第六十三話 世界一になるため話し合おう
「もしもし?」
耳に入る少し甘く高い子供っぽさの残ったソプラノに頬が緩む。意識もしていなかったどこか張り詰めていた部分がふっと緩んだような感覚だ。試合の時はともかく、大会期間までこんな肩の凝りそうな緊張感をずっと維持していたら疲れてしまう。まあ、自分でもそう思ったからこそ、安心できるというか話していると脱力する幼馴染みの真に電話をかけたんだけどな。
「ああ、こちらはイギリスに来て「もしかして納豆ってそれほどおかしな食べ物でもないのか?」と思い始めたサッカー選手だけど、真だよな?」
「うん、って声を聞けば判るよね!? それに日本では私がどうやっても考え方を変えられなかったのに、イギリスで何を食べてその結論に至ったの? 確かにそっちはあんまり料理が美味しくないって有名だけど……」
「そうだな、イギリスご自慢の名物伝統料理っていうフィッシュ&チップスやハギスにウナギのゼリー寄せなんかを」
「うわぁ、よりによってきついのを」
真が身を震わせて眼鏡の奥にある大きな瞳を細めたのが声の響きだけで察知できる。きっと俺がそんなゲテモノを口にしたかと心配したのだろう、ではすぐにそれを取り払ってやらねば。
「監督に食わせた」
「何やってるの!?」
「いや、知ってるだろう。俺はこっちでサッカーをやってるんだが。それに監督の件も心配は無用だ。ちょっと泡吹いて記憶障害が残っただけだし」
「それかなり大事だよね!? 監督さん本当に大丈夫なの!?」
「大丈夫、顎に対して四十五度の角度でスマッシュを撃ち抜けば何も問題はあらへんと胸を叩いてた」
「その保証してる人って誰? 絶対お医者さんじゃないよね!?」
ぽんぽんと返ってくるテンポの良い突っ込みに唇がつり上がる。やばい、代表では俺が突っ込み役を任されているせいか本気で心配している真が面白すぎて馬鹿話の終わらせ時が見つからない。
今の真が頭の中で想像している日本代表チームがどうなっているのか、帰国してから確かめるのが楽しみである。きっと彼女のイメージする代表チームの食事風景は、悪魔崇拝の儀式に使われるような廃墟の祭壇に、縛った監督を横たえると口を無理矢理開かせてフォアグラのようにイギリスの名物料理を詰め込んでいる物になっているんじゃないかな。
うん、このまま誤解を解かない方が楽しそうだ。
幼馴染みとの気の置けない電話を終えるとなんだか心がすっきりと落ちついているようだった。自覚症状がなかったがやはり次は決勝戦だとプレッシャーがかかっていたみたいだな。
俺はやっぱり知らない人達の期待までは背負えない。せいぜいが自分を応援してくれている身近な人達に頑張った姿を見せたいと思うぐらいだ。そのぐらいがプレッシャーに潰されないで支えにできる適切な刺激なんだろう。
身近な人って言うと家族や真に学校の友達。そしてこれまでサッカー関係で一緒にやった人ぐらいで、皆が俺に優しくしてくれた人たちばかりだからな。悪く言うのは代表の前監督だった松永ぐらいだが、あの人の場合は悪口を叩かれた方が逆に調子が良くなるみたいだから別にいいや。
夕食後に山形監督は俺達を集めて恒例の試合前日のミーティングを開催した。
さすがに次は決勝戦だけあって、代表メンバーの集まった会議室にはいつも以上にぴりぴりした空気が漂っている。
ただ監督だけは常と変わらない態度だ。とは言っても別段悠然としているのではなく、いつも通り胃の辺りを押さえて顎をさすっているといった意味だが。
その監督が始まりの合図である手を叩き、全員の注目を集める。
「よし、じゃあ俺達が世界一になる為の話し合いを始めるぞ。でもその前に聞いておくが、明日の試合に支障があるような体調不良や怪我をした奴はいるか?」
