第一話 とりあえず走りだそう
――できる! またサッカーができる!
その歓喜は電流のように俺を貫いた。
「くくく、けーけっけけ」
化鳥のような笑い声を上げながら涙を流し、かつピョンピョンと右足のみで飛び跳ねているという奇態を晒している俺に心配げな声がかけられた。
「どうしたの?、どこか具合が悪いの? 具体的には頭とか」
はっとして顔を上げると、滲む視界の中で母が眉を寄せて俺を覗き込んでいた。記憶にある姿よりもずっと若々しく、特にしわの数や肌の張りなどは比べ物にならない。なのになぜかセピアがかった懐かしい印象を俺に与えている。もしかして母のそっくりさんか? いやまて、いくら実の親よりサッカーを選ぶほどの親不孝者でも、自分を産んでくれた母親の顔を忘れるはずがない。……例え年齢が十歳ほど若返っていようとも。
そのまだ若い母が更に顔をしかめて俺の額に柔らかい手を当てた。
「熱は……なさそうだけど、速輝が泣くなんてどうしたのかしら?」
あ、まずい。俺は足が動く事に感動してまだ涙を流しっぱなしだった。子供の頃は早期に患った厨二病と反抗期のせいで、感情を露わにするのがみっともないとクールな態度を気取っていたのだ。朝からこんなテンションでは母が心配するのも当然じゃないか。
「いや、ちょっと怖い夢を見てただけ。本当に……本当に夢でよかったなぁ」
と心底からの声音で答える。
その余りの真実味に納得したのか、未だ「大丈夫なのかしら、この子」と心配気ではあったが「そう、なら良かったわ」と頷いてくれる。そして、
「今日から三年生になるんだから、遅刻しないように早く着替えて朝御飯を食べなさいよ」
とお小言を残して朝の支度に戻っていった。
……三年生? 足が回復しているのに興奮しっぱなしだった頭が僅かにクールダウンする。
三年生とは何のことだろう? ある突拍子もない予想に身をゆだねながら、おそるおそる壁に掛かっている姿見に自分の姿を映す。
そこに映っていたのはまだ十歳になるかならないかの日に焼けた少年だった。
ぼさぼさの髪にちょっときつめの顔立ちは、記憶の中にある俺の幼少の頃の姿に間違いはない。
いや母との会話の流れや体調なんかから、薄々はそうかなーと思ってはいたのだ。だが昔に戻っているのが現実になってみると流石に「マジですか」と口から洩れてしまう。ロトシックスで試しに一点買いをしてみたら一発で大当たりが出るとこんな気持ちになるのかもしれない。まるで現実感がなく「へーほー」と他人事のように鏡に見入ってしまう。
確認しようとそろそろと鏡に手を伸ばすと鏡面上で指が触れ合う。冷たい感触が指先を刺激した。この感覚は間違い無くリアルだ。
この鏡に映った少年は十年以上昔の俺だ。
原因は皆目見当がつかないが母の言葉から考えて、小学三年の頃に戻ったらしい。
いや原因などどうでもいい! 大事なのは俺がもう一度サッカーが出来るという事だ。その事実に思い至ると再びくっくっく、と悪役じみた含み笑いが堪えきれないほどにテンションが高揚する。さっきまでの他人事だったふわふわしたリアリティの無さが一瞬で吹き飛んだ。
今まで見ていたのが夢だったのか現実だったのか、胡蝶の夢と同じで俺には判断できない。
だがはっきりと判る事実もある。それは俺の思考能力や判断能力が格段に進歩しているという事だ。
小学三年生で大学生か社会人レベルの精神年齢を備えている。こんな頭脳は昨日まで、あるいは十数年まえの小学二年生の俺には備わっていなかった。
そんな大人並みの頭脳を持って何を為すべきか――決まっている。俺がどこまでサッカーで到達できるかチャレンジするのだ。
前回――夢の可能性もあるが――の人生では怪我でサッカーのキャリアを棒に振ってしまったが、今度は出来うる限入念に準備を整えて俺の可能性の限界を極めるのだ。
よく引退した名選手も言っているではないか「今の経験と頭脳を持って現役に戻ったら、絶対にもっとすごい選手になれた」って。
俺はまさしくその状況である「強くてニューゲーム」状態になれたのかもしれない。
いや、百歩譲って肉体的・精神的に何一つメリットが無かったとしても、俺のサッカーに対する情熱を再確認できただけでも大収穫だ。
よし、まずは出来る事から始めよう。
そうだな、まずは――遅刻しないように急いで朝御飯を食べる事からだな。
「おはよう。何か少し寝ぼけちゃってた」
「はい、おはよう。速輝が寝ぼけるなんて珍しいから、母さんちょっと心配しちゃったのよ」
