第七十話 王国の底力を思い知ろう
後半も開始間近になりピッチで足慣らしを始めようとした俺達日本代表は、同じくピッチに出現したカナリアイエローのユニフォームに身を包んでいる良く知っていた少年の姿に目を奪われた。
その横には同じく後半から出場するイタズラっぽく目を輝かせたちょっと小柄なブラジル代表のエースストライカーである少年もいるのだが、どうしてもこれまでの経緯や自然に放たれている強者の風格から長身の十番を背負った選手に注目が集まってしまう。
――やっぱり出てきたんだなカルロス。
ごくりと自分の喉が音を立てる。
思えば小学生時代に彼といつか一緒に戦おうと約束してからもう何年経ったのだろう。今では俺達の所属するチームどころか代表ユニフォームの色も国籍さえも違っている。だが、これでもカルロスと同じピッチで戦うという数年越しの約束は果たしたって事にはなるよな。ならば、後は日本にいる皆とここにいる仲間との「優勝する」というもう一つの約束を果たすだけだ。
勝利するための貯金として前半の内に二点も貯め込んでいたんだからな。イーブンな条件ではなくこの点差があれば、いくらカルロスのいるブラジルを相手にしてもプレッシャーを与える事ができて有利に戦えるはずである。
俺達日本代表のほとんどの選手とカルロスは知り合いのはずだった。だが元から持っていた彼の孤高の雰囲気は一層強くなっていて、黙々とアップをするカルロスにうちのチームの誰一人として話しかけられない。
ま、いいか。試合をやればプレイ内容でお互いのこれまでの練習の密度や積んだ経験などが嫌でも伝わり、会話以上に濃密なコミュニケーションとなる。
強敵の出現に前半以上の緊張感がピッチ全体を覆う中、後半戦開始の笛が吹かれた。
ブラジルのパスが初めてカルロスに回った瞬間、彼のトラップ一つでこれまでうるさかったスタジアムが静まり返る。観客席の全員が彼の起こす「何か」に期待して騒ぐ手を止め息を飲んだのだ。
山形監督は明智や俺にカルロスへボールが渡らないようにカットしろと言っていたが、向こうのキックオフからではどうしようもない。
とっさに膝と腰を落とし重心を低くした状態へ移り、いつでも来いと突破に備える。
だが俺達の背に走る期待と恐怖をはぐらかす様に、カルロスはあっさりとボールを後ろにはたく。
その途端観客席の全てから残念そうな溜め息がつかれるのを感じる。
なんだよ、ただのバックパスか。緊張に乾いた唇を舌で湿らせ一息入れようとすると、いつの間にかカルロスがすぐ自分の目の前にまで接近している。
嘘だろ? 今俺はパスの行方を目で追っただけだぜ。それだけの短時間で俺との間合いをゼロにまで詰めるなんて、こいつは瞬間移動でもしたのかよ。
これまでもスピードスターと呼ばれる快足の選手とは何度も対峙したが、あきらかにカルロスは他の奴とは桁が違うぞ。以前にこいつと戦ったのは小学生時代だから比較にならないぐらいに速さが増しているのは当然だ。だがしなやかさや軽やかさはそのままで走る姿は格段に力強くなっている。ハイパワーのレーシングカーを低いギアでゆっくり運転してもその背後に莫大なエネルギーが隠れているように、軽い身のこなしだけで彼我のエンジンの違いを実感してしまう。
マズイ、どこが体調不良だよ。
ほんの一瞬の踏み込みだけでカルロスが絶好調だって判るじゃないか。
風を切って俺の隣を通過していくカルロスに遅れまいと慌ててその背を追う。こんな奴へボールを持たせては堪らない。失点の危険を告げる警報が、後半開始してまだ一分も経過してないのに最大のボリュームで脳内に響きわたっている。
ここでブラジルのディフェンスからのグラウンダーのパスが、ピッチを斜めに横切って日本の右サイド後ろのスペースへ出された。
ピッチが丁寧に整備されているせいか、ボールは芝の上を滑るように転がっていく。やはり相手もこっちのウィークポイントである島津のいる――いや正確にはいつも留守にしているサイドから攻めてくるつもりか。
しかし敵のパスはブラジルの超攻撃的サイドバックであるフランコには通らなかった。
別に日本の守備網に引っかかった訳じゃないぞ。
ではなぜ通らなかったのか? カルロスがそのボールをカットしたからだ。
ほんの軽くといったダッシュと長いリーチのある足で、自分へ出されたものではない味方へのパスを途中で奪ったのだ。
こいつにボール持たせるなと指示されていたし、カルロスへのパスは全部遮ってやると意気込んでいた。だが今のパスは明らかにカルロスへ対してのものではない弾道だったので反応ができなかったのだ。
もちろん今の敵が出したパスにしたって俺が遮ろうとしなかったのは、カルロスへのパスではないと無視したのではなくカットしようとしても間に合わないと判断していたからだ。
それなのにこのブラジルの十番にとってはちょっと足を伸ばせば簡単に届く程度のボールだったのである。彼と俺の判断の基準が数年の間にかなり異なってしまっているらしい。
スピードがあるというだけで、カルロスはあらゆる行動にアドバンテージを得ているのだ。それを忘れてしまうと大変な事になってしまう。
ブラジルの十番がボールを持ったことで場内はブラジルサポーターを中心に今度は歓声が湧く。プレイ一つでサポーターの声援を止めたり上げさせたり、いちいち観客の感情を刺激する奴だなこいつは。
とにかくカルロスお得意の縦へゴールまでの直線的な突破だけは最優先で防がねばならない。
しかし彼の前へ守備ブロックを敷こうとするより速く、カルロスは行動を開始する。
だからお前はアクションのスタートが速すぎるんだよ! どうしてもこっちが後手を踏んでしまうじゃないか。
対戦時のカルロスの性格とプレイスタイルから、俺はこの場面では間違いなくドリブルで抜きに来ると確信していた。
しかしここで彼の選んだのはシュートだった。少なくとも俺はカルロスのキックを見てそう思ったのだ。
前に壁を作るより速くロングシュートを撃たれたと。
「キーパー頼む!」
俺を含む中盤の全員が日本ゴールを振り返るが、カルロスの蹴ったボールはゴールネットではなくその少し手前にいる小柄なブラジル人ストライカーにぶつかった。
いや、ぶつかったんじゃなくあれはトラップしたんだ。
カルロスの撃った強烈なシュートを受けたせいでボールが上に跳ねたからぶつけられたように見えたが、胸で勢いを吸収し真上に浮かべたらしい。
嘘だろ? あれだけのスピードとパワーのボールをコントロールしきっているのか?
