第六十九話 不吉な予兆には気を付けよう
足利家のリビングに設置してある大画面テレビからは、日本代表の前半のプレイに関する実況が早口で流れてくる。半ばを終えて日本がブラジルを相手にリードしているという予想外の試合展開に、興奮した口調でアナウンサーが捲し立てているのだ。
『日本代表がブラジルを相手に二点のリードという願ってもいない状況です。失礼ながら優勝候補筆頭のブラジルを相手にここまで素晴らしい戦いを見せてくれるとは思っていませんでした。引き分けてPK戦になってもいいというような、守りに徹してからのカウンターなどではありません! 堂々と正面から撃ち合ってのこの点差なのですから、松永さんこれはもう偶然などではなく日本の実力と考えていいんですよね!?』
『……偶然かどうかはともかく日本に実力があるのは確かです。なにしろこの代表は私が基礎を整えたチームですしね。それに力がなければこの世界大会決勝まではたどり着いてはいませんよ。しかもこの試合に限っては、幸運の女神も日本代表に味方しているのも間違いありません』
日本が有利な形勢なのにどことなく残念そうな翳りのある解説者の松永だった。それでもさりげなく日本代表の好成績に対して自分の手柄を混ぜているのは抜け目がない所だ。だが松永が日本代表が優勢なのを快く思ってないのを察知したのか、アナウンサーが無邪気さを装った声をかける。
『どうしました松永さん? 松永さんが予選退任したチームを山形監督が短期間で立て直したとはいえ、日本がリードしている最高の状況じゃないですか、そんなに陰気にならずもっと元気に行きましょうよ。それともまさか敵であるブラジルの応援でもしてるんですか?』
『あ、いやそんな事はありませんよ! 日本が押しているのは嬉しいですし、別に敵のブラジルがなんで調子が悪いんだろうなんて心配も……ああ元教え子のカルロスが今日の試合に出場していないのは心配ですし、残念だとは思いますが。そう、さっき述べた日本の幸運というのは彼が欠場している事に対してです』
『ああ、なるほど。元日本代表で、今はブラジル代表に加入しているカルロス選手の事もありましたね』
アナウンサーは手元の資料にさっと目を走らせる。
『カルロス選手について少し視聴者にご説明しますと、日本とブラジルのハーフであり二重国籍だった彼はしばらく前にブラジル代表になることを表明しました。そしてそれまで参加していた年代別の日本代表から引退し、改めてブラジル代表に入ったという事のようです』
資料を読みながら首を捻る、この辺はアナウンサーもよく理解できていないようだ。ざっと流す感じ説明を終えて国籍や代表資格の問題は簡単に流そうとしている。
『えーとそして彼がなぜ今日出場してないのかは、ちょっとこちらでも判りません。怪我や体調不良といった情報も入ってきていませんし、一体どうしたのでしょうか? あるいはこれもブラジルの作戦で後半からの投入があるのでしょうか?』
『馬鹿なことを言ってはいけません』
これだから素人は、と吐き捨てるように松永がアナウンサーの推測を遮る。目の前でしかもマイクに音声が拾われるにも関わらず思いっきり馬鹿にしている。
『カルロスやエミリオといった超一流クラスの選手が試合に出られるなら、どの監督でも間違いなく先発出場させますよ。素人考えのようにわざわざ後半からと時間を区切って出場させるなんて、戦力を逐次投入するようなもったいないことはしません。
ですから彼らは試合に出られない事情があると言うことでしょう。……私が育てたブラジルが誇る世界最高峰のアタッカーを見ることが出来ないのは非常に残念ですが、これも日本にとって追い風です。後半もこのまま失点しないように丁寧な試合運びをしていれば、この二点のリードを守って逃げきりで勝利できる確率は高いですね』
『……おお! アナウンサーに対しても容赦なく辛口コメントするのが持ち味の松永さんから勝利の太鼓判を押されました日本代表。はたしてすんなりと世界一になれるのでしょうか? その彼らの勇姿はもうすぐ始まる後半戦でお楽しみください。それでは一旦CMです』
コマーシャルに切り替わった画面に、それまで息を詰めていたのか大きな吐息が二つ。リモコンでテレビのボリュームを小さくして音を絞るのはこの家の住人ではなく招かれた少女だ。
決勝戦もまた当然のように、北条 真と足利の母はリビングで一緒に応援している。
今日は家の中には女二人だけのせいか、両方とも涼しげで楽な服装である。
自分の家のために部屋着の足利の母はともかく、真は純白でシンプルなラインのワンピースだ。長い黒髪と縁無しのメガネがアクセントになって避暑地にきた読書好きのお嬢さんのような見た目である。
この二人が観戦しているといつもの日本代表のハラハラする試合展開ならば、見ていられないと足利の母がおろおろしては画面から目を離すのを真がフォローする事態になる。とは言ってもせいぜいが実況を伝えたり「大丈夫ですって」と不利な状況下でも励まして手を握ったりなどしているだけだが、今日に限ってはそんな苦労は必要なかった。
なぜか日本らしからぬリードを保ったままの安定した試合っぷりに、足利の母も安心して観戦ができている。
