第七十八話 目上からの問いにはきちんと答えよう
後半が終了してから延長戦が始まるまで、俺達選手が準備ができる時間は短い。
僅か十分間というインターバルでは、作戦の確認をしているだけであっと言う間に終わってしまうのだ。
しかし幸か不幸か日本代表には交代枠は使いきり、選手交代というカードはもう切れない。戦術を変更しようにもうちの攻撃的な面子を集めた選手構成では、やれることの幅は狭い。
消去法的な理由でだが結局チャレンジャーらしく攻め合いを挑む事に落ち着きそうだった。
別に俺達だってブラジルを相手に正々堂々とぶつかって玉砕するつもりではない。それが今の日本代表が取りうる作戦の中では最も勝算が高いと監督が判断したのである。
だが、ここで山形監督が短い休憩の時間中ずっと足のマッサージをしてもらっている俺に気懸かりそうな目を留めた。
「アシカ、お前の足は生まれたての子鹿みたいにぷるぷる震えていたが大丈夫なのか?」
「ええ、まだ走れますよ」
俺は芝の上に横たわり、足を上に持ち上げられてぶるぶると震わされるマッサージで筋肉から乳酸を除去されている最中だ。その様子が子鹿の足のようだったのであり、断じて後半が終了してからベンチへたどり着くまでの俺の足取りが震えていたのではない。
その横になった格好のままにしては出来るだけさりげなくフラットな口調で答えたつもりだが、監督に「目を逸らして答えるなよ」と突っ込まれた。
「走れるかどうかは聞いてないぞ。本当にお前の足の具合は無理してるんじゃなくて大丈夫なんだよな?」
「だからまだ走れますって言ってるでしょうが」
俺と山形監督が「がるる」とお互いに唸りを上げて、激しい睨み合いをしていると、それをを制止する少年が現れた。自らの体を削って仲間の為に倒れるまで走っていたアンカーの石田だ。上半身は起こしているので背に芝を付けていないが、彼もまたベンチの下でテーピングと氷パックでぐるぐる巻きにされている。その傷ついた足を伸ばした状態から静かに問う。
「アシカ、お前の力はブラジルに勝つためには絶対に必要なんだ。だからもしお前が大丈夫じゃないなら作戦を大幅に変更する事になる。アシカが大丈夫かどうかはチーム全員が知っておかなくちゃいけない情報なんだ、教えてくれないか」
「……ちょっと延長までの短時間では回復しきるのは難しいです」
俺が顔をしかめて答えると、足をマッサージをしてくれているフィジカルコーチも眉を寄せて頷く。たぶん彼も揉んでいる足の筋肉の状態からそう判断したんだろう。ちくしょう、もう少しでいいから休む時間があればいいんだが。
この時の俺達は山形監督の「え? アシカは石田には素直に答えるの? しかも俺に対してより丁寧な敬語で?」と目を見開いて出した驚きの声は無視している。全くこんな時に場違いな事で騒ぐなんて修羅場では役に立たない監督だなぁ。
石田は俺の返答に残念そうに一つため息を吐いただけだったが、その隣にいる仲の良い真田キャプテンが「仕方ないな」と話を続ける。
なら
「アシカの力はブラジルに勝つためには絶対必要なのはもう石田が言っていたよな。それにうちには交代させる権利も残っていないんだし、アシカが石田みたいに無理してピッチからいなくなるのは許されないからな。もし延長が始まってもまだ厳しいようなら、体力を回復させるために前半は休んでおけ」
「判りました」
勝手に作戦を提案する真田キャプテンと素直な態度で即答する俺に山形監督が「監督としての威厳が……」と頭を抱えていたが、さすがにアクの強い選手を扱っているだけにこういった事態に慣れているのだろう。すぐに気持ちを切り替えたのか「ならブラジルと正面からぶつかる作戦は変更だ」と表情を引き締めて手を叩く。
