第七十五話 黒子役にも敬意を払おう
カルロスはボールを奪った途端に迷わず正面から突っ込んで来た。その躊躇いのない姿を見て石田は胸の中で苦笑した。
随分とうちのディフェンスは舐められているようだ、と。日本代表のアンカーを任されている石田としては見過ごせない非常事態である。
ただこの苦笑いからも判るようにブラジルのエースがスピードに乗って攻めてくるという絶体絶命の危機でも、彼は笑えるだけの精神的余裕は確保していた。
もし簡単に彼が抜かれてしまえば――いや抜かれなくとも後半だけで二ゴールも決めているエミリオにいいタイミングでのパスが渡ってしまうだけで失点する可能性は高い。それでもなお石田の中に諦めといった感情はなかった。
才能の差というのを理解はしている。おそらく彼は日本代表の誰よりも生まれ持った資質の骨身に染みて思い知らされている。
カルロスは覚えていないだろうが、石田と彼との付き合いは結構長い。カルロスが代表に鳴り物入りでデビューした際、同時期に彼もまた代表入りをしたからだ。石田は中盤での守備力と運動量を買われて彼と一緒の合宿の時に初招集されたのだった。
そのため同期としてカルロスと石田はよくコンビを組んで練習する事になる。そこで本物の才能と出会い、地元では一対一では誰にも抜かれなかった石田の天狗の鼻はへし折られることとなったのだ。
だがそれで良かったと彼は思っている。自分の進むべき道は目立たない汗かき役だと早い内に認識できたのだから。
結果的にカルロスはブラジル代表へと道を違えてしまったが、アンカー役に定着した石田はこれまでずっと日本代表の中盤の底で黙々と役割をはたしてきた。
攻撃と守備の両方を受け持つボランチをと違い、アンカーというのはほぼ守備関係のプレイだけで忙殺される。その分目立たず、仮に目立つ時があるとしたらミスして失点に繋がったシーンぐらいという報われなさだ。
しかし彼は監督が誰に交代しようと、その苦労の多いポジションでずっと目立つことなく代表チームの一員として先発でプレイを続けていた。――つまり代表歴を通じて石田のプレイに明確なミスなどはほとんどなかったのだ。
石田の脳裏に今は敵になったブラジルの十番と過ごしたできれば思い出したくない記憶が甦る。代表で一対一の練習していた時はほとんどまともにカルロスのドリブルを止められた事なんてなかったよな。でも俺だってあれから少しは成長したんだぜ。
たとえボールを奪えなくても、僅かにだったら時間を稼げるぐらいにはな。
そう告げると石田はカルロスがボールタッチをする呼吸を読み、ボールに触れる直前に体を彼に寄せていく。このタイミングで接近されるのは誰でも嫌なはずだ。
更にゴールまでの直通ルートを防ごうと、歯を食いしばり踏ん張っていた体ごとぐいっと押しのけられた。
うん、力負けするのも想定内だ。でもこれ以上力を込めて俺を吹き飛ばしたりなんかしたらファールだぞ。石田の考えを見通したように力押しの強引な突破からパスへとカルロスは切り替え、僅かに開いたコースを正確に通ったボールはDFラインの裏に走ったエミリオへと渡る。
しかし、これはオフサイドだった。
ほらな。
石田はスピードだけでなくパワーでも自分を上回っている怪物に胸中で語りかける。お前には俺の行動なんか無駄で余計なことをしているだけにしか思えないだろうが、俺のプレイでほんの少し時間を稼ぐだけでも意味はあるんだ。
真田キャプテンのラインコントロールなら、ちゃんと自分とカルロスが行う刹那の攻防に合わせてラインを上げてオフサイドをとってくれると信じていた。
ほっと一息つく石田は、ぽんと肩に手を置かれた感触に気が付く。
「やるじゃないか石田」
「お、おう。ありがとう」
少し驚いて対応が雑になる。まさかカルロスがマークしている相手を褒めるような台詞を言うとはな。
日本にいた頃は自分のプレイを邪魔をした相手に声をかける奴じゃなかったんだが、精神的に成長したのだろうか。そして最後にちゃんと俺の名前を呼んでいた。
なんだよジョアンとかアンカーみたいな適当なあだ名じゃなく、カルロスだって俺の名前を憶えていたんだな。
カルロスが彼の名を呼ぶ前にちらりとユニフォームの背に目を走らせたことには気づかず、石田はにやりと唇をつり上げる。
しかしいい事ばかりは続かない。その時に彼の左腿の裏側にびりっとした軽い電流が走る。
