第六十六話 鬼の居ぬ間に先制しよう
前半も十分が過ぎ、互いの力量を探り合う段階は終わった。
ここら辺でそろそろ本腰を入れて点を取っておかないとな。
格下が格上を倒す――いわゆる「ジャイアント・キリング」に何より必要なのは先制点である。俺は今日の試合の手応えからして日本がブラジルより格下だとは思わないが、スタジアムの席を埋めている観客の大部分は圧倒的に日本が不利だと考えているだろう。
ブラジルだってそのつもりだろうし、ましてや日本はグループリーグで下した相手なのだ、少なからずサッカー王国としての驕りがあるはずである。だからこそ前半の内に一点、いやできれば二点以上取ってしまいたい。そうなれば後半の敵は焦りが焦りを呼んで普段のプレイができないという悪循環に陥るはずだ。
おっと、そんな先の事よりまずは先制点を取りに行く事に集中しようか。
折りよくボールが足下に来たのににやりと唇をつり上げる。これはボールが自分の元に来たからだけではない、背後にいる邪魔なマーカーを抜く算段がついたからである。
こいつはブラジルで攻守の要に位置するボランチのポジションを任されるぐらいに、速くて上手い好選手だ。
だが試合前に仮想敵だと想定していたカルロスのように常軌を逸したスピードスターではない。
そして準決勝で戦った酔いどれほどに何をされたのか判らず抜かれるほどのファンタジスタでもない。
毎日俺がイメージトレーニングで戦っている相手のレベルではないのだ。彼らに比べると技術やフィジカルといった要素だけでなく存在感からして違っている。
選手が放つオーラとか格の差なんて物は画面には映らないし、外で話せば絶対笑われるだろう。だけど同じピッチに立つと時々「本当にこいつは人間か?」と疑いたくなるような一種異様な雰囲気と存在感を持った奴に遭遇する事がある。
もちろんそこら辺にいるんじゃない。世界大会レベルになると偶に出現するのだ。
例えばイタリア戦で会ったキーパーの「赤信号」、あいつはゴールに立っているだけでどこにシュートを撃っても入りそうにない雰囲気を放っていた。ドイツの「皇太子」の持つ風格はこいつをドリブルで抜くのは無理だとつい逃げのパスを選ばせてしまう。スペインの「酔いどれ」は逆にふらふらとした浮ついた空気ですぐボールにちょっかいを出したくなるが、そうするといつの間にか抜き去られている。
おそらくカルロスやエミリオといった今日はお休みのスター達も独特の空気を持っているはずだ。そういった怪物達との戦いに比べると、ただ上手いだけの選手には付け入る隙もやりようもある。
ああ、なるほど。早い内から海外に出て強豪との試合経験を積んでおけと言われるはずだ。強敵と戦った事があるだけで、それよりも格下の相手を見下してプレイができる。
舐めているのではない。あくまでも強気で積極的に挑めるという意味だ。
こいつらブラジル代表のプレイヤーは一対一の勝負には強い。だがこれまでの観察では選手間のコンビネーションがまだ確立されていないような感じがしている。
敵の声や間合いの取り方をなどちょっとした物かもしれないが、ピッチ上で直に対面していると微妙にブラジルの連携が上手くいっていないように肌で感じるのだ。ああ、悪いとまで言うのは過言だが、連携を含めた守備に関しては他国並に落ちるというぐらいが正確か。
だからここはまずパスでブラジルの守備組織を揺さぶる!
