第七十四話 下手な日本語に苦笑しよう
審判が得点したカルロスを中心にしていつまでも騒いでいるブラジルに対し「そろそろ自陣に戻れ」と促している。
会場中がカルロスのビューティフルゴールに沸いているが、日本代表とそのサポーター席に限ってはそこだけ太陽が雲に隠れて光が差していないかのように暗く沈み込んでいる。
この沈滞ムードをどうにかしなければとも思うが、俺自身も頭の中は今カルロスに見せつけられたプレイで一杯だった。
あれは――卑怯だろう。
あんな化け物じみたスピードを身に付けるなんて、俺ではたとえ人生の始めから全ての時間を短距離走の練習に捧げたとしても到底無理である。
自分がすでに一回やり直せた事や鳥の目を持っている事などは棚に上げ、カルロスの持つ圧倒的なスピードに対する嫉妬の念が腹の中で熱を持ってじりじりと内臓を焼いていく。
だってあれだけのスピードがあれば、俺がこれまで苦労して身につけて磨き上げていたテクニックだの戦術眼だのがまるで意味のない無駄な物だったみたいじゃないか。
こんなに差がつくなんて、俺は一体今まで一体何をやっていたんだろう?
ぐるぐると体中を答えの出ない問いが駆け巡る。
これまで一日も怠ることなく鍛えてきたはずの足の感覚すらおぼつかなく、気を抜けばKOパンチを受けたボクサーのように芝の上に膝を突いてしまいそうだ。
そんなぼうっとした状態の俺の耳へふいに子供っぽく高い声が突き刺さった。
ブラジルを讃える大歓声の中で、棒立ちになりぼんやりと遠くなっていた俺の耳にも何か気になったのはどこかで聞き覚えのある単語のせいだった。「ブエナ・スエルテ」――この単語は確かスペイン語で頑張れって意味だったか。そう言えばスペイン語もブラジルで使われているポルトガル語もよく似ている言語だったよな。
カルロスはこれだけ大暴れしてもなお、もっと「頑張れ」って子供からも応援されているのか。
いやよく聞けばこの声は「ブエナ・スエルテ」だけでなく、その後に「マタネー!」とも続けて叫んでいるようである。なんだかおかしな声援だなと思いつつ、ふと何の気なしにその声のする方向に目をやる。
観客席の最前列でスペイン代表の酔いどれが立ち上がってこっちに向かって叫んでいた。
「ぶほっ」
俺の口から含んでいた水を吹き出したような驚きの音が漏れる。あいつあんな所でなにしてるんだ?
あ、いやスペイン代表は三位決定戦があったからまだイギリスにいるのはいいが、わざわざこの決勝戦を最前列で見に来ていたのかよ。
酔いどれの心配そうな視線と声援に元気を受け取るというより、恥ずかしい所を見るなよと負けん気がむくりと起きる。
ああ、そうだよな。こんなかつて倒したライバルに心配されている場合か?
俺達日本代表はあの酔いどれや船長を擁する無敵艦隊を沈没させ、赤信号がゴールを守るイタリアのカテナチオを開錠してこの決勝という場に立っているんじゃないか。みっともない姿を見せれば俺達だけでなく、これまでに戦ったライバル達までもが馬鹿にされてしまう。
俺達の肩には日本の名誉だけでなく、これまでに対戦した相手の誇りも乗っているのだから。
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
一連の深呼吸の間に大事なことを思いだした。やり直してからこれまで何をしてきたのか?