だとすると、カルロスのあのパワフルなキックはシュートではなく狙い通りのパスだったのだろう。
相手の持つ高い技術とコンビネーションにぞくりと背筋の毛が逆立つ。
危険だ。ゴール前でボールを受けとった、ブラジルが誇る二大エースの片割れであるこのエミリオは一体何をするつもりだよ。
カルロスのキックに目を奪われたDFが接近するまでのごく短時間に、どうやってシュートを撃てばゴールになる確率が最も高いのか?
ブラジルのエースストライカーがその疑問に出した回答は、最も早いタイミングで最も強くシュートを撃つというシンプル過ぎるものだった。
しかし、それを実行に移せるのは常人にはできない発想と高い技術に優れた身体能力を併せ持ったストライカーであるエミリオだけだ。
トラップで浮かせたボールがピッチに完全に落下してくるのを待たずに、自分の頭の位置にまで落ちてくるとそれをオーバーヘッドでシュートしたのである。
高い打点から放たれ、慌てて守ろうとやって来たDFの足元を抜けて芝へ叩きつけられたようなアクロバティックなシュート。
カルロスをよく知っているだけに、彼にシュートされたと反応してしまった日本の守備陣。そのせいでエミリオへの警戒が薄れてしまっていた彼らにこれほど芸術的なシュートを止めるのは不可能だった。
オーバーヘッドで上から叩きつけられバウンドしたボールが、下からゴールネットを突き上げる。
芝の上に「ぐぇ」と日本語でもおそらくブラジルの公用語であるポルトガル語でもない呻きを上げ、背中から着地したエミリオは芝の上に横たわったまま右腕を高々と上げて人差し指を一本上げる。
オーバーヘッドで得点した直後というのに格好良いというより、悪戯が成功して喜んでいる子供といった風情である。
その上ブラジルの選手が集まってくるよりも早く、首の隣に両手を置いて下半身を引きつけるとそれを戻す反動――いわゆるヘッドスプリングでぴょこんと起きあがったのだ。
その姿にはすでに背中から落下したダメージの影響は欠片すら残っていない。受身が上手いというのもあるだろうが、こいつもまた体中がバネかゴムで出来ているような柔らかく鮮やかで重力を感じさせない少年だ。
――カルロスだけじゃなく、こんな化け物までいるのかよ。
ブラジルの人材のあまりの豊富さに舌を巻いてしまう。
それに中盤で数人掛かりで潰すはずだったカルロスがアシストに回ったのもマズい。これまではどんなに囲んでも強引にフィニッシュまで持っていくタイプだったが、彼がゴール前に決定的なパスを供給する事も考慮すると事前に講じた前を切る作戦でいいのか不安になってしまう。
いや、まだ日本がリードしているんだ。何を心配しているんだよ。落ち着いてこれからの失点を防げばいいだけだ。
ブラジルサポーターの前で軽々と前方宙返りをして喝采を受けているエミリオの運動能力にちょっと引きながら、きっと大丈夫だと自分に言い聞かせる。
二分後、またもブラジルのゴールが生まれた。
失点の動揺を隠しきれない日本ディフェンスを切り裂く単独のドリブル突破からDFを引きつけたカルロスがラストパス。
マークの甘くなったエミリオがシュートするがこれはマークしていた武田が必死に体でブロックする。だがそのこぼれ球をずっと日本のゴール前まで上がりっ放しだった、ブラジルの超攻撃的左サイドバックであるフランコに押し込まれたのだ。
トップ下カルロスの突破力、FWエミリオの決定力、DFのはずのフランコの攻撃意欲。どれをとっても厄介きわまりないが、三人揃うことでより一層危険な化学変化を起こしている。
あれよあれよと言う間の同点劇にブラジルサイドは湧き上がっている。ベンチに座っていた敵監督まで飛び上がってガッツポーズを作っているんだから、さすがに南米のチームはノリがいい。
向こうで唯一不服そうなのは、シュートの直後に二本の指をピースサインのように上げかけてはすぐにこそこそと隠したエミリオぐらいだ。
前半俺達日本があれだけ必死になって積み上げた二点のリードは、たった五分間のブラジルベストメンバーによる猛攻によって、大波にさらわれて崩れ去る砂の城のようにはかなくも消滅してしまった。