「前半のアシカは極力省エネでいけ。体力を使うドリブルやダッシュなんかはやめて極力パスを捌くだけでゲームを組み立ててくれ。島津と山下に馬場は常に中盤からのアシカが出すパスを意識しておけよ。いつもみたいにラストパスじゃなくてその手前の段階で回ってくるからな。上杉はアシカからじゃなくてその三人からのゴール前へのパスを待つんだ。
守備はまだスタミナが残ってる途中交代組にこれまで以上に走ってもらうぞ。真田の指示に従って従来より少し引き気味で最終ラインだけは突破されないようにするんだ」
全員が真剣に監督の指示に聞き入っている。
うう、自身の体力のなさで日本代表の作戦まで変更させてしまって申し訳ない。でももうしばらく間だけでも休ませてもらえないと足の筋肉に力が入らない。
「すいません、迷惑かけます」
俺が頭を下げるとなぜかピッチで一緒に戦っている全員がぎょっとした顔になる。なんだよせっかく俺が謝ってるのにそんな態度はないだろう。
「ちょっと待て、お前本当に俺の後輩のアシカか? あいつなら自分の足が動かない場面でも『良かったですね先輩、俺の代わりに守備の出番が増えましたよ』と感謝を強制させるぐらい生意気なはずだが、どこであいつと入れ替わった!?」
「そうっす、いくらアシカのスタミナがないからってそっくりさんを替え玉にして出場させるのはマズイっす! だいたいサッカーの技術はともかく、こんな殊勝な性格の奴にはあのアシカの替え玉は務まらないっす!」
「お前ら……」
握り締めた拳がぶるぶると震える。
いや判ってるんだよ、山下先輩や明智が俺に負担を感じさせないように馬鹿な事を喋ってるってぐらいは。でもこいつらの口の悪さはもう少しどうにかならないのかな。
普段の自分を忘れ、失礼な年上の仲間に少しだけ腹を立てる。まったく、ここまで俺をコケにしたんだから復活するまでは無失点でしのいでくれないと許さないからな。
◇ ◇ ◇
慌ただしいのは選手達や監督といった試合を行っている連中ばかりではない。
実況席も延長戦が始まるまでの間に、これまでの試合のまとめとこれからの展望を語らねばならないのだ。いろいろと忙しい。
「さて見事同点に追いついて延長戦に持ち込んだ日本代表ですが、まずは大荒れでゴールラッシュとなった後半を振り返りましょうか。
後半が始まった途端ブラジル怒涛の攻撃に日本代表の守備は崩壊しいきなりの四失点。特にカルロスはスーパーゴールを含む一得点二アシスト、エミリオは二得点と松永さんの「カルロス達は後半からは出てこないはず。出てきても体調不良で日本はこのままリードを守り切れる」という言葉を裏切りあっさり逆転されるどころか二点も勝ち越されてしまいました。
ですが、この逆境から日本代表は解説者も受け入れかけていた敗北を拒む大和魂を発揮します。まずは中盤の守りの要である石田選手が怪我をしながらも、ブラジルのエースであるカルロスから執念でボールを奪取。そこからの高速カウンターで一点差に。最後の同点弾はロスタイムが切れる間際でした。足利選手の撃ったフリーキックからのこぼれ球をキャプテンである真田選手が豪快に蹴り込んだゴールです。
いやー改めて見ても日本の土壇場での粘りは素晴らしいですね」
「……ええそうですね。ブラジル代表についてですが後半からカルロス達が出てきたのはちょっと予想外でした。しかもピッチでの動きを見る限り同じく後半からの出場であるエミリオと同様怪我などのはっきりしたマイナス面はないようです。となると考えられるのはよほど試合前の練習などでコンディション面で不安があったのでしょうか。これまでの連戦で彼らはどうしてもスタメンが多かった為に、体調不良の彼らは体力面での心配から時間を限っての出場となったのでしょう。
しかし、ブラジルの猛攻を受け突き放されてなお折れない精神を持ったメンバー達、特にそれを体現した石田と真田は偉いですよ。私が抜擢して代表に選んだ甲斐があったとしみじみ思いますね」
