第七十九話 ブラジルの猛攻を耐え抜こう
延長戦が始まってから、ボールのほとんどが俺達日本陣内で動いている。
ブラジルもこの土壇場で失点するのは怖いのか、後半の最後と変わらずにどちらかと言えば守り重視のフォーメーションだ。だがそれ以上に日本は自陣に引いて守っているせいである。
しかし攻撃に関しては個人能力で状況を打破できるエースが揃っているブラジルは、たとえ後ろに多くの選手を残していても攻撃一回毎の破壊力は高い。
カルロスというスピードスターとエミリオというゴールハンターの二人が前線にいれば、それだけで下手な代表チームが行う総攻撃以上の破壊力を持っているのだ。ブラジルの攻めてくる人数が少ないなんて油断してしまえばそれは即失点を意味している。
対して日本はこれまでトップ下だった俺が体力不足で満足に動けないという不甲斐ない理由もあるが、攻めるどころかパスを繋ぐことさえままならない。攻守のリンク役である俺は足が止まり、明智はカルロス対策に追われている。
監督の指示通りサイドの山下先輩や馬場が下がって繋ぎ役をしようとするが、そうすると前線の駒が少なくなる。前へパスのターゲットが減ると容易にルートを看過され、カットされずにボールを進めるのは難くなる。そのせいでこちらの攻撃が薄いと判断したブラジルの攻撃参加する人数が時間経過と共に増えていくのだ。
山形監督の指示したように延長前半は、まだじっと我慢するしかない雌伏の時だ。
そんな守備一辺倒の日本代表は、いわばコーナーに追いつめられサンドバック状態になったボクサーのようである。しかしいまにも崩れ落ちそうになりながらも、それでもしぶとく粘りダウン――失点だけはしない。
日本のピンチには真田キャプテンが最後の砦として、そして最終ラインの指揮者として堂々と振る舞って最高のプレイをしているからだ。
時間ぎりぎりの同点ゴールを決めた辺りから、自信なのか俺や周りの見る目が変わったのか真田キャプテンまでもが一流選手のオーラの如き物を纏っているようである。
これが大舞台で活躍して一皮剥けたって奴なのかもしれない。
心の中を仲間への賞賛が大部分が占めて、残りをほんの少しの悔しさで満たす。もし俺の体力が尽きておらず、万全の状態でフリーキックが撃てていればあの同点ゴールも今の彼の守備能力に頼った綱渡りのディフェンスもなかった。まるで俺が真田キャプテンの覚醒に手を貸したようじゃないか。
味方がレベルアップするのは嬉しいし頼もしいが、どうせなら俺自身が壁を乗り越えたかったな。日本の危機を傍観しているだけの現状に併せて次第に苛立ちが募る。
日本のディフェンス陣が集中しているとはいえ、カルロスやエミリオといったブラジルが誇る最高クラスのアタッカーに対しては人数をかけて守るしかない。その多人数を組織的に守らせるという難しい指揮を嬉々として真田キャプテンがほぼ完璧に行い、延長戦が始まってからここまで敵にゴールを許してはいないのだ。
練習試合でもほとんど同じチームだから相手として戦った経験はあまりないのだが、今の真田キャプテン指揮下の守備陣からはそうそう失点しそうな雰囲気は感じないな。
唯一の懸念材料だった途中出場のDFとキーパーそれにアンカーも、延長に入ってからはすっかり落ち着いて自分の役割を果たしている。
……うん、こうなってくるとただ体力の回復に努めているだけの俺が情けなくなってきてしまう。
ダッシュはしない早足程度でスペースを埋めたりパスを捌いているが、どうしてもこれまでのプレイに比べると効果的とは言いがたい。体力がないのは自分のせいなのにフラストレーションが溜まっていく。
手助け出来ないくせに鳥の目で戦況を把握しているのものだから、余計に日本のピンチに敏感になってしまうのだ。ほら、またブラジルが攻めてきた。
危ない! カルロスがスペースのないDFラインを引き裂こうとしている。
交代で入ったアンカーが残っている体力をぶちまけるような執拗なチェックでなんとか食い止める。
マズい! エミリオがロングシュートを狙っているぞ。
武田がその大きな体を投げ出すようにして必死にゴールへのコースを潰し、コーナーキックへ逃れる。
しまった! フランコが日本の弱点である右サイド奥深くからゴール前にクロスを上げようとしている。
真田キャプテンの操るDFラインが各自のマークしている相手に抱きつくようにして、せめて自由にヘディングだけはさせないように力を尽くす。
ああ、助かった。キーパーが前へ飛び出してキャッチして何度目になるか数え切れないピンチを救ってくれた。
延長も半ばを過ぎるとブラジルのオフェンスが多彩な手段で攻め込んでくる。特に今の時間帯はほぼ一方的に攻められているだけの状態だ。
それをことごとく凌ぎきっている日本のディフェンスも見事ではある。なぜここまで守れて四失点もしているのか判らないぐらいだ。攻め合いの中での失点と固く閉じこもっている場合では守りやすさも違うだろうが、一番の違いは真田キャプテンの影響力が増したからというのは明らかだ。