一旦明智にはたき、マーカーから斜めにずれるようにして前を向く。今日の明智はカルロスがいない分前目に位置しているのでパス交換がしやすいぜ。
ほら、そのおかげで敵ゴール方向を振り向いた俺へちょうどいいタイミングでボールが戻ってくる。
マークしているボランチも俺がボールを渡した際、少しだけこっちから注意を外したな。俺があくまで一対一での突破にこだわっていれば集中力は削がれなかっただろうに、仲間にパスした瞬間はそのボールが向かう先であるチームメイトの守備を気にしていた。完全に仲間を信用しきれていないってことだ。
振り向いた俺はドリブルでの勝負も行ける状況だが、ここでは山下先輩へのパスをもう一度選択する。先輩がマークを外しながらボールを受け取る態勢になっているのだからここは右サイドを活性化させねば。
山下先輩が受け取ると、にわかに右サイドは慌ただしくなる。
急いで先輩に急行する相手DFとそのさらに外側から回り込むようにオーバーラップしていく島津。ブラジルのディフェンスが右サイドへ引き付けられる。
俺や明智も同時にポジションを押し上げ、一気にブラジル陣内は構築しているDFラインが張り上げる声で賑やかになった。
ここで目立たないながらも重要な役目で汗をかいているのが左サイドウイングの馬場だ。彼が何度もゴール前に突っ込むポーズを見せ、そして一歩引いては自分の前に誰もいないフリースペースを作ろうとしている。
こんな動きをされてはブラジルのDFも彼を無視できずに、ディフェンスを中央だけに絞りきれない。
そんな中ボールを預けられた山下先輩もドリブルではなくタメを作ってパスで俺へ戻す。さらに俺はそれをダイレクトで明智へ流した。
個人で当たるより連携で勝負した方が分がいいというのは俺達攻撃陣の共通見解だ。明智もまた余計な手間をかけずにこっちへ戻す。ボールを長く持っていない分、日本代表の個々に張り付いたマークが機能していない。パス&ゴーの連続で一人ではなく中盤の組織ごと敵陣へ攻め上がっていく。
よし、いい位置とタイミングだな。
ここまでパスでボールを進めるのに徹していたからこそ、最後の個人技での勝負が効果的なアクセントになる。
俺はボールをトラップしたその足で巻き込むようにしてルーレットを開始する。
これは回転する時に相手を引き込むようにして自分との位置関係を入れ替えるのが技の要となる。
俺がトラップしてボールを止めると、ようやく来たかと足を出すマーカーに「ご苦労様」と彼の勢いを利用するようにぐるりと回転し綺麗にポジションを入れ替える。
ははっ、小学生でのデビュー戦からずっと磨き続けたこの技も、世界の舞台で十分通用するぐらいにまでレベルアップしているじゃないか。
だがそんな喜びも束の間、かわして無人になったはずのマーカーの影になっていた場所からもう一人DFが現れた。読まれていたはずがないとは思うが、抜かれると勘で食いついてきたのならばさすがにブラジルだと言うしかない、信じられないほど対応が速ぇ。
ルーレットが終わった瞬間に訪れる停止したタイミングを狙われていると感じた俺は、とっさに止まらずに回転を連続で続けることにした。
しかし二回目のルーレットは敵との距離がやや離れている。
さっきも説明したがこの技は敵を引き込めるかどうかが成否の鍵を握るのだ。この距離では敵を回転に巻き込むにはいささか苦しい。
俺へチャージをしかけていた相手もそれは百も承知なのだろう、ステップを踏み自分の立ち位置を変えて二度目の回転に巻き込まれないようにしていた。
それでも連続回転するなんて相手も予想外だったのか、驚いたように何か呟きながら慌てた様子で腰が引ける敵のDF。
大丈夫、お前までは抜いたりしないから心配するな。
俺はそう内心で呟きながら、回転しながらもヒールでパスを出す。
傍目からすればいきなりぐるぐる回りだしてマークを抜き、二人目の敵が来ても止まらずにルーレットを続ける。しかもそのダブルアクセルの最中にヒールキックを撃ったのだから、狙いなど定まっているようには見えないはずだ。
しかし俺には上からピッチを眺めるような視界の鳥の目がある。このタイミングでのパスならばブラジルのDFが動けないと判断していたのだ。
このトリッキーなプレイに即座に反応できたはただ一人、うちのエースストライカー様だけである。
俺からのノールックでのヒールパスに対して飛び出すと、絶好のポジションでシュートしよう待ち構えている。
だが、そこに現れたのはブラジルのキャプテンであるクラウディオだ。こいつだけは今のパスにも付いてこれたらしい。さすがに独特である俺のリズムに慣れている上杉ほどではないが、一拍とそして一歩分遅れただけのタイミングで追いついたのだ。
