第六十七話 先輩とは仲良くしよう
日本代表が先制した事で明らかにゲームの流れがこっちに傾いた。
元々ブラジルはグループリーグで完勝した相手の日本が決勝の敵となり、油断とは言っては酷なぐらい僅かかもしれないが見下す気持ちがどこかにあったのだろう。それはまあ仕方のない事だよな。
たった二週間前に手も足も出なかった相手が、それから現在までの短期間に自分達を上回るほど急激にレベルアップしているとは考えにくい。
ましてや気分屋で楽天的な傾向のあるブラジルの子供の集まったチームであれば、試合前に監督やコーチがどんなに気を引き締めろといってもそう簡単に必死にはなれなかったのだろう。
それなのに決勝という大舞台で見下していた相手に一点とはいえリードされて、チーム内で少なからぬ摩擦と混乱が起こっているのだ。明らかに彼らの間に漂う空気が刺々しい。
この隙を突かない手はない。
島津に上がれとハンドサインを――出そうとしてすでに敵のDFラインにまで侵入していることに気が付いた。本当に暇があればサイドを上がっていく少年である。頼りになるが、また同時にかなりリスキーでもある。
しかし、それを咎めようにも今対戦しているブラジルの左サイドバックもまた似たようなメンタリティで日本陣内に侵入しているのだ。
この二人の守らないDFが居る限りスリリングなゲームが落ち着くことはないだろう。
だがゲームをコントロールする事はできる。そしてそれが俺の役目なのだ。コントロール不能の右サイドには見切りを付け、今度は指示に従ってくれる明智や石田といった中盤の仲間にサインを出す。
その二人がここまで張り付いているブラジルのトップ下ポジションの選手は、司令塔として優秀であるが化け物ではない。マークを何枚も一人でひっぺがしてゴールに結びつけるのは無理だろう。そりゃいくらブラジルだって、カルロスや酔いどれといったレベルのプレイヤーがごろごろしている訳がない。もし控えまで同レベルの怪物だったら、俺は白旗を掲げて泣き出すぞ。
幸いこのトップ下は天才ではなく、俺達でも理解が届くクラスの有能な選手である。だからこそ彼の打つ攻め手がある程度読める。いや誘導することが可能なのだ。
折りよくちょうどそのブラジルのトップ下にボールが入る。
これは明智の事前のチェックが幾分甘かったせいだ。そのおかげでパスはもらえたものの、なかなかそこから彼にとって都合良く展開してくれない。うちのアンカーである石田は、カルロスの出場を想定していた時もマーカーとして一番手に上げられているほど一対一は上手いのだ。相手が今みたいな窮屈なポジションで背を向けているなら、そう簡単に抜かせるどころか前を向かせもしない。
あ、でもトップ下の選手が上手い体捌きで綺麗にターンして日本ゴールの方へ振り向いた。いや、舐めてたわけじゃないがさすがはブラジル代表だ。
だが、ここで後ろから追いついた俺がちょっかいを出す。そう楽に石田に一対一ができると思うなよ。
横目で俺の姿を確認した相手は舌打ちしそうな顔で個人突破を諦めた。
そうなると次はパスで来るはずである。うちの急所であり、しかもブラジルの左サイドバックであるフランコが待っているサイドに向けて。
セオリー通りにトップ下からフランコへとボールが出される。技術が高いだけあってその狙いはオーバーラップしているフランコの足下へ直線を引いたコースから寸分の狂いもない。だからこそ判りやすい。
そこに罠を張っておいて良かったぜ。張ったヤマが見事に当たり、ブラジルの超攻撃的サイドバックへのボールは届かない。寸前でトップ下のマークから離れて、隙を窺って気配を消していた明智がパスカットに成功したのだ。
「ナイスカットだ明智!」
「お前ならやってくれると思ってたぞ!」
「このぐらい当たり前っす!」
今のプレイに協力した俺と石田が口々に褒める。それを受ける明智も照れくさそうだが誇らしげだ。
そしてこの声でブラジルはフランコを狙わせたのが完全に罠だったと理解してくれたはずだ。日本語は判らないだろうが、全員がくどくなるほどドヤ顔をしてやったしな。