そう尋ねるが、選手の間からは誰も手が上がらない。そりゃこんな大舞台でプレイできる機会は滅多にない。多少の不調なら隠してでも出場したいだろう。それを理解しているのだろう監督もチームドクターに目を走らせるが、ドクターも軽く頷くだけだった。あの軽いリアクションはおそらく何も問題がないというしるしのはずだ。おそらくドクターが今一番ここにいる人間の中で体調を心配しているのは、胃の痛みと記憶障害を訴えている監督に対してである。
山形監督も納得したように頷き返す、この辺はたぶんすでに連絡されていて今の質問は選手への確認を含めた最終チェックのつもりだったのだろう。
「それじゃ、明日のブラジル戦のスタメンを発表しようと思うが……まず先に決勝ではどう戦うかのコンセプトを話しておくか。
明日の決勝戦のテーマは「正面からの殴り合い」だ。より多くの点を取った方が勝つというシンプルな試合をするぞ。ん? それは当たり前じゃないっすかだと? いいか、グループリーグでブラジルと戦った時はいかに失点を少なくするかがうちのテーマだったんだ。だがそれが通用しないから新しいテーマを考えたんじゃないか。
ああそうだな、上杉なら判りやすいかもしれない。ボクシングならたとえ守りが下手でも先に相手をKOしてしまえば防御の上手い下手は関係ないって話だ。つまりブラジルを相手に――しかも今度はカルロスやエミリオといった化物が加わったチームと戦うんだ、失点を無くすのは不可能だろう。だけどそれ以上にこっちが攻撃的に戦えば向こうの攻撃力を削いで試合に勝つのは可能なんだ」
そう言ってじろりと室内を見回す。俺達がじっと真剣に聞き入っているのに安心したのかそこで厳しい表情を崩しにやりと唇をつり上げる。左手を腹に添えているのが気にならないほど余裕たっぷりの仕草だ。他のメンバーも「そうだよな、守るんじゃなくこっちもブラジル以上に点を取ればいいんだ」という監督の言葉に乗せられたような雰囲気になっている。
「だからスタメンの布陣はスペイン戦と同じの攻撃的な面子で行くぞ! もちろん試合中足が止まったらすぐに交代させるからな、短距離走のつもりでスタートからアクセル全開で行け!」
「はい!」
元気よく返事をする俺達に満足そうに腕組みをする山形監督。胃の痛みは話している間に幾分軽減されたようだ。
「なにしろこっちの右サイドバックが島津、ブラジルの左サイドバックがフランコだ。どうしてもこの超攻撃的なサイド二人が直接ぶつかり合うのは避けられない。一歩でも引いたらそのまま押し切られるぞ。スペイン戦でもそうだったが、たとえ失点してもラインを下げるな。一点や二点失っても試合は終わらんが、ラインをずるずる下げたらその時点で負けが確定するんだ。真田もそのつもりでDFラインを指揮しろ」
「毎試合そんな無茶を言われているような気がしますが了解しました」
「いや、まあお前にぐらいしかこんな指示言えないしな……」
真剣な中に珍しく冗談風味を滲ませた真田キャプテンからの返答に困ったように頬をかく山形監督。
「たとえばラインを上げる指示をしろと島津に任せたりしたら……」
「不肖真田、全力を持ってDFラインの指揮に当たります!」
急に顔を真っ青にして大声で「自分がやります」と訴える真田キャプテン。おそらく島津が構築するDFラインを想像してしまったのだろう。彼の動きに合わせてディフェンスが上下するなんて、必ず上がりっぱなしで守りに戻ってこなくなるじゃないか。
俺も一瞬敵のゴール前で常に敵味方のDFラインが重なっている試合を思い浮かべてしまったが、うん即座に記憶から消去しよう。考えただけで心臓に悪い。
一人「無念だ……攻撃は最大の防御だというのに」と呟いている小柄な少年がいるが、皆そっちを見ないようにしていた。というか仮にもDFがその信条を持っていては駄目だろう島津。
監督も自分がスタメンに抜擢した右サイドバックをさりげなく視界から外し、何事もなかったかのように話題をまた切り替えて守備に関する指示を続ける。
「問題は前回出てこなかったカルロスとエミリオの二人組だ。
