第六十四話 審判の笛を待とう
決勝のピッチに入場してまず感じたのは、自分達を包む匂いや雰囲気が今までとはまるで違うという事だった。
いつもは芝から緑の匂いが立ち上ってくるのだが今回はその様子すら変わっている。しかしスタジアムは異なれど、日本代表が戦っていたのも同じプレミアリーグで使われていたピッチなのだから芝の種類などがそう違っているはずがない。
ピッチではなく俺達を取り巻く環境そのものに違いが現れていたのだ。
俺が鼻に感じた刺激は煙に似たツンとする物だった。ふと周りを見回すと満員に近い観客席の幾つかから白い煙が立ち上っている。ああ、あれがおそらくは刺激臭の発生源である発煙筒なのだろう。他にも爆竹なのか続けざまに破裂音と微かな火薬の匂いまで漂ってくる。確かそういったのは禁止されていたはずだが、もはやこれから試合が行われるというよりもお祭りがすでに開始されているかのようだ。世界大会の決勝ってのは、ここまで盛り上がるものなのかよ。
イギリスはサッカーのみならずフーリガンの本場でもあったが、この時代ってどんな取り締まりしてたっけ? 確か警備は厳重になったはずだけど、選手の安全は確保されていたよな?
少しだけ不安を感じたが、今日戦うのは両国とも地元ではない日本とブラジルである。
どちらが勝ったとしてもそこまでフーリガンが暴れる要素はないし、場内の雰囲気も騒然とはしているが殺伐としたり混乱しているようではない。日本では考えられないが、プレミアリーグの行われるスタジアムでは試合の度にこのぐらい騒々しくなるのが普通の状態なのかも知れないな。
とりあえず危険はないようだと観客席から目を離すと、俺は足慣らしをしたりボールに触れるよりも今日はまずピッチへ入った途端に顔を空へ向けて目を閉じる。
毎回試合直前にしているコンディション確認のルーチンワークだ。スタジアムの異様な雰囲気に飲み込まれないようにするためにも、忘れない内にこなしてから落ち着いていつも通りの行動を心がけなくては。
視覚を閉ざしても耳だけでなく肌から否も応なく伝わってくる歓声と轟音を無視して、まずはできるだけ客観的にかつ手早く自分の体を検査する。
体のどこにも痛みや違和感を訴える部分はなし。これまでの激戦の疲労やプレッシャーの影響も自覚症状がでるほど大きくはない。うん、体調に関しては問題なしである。最後に靴紐が結ばれているかミサンガとすねに付けたプロテクターが全部きちんと装備されている状態なのかなどの細かい部分を確認し、意識を鳥の目の映像へ切り替える。
よし、今日も脳裏に写るスクリーンに一切曇りがない。ピッチの隅々までどころか、スタジアムの観客席の様子まで判りそうな気さえする。
ピッチをひとまずぐるりと観察していると、なぜかブラジルベンチで頬杖を突いているカルロスの姿を発見してしまい、思わず瞑っていた目を見開いてそっちを凝視してしまう。
え? あいつ今日は出ないの? あ、カルロスのお隣にはエースストライカーのはずのエミリオまでベンチにジャージ姿で腰掛けて、小学生がよくやるみたいに足をブラブラさせているじゃないか。ブラジルが誇る攻撃の二枚看板がどちらともお休みになるのかよ。
俺の周りでもその異変に気が付いた日本のチームメイトが驚いたような表情で、ブラジルベンチで面白くなさそうに座っている元日本代表のエースを見つめている。
正直この試合でなぜカルロスが先発出場しなかったのか、結局最後まで俺には判らなかった。
後にこの試合を分析して記事にした日本とブラジルのマスコミや明智の調査でさえもはっきりとした理由は不明だったそうだから仕方がないかもしれない。ただ理由はいろいろ推測はされ詮索もされていたらしい。
まず最初に頭に浮かんでくるのは、彼らに疲労や怪我といったコンディション面でのトラブルがあったからだというもっともらしい説だ。それから、グループリーグで彼らがいなくても完勝したから今回の決勝にはバランスを崩しかねないエースは不必要だと外されたのではないかとする説。あるいはカルロスやエミリオといった個性の強い選手達とは相性のあまり良くないブラジルの監督から、カルロスは「元母国相手だと手加減するんじゃないか」と疑われた説。他にもスポンサーの意向だっただの、ある解説者による呪いの影響ではないかとかいう信憑性の薄いオカルト染みたものまで取り沙汰されたのだ。
スタメンではなかっただけでもニュースになるという影響力の強さに、いかにブラジルでは彼らの存在が大きなものだったかという証拠になるだろう。
ブラジル代表の細かい事情は判らないものの、俺達にとっては理由はどうあれカルロスとエミリオという特別にマークすべき厄介な二人の点取り屋がピッチ上にいないという点だけが重要である。
直前までベンチのカルロスに焦点を結んでいた視線が戻されて、日本代表のチームメイト間で忙しく行き交う。