自分の小学三年の頃を思い出して必死で再現しながら、笑顔で「さっきのは寝ぼけてただけですよー」とアピールする。居間に来る前に入念に洗顔をしていたからもう涙の痕跡は残っていないはずだ。
母もじっと俺の顔を観察すると「うん」と頷く。
柔和な表情で味噌汁とアジの開きにほうれん草のおひたしといった純和風の朝食を勧めてくれた。うちの母は料理好きなので、食事に外れがないのが嬉しい。
そして久しぶりの母の味を噛みしめていると、やはりいつもと違和感を感じたのか母が俺の皿に目を向けたのだが。
「あれ、速輝はほうれん草も残してないし魚の食べ方が上手になってるわね」
「え、あ、うん、もう三年生だから!」
などと微妙に理由になってない言い訳で切り抜けた。場の空気を変えるべく急いで残りのご飯をかき込むと「ごちそうさまでした」と両手を合わせる。
「今まで手を合わせてまでごちそうさまって言ったこと……」
「あ、そうだ! 母さんに聞きたいことがあったんだ!」
どうも言動の端々から俺の変化を見つけられそうなので、勢いで誤魔化すしかないとこっちから話題を振ることに決めた。まあ、実際に確認したい点も多々あるしな。俺の記憶通りか一番気になっている事柄から尋ねよう。
「三年になったらサッカークラブに入れてくれるって言ってたよね」
「ええ、今日からでしょ。あんたあれだけ楽しみにしてたのにもう忘れちゃったの?」
「いや、そうじゃなくて今日の何時からだったっけ?」
ふむ、どうやら以前と同じスケジュールで三年からサッカースクールに入るようだ。そう安堵しながら質問を続ける。流石にここまで細かいスケジュールまでは覚えていないからな。
「午後二時からってプリントに書いてあったから、学校から帰ってきてお昼食べてからで充分間に合うわよ」
「そうだったっけ、うん、思い出したよ!」
母はどこか呆れたように眺めて「まったく、楽しみだからって昨日全然寝てないんでしょ。だから様子が変だと思ったのよ」と、俺のおでこを人差し指でつつく。
うう、やはり俺の母だ、どこかちょっとだけズレている。だが悪い人じゃないんだよなぁ。
湧き上がる罪悪感を押しこめていると、母が時計に目をやった。
「ほら、そろそろ準備しないと遅刻しちゃうわよ。新学期そうそう遅刻なんてみっともないまねするんじゃないわよ!」
ほら急いでと両手を叩くのに俺はもちろん逆らえるはずもなかった。
部屋に戻り学校へ行く準備を整える。とは言ってもランドセルには真新しい教科書がちゃんと入っているので、今から慌てて時間割を確認するまでもない。身支度にしても、通っていたのは服装が自由な小学校だからせいぜいがぼさぼさの寝癖を直して、寝間着から外出する普段着に着替えるだけだ。
「よし!」
と両頬を叩いて気合を入れる。
とにかくここからが俺の新たな人生の第一歩だ。
母に「行ってきます」と挨拶して外へでる。
うん、雲一つないいい天気だ。天に向かって大きく伸びをすると軽くジョギングを始める。
走るのにはランドセルが邪魔だし、準備運動もろくにしていない。こんな状況じゃ激しい運動はしてはいけないと理性では判っているのだが、うずうずする体の欲求に耐えきれなかったのだ。
幸い小学校までの道のりは覚えている。他人に迷惑をかけない程度に走らせてもらうおうか。
息が切れるまでダッシュしては、呼吸を整えるためにゆっくり歩く。たったそれだけの事なのにとてつもなく楽しい。自分の体が自由に動くのがこんなに素晴らしいとは想像以上だった。もしこれが夢ならばいつまでも醒めずにいてほしいものだ。……ん? ふとどこからか視線を感じたような気がした。きょろきょろと首をめぐらすと通学路に沿って立っているブロック塀に、どこかで見覚えがある黒猫が俺の目を見つめていた。
見覚えがあるんだが……あれは昨日、いや十二年先か? ややこしいが俺が事故から救おうとした猫に瓜二つだ。だが、まさかその猫であるはずがない。十二年後まで野良猫が生きているとは思えない。しかしそう勘違いするほどこの黒猫と俺が助けた猫は外見に全く違いがないのだ。もしかしたら助けた猫はこいつの子孫だったのかもしれない。当時の俺の住所はここからかなり離れているため、もしもそうなら奇縁と言うべきだな。
俺がそんな事を考えている間に、黒猫は満足げな鳴き声を上げると「恩は返したぞ」と言いたげな堂々とした態度で踵を返した。
やっぱりあの猫は俺が助けた奴と関係があるんだろうな、だってまだ右後ろ脚を引きずっているし尻尾が二つに裂けている。きっとあの猫の血統は代々そんな特徴を受け継いでいるんだろう。
納得した俺も慌てて背を向けて走り出した。
小学校と――二度目の人生に向かって。