でもそれがいつまで保つか保証はない。
こんなピンチの時こそ落ち着かなければ。
ボールが一旦外に出たのを良い機会だと、サイドライン沿いに置いてあるドリンクから水分を補給する事にした。ついでにそこで足を止めたまま数度深呼吸をする。
新鮮な酸素が肺を満たし、白っぽく薄れていた視界にはっきりと色が戻ってくる。
やれやれ、水分不足に陥りかけていた俺にはまさに命の水だったようだ。
足が震えていたほどの疲労が回復するに連れ、徐々に思考がクリアになっていくのを感じる。さっきまでは場当たり的な考えしか浮かばず、鳥の目を使うのも忘れるほど視界が狭くなっていた。
だが延長の前半もだいぶ過ぎると、これまでさぼらせてもらえたおかげで随分と体力が回復したな。
これならばなんとかチームの役に立てそうだ。
延長に入ってからの俺の役割はボランチの位置からパスを配球するだけだった。そこへまたもDFから「前線へ繋いでくれ」といったパスを受け取るが、今度はちょっと左右のサイドに渡すだけじゃなく自分で突破してみようか。
幸い延長に入ってからここまでは自分で前へ行こうだなんて色気を出していないのが良かったのか、今の俺はほぼノーマークだ。
ここがチャンスだと敵ゴール方向へとターンする。
……その足がもつれボールがこぼれた。
近くに敵がいなかったから良かったものの、もしマークされていたら一発でボールを奪われていた。
いや近くにはいなかったはずなのに、いつの間にかカルロスが持ち前のスピードを生かして急接近している。あいつは俺を相手にしている時が一番チェックが厳しいな。
慌ててバランスを崩して尻餅を突いたまま、格好など気にする余裕もなくボールを明智へと託す。
危ねぇ! 俺からのパスにすぐに反応して追いかけたカルロスのせいで、明智までもがボールを失いそうになる。
またもやバックパスすることでようやくカルロスからの追求を逃れるが、それでも最終ラインのDFまで随分ボールを押し込まれてしまった。
すると今度はそこに襲いかかるエミリオの姿が。くそ、いつもはお前は守備なんてしないくせにブラジルの得点に繋がりそうな時だけ顔を出しやがって。
武田とエミリオが交錯し、ボールが日本ゴール前を不規則に転がる。
こうなってしまっては花開いた真田キャプテンの統率力も通じない。こんな場合にボールに追いつく為に一番役に立つ能力は味方を指揮する力よりも純粋なスピードだからだ。
そしてブラジルにはスピードならば誰にも負けない奴が一人いる。
カルロスがボールに追いつく――その寸前にスライディングで滑り込み、ボールをキーパーへ返す選手がいた。手を使ってはいけないバックパスを慌てて大きく蹴ってクリアするキーパー。
ブラジルのスピードスターを食い止めたのは、これまで日本のディフェンスラインに存在しなかった少年だ。
「ナイススライディングだ島津!」
「島津がまさかDFらしい仕事をするなんて……」
「あいつがスライディングしてキーパーへボールを返すとは俺の目が悪くなったのかな」
「え? 島津が守備をした? 面白い冗談っすね」
珍しく守りで貢献したにも関わらず、若干いじられる割合が多い島津だがこれはもう自業自得だろう。なにしろ試合前後の整列とハーフタイムの間しか自陣にいなかったと、一試合を通じたデータで示された事のあるDFなのだ。その島津ですら守りに入らねばならぬほど日本は攻め込まれていた。
それより今のクリアでボールは外に出たか。やっぱりあそこまで戻されると、もう一回中盤に戻して組み立て直すより完全に外へ出すようにした方がいいな。
ブラジルからのスローインになるが、悪い流れも切れるしその方がいいとキーパーが判断したんだろう。
それにしても……今の危機の引き金となった俺に対する仲間の視線が冷たい。「だから休んでろって言ってるだろうが」と責めているようだ。うん、少しは懲りたな。しばらくダッシュなどは控えてまた体力を回復することに専念しようか。
俺の謙虚な気持ちは三分間は続いた。まあ俺にしては長持ちした方だ。
芝を爪先でつついて足から伝わる感触を確かめる。
よし、さっきまでのようなふにゃふにゃした頼りないものではなく、一本芯の通った感覚だ。これならばもうゲームから消えてなくてもいいだろう。ピンチを招いた時もそう思ったが、今度こそ大丈夫のはずだ。
待たせたな、今俺が日本が押されているゲームの流れを変えてやる!
決意を込めてこれまで俺を休ませてくれたチームメイトへ叫ぶ。
「もういいぞ! 俺にボールを回して――」
声がそこで途切れたのは、ちょうど俺の声に被るタイミングで延長の前半終了を告げる笛が鳴り響いたからである。俺の声に耳を傾けかけていたチームメイト達も半笑いになっている。
……ちぇっ締まらないなぁ。俺ってこういう間の悪い所があるのだ。
でもこの格好悪さは後半になって挽回するしかない。それが前半に必死で守りきってくれた守備陣への返礼になるだろう。……なるよな?