そして俺を含む攻撃陣の全員が一斉に頷いた。
「つまりカルロスがいないって事は、二人掛かりのマークを外して普通に攻めても良いって事っすね!」
「おう、そうやな。ちゃんとワイがゴールできるようにアシストするんやぞ!」
「ちぃ、俺の方が日本の十番を背負うに相応しいと認めさせるチャンスだったんだがな」
「ふっカルロスなどの存在に関わらず、俺は攻め上がるのを監督直々に許されている」
山形監督から攻撃の駒として指名されたメンバーは皆が「これでもっと攻めるチャンスが来る」と興奮しているが、喜びがもっと大きいはずのディフェンス陣――特に真田キャプテンや石田といったカルロスを直接知る面々は嬉しさより安堵した様子で胸を撫で下ろしていた。それほど試合前にも関わらず彼らはカルロスと戦う事に感じていたプレッシャーは激しかったらしい。
彼らが出てくるのではなく、これから戦うのがグループリーグで三失点したブラジルの選手達が相手で助かったと自然とガッツポーズが出るほどに、カルロスやエミリオと対峙するのはDFにとっては厳しい事態なのだろう。
まあなんにせよカルロス。お前が試合に出場して一緒に技を競えないのは残念だが、それでも試合に出られるだけのコンディションと環境を作れなかったという時点でお前の負けなんだ。
日本が世界チャンピオンの座に付くのを今日のところはベンチでおとなしく座って見守っていな。
そこで思考をカルロスの不在から自分の仕事である攻撃の指揮にシフトさせる。
ふむ、カルロスがいないのなら少し作戦をいじれるな。攻撃に関しては監督から全権を委任されたんだから、俺が最善だと思うようにやらせてもらおう。
ここに来るまでに準備していた体を冷まさないように、軽くウォーミング・アップをしている前線の選手達に声をかける。
「カルロスがいないみたいだから、ちょっとだけ作戦の変更をします。
まず明智さんはカルロスの代わりにトップ下に入った相手のパスカットに専念するだけじゃなくて攻撃の組立にも参加してもらいますよ。俺も中盤でのパスルートの制限は手伝いますから、想定したポジションより少しばかり上がり目に位置していてください。そして島津さんは右サイドを予定通りがんがん上がってくださいよ。もしブラジルがカルロスやエミリオを温存しているなら、左サイドバックのフランコを攻めの駒として使ってくるはずですから絶対にサイドの攻防で押し負けないように。
とにかくあの二人が出てくる前に先制点を取っておく必要がありますからね。もし結局彼らが出てこなくても前回は押されっぱなしだった俺達日本代表が積極的に攻撃に出ることで相手のディフェンスの混乱を誘えますしね。あ、この辺は監督の指示通りですから後は省略します。最後に……」
見回していた視線を一人の少年に固定する。
「上杉さん。日本ボールからだってキックオフシュートはなしで」
「な、なんでや! 挨拶もせんと無礼な奴と勘違いされるやんか!」
……もしかして上杉はキックオフシュートを、ボクシングのゴング直後にグローブを合わせる儀式のような物だとでも勘違いしていたのだろうか?
「とりあえず最初の挨拶としてピンポンダッシュをするのが礼儀やろ!」
「どこの礼儀っすか」
これは突っ込む明智が正しい。どうも上杉の常識は一般の物と大きく異なっているようだ。そのぐらいどこかズレて破天荒な方が優秀なストライカーになれるのかもしれないが。
別にこの感想は俺が点取り屋としての資質を欠いている妬みではないぞ。
「大丈夫ですよ上杉さん」
「何が大丈夫やねん」
「慌てなくてもすぐにたくさんのシュートを撃たしてあげますから」
正面からの撃ち合いなのだ、戦場で銃弾を惜しめないようにこれからの試合でシュートを躊躇うような贅沢が許されるはずもない。
ああ今の俺は牙を剥くように笑っているだろう。癖はあるが頼りになる仲間達と世界大会の決勝でブラジルと戦うことができるのだ。子供の頃に望み、そして一回挫折した夢の舞台そのままじゃないか。
心臓の鼓動が次第に大きくなり早く試合が始まれと体は熱を帯びてくるが、逆にどんどん頭と思考は冷たく冴え渡っていく。サポーター達からの歓声が高まっているにも関わらずどこか遠い世界のようで、ピッチの中はしんと静まったように外とは切り離されているようなイメージだ。ここまで集中して自分の世界に入り込めるなんて間違いない、俺の体はこの決勝に合わせたようにベストコンディションになっている。
これなら今までにたくさんの人と約束したように試合に勝つ事が、そしてそれ以上に多くの人と約束した怪我をしないで存分にサッカーを楽しむことができそうだ。
それが審判による開始の笛が吹かれる前に浮かんだ最後の思考だった。
――日本対ブラジル。十五歳以下のサッカー世界最強国を決める戦いが、今ようやく幕を開けた。