そして位置関係から上杉へ渡るボールを奪うのは無理と判断したか、ダッシュして追いかけて来た勢いそのままのショルダーチャージをかける。吹き飛ばしてファールを取られるほどラフな当たりではなく、バックチャージを取られるような危険な角度でもない。
きっちりと肩に肩をぶつけた正当なチャージだが、左肩を押された格好になった上杉はシュートのために右足を振り上げていたので右に傾く体を止めるために踏ん張るのは無理だ。
そこまでとっさに判断してチャージするサンパウロの壁も並みのDFではない。
ここで上杉は倒れるかシュートを諦めるかの苦しい選択を迫られた。
もちろん彼の性格ならばどちらを選ぶのかは判りきっているよな。そのまま倒されたんだよ、シュートモーションを止めることなく。
完全に体が傾いた状態でのダイレクトシュート。普通ならばボールを足に当てられるだけでも大したものかもしれない。しかし上杉は止まっているボールを蹴るより試合でボレーを撃つ方が狙いが正確になるという実戦向きのストライカーだ。
軸足が浮くぐらいにバランスを崩しながらも右腕を芝に着いて体を支え、シュートする右足のミートポイントだけは最後まで確保していた。
下手をしたら自分の腕を怪我しかねないほど乱暴なプレイだが、上杉の剛腕は見事に体重プラス衝撃を右腕一本で抑えきった。
ピッチと体が平行になるほど傾きながらも、きっちりとボールの芯を捕らえた不格好ながら力強いボレーシュート。
その分受け身を取る余裕はなくしたが、上杉が顔から芝の上に倒れるのとほぼ同時にボールがブラジルのゴールネットを揺らす。
上杉は倒れた次の瞬間にボールが反動で弾むようにすぐ跳ね上がると、まず自分を倒したクラウディオの目の前に立ち、後一歩踏み込むと強力なアッパーカットになるような勢いで拳を空へ振り切ると咆哮を上げる。
審判のゴールを告げる笛と混じり、それはまさに勝利の雄叫びのようだった。
上杉が倒れるのを目撃した俺も、あいつ大丈夫かとをダメージを心配はした。だけど、うん、なんだか怪我の心配はいらないみたいだな。それどころか相手に殴りかからないかひやりとしたじゃないか。
あれが得点になったから良かったが、もしもシュートが枠を外してたら少しやばかった。チャージしてきたクラウディオのせいだと本気でファイトを始めかねないからな。上杉のいかにもFWらしい激情型の性格は取り扱い注意である。
上杉がどうやらゴールしてご機嫌だと判ったのか、どっと日本のメンバーが彼に集まった。まるで狼かなにかの肉食獣に対し「こいつは今満腹してるんだろうな?」と恐る恐る様子を伺っていたようだ。
いや、まあ俺もその一人だけどね。
だが一頻り縄張りを主張する狼のような遠吠えを上げていた上杉は、満面の笑みを作るとこっちへ振り向いた。
「アシカ、ナイスパスや! お前がぐるぐる回り始めた途端ピンときたで! アシカがおかしな事をやりよる時はええパスが来るってな、だからじっとタイミングを計ってたんや!」
「ええ、確かに抜け出すタイミングは絶妙でしたよ」
上杉は天性のストライカーらしく自分の力を誇示するが、同時にアシストをくれた人間にも今の俺にするように髪をくしゃくしゃになるほど乱暴に撫でて感謝を表す。そうでないと自分にいいパスが来ないと本能的に理解しているのだろう。
まったくもう、都合のいい奴扱いされているのは判っているのだがやめられない。
これだけ確実に決めてくれるストライカーならどんな苦労をしてでもパスを貢いでしまう。まるで悪いホストに騙されているみたいだな。
考えてみればストライカーってのは狡い。どんなに失敗を繰り返しても守りで手を抜いてもゴールさえ決めれば、不良が雨の中捨てられた子犬を助けたようにそれまでの都合が悪いことが全てなかった事になるんだから。
特に上杉なんか得点が多いだけその分狡いストライカーの筆頭である。
まあ上杉がどのぐらい狡いかはさておき、まだ前半の内に得点ができて前回の無得点で惨敗した記憶を払拭できたのは大きい。代表のイレブンのみならず、サポーターまで大騒ぎしているじゃないか。ようやく日本がブラジルに勝つ事を信じ始めてくれたらしい。初っ端から撃ち合い上等で行けという監督の指示は当たりだったな。
どうだカルロス! ベンチに座っている異国に行った知り合いに笑みを向ける。お前がいない日本代表だって捨てたもんじゃないだろう?
――前半十二分、日本代表がブラジルを相手に先制した。