あ、これは肉離れの予兆だ。
前に同じ場所を故障した経験が一瞬で症状を診断し、そう囁く。まあカルロスからの攻撃を止めるために無理をした代償ならば俺の左足一本ぐらいやっても悪い取引ではない。
だが、すでに日本は二人の交代枠を使っている。特にスタミナに不安のあるアシカがピッチにいる状況では自分の代役を立ててもらうのは難しい。だがもちろんカルロスのマーカーがゲームの終了まで足を止めることなどは許されない。石田にとっても日本にとってもハードな状況だ。
たとえカルロスのスピードがあったとしてもアシカがさっきのようにパスを通し損ねるなんて、これまでほとんどなかった。つまりまだアタッカー陣は動揺を抑えきれておらず、普段のプレイができていないのだろう。
ならばまだまだケツが青い前線の奴らが落ち着きを取り戻すまで、代表歴の長い石田が傷ついた体を張って何とかするしかないのだ。
「でもゴール前がストライカーの見せ場であるように、こういう過酷な場面が俺達みたいなアンカー役の華だよな」
そう呟いて戦況を見守る。石田にはパスでの展開力はあっても、自身のドリブル突破による打開力はない。いや日本国内のレベルで戦うならともかく、世界大会決勝という舞台では攻撃に関しては貢献できる武器が少ないのだ。アンカーのポジションで無理をすれば即失点に繋がってしまう。
だからキーパーと同様に点を取ってくれるように味方を信じ、ここで相手の攻撃の芽を摘む作業をひたすらこなすしかないのだ。
しかし、ブラジルにしたってそう簡単にゴールを割らしてくれない。後半に入ってから一気に逆転したせいか自信と余裕に満ちたディフェンスをしてくる。これではいくらアシカや明智といったゲームメイカーでもなかなか上手く攻撃の形を作るのは難しい。それどころか相手はカウンターで更に得点を加えようと虎視眈々とボールとゴールを奪うタイミングを狙っているのだ。
くそ、ほらまたおいでなさったか。
島津からのクロスはゴール前の上杉へ渡る前にカットされた。
だが今度の状況はかなりのピンチだ。これまでと違い明智が攻撃に上がった隙を突かれたカウンターである。カルロスに来る前にボールをカットどころか、時間を使わせて守備を整えさせる事さえできていない。
――マズイ。ここで抜かれたら試合が終わる。
石田の表情には険しさが増す。パスを受け取ったカルロスはいとも簡単にターンしてセンターライン越しに二人は正面から向き合った。石田の左足には軽い痺れが残っているがアシカも明智も居ない今、ここを守れるのは彼一人しかいない。
カルロスはおそらく自分の事を舐めている。ならば一発賭けるにはちょうどいいな。
石田はネガティブな感情抜きにそう考える。こっちはお前を相手にして止めるイメージトレーニングを同僚であった時から数えて何回やったと思っているんだ。最後には夢の中でまで一対一をやるはめになって、しかもそれで止められないものだから随分とうなされたんだぞ。
今更ながらやや八つ当たり気味の感想を抱く。だが、その悪夢にうなされた日々が今役に立つ。
イメージの中でも貴様に勝てたのは百回の内の一回ぐらいだった。その百分の一をここで現実の物にしてみせる。
カルロスは相手を気にするまでもないジョアンだと舐めている場合は、ほとんどフェイントをかけずにゴールの正面へとスピードで突破しようとする。これまでの敵だって判ってはいたが、それでも止められなかったのはカルロスは他の選手とは比較にならない程突破の一歩目が鋭く、そこから更に加速するために反応が間に合わなかったからだ。
石田はフェイントは全て無視した上でカルロスがゴールへの近道である自分の左を抜くと勝手に決めて、その一歩目の踏み込みのタイミングを捉える事だけに集中する。彼はたぶん日本で一番カルロスと一対一で負けた選手かもしれない。
だからこそお互いのリズムと癖は判っている。ただ石田にはカルロスのリズムが刻み込まれていてもカルロスの方は彼のプレイを覚えているだろうか?
ブラジルへ行った後の成長分の誤差はようやく修正できたのだ、そのスピード差は気合いで百二十%の出力を出すことで埋めてやる。石田は視線を強くし敵の僅かな挙動も見過ごさない。
カルロスは俺の事をまだジョアンだと思っているんだろ? だったら負けるわけにはいかないよな!