決まっているじゃないか、俺はこれまでサッカーを心底楽しんできたのだ。
だったらスピードではカルロスに負けたとしても、今ここでプレイしているのを楽しむ事だけは誰にも負ける訳にはいかないよな。
観客席の最前列にしっかりと顔を向け親指を立てて「心配するな」と合図する。
了解したのか満面の笑みと共に返ってきたのはまたもや「ブエナ・スエルテ! マタネー!」という両手を振っての応援メッセージだ。
でもな酔いどれ、俺の教えた「またね」っていうのは別れの挨拶だぞ。ちょっとお前の日本語の使い方は間違っているからな。
だけど、ありがとうよ。
さて出直しだと、精神的ダメージのせいでふらついて頼りなくなっていた膝に喝を入れるため太股を平手で叩く。
肌の痛みがちゃんと伝わって熱を帯びる。よし、これで芯が入ったな。
大丈夫だ、俺の足は動く。まだ戦えるし、これからもサッカーができる。
……うう、怪我がないのは良かったが気合を入れようとちょっと力が入りすぎた。腿に赤い手形が残るぐらいの威力でやってしまったな。だがそのおかげではっきりと目が覚めたぜ。
いつの間にかそばにやってきて、奇妙な目で俺の奇行を見つめていた上杉と山下先輩の二人が心配そうに口を開く。
「アシカ大丈夫か?」
「まだ足殴るんならワイも手伝おうか?」
……何となくこいつらがカルロスのスーパープレイを見ても、二点差がついてもへこたれない理由が判った。二人とも根本的に図太いんだ。
そう内心で悪態をつくが、彼らの顔色が青ざめているのにも間近で接してようやく気がつく。そうか、こいつらだって必死に強がっているんだな。
いくら神経が図太くてもこの状況に放り込まれて中学生が平気な訳ないじゃないか。こいつらでも表情が硬くなるのなら他のメンバーはもっと厳しい状態のはずだ。
まともに戦うためには、まずこの日本の停滞した空気を払拭しなくては。
また大きく息を吸い込むと今度は肺一杯の空気を叫びに変える。
「ああああ!」
意味のない、ただ大きいだけの声にピッチ上の注目が集まる。もちろん会場の観客もさっきの上杉と山下先輩のようにおかしな目で俺を見るが、そんな事を気にしてはいられない。
「絶対に勝つぞ!」
俺が続けて上げた叫びに日本代表の呪縛が解ける。
一番近くにいた二人からは「当たり前やないか!」「そのつもりじゃなきゃ、もう日本代表やかわいくない後輩を残して帰国してるよ!」と力強いコメントが寄せられた。うん、なんだかいつものうちらしく騒がしい調子が少し戻ってきたな。
次に日本代表の皆とベンチにいる監督に向けて唇をつり上げて笑顔を見せる。なんだか強ばってしまったような気がするからサービスでウインクまで追加だ。あ、目を逸らすなよ監督のくせに。
でもこれで虚勢でもなんでも山形監督に対しては俺が精神的に立ち直ろうしているのは伝わっただろう。
さてそろそろ審判が怒りだしそうだから、早くキックオフをしなければならない。
しかし試合を再開すると、またカルロスとエミリオが攻めてくると考えただけで足が震えるな。これだけプレッシャーのかかった経験は初めてだ。
ははっ、なるほど。世界最高峰の山を登りたければそれ相応の恐怖に耐える覚悟が必要という事か。
俺がどうブラジルを攻略するか思い巡らしていると、センターサークル付近まで頼りになる真田キャプテンが顔を出してこれまでのブラジルの攻撃で気になった点を指摘する。
カルロスのスピードによって失点したとしてもただ悔しがるだけでなく、そこから役立つ情報を読みとろうとする日本代表ディフェンスの柱も得難い人材である。
「ブラジルだって体力的に厳しいのはうちと一緒のはずだ。カルロスとエミリオがここまでやりたい放題に暴れ回っていられるのも、途中出場で体力に余裕があるせいと出ずっぱりの俺達のスピードが落ちているせいでもあるからな。ただそのせいでブラジル側も前半から試合に出て疲れが出ている奴らとカルロスなんかに微妙なズレが生じているみたいだ。あの左サイドバック――フランコか、あいつが今のカウンターに参加していなかったのもその証だな。その体力的・精神的なギャップを突こう」
「ああ、なるほど。島津さんみたいな攻撃好きなサイドバックのはずなのに上がってませんでしたからね。……そう言えばうちの島津さんはまだ攻め上がれますよね?」