これまでの真の仕事は、二人とも好んでいないコマーシャルの時に音を小さくするぐらいしかなかったのだ。まあ日本代表がブラジルをここまで押す展開になるとは誰も想像していなかったのだが、真の仕事がないのはいい傾向だろう。
しかも二人が応援している息子と幼馴染みの少年である足利 速輝はこれまでに二アシスト。日本の全得点に絡む大活躍なのだ。彼を嫌っているはずの松永でも文句がつけられないほど十分に司令塔としての役目を果たしている。
こんな余裕たっぷりの状況では観戦している二人の女性のムードも穏やかなものだ。
にこにこしながら真が紅茶の入ったティーカップに口をつけた。
「ん、美味しい。香りもいいし、マスカットみたいな果実の風味もさっぱりして飲みやすいです。それになにより日本が優勝しそうな時に飲めるというのが一番嬉しいですね」
えへへ、と多少の猫を被り通ぶって紅茶を評論する真だったが、足利の母もその年齢より若く見える顔にちょっと失敗しちゃったとバツが悪そうな笑みを刻む。
「あの真ちゃんには悪いけどちょっと間違えちゃった」
「え、何をです? じゃあまさか私がグルメ漫画で学んだばかりの美味しい紅茶を褒めるべきポイントがずれてたんですか? もしかして実はこれが本当は紅茶に見せかけてコーヒーだったとか!?」
「コーヒーと紅茶を間違えるなら病院へ行った方がいいわね。そうじゃなくてそのティーカップがお客様用じゃなくて速輝のいつも使っている物だったのよ」
その返答を聞いた瞬間、真は「え? あ! じゃあこれって!?」と慌ててカップから口を離して自分の手でその瑞々しい唇を覆う。それを「あらあら」と急におばさん臭くなった仕草で面白そうに見つめる母親。
しかし、微笑ましい光景はそこまでだった。不意になんの前触れもなく真が手にしていたティーカップの取っ手が割れ、まだ中身が入ったまま床に落下したのだ。
床からのカップが粉々になる澄んだ音に体をすくめ「きゃっ」と意外に女の子らしい可愛い悲鳴を上げる真。「あらあら」とおっとりした態度は変えずに、手早く真をカップが割れた現場から避難させる足利の母。
「真ちゃんはどこにも怪我はない? 体や服に紅茶はかかってないわよね? あ、割れたカップを素手で触っちゃだめよ手を切っちゃうから」
そう言っててきぱきと後始末を始める。今のは真にはなんの落ち度もないアクシデントだが、庇われた形の真の方が棒立ちになって手持ち無沙汰だ。
中身の一滴もかぶらず、破片でかすり傷一つおっていないのに自分が手にしていたカップの掃除を見ているだけというのが申し訳なさを募らせる。
真の内心は八つ当たりの対象を探し、これもきっとアシカのせいだ、あいつが意地悪だからティーカップも私に意地悪するんだと完結する。
理不尽な怒りの対象をここに存在さえしていない幼馴染みし、彼が帰国したらとりあえず藁人形二号君をぶつけるのが彼女の予定に追加決定された。
真も何かお手伝いをしたかったが、足利の母から細かい破片が落ちているのかもしれないのでその場から動いちゃダメと制止されてしまう。家主の言葉には逆らえず、手伝いもできないで見守るだけの真を尻目に、さっさと全て終わらせる足利の母。
彼女は真に女子力の差を思い知らせ、多少の劣等感を抱かせたことも知らずに一番大きく残っていたカップの欠片を見つめて首を捻る。
「このティーカップはひびも入ってなかったみたいだし、まだ買ってから日も浅かったのになんで壊れたのかしら?」
「あの、ごめんなさい……」
「ああ、真ちゃんのせいじゃないわよ。きっとこれはいつも速輝が乱暴に扱っているせいね。あ、それよりもう後半が始まりそうじゃないの」
カップ破損の掃除などをしている間に後半が開始する時間になっていたようだ。
リビングの大画面テレビの中では、日本の選手達がセンターサークルに集まってキックオフをしようとしている。それは今まで彼女達も何度も目にした光景であった。だが何か……画面のどこかに違和感がある。
「あれ? 日本ボールからのキックオフだったかな?」
真が疑問を発し、居心地が悪いもやもやした物を抱えて顔を見合わせた二人。違和感の正体は判らないながらもとりあえず紅茶のこぼれた場所を避けて座って大切な少年の戦いを見守ることにした。
そこでようやく真と足利の母が腰を落ち着けてテレビ音声のボリュームを上げると、やっと届いたアナウンサーの言葉と画面の上に表示されている文字で違和感の正体を把握したのだ。
『さて同点に追いつかれてしまった日本代表。まだ後半は五分しか経過してませんが、なんとかこのブラジルに傾いてしまった流れを断ち切ってほしい。頑張れヤングジャパン!』
「……ええ!?」
画面の上には試合映像の邪魔にならないよう小さく「後半五分 二対二」と表示されていた。どうやらティーカップを割った際のゴタゴタで目を離している内にすでに試合の後半は再開されていたようだ。
しかも、日本にとってはかなり悪い方向への展開へ、である。
それを確認した今度もまた、二人の女性の声が揃う。
「嘘でしょう!?」
――残念ながら本当だった。