罠だったとそう印象づけておけば次に島津のいない右サイドから攻める場合、一瞬の躊躇いとパスカットを狙っている奴がいないか慎重な確認を必要とするはず。そのほんの僅かだが守備にとっては何より貴重な時間を得るために、今のパスカットに関わった三人が協力して偶然ではなく連携してボールを奪ったと敵にアピールしたのだ。
だが、せっかく日本ボールにしたのだから攻撃の糸口を見つけなければ……って考えている間に明智が力強くボールを蹴り込んだ。
今度は逆にブラジルのサイド奥深くに待っている島津へのロングパスである。
しかしそれもまた敵に遮られてしまう。
日本から見て右サイドを守っているはずのフランコがいなければ簡単に通るはずだったのだが、ブラジルのボランチの一人がいつの間にか空いているはずのスペースをカバーしていたのだ。
ちぇっ、俺達と同様に超攻撃的なサイドバックを持ったチームは、ディフェンス時にそこを突かれるのは想定済みって事かよ。
悔しそうに「……っす」と小さく放送禁止用語を呟く明智に「ドンマイ!」と励ます。
長い目で見れば今のロングパスにしても悪くはない。ミスしたのは残念だが俺一人に攻撃の指揮が偏らないのが大事なのだ。俺だけにボールが集中するとなれば相手も囲んで潰しに来るだろうからな。そうならないよう、決定的な場面以外ではパスを散らすようにもしなくちゃいけない。
しばらく両チーム間での主導権争いが行われる。
先制点を取った日本と個人技術に勝るブラジル、どちらの綱引きが勝つか正面からの力比べだ。そのためにお互いに攻め込むのだが、決定的なシュートまではなかなか至らない。
中盤でのパスルートの潰し合いに空いたスペースの優先権争い、オフサイドラインの駆け引きに大きなサイドチェンジでディフェンスの寸断と体力の消耗を狙うといった地味だがハイレベルな攻防が繰り広げられているのである。
どちらのチームも我慢比べを強いられる中、僅かに焦りの色を見せ始めたのはブラジルの方だった。
正確に言えばトップ下とFWの二人のプレイが序盤に比べ、微かに荒く直線的なものになっていたのだ。この時間帯ならまだスタミナが切れるはずもないし、エースの代役を務めさせられているプレッシャーでも感じているのだろうか? とにかく日本にとっては明るい材料である。
強引にシュートを打とうとするブラジルのFWを武田は体で止めた。彼はブラジルベンチで欠伸をしているエミリオのような素早いテクニシャンタイプを相手にするより、今相手している大柄なFWの方がやりやすいようだ。
特にこういったパワー対決に関しては本当に強い。海外の大型選手と競り合ってもまるで引けは取っていない。ましてや余裕がなく焦っているようなプレイではそう簡単には出し抜かれたりしないはずだ。
ほら、その証拠に二人の激突でこぼれ球を処理した真田キャプテンからボールが攻撃陣に渡って反撃のチャンスが回ってきたじゃないか。
石田、明智とボランチを経由して俺へパスが通る。この辺は連携に慣れているし、スペイン戦でもっと厳しい組織的なプレスを受けていたので高速でボールが展開するのだ。
ブラジルはその展開速度にちょっと対応が追いついていない。最終ラインはともかく中盤のプレッシャーがかかっていないぞ。
パスで振り回され、マークがルーズになったピッチのど真ん中を俺はドリブルで進む。
しかし敵も中盤はともかくそれより先の危険なエリアまでフリーにはしない。すぐに敵のディフェンスが飛んできた。
その相手が俺に付く前に、山下先輩へパスを出してダッシュのテンポを更に一段上げる。先輩も心得たものですぐに俺へとボールを戻し自分も走る。シンプルなワンツーだが相手の組織が整っていない場合は威力は絶大だ。
俺がフリーになった事で日本のアタッカー達が俄然活気づいて、ブラジルゴール前になだれ込む。
残ったDFが「何やっているんだ!」と我慢しきれずに飛び出すが、俺はちらりと顔を上げ上杉とオフサイドラインを確認する。もちろんこれはフェイントだ、それが効いてDFにチャージしていいのかと刹那の迷いを生じさせる。