「ああ問題ない。俺は下がれなくなった事は多々あるが、上がれなくなった事は一度もない」
……自信を持って「絶対に下がらない」と断言する島津にそれもどうかと首を捻る。まあ追いつかなければならない今、島津の守備力を云々しても仕方がない。日本の守りはスリーバックになっている事だし、もう島津は攻撃の駒としてだけ考えよう。
「島津さんに上杉さんと山下先輩はいつでもゴール前に走り込めるように準備しておいてください。攻撃のメンバーはもうこの際守備は忘れて、得点することだけを考えてプレイしましょう。後方の守備責任はきっと真田キャプテンや石田さんがとってくれますから。俺達は攻撃陣は同点に追い付く事だけに専念しますよ」
俺としてはこれだけの攻撃力を持つブラジル相手に前線が守備を放棄するというのはかなり怖い決断だと思っていた。しかし、皆の反応を伺うとそうでもなさそうだ。
「ハナからワイは守りはせんと言うとったやろ」
「俺も監督からこの試合では守りを免除されている」
「アシカ……ようやく俺を先輩と認めてくれたような気がするぜ」
攻撃陣は最初から覚悟を決めていたようだ。しかし緊張感が足りないのか後方は「いやその作戦の尻拭いをするのは僕かい?」「そりゃキャプテンなら当然でしょう」「石田! お前一人だけいい子ぶって責任免れようとしてないか?」「何の事やら」と騒がしい。やれやれ、ディフェンス陣も俺達を見習ってもっと試合中は真剣になってもらいたいものだな。
こうした話し合いもありなんとかチームは士気を取り戻せたようだが、所詮は空元気にすぎない。
それを確固たるものにするためには目に見える結果――つまりはゴールが必要である。
対するブラジルは後半に入り怒濤の四得点でムードは最高潮になっている。前半ノーゴールに抑え込まれた鬱憤もあるだろうし、元来攻撃好きのお国柄だから今の状況が楽しくて仕方がないのだろう。
だからこそ隙を突ければ日本のカウンターが成功しやすい状況でもある。
ブラジルは後半から逆転したとは言え、その得点に絡んだのはほとんどが途中出場したカルロスとエミリオの二人だ。このまま勝ったとしても、二人はともかく他のメンバーに対する世間の評価はどうだろうか? 彼らが自分達も得点したいと思うのは自然なはずだ。
そう、だからここでカルロスとエミリオの二人を厳重にマークする事により「二人にはパスコースがなかった」という言い訳を与えておけば、必ず彼ら二人抜きでのアタックをやろうと考える。
そうすればブラジル代表はきっと他のメンバーへパスするはずだ。
そこに罠を設置しておく。
真田キャプテンからの提案を受け入れたかなりのギャンブルだが、ブラジルの勢いを止めるにはこれぐらいしか思いつかない。
――そして俺と真田キャプテンが立てた作戦は見事に嵌った。
二人の点取り屋を敬遠するとなれば、向こうの選択肢は自ずと超攻撃的サイドバックのフランコに絞られる。ヤマを張って事前にパスコースを読み切っていた真田キャプテンがそのボールを見事にカットしたのだ。
さてそうなると、カウンターはボールを奪って反撃スタートしてからフィニッシュに到達するまでどれだけタイムを削れるかが勝負となる。
そう言いたげな意志の込められた速いパスをトップ下の俺にまで慌ただしく繋がれた。もちろん俺だって「いいカウンターとはフィニッシュに至るまでが最短タイムでのアタックの事である」という格言に従うよう、もたもたせずにダイレクトでゴール前へ流す。
よし、このタイミングなら通る。これまでの俺の計算では間違いなく前線へ繋がったはずのパスである。
強さもコースも狙い通り、ミスの入る余地はない。
これがゴール前の上杉に通れば逆転の狼煙になるはずだ!
だからそのボールがカットされたのはミスではない。他の国ではありえなかったブラジルだけが有する不確定の要素によって止められてしまったのだから。
そいつは爆発的なスピードで、彼以外ならば絶対に届かなかったはずのボールに追い付いてしまったのだ。これだから計算外の化け物は手に負えない。
――畜生、なんでお前がそこでディフェンスしているんだよカルロス!




