にどうやら真も相当腹を立てている事が窺える。ではどうして? と尋ねたそうな足利の母に真が説明する。
「松永の解説はともかく予想はだいたい正反対方向へ外れる可能性が高いんです。だったら今のコメントから考えれば逆に延長の後半でアシカが活躍してくれるってことじゃないですか! だいたい今から電話かけても繋がる頃にはすぐに後半がはじまっちゃってますよ」
「それはそうだけど……」
まだ不服そうな親心に配慮したのか「それに……」と真は持ち込んでいたバッグをごそごそと探る。
「電話するより三号君を送った方が絶対効果は高いです!」
誇らしげに小さなバッグから取り出されたほぼ等身大の藁人形に思わずソファから転がり落ちそうになった足利の母。彼女は真の言葉に気圧されたように「た、確かに効果ありそうね」とこくこくと頷くばかりだ。明らかにバッグの容量以上の体積を持つ人形の出現に度肝を抜かれたようである。
「ふふふ、この三号君はこういう時の相手への贈り物として最適なんですよ! 何しろ相手は外見だけでビックリ箱を開いた並に驚きますし、配達されるところを周囲の人に見られたらヒソヒソ話の種になります。その上テレビ局だからってテロ対策やイタズラ対策をしていても無駄なんです。これには危険物なんて入ってませんし、警察犬なんかも臭いでKOしちゃいます。しかも中身をチェックしようだなんてしたら、ぱんぱんに詰められた芥子入りの中身が飛び散るようになってる優れ物ですからね!」
真の明るい解説になぜかどんどん足利の母の表情は引きつっていく。
「う、うん。優れ物ね。でもそれってどんな用途のために開発されたのかしら」
「ん? 納豆好き同士の贈答用ですよ?」
「そ、そうなの。……うちは速輝が納豆を苦手だから送らないでね」
「んーそれだけがアシカの目立つ欠点ですよねぇ。あ、でも後半になってもアシカが復活しないようだったらスタミナを付けるためにも必要なんじゃ……決勝の結果によってはこっちの二号君をアシカにプレゼントしてもいいですよ!」
どこに入っていたのか同じバッグから新たな藁人形を取り出す真に足利の母が戦慄していると、画面上でも動きがあった。
「あ、ようやく始まるみたいです。ん、アシカも生まれたての小鹿みたいじゃなくなってる。よーし頑張るんだぞー!」
「そうよ、頑張るのよ速輝! 松永の予想にも真ちゃんの納豆にもブラジルにも負けちゃ駄目!」
――こうした経緯により足利家からの抗議の電話は取りやめられ、代わりに北条家から藁人形三号君がテレビ局に送られる事となった。真からも個人情報を知らない松永個人に渡す術はないために贈り物のターゲットは第二候補のテレビ局になったのだが、そういった面でも松永という解説者は非常に運の良い男なのは間違いがなかった。