日本代表アンカーとしての誇りを百分の一しかない勝率のギャンブルに賭け、そして勝利した石田の足元には今ブラジル代表の十番から奪い取ったボールが収まった。
だが全力以上の反応を見せた代償もまた大きい。ボールを奪った瞬間、自分の腿の後ろでパンと軽い音が響いたのを石田だけが感じる。
なんだ故障する音はよくゴムが千切れるような音とか言われてたけど、俺の場合は風船が破裂するような音じゃないか。
その異変を感じ取った彼がまず考えたのは、痛みが来る前に仲間にボールを渡さなければということだった。
死ぬ前の走馬灯のようにではないが、周りがスローモーションのようにゆっくり動いてる中で石田の思考が冴える。
たぶんもうこの左足では踏ん張れない。だからいつもとは逆に右を軸足にして無理にでも左足でキックする。
ボールを蹴ったそのインパクトの刹那に代償がやってきた。
うめき声と共に体が勝手に少しでも痛みを逃がそうと身をよじる。
自分からのパスが明智に繋がったのを見届けて、石田はゆっくりと倒れそうになるが必死に右足一本でけんけんをするようにして体を支えた。
ここで倒れたら間違いなくプレイが止まり、自分がピッチの外に運ばれるまで試合が中断する。
だからこのカルロスからボールを奪ってブラジルの守備が緩んでいるワンプレイが終わるまでは、なんとか立っていなくては――。
駄目だ、倒れる体を片足では支えきれない。
そんな石田の傾いていく体を抱きとめたのは、カナリアイエローに身を包んだかつてのチームメイトだった。
「ぐうっ。サ、サンキュー、カルロス」
石田の言葉にどこか不機嫌そうに唇を歪めると、カルロスは遠いブラジルゴールを見やる。そしてそのしかめっ面が一層酷くなった。
日本が今のカウンターによってゴールしたのだ。
石田からは誰が得点したのかは判らない。それはアシカや上杉といった攻撃陣が気にすることだ。
とにかく今は日本がゴールしたことに喜び、次にドクターに左足の具合を診察してもわなくてはならない。
こんな風に二番目に自分の事がくるのがいかにも黒子役の彼らしい思考の流れだ。
石田は左足を浮かせたけんけんの要領でカルロスに肩を貸されて日本ベンチへ向かう。
「いや、本当に悪いなカルロス」
心を込めた謝罪にふんと鼻を鳴らして答える褐色の少年。
「オレを止めた人間を寝かせたままでいるわけにはいかないだろう。これは怪我したジョアンへの同情じゃなくて俺を止めた敵への敬意だ」
「……そうか」
「次にまた試合するまでには治しておけよ」
そうあくまでも偉そうに言い残すとベンチ前に石田を横たえ、すぐに敵陣へ帰ってしまう。
カルロスがボールを奪われたのが今回の失点した原因の一つなのだが、その後すぐに彼はディフェンスに戻らず敵の怪我人の世話をしている。
ブラジル側からすればちょっと納得がいかない流れかもしれないが、そんな不協和音は実力で黙らせるだけの自信がカルロスにはあるのだろう。彼の足取りに淀みはなかった。
横たえられた石田の左足を一目見た日本代表のチームドクターは、すぐに監督にバツ印を出す。
ああやっぱりここまでか。
覚悟はしていたが石田の胸にやり切れない思いがこみ上げる。限界を超えてプレイした事に対しては後悔はない。そうでもなければカルロスは止められなかったからだ。後悔しているのはそれで壊れるぐらいの鍛え方しかしていなかった事の方である。
――練習メニューを二十パーセント増しでやるべきだったか。代表メンバーの誰よりも練習で走っている汗かき役は、リハビリを終えるともっとハードなトレーニングにしようと心に決めた。
後悔を胸に秘めつつ、石田は氷のパックを左腿にテーピングでぐるぐる巻きにされた状態で仲間に「さっさとピッチに戻れ」と声を掛ける。
得点直後の再開されてない状況だからベンチ近くまで皆が詰めかけてきたが、俺なんかの心配をするより早く逆転の算段をつけろとぼやきながら石田は手を振って追い払った。うむ、ピッチから去る自分の心配をしても無駄だし――照れるじゃないか。
そのつれない態度にチームメイトは引き下がるが、ただ一人だけ一番付き合いが長く代表のディフェンスでずっと一緒にやってきた真田キャプテンだけがまだ残っていた。
「何かまだ用か?」
「いや……」
真田キャプテンは首を振る。彼も石田と同じであまり言葉が多い方ではない。だからよく厄介な貧乏くじを引かされるのだが、そういった面ではよく似たディフェンスのコンビだった。
結局真田キャプテンが残し、石田が答えたのはほんの短い単語のみである。
「後は任せておけ」
「……ああ、任せた」
交代のアンカーが入りチームの状況が一段落すると、監督が「馬鹿野郎」とかるく石田の頭を小突いた。もちろん患部には障らないように力の入っていない形だけの物だ。
「本当に倒れるまで走る奴がいるか」
「はは、俺はそれしかできないもんで」
石田は自分の足をさすり笑って答える。
「そうでもないだろう。お前はカルロスからボールが奪えたし、日本が一点差に追い付くきっかけも作ってくれた」
山形監督はそう言って今度は優しく石田の頭を撫でる。
「今のゴールはもしかしたらアシカや上杉がいなくても取れたかもしれない。だが、お前がいなければ絶対に入らなかった得点だぞ」
「……へへ、照れますね」
石田は首に巻いていたタオルを頭から被った。だってアンカーってポジションは黒子役なんだぜ、その目に汗が滲んでいるところなんて誰にも見せられるわけないじゃないか。
石田はいつも通りに全力を尽くし、今回もまたいつも通り味方にボールを託しただけだ。後はまたいつものようにピッチに立つ信頼する仲間にエールを送るだけしかできない。――後は任せたぞ、と。
奇しくもそれは真田キャプテンへ向けた言葉と同じだった。