日本代表を賞賛し、その裏でさり気なく解説者である松永を貶しているアナウンサー。それに対する松永の反応はどこかバツが悪そうだがそれを覆い隠している。
さすがにここまで展開予想が外れれば自分の解説者生命が危険だと理解してるのだろう、ブラジル贔屓の発言が多いものの慎重さと自分の功績をなんとか現代表へ盛り込もうとする行為がより露骨に表れてきているようだ。
手強いと感じたかアナウンサーも松永への戦闘モードを取りやめ、真っ当な実況に戻る。
「ではこれからの延長戦に入ってからの展望をお願いします」
「後半の序盤に大量失点してからは日本が守備の乱れを修正して、更に二得点を取り返して追いついています。この流れで行くと当然ながら最後にゴールした日本の方が有利な流れになりますね。カルロスとエミリオのブラジルが誇る二人組も後半の最後の方では得点がストップしていたというのは、やはりコンディション的に問題があったからでしょう。だからフル出場は見合わせていたのかもしれません。そうだとするとスタミナの面でも問題のない日本が有利ということになります」
「なるほど……」
松永が延長戦について自分の見解を話す度に実況席の空気が硬くなっていく。ある意味ここまで信頼されている松永は凄い。
とうとう担当ディレクターが携帯を片手に番組のアシスタントディレクターに向かって何やら耳打ちしている。相当顔色が悪く、かつ焦っている様子からするとスポンサーからのクレームか視聴者から受け取った抗議の数が予想以上だったのかもしれない。
慌てた様子で「松永さんあまり日本代表を褒めないで!」と書かれたカンペを叩いて見せようとするアシスタントディレクター。アジア予選では日本代表を叩いたと批判され、現在は日本を褒めると逆に恐怖される松永も大変ではある。
だがカンペを読む前にこの番組の看板解説者は、延長戦での戦いは日本が有利だと結論を出す。
「ブラジルは切り札のコンビを出しても勝負を決めきれなかった、しかも優勝カップに手が届く寸前で阻止されたんです。当然ながらかなり士気は落ちますし、流れが自分達の物ではないと自覚したでしょう。体力面にしても途中出場させざる得なかったほど不安要素が多い。
ならば、やはり今日の試合でほぼ全ての攻撃とアシストを請け負っているゲームメイカーの足利が絶好調な日本が有利なのは間違いありません。いやぁあいつを育てた私も鼻が高いですよ」
「そ、そうなんですか」
カンペを眺めて冷や汗を流しているのはアナウンサーだ。この解説の後で日本の形勢が不利になればまた番組に当てたクレームが山のように来ると想像したのだろう。
不思議なことに「松永に日本有利なコメントをさせたな」という番組への文句はあっても、松永個人にはあまり不満の矛先は向かわない。
なぜなら以前別のサッカー番組中に、松永が自分宛の手紙を取り出して自分の応援しているJリーグのチームは絶対に勝つというファンからのお便りに「はいはい、そうなってくれるといいですね」と馬鹿にしたような応援をした事があったからだ。その結果は――当然というべきなのか応援されたチームは見るも無残な惨敗を喫した。
それ以来、松永には余計な事を言わない方が良いという空気が出来上がったのだ。もはや一種の祟り神である。
しかしすでに松永の予想が終わってしまったここに至っては、もはや日本が延長が開始されてすぐに得点して勝負を決めてくれと願うぐらいしかアナウンサーにできることはない。
――もちろんこの時点では実況席の中にいる者達に責任はない。松永にしても「体力面で有利」と語っていた日本代表の中では足利のスタミナがすでに尽きていることや、カルロスにエミリオがまだまだ元気でいることなど知ってはいなかったのだから。