そこでもう一手、左肩を入れて半身になる。
アタックしかけていた敵DFはピンときただろう、このモーションは一点目の時に使ったルーレットだと。慌てて回転に巻き込まれないように一歩下がる。
そこまで足を止めさせれば十分だ。
半身になった姿勢から一気にブラジルゴールへ向けてカットインする。そのリズムと縦への変化についてこれないDF。
中央のディフェンスは上杉についている「サンパウロの壁」クラウディオを除けばあと一枚。そいつが俺へ突っ込んでくる。
どうするコースは狭いがここからシュートを撃つか? いやこのタイミングでエリア内に走り込んできた人影がある。
顔を上げるとそこには島津の姿が。さすが「ゴール前に常駐するDF、ただし敵ゴールに限る」と揶揄されるだけのことはあるぜ。
視線でしっかりと島津を捉えたままキックし、俺が出したパスは狙い通りに山下先輩へ渡った。
「え?」
幾つかの声が重なる。言語の差はあれ全てがノールックパスへ対する驚きの響きだ。
その中でも大きいのは日本人ストライカーの二人だが、島津には飛びしたキーパーがそして上杉にはクラウディオが密着していたんだから仕方ないだろ。
島津が引きつけた後のスペースに走り込んできた山下先輩ならノーマークで、簡単にシュートまで持っていけるんだ。
先輩の落ちついた、威力よりコースを重視した軽いキックはブラジルのゴールへ優しく滑り込みゴールネットで乾いた音をたてる。
ここまで若干目立たなかった山下先輩が仁王立ちし、人目もはばからず歓喜の叫びを上げた。
「見たか、俺が日本の十番なんだぞ!」
ユニフォームに背負った数字を親指で示し、自身のプライドを込めた短い叫びを世界中に届けと吼える。
ああ、先輩はカルロスを勝手にライバル認定して、自分で選んだ十番もエース番号だとプレッシャーを感じていたみたいだもんな。
叫び終えた山下先輩はどこかすっきりした表情でこっちに駈けてきては、俺の首に腕を絡ませるようにして無理矢理肩を組む。
いてて、これは肩組みってよりプロレスの技であるヘッドロックを掛けてますよね。タップしても離してくれず、その首を極められたままの格好で日本のサポーター席まで一緒に走ることとなった。
いや、この姿勢は転びそうで怖いんですが。そう抗議しようとするがその前に満面の笑みで山下先輩が声を弾ませる。
「最高のパスだったぞアシカ!」
あまりにストレートな物言いに、ちょっとなんて答えればいいのか判らなくなる。
「あ、いや、まああのノールックパスに反応できる先輩もさすがですよ」
「そりゃアシカみたいな奴と何年もやってりゃ、自然にあそこで飛び込むんだという阿吽の呼吸が叩き込まれるさ」
「ええ、助かります。ノールックパスは受け手が判ってくれないと単なるミスキックになって恥ずかしいですからね」
サポーターの集まる前に到着すると俺と先輩の二人が肩を組んだまま残ったもう一方の手を上げた。うわぁ、歓声がシャワーどころか鉄砲水のように襲いかかってくるじゃないか。
他のメンバーが追いついてくるとさすがに組んだ肩は外さないといけない。その前にぐっと引きつけられ「お前が後輩で良かったぜ」と小さく囁かれた。
こんな褒め言葉を山下先輩から聞いたのは初めてかもしれない。いつもはアシストしてもさっきみたいに「ナイスパス」ぐらいしか言ってくれない厳しい先輩だからな。
少し照れたような赤い顔をして俺から離れ、皆から手荒い祝福を背に受けている山下先輩の姿に頬が緩む。
決勝のせいか変なテンションでの先輩からかけられた言葉で困ってばかりだ、今度はこっちが反撃してやる。
「山下せんぱーい、歓声が凄くて聞こえなかったんですが、今なんて言いました?」
俺のにんまりとした表情と棒読みの口調にからかわれていると瞬時に判断できたのだろう、さらに顔を赤く染めて「アシカみたいに先輩を敬わない奴は大っ嫌いだぁ! でもこれからもちゃんとパスはよこすんだぞって言ったんだよ!」と叫んだ。
いやぁ、やっぱり俺と山下先輩の関係は変に馴れ合うよりこの怒鳴り合う「かわいくない後輩」と「すぐ怒る先輩」の方がしっくりくるな。