まず、エミリオは判りやすく言うと上杉が決定力は変わらずにテクニックを数倍にしたタイプと思えば間違っていない。基本的にはパスをそのままダイレクトでシュートするが、独力で二・三人は抜いてゴールするぐらいは今大会でも軽くやっている。だが、俊敏性はともかくトップスピードはそれほど高くないのが救いだ。オフサイドラインを下げないように注意しつつ密着して武田が体で止めろ」
「うっす」
日本代表で一番体が強い武田がマンマーカーに選ばれた。おそらく真田キャプテンは指示で手一杯、となるとサイドの守備に専念している右サイドバックを除く中央のDFは彼しかいない。対人の守りではなかなか頼りになる武田が、頑張ってパワーで押さえ込んでくれるのを祈ろう。ちなみにナチュラルにDFの頭数の中に島津が入っていないのは誰も気にもしていない。
「後一番厄介なカルロスだが、これは二枚で止める。とは言っても今大会でも三人掛かりでボールを奪いにいってもあっさり振り切ってしまうシーンがあったから、他のメンバーもいつでもフォローができるように注意しとけ。
それじゃまずマーカーだが、明智と石田がカルロスの前後を挟むように張り付け。俺達のゴールから見るとカルロスの上に常に明智がいるようにして、ブラジルの後ろからのパスを全部遮断するんだ。お前の空間把握能力からすればそれほど難しくないだろう? そして石田は逆にボールではなくてカルロスの体だけを見ろ。足下へのパスが明智にカットされるならあいつのスピードを生かして前のスペースへのスルーパスを狙ってくるはずだ。その時にカルロスの一歩目を止めろ。スタートのタイミングさえ狂わせてしまえば上げているDFラインがボールに追いつけるはずだ。確か石田はカルロスと代表でもチームメイトだったころに一対一の練習もよくしたんだって言ってたよな? その経験を活かしてカルロスかお前のどちらかが倒れるまで走り続けるんだ」
まあ、ただカルロスと追い駆けっこしろってよりは現実的な作戦だ。
「だが、これでもシャットアウトできる保証はない。というより何点か失うのは承知の上で撃ち合いを選んだんだ、一回殴られたら二発殴り返せ! ……上杉、今のは比喩だからな。シャドーボクシングなんかしているが、本気で相手にパンチを撃つんじゃないぞ」
ところどころで選手に注意というか突っ込みを問題の多いチームメイトにしている監督は本当に大変そうだ。あれじゃ胃も悪くするはずだと同情していると、その視線がこっちを向く。
「さてアシカは守備の負担は減らしてやったんだから、攻撃に関しては任せるぞ。グループリーグの時にうちが何度も繰り返したカウンター戦術では点が取れなかった。だから今度は前回の対戦にいなかったお前がブラジルに対しての切り札になる。
どうだ? 世界大会の決勝でブラジル代表を相手に攻撃の指揮をできるんだぞ。たぶんこの年代の日本にいるサッカー選手なら誰もが羨む立場だ。やれるよなアシカ?」
答える前に目を瞑り大きく深呼吸をする。確かに誰もが望む状況だ。俺だってこんな場面に立てるのをずっと夢見て、想像して毎日トレーニングに励んでいたんだからな。震えそうになる掌を拳に変え、強く強く握り締める。
まぶたを開くとしっかりと監督の目を見つめ返し頷いた。
「つまり、日本の攻撃陣を操って点を取りまくり、ブラジル代表のトップ下であるカルロスに勝てばいいだけなんでしょう? わざわざ念押ししなくても俺はその為に日本代表へ呼ばれたんだと思ってましたよ」
覚悟は決まり、周りにいる頼りになるチームメイトを見回す。よし、俺は一人じゃない、こいつらも一緒に戦うんだよな。もう体のどこにも震えてる部分はないぞ。
「攻撃に関しては任せてください。上杉を世界一のストライカーに、山下先輩と馬場を世界一の左右のウイングに、島津を世界一の右サイドバックにしてみせます」
ああ、そうだ。もう一名この人も追加しておかなくてはな。
「そしてついでに山形監督も世界一の監督にしてみせますって」